7章 浮揚島、復活 3-19
ふわり、と風が動いた。
島全体を覆い尽くし、晴れることなく視界を狭めていた霧が、吹き払われるように開かれたのである。
四人の眼前に現れたのは、高台に建立された神殿に続く、浸食の激しい崩れかけた石段であった。
「ここか?」
クルーガーのつぶやくような問いに、後ろに続いていたルシカがはっきりと頷く。先頭を進んでいたテロンは石段の状態を調べ、十リールはありそうな岩と、その上にある建造物を見上げた。
「罠も監視の気配も、何もない。ただ、傷みが激しいから足元には注意しなければならないが」
テロンの言葉に仲間たちは頷き、石段に足を掛けた。岩に直接刻み付けられたような階は、緩やかとはいえない。十分に警戒しながら足を運び、神殿入り口を目指す。
上り詰めた場所は平らではなかった。粗く削られた剥き出しの床は濡れた岩肌そのままであり、神殿と名のつく洗練され掃き清められた印象とは程遠かった。
造りは大きいが左右は切り落としたかのような崖となって断ち切られており、柱ばかりでほとんど天井はない。それら全てが奇妙に歪んでいる。
全体に闇そのものがまとわりついたような圧迫感があり、神殿周辺だけが暗く沈みこんでみえた。
「まっとうな生き物の訪れる場所じゃない感じだな」
「ああ」
低く発せられたクルーガーの言葉に、テロンが応える。周囲には何の気配も感じられず、不気味な静けさであった。
「奥からは、とてつもない魔力を感じる。祭器のものだと思うけれど、何だかすごく変……。魔力自体はどんどん強くなっているはずなのに、その力が外に向かって放出されていないの」
ルシカが『万色の杖』を握り直しながら、眉を寄せた。
「つまり、内側にどんどん集まっている、ということですか?」
ティアヌの問いに、「おそらくは……」とルシカが迷いながらも頷いた。
「自分の目で確かめるしかない」
内部の気配を探っていたテロンは、仲間たちを振り返った。こぶしを握りしめ、言葉を続ける。
「とにかく『召喚』を止めることが先決だ。奥へ進もう。戦闘に備え、気を緩めないようにしていくぞ」
仲間たちは頷き、緊張した面持ちで互いに目を見交わした。魔法使いのふたりはそれぞれの杖を握りしめ、覚悟を決めた眼差しで入り口から奥の暗闇を見据える。
四人はいつでも戦えるよう身構えながら、神殿の奥を目指して動きはじめた。
闇自体に質量があるのではと思わせるほどの、重苦しい空間。
『無』を司る女神ハーデロスの神殿最深部、『眠りの間』だ。広さは十分にあったが不気味な闇に閉ざされた暗い内部で、唯一、光を放っている箇所があった。
半ば背後のむき出しの岩肌に埋もれるようにして立つ、女神像である。ひとの背丈の倍以上はあるその像は、両腕を前へと突き出し、真っ直ぐに背を伸ばした状態で立っていた。
右手には『虚無の指輪』をはめ、左手には『破滅の剣』の柄を握っている。どちらも禍々しい、どす黒く翳った赤の光を放っている。両眼に嵌められて光を放つのは『赤眼の石』と『青眼の石』だ。
揃えられた四つの祭器は、互いに互いの魔力を増幅し続けている。術者は、女神像の前にひれ伏すようにうずくまって延々と祈りを捧げている、赤銅色の髪をしたエルフ族の男である。
そうして長い時間、『神の召喚』を行使できる瞬間まで、ひたすら待ち続けているのだ。
エルフ族の男――ルレファンは、この時代に生を受けたことを幸運に思っていた。人間族より長命のエルフ族といえども、二千年というサイクルは長すぎるものだった。
「……まず、世界に蔓延る五種族の都市を破壊する」
