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ソサリア魔導冒険譚  作者: 星乃紅茶
【第三部】 《破滅の剣 編》
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7章 浮揚島、復活 3-20

 クルーガーの長剣に、リーファの腕と小剣は近すぎる。少女を斬るつもりのないクルーガーは躊躇することなく自分の剣から手を放し、少女の手首を掴んで攻撃を封じようとした。


「クッ……。女性に胸に飛び込まれるのは悪くないが、危ないモンはなしで頼むぜ」


 クルーガーは軽口を叩いたが、冗談を言っている余裕はほとんどなかった。リーファは身をよじるようにして激しくもがき、隙あらば彼を突き刺さんと執拗に攻撃を続けている。


 瞳はガラス玉のような冷たさで、口は呼吸のために少し開いたまま、感情の動きは全く見られない。己の身も省みず、ただひたすらに刃先を向けて突き込んでくる。加えて、フェルマの戦士は接近戦においてかなりの手練てだれとなる。


 相手を傷つけることなく止めようとする側にとっては、この上ない強敵であった。


 嘲笑あざわらうように、ルレファンの哄笑こうしょうが響き渡る。


「ハハハハハッ。やれ、少女よ。自分の体なぞ壊れてもな!」


「……くっ……」


 リーファの手首を掴んでいるクルーガーの額に、冷たい汗が浮かぶ。彼の手を逃れようとするリーファは、滅茶苦茶に暴れ続けていた。このままでは、彼女自身の腕や背骨が折れてしまう。


「リーファ!」


 ティアヌが少女の名を叫んだ。めまぐるしく位置を変えるふたりの動きに割り込むことができずにいた彼の横を、恐るべき質量をもった獣が風を巻き起こすように轟然と通り過ぎる。


 それは刹那の出来事だった。『足止め(ストップフット)』の効果を振り払った『闇狼王ダークウルフロード』が、揉み合うクルーガーとリーファに向けて突っ込んだのだ。


 咄嗟に少女をかばったクルーガーがまともに体当たりを喰らい、ね飛ばされた。神像のある岩壁に叩きつけられる。


 ティアヌは『気弾』を放ったが、冥獣は彼の攻撃を避けると同時に床を蹴りつけた。飛び掛かる『闇狼王ダークウルフロード』を、危ういところでかわす。掠め過ぎた獣の口惜しげな唸り声が背後から聞こえたが、ティアヌに構っている余裕はなかった。


 彼の目の前で、リーファが起き上がったのだ。神像から放たれる禍々しい赤の光に、鋭い刃先がギラリと光る。岩壁から床に落ちたまま動かないクルーガーに向け、少女は片刃の小剣を振り下ろそうとした。


 ティアヌは自分が何を叫んでいるのかもわからないまま、無我夢中でふたりの間に割り込んだ。


 そして少女に向き直り――。


 ズシャッ、という衝撃ともに、世界から音が消えた。


 腹が、燃えるようにカッと熱くなる。少女の顔が返り血で染まっていくのを、まるで夢の中の出来事のように現実感のないまま、ティアヌは呆然と眺めていた。ゆるゆると腕を伸ばし、少女の名を呼ぶ。


「リー……ファ……」


 ティアヌの指先が、少女の頬に触れた。





 闇のなか、少女は必死にあらがっていた。


 得体の知れない無数の腕を何とか振り払おうとして身をよじりながら、虚空に手を伸ばし、助けを求め続ける。今にも闇に呑まれそうになりながらも、少女は青年の名前を叫んでいた。


(ティアヌ……ティアヌ……!)


 あふれてくる涙を振り払いながら、少女は、闇へ引きずり込もうとする圧倒的な力の中であがいている。完全に呑まれてはいない――まだ魂を、存在の全てを、支配されてはいない。


 けれど、すでに危ういところまで浸食されていた。


(リーファ!)


 ティアヌは抗い続ける少女に向け、心から発する声の限りに叫んだ。少しずつ、小さな肩が……首が闇へ埋没してゆく。


(リーファ! あきらめてはいけない!)


 ティアヌの呼び声が差し伸べる手となって、少女に届いた。


(戻ってきてくれ……リーファ! 僕は君が……。そうだ、僕は君のことが……)


 ついえそうになっていたリーファの意識が、その声に気づいた。大きな琥珀色の目を見開き、声の主を探し求める。


(ティアヌ……!)


 虚空へ伸ばされていたリーファの手に、ティアヌの指先が触れ……。


 短剣の柄を握り、返り血に染まった少女の目に透明な光があふれ、静かにきらめきながらこぼれた。虚ろだった瞳に、力が戻っていく。


 やがて焦点が合ったのか、少女は唇を震わせた。


「……ティ……アヌ……?」


 ティアヌはほっと安堵し、張りつめていた何かがピン、と音を立てて切れたのを感じた。見えていたものの全てが斜めに傾ぎ、衝撃を受けたように激しくぶれる。


 それを最後に、何も感じられなくなった……。





 リーファは、あけに染まった自分の手を見下ろし、呆然としていた。手に残る感触におののき、膝が折れそうになる。


 ギャウゥゥゥゥ……!


 ひとではない呻き声と、重量のあるものが倒れた音が耳に届き、リーファは顔を上げた。少し離れた石床の上に、真っ黒の巨大な体躯をもつ怖ろしげな獣が斃れている。側には、テロンとルシカのふたりが互いを支えるように立っていた。


 ふたりとも満身創痍だ。


 身動きの取れなかったテロンは、ルシカの癒しの魔導を受けている間、おのれの肉体の極限を越えるほどに『気』を練っていたのだ。研ぎ澄まされた感覚のように『気』が小さくこごり、衝撃をもたらすものより遥かに威力を高めた『聖光弾せいこうだん』となって、冥界の獣の中心をつらぬいたのである。


 テロンの傷は、かろうじて動けるほどにしか癒されていなかった。獣が再び襲い掛かってくるまでに猶予がなかったのだ。ルシカのほうも、テロンが攻撃に転じるまでの刹那の隙を埋めるため、敵の攻撃にその身を晒したのである。


 元の世界に戻ってゆく闇狼王の体の向こうで、テロンとルシカのふたりが膝をついた。前のめりに、ドサリと倒れる。


 ルシカの胸から、コロコロとガラス球が転がった。内部に封じられた二色の液体が混ざることはなく、その赤色と青色の接する面の揺らめく波形は、もうごくわずかな動きしかなかった。


「アーッハッハッハッハァッ!」


 ルレファンは哄笑した。狂気に衝かれたように。


「これで邪魔者は居なくなったということだ。クックックッ」


 彼は気づいていない。リーファが正気を取り戻していることに。


「そろそろ『きょく』が来る。もう少し、もう少しだ」


 ルレファンがいそいそと落ち着かない様子で、ハーデロスの神像に向き直る。その傍らに立つ少女の表情の変化にはまるで気づいていない。


 リーファは、自分の足元に落ちていた微かな銀色の煌めきに気づいた。


 禍々しい光の中にあってもなお、穢されることのない魂のように儚くも力強い輝き。それは彼女の短剣だった。先ほどまで手にしていた片刃のものではなく、彼女とともに戦ってきたものであり、デイアロスで失くしたはずのものだった。


「持っていて、くれたのか……ティアヌ」


 目の前に倒れ伏した青年の姿を映した琥珀色の瞳に、新たな涙があふれる。だが、リーファは瞳に力を篭め、涙をぐっとこらえた。ティアヌが届けた彼女自身の短剣を、そっと拾いあげる。