うっそりと甘い微笑みを浮かべながら、ルレファンは言った。
「全てを『無』に戻すのだ……。破壊と滅亡を見届けたのち、全世界と共に……私も『無』に帰ろう」
ルレファンの面影は、もはや里に居たときとは同一人物だと思えないほどに変わっていた。頬は痩せこけ、目は落ち窪み、肌も髪もつやをなくしパサパサに乾き切っていた。まるで一気に何十年も歳を取ってしまった老人のごとく。
幾日も飲まず食わずのまま、増幅を続ける祭器の放つ魔力と光のなかに身を置き続けているためだ。『破滅の剣』の放つ魔力は、力が安定する前の『生命の魔晶石』と同じ、周囲の生きとし生けるものに壊滅的な影響をもたらす。生命の営みを細胞レベルで少しずつ崩壊させ、確実に組織を破壊してゆくのだ。内臓を含めた肉体全てが、悲惨な状態であった。長くはもたないであろう。
死んだように動かなかった男の肩が、ピクリと反応する。
「ルレファン」
ハーデロスの像が立つ『眠りの間』に、奇妙なほど静かな声が響いたのである。
ティアヌは、部屋の奥にうずくまる人影を目にしたときから、様々な想いが心の内に湧き上がっていた。
意を決して発した呼び声に応え、人影がゆっくりと立ち上がる。まるで薄っぺらな一枚の影のように、その動きには生命力が感じられない。
「……間もなく『極』が来る」
奇妙なほどに静かな眼差しをして、ルレファンは侵入者たちを打ち眺めていた。『湖底都市』デイアロスで見た人間族たち、そして、幼少から知っているエルフ族の青年を見つめる瞳――今にも頽れそうな体で、その赤い瞳だけが尋常ならざるほどに強い輝きを放っている。
「ハーデロスの降臨によって、この世は終わる――」
「ルレファン! 今ならまだ間に合う。やめるんだ。そして一緒に森へ還ろう」
幼なじみの言葉を遮るように、ティアヌは大きな声を出した。
「黙れ! ティアヌ!!」
ルレファンはティアヌの言葉を撥ねつけた。かつての同胞に、冷たい声と眼差しを叩きつける。
「目障りなんだよ、おまえは……いつも俺の前を歩きやがって。戦争なんぞで勝手に森を焼き尽くす、下劣な人間どもと消え失せろ。俺はもう後戻りなぞできぬ!」
「ルレファン……」
「それでも俺を止めると言うなら……まず、おまえから俺の手で消し去ってやろう」
言い終わる同時に、ルレファンの全身が禍々しい赤のオーラに包まれた。
「交渉は決裂というところだな。看過できない考えだ」
クルーガーが吐き捨てるように低くつぶやき、魔法剣を抜き放った。――彼は次期国王としても必ず皆を、民を護らなくてはならない。
「邪神の降臨は、何としても阻止する」
テロンは身構えた。全身に『聖光気』を纏う。――彼の傍らに立つ愛する少女を護るためにも、決して負けるわけにはいかない。
「この世界を『始原の無』に戻すことは許されない」
ルシカは『万色の杖』を握りしめた。――自分たちを信じて待っている、全ての人々のことを想う。
「ルレファン。リーファは……あの少女は何処にいるのです? 今すぐ彼女を返しなさい!」
一歩前に踏み出しながら、ティアヌは叫ぶように言葉を発した。握りしめたこぶしが、ぶるぶると震えている。
「少女……? あぁ、あの娘か」
ルレファンは残忍な眼差しをして、にやにやと口元に笑みを刻みつけながら言った。
「どうした、ティアヌ。あの生き残りに、やけにこだわっているじゃないか。ひょっとすると、あの貧相な小娘にいかれちまったか。あの奥手のティアヌがねェ」