「さあ……! 『きょく』の始まりだ」


 壇上で両腕を広げた男に向け、リーファは短剣を振りかぶった。


「悪夢よ、消えて!!」


 リーファは短剣を投げつけた。気配に気づいたルレファンが振り返る。その上腕に、短剣はずぶりと滑り込むように突き刺さった。


 フッ、とルレファンが笑う。意識と肉体が乖離かいりしたかのごとく、まるで意に介していない。


「戻っていたのか……だが、もう遅い。全て、ハーデロスに喰われて消え去るがいい!」


 そのとき、ルシカの傍に転がっていたガラス球の赤と青の液体接合面が、完全に停止した。


「おおおお、『きょく』がはじまった……!!」


 神像に向き直ったルレファンの目が、カッと見開かれる。その瞳に映る闇が反転したような光となり、いで何も見出せぬほどの闇の深遠の先、虚無となった。


「『無の女神』ハーデロスよ。……今こそ我はこいねがう。この現生界にたれ!!」


「駄目ッ!」


 無我夢中で飛び掛かり、リーファはルレファンの背にむしゃぶりついた。ぐらりと傾いだ痩身に腕を巻きつけ、神像から引き離して床に組み伏せようとする。ふたりは激しく揉み合った。


「そんなこと、させない……!」


「放せ! 小娘がッ。俺はこの世界を終わりにするのだ。こんな世界、必要ないッ!!」


「必要ないかどうかは、あんたが決めることじゃない!」


 リーファは叫んだ。背に回された男の腕に襟を掴まれ、ぐいと引かれる。容赦のない力に絞められて首と頬を血色に変えられながらも、リーファは手を離さなかった。


「ひ……必要じゃないもの、なんて……この世に存在しない!」


「たわけたことを!」


「わたしも……最初は、自分を要らない子だと思っていた。憎んでいた、ふたつに分かれていた部族を、この世界を、そして……自分自身を」


 ついに振り解かれて床へ叩きつけられたリーファは、けれど少しも怯んだところのない琥珀色の瞳で、頭上にあるルレファンを真っ直ぐに見上げた。


「でも今は違う。そうじゃないって、教えてくれたひとがいた。ティアヌが、そして仲間が――」


 ルレファンは突然、凄まじい形相になって、リーファの体を力任せに蹴りつけた。


 言葉を断ち切られたリーファは、テロンたちの闘っていた後方まで飛ばされた。かろうじて受け身を取ったが、体中が痺れたように動かず、すぐに立ち上がることができない。


「ティアヌ」


 ぎじり、とルレファンが唇を噛んだ。


「ティアヌ、ティアヌ、おまえもティアヌかッ! どうしてあいつばかり、どうしてあいつが俺より上なんだ!」


 血を吐くように次々は発せられる声は、まるで断末魔の悲鳴のように空気を震わせ、激しさを増していく。


「畜生!! みんなティアヌがいいんだ。俺の前を奴が歩くんだ! ……どこまで行っても! どこまで行っても! 俺は、俺は奴を抜くことができないッ!!」


 打ちのめされた瞳で、ついにルレファンは絶叫した。


「うおおおおおおおおおおッ!! 女神ハーデロスよ! 俺の声を聴け。そして応えろ。この世界を、次元を、この俺ごと喰らい尽せぇぇぇッ」


 ルレファンの表情が明らかに一変した。別の存在が乗り移ったかのごとく動きをたがえ、背骨がビクンと跳ねるように大きく仰け反る。そのまま両腕を掲げ、とどろくような声で『神の召喚(サモンゴッド)』を唱えはじめた。


「いけない……」


 呆然と目を見開いたまま床に座り込んでいたリーファの側から、弱々しい声が発せられた。


 ルシカが『万色の杖』を支えに立ち上がろうとしていた。しかし、全身を襲った激しい苦痛に耐え切れず、再びドッとばかりに倒れ込んでしまう。リーファは身を引き摺るようにルシカの傍に寄り、膝をついた。


 だが、癒しの技をもたぬリーファには、どうすることもできない。聞き取れぬ声で詠唱らしきものをつぶやき続けるかたきの男をキッと見据え、リーファは再び床を蹴った。しかし、彼女の短剣が男へ届く寸前、その呪文は完成したのである……!


 シュオオォン、と沸き立つような音がして、ハーデロスの神像に捧げられた祭器が震えた。『赤眼の石』、『青眼の石』、『虚無の指輪』、『破滅の剣』が互いに共鳴をはじめる。


 『神の召喚(サモン・ゴッド)』が、ついに発動したのだ。


「な……うわ!」


 リーファは危ういところで後ろへ倒れるように身を転がし、男から離れた。神像から黒いもやのようなものが現れ、リーファの眼前でルレファンの全身を絡め取ったのである。


 黒いものは一瞬で、エルフ族の男の肉体を喰らい尽くした。


 グオオオオオオオオオ……!!!


 幾百もの龍の唸り声のような音が轟き渡り、空間全体を底から震撼させた。神殿の柱や岩壁に亀裂が奔り、細かな砂や石の破片が土煙となって降り積もる。


「……なんてこと……」


 ルシカは倒れたまま、悔しさのあまり強く瞑目したが、すぐに開いてオレンジ色の両の瞳に力を篭めた。腕を突っ張るように動かして、起き上がろうとする。


「『浮揚島』が復活する!」


「ふようとう!? それはどういう――」


 リーファが訊き返そうとするが、凄まじい揺れと周囲を圧する轟音に阻まれてしまう。ルシカは言葉を続けることができなくなった。


 ゴガガガガカガガガガ……!


 振動は、ますますひどく、激しくなっていく。このままでは島全体が粉々に砕けるのではないかと思うほどに。空間全体が悲鳴のような音を発している。


 続いて轟き渡った破砕音が、少女たちの悲鳴を掻き消した。





「お父様……あれを!」


 『はぐれ島』より遠く離れた王都ミストーナの王宮の屋上で、ルシカたちの向かった北東の方角を見つめて祈りを捧げていたシャールが驚きの声をあげた。


「ぬう……!」


 傍らに立つソバッカは、娘が指差した空を見て厳しい表情になった。


 そこには、島が浮いていた。空中高く、まさにゾムターク山脈の高峰をも軽々と飛び越してしまうほどの高さである。太陽の光があふれる昼の空にあってもなお、常闇そのもののように淀む……いや、何も無いが故に光を取り込み穴のように落ち窪んでいるのだった。


 『はぐれ島』クリストア列島最奥の島の真の姿――『無』の神のいしずえ、『浮揚島』がそこにあった。まさに神の視点に相応しく、天高くから地を見下ろすハーデロスの領域は、人々に畏怖をもたらす程度の存在ではなかった。


 それは虚無であった。


 空虚であった。


 人々にとって、それらが意味するものは『死』と変わりがない。それどころか、生まれた意味や存在、全てが最初から何も無かったことになってしまう。


 悪夢が、想像を絶するまでの現実感をもって天空に浮いていた。自分たちの頭上目掛けて、突き進んでくる。


 見上げた人々の心を原始的な恐怖が駆け抜け、まさに心底から震撼せしめた。それが混乱へと取って変わるまで、時間は必要でなかったのである。





 王宮の地下深く、古代都市の遺物を発動させるための魔法陣が敷かれた広間――。


 巨大魔法陣の頂点のひとつに座して瞑目していたヴァンドーナのもとへ、『浮揚島』が現れたという報告が届いた。


「彼らは……ついに間に合わなかったのでしょうか」


 アレーズが美しい顔を不安に曇らせ、揺れる翠の瞳を大魔導士ヴァンドーナに向ける。


「……彼らを信じるだけじゃ。わしらは儂らの、すべきことを果たす」


 『時空間』の大魔導士ヴァンドーナは、四人の同志である魔力マナの操り手たちの顔を見回し、落ち着いた声を発した。ダルメス、メルゾーン、タナトゥス、アレーズ、全員が覚悟を決めた瞳でしっかりと頷く。


 ヴァンドーナは力強い声を響かせた。


「やるぞ! 『障壁シールド』発動!!」



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