ゲラゲラと嗤ってみせるルレファンに、ティアヌは怒りのあまり血色を失った蒼白の顔になった。ルレファンがその表情を見て、ふいに笑みを消した。
「小娘との再会を望むなら、逢わせてやろう」
いまや声音も容貌も変わり果てたエルフ族の男が、片手をサッと真横に振るった。神像の背後の影から、細く華奢な姿の少女が進み出る。
「リーファ! 良かった、無事だったんですね……」
ティアヌは安堵して少女の名を呼んだ。だが、すぐに様子がおかしいことに気づく。黒い衣服を身に纏い、手に輝きの鋭い片刃の小剣を握っているのだ。
ひどく扱いにくそうな大きさの剣は、彼女のものではあり得ない。そして、ティアヌたちが目に入っているのかいないのか、まるで感情の表れない虚ろな瞳で立っていたのである。事務的に首を回してティアヌに向き直り……ふたりの目が合った。
ゾワリ、と異様な感覚がティアヌの背筋を駆け抜ける。
「か……彼女に何をしたッ!?」
ティアヌが狂おしく叫ぶ。返された返答は、ルレファンの冷たい含み笑いだけだ。
「リーファ……?」
仲間たちもリーファの放つ気配の変わりように驚き、困惑したようにその姿を見つめている。ルシカは、生命の根源でもある魔力の流れを見定めようと、魔導の輝きの宿る瞳に精神を集中させながら、少女や周囲に視線を巡らせた。
「操られているのは明らかだけれど……」
魔導ではない、魔法ではない。この世界とはまったく別の、異質な力による影響が見て取れる。だが『万色』の魔導士にも少女の身に何が起こったのか、どうすればいいのか咄嗟に判断がつかなかった。
「大切な者を……心の拠り所を、目の前で失う苦しみを知るがいい!」
ルレファンが口の中で何事か命じたらしい。応じるように、神像の左右からにじみ出た染みのような闇穴から、二体の獰猛な獣が出現した。デイアロスのときの冥獣より、ひと回りもふた回りも大きい。
「――やれ」
冷たく響いたその命令に、『闇狼王』が鋭い牙を剥く。当然のごとく一体はテロンたちに狙いを定めたが、唸り声を高めた一体がぐるりと巨大な頭部を巡らせ、傍に立っていたリーファに向き直ったのだ。
声を発する余裕もなかった。ティアヌが飛び出し、同時にクルーガーが動いた。
ティアヌの顔の傍を掠め、クルーガーが抜き放つと同時に小剣を投げたのだ。ひとの頭など容易に噛み砕けそうな口蓋と眼の間に、小剣が勢いよく突き刺さる。
牙の向かう先が逸らされ、間一髪、少女の顔の真横で閉じ合わされた。クルーガーは長剣を真っ直ぐに構え、少女を襲った『闇狼王』に突っ込んでいく。
もう一体は片割れが少女に向けて動くと同時に跳躍し、突っ込んだクルーガーと入れ替わるようにしてテロンたちへ襲い掛かった。
素早く動いたテロンが自身の体を沈ませるようにして巨躯を下から蹴り上げる。『聖光気』を纏った蹴撃が冥獣の腹に命中し、凄まじい重量を宙高く吹き飛ばした。
だが、重力を無視したかのような『闇狼王』の落下の速さに虚を突かれ、こちらの体勢を戻す前に、相手の着地を許してしまった。
「しまった!」
シュオウッ! 獣の息遣いが、驚くほどの速さで移動する。瞬時に距離を詰めてきた闇狼王のあまりの速さに、避けきれなかったルシカの腕の衣が食い破られた。
魔導士の少女はあっけなく弾き飛ばされ、受けた衝撃の強さのままに床を転がされていく。血飛沫が床に跡を作り、ようやく止まった細い体が赤く染まっていく。
「ルシカ!」
彼女の名を叫びながらテロンが床を蹴る。
倒れたままのルシカと、その体を喰い千切ろうと襲い掛かる冥獣の間に割り込み、テロンは拳を突き出した。顎を殴りつけて牙を阻み、流れるように動きを繋げて、巨躯の腹にもう一度強烈な蹴りを叩き込む。
彼の凄まじい連続攻撃に、『闇狼王』は吹き飛んだ。だが、しなやかな闇色の巨躯を捻るように柱へ突っ込み、四足を揃えてぴたりと着地する。
グルルルルル……。
さすがに、無傷とまではいかなかったらしい。異様に大きな牙の並ぶ口蓋から、緑色の液体がとめどなく滴り落ちている。
クルーガーの対峙している『闇狼王』も、彼の突き技を喰らって眼球の片方を潰されていた。引き抜いた魔法剣で斬りかかろうとしたところに背後から鋭い殺気を感じて、クルーガーは身を捻るようにかわした。
その隙に、クルーガーと戦っていたはずの『闇狼王』が跳躍した。もう一体の動きに注視していたテロンの背後に着地し、牙を剥いて襲い掛かる。青年の左肩に、鋭い牙をずぶりと埋め込んだ。
「クッ……!」
ぎりぎりと締めつけられて、大量の鮮血が吹き出すように流れ落ちる。テロンは堪らず膝をついた。
「テロン!」
昏倒していたルシカが意識を取り戻し、事態に気づいた。倒れてもなお手放さなかった『万色の杖』を掲げるとともに腕先で魔法陣を描き、魔法を行使する。白い輝きが生じると同時に唸りをあげて飛び、『闇狼王』の頭部の右半分が瞬時に吹き飛んだ。
冥獣はそれでもテロンに喰らいついたまま離れず、さらに顎に力を込めた。ミシリ、と骨が軋む音が響く。
「肩が砕けてしまう!」
ドォン! ティアヌが用意していた精霊魔法『気弾』が、鋭い衝撃とともに冥獣の頸に命中し、大きく穴を穿った。『闇狼王』は、ようやくテロンを顎から取り落とした。
傾ぐ体を踏ん張るように立て直したテロンが、『聖光気』を纏った腕で傍の冥獣の頸を真横に薙ぐ。ティアヌの魔法で強度を削がれていた獣の頸が、完全に断ち切られた。
ギャアゥゥゥゥ……。
『闇狼王』の一体が絶命し、解けるように空中へと巨躯を消しながら冥界へと戻っていく。
「テロン!」
ルシカはふらつく体を引きずるようにしてテロンのもとへ移動し、彼に『治癒』を行使した。だが肩の損傷が激しすぎて、動かせるまでは瞬時に回復できない。テロンの血に染まりながらも、ルシカは唇を引き結んで傷を塞ぐため、魔導行使に意識を集中させた。
「ルシカ、狙われてます!」
柱から床に降り立ち、無防備となった魔導士に襲い掛かるもう一体の冥獣を、ティアヌの『気弾』が牽制する。
クルーガーは、彼らの援護に駆けつけることができなかった。彼を背後から襲ったのは、短剣を手にしたリーファだったのだ。
「止すんだ、リーファ!」
意志のない人形のような眼をして、手にした剣を逆手に構え、クルーガーを執拗に突き刺そうと攻撃を繰り返している。
「リーファ!」
ティアヌは叫ぶように少女の名を呼んだ。『闇狼王』へ牽制攻撃を繰り出しながらも、神像の傍で起こっている戦闘へ気をそがれてしまう。
ルシカが『治癒』の魔法陣を維持しながら、自分たちを襲う冥獣に向けて『足止め』の魔導を行使した。
グオオォォォオオッ!!
その場に縫い留められたように移動を封じられた異界の獣は、魔導士に向けた憎悪の視線を僅かも動かさず、凄まじい咆哮と発した。
テロンはルシカに癒されながら、朦朧とする意識を必死で繋ぎとめ、闘うための『気』を練り上げていた。自分を救おうとしてくれるルシカを獲物に狙う冥獣の動きを見据えている。
ルシカが、ちらりと肩越しにティアヌを振り返った。
テロンとルシカの覚悟に気づき、ティアヌはハッと表情を引きしめた。彼は迷いに揺れていた瞳に力を籠め、神像の傍で揉み合うクルーガーとリーファに向き直る。




