6章 呪われし地へ 3-18
どことも知れぬ深い闇。或いは、光が反転した影の世界であったかもしれない。
リーファは、微かな意識の中で、ぼんやりと考えていた。
(ここ……どこ……?)
自分がどんな状態なのかも判然としない。まるで、ピントの合わない望遠鏡を覗きこんでいるかのようだ。意識をはっきりさせようと、リーファの自我は無駄なあがきを続けていた。
どのくらい経ったのか、ふいに目の前に、何かが現れた。目の前に、とは言っても実際に視覚で捉えているのかさえもわからなかった。ひとの形に似てはいるが決してひとではないもの。
それは大きかった。自分の存在も実感できぬ状況では測りようがなかったが、圧し掛かられれば潰されてしまいそうなほどの、圧倒的な存在感があったのだ。
耳にしたことのある声が、怨嗟のように低く響いてきた。まるで詠唱しているかのようだが、ここではない場所から発せられているかのように遠い。どこか別の場所があるのか――と訝しく思いながらも、周囲を見回すことができない。
体は動かせず、魅入られたように目の前の影から意識を逸らすことができなかったのだ。まるで人智を超越したかのような圧倒的な気配。リーファはふいに、目の前に佇むその正体に気づいた。
それは『虚』であり、『無』であった。
あらゆるものに絶望し何も希望が残されておらず、何もかも終わりにしたい――そんなときに心の奥底から沸き上がるように現れるもの、虚無。大切な者を目の前で奪われたリーファにも覚えはあった。その安寧にも似た完全なる破滅を、誘惑を、感じたことがなかったわけではない。
(とうさま、かあさま……。そうだった。わたしは仇を討とうとして……)
リーファはこぶしを握りしめた。あふれてきた涙を払おうとして瞬きをし、唇を噛んで痛みを知覚する。
感覚と自我を取り戻しかけた少女に向け、目の前の影から、たくさんの腕のようなものが伸びてきた。ざわざわと揺らぎながら、彼女に狙いを定めたかのように執拗に。
(うわっ)
リーファは逃れようともがいた。だが地面があるのかすら不確定な空間、ねっとりとした時のなかで思うように移動すらできない。あっという間に絡めとられ、その無数の腕のおぞましい感覚に堪えきれず、リーファは悲鳴をあげた。
(いやだっ! 助けて……誰か!)
――誰か。
いったい誰が自分を助けてくれるのだろう。ほとんどの時間をたったひとりで過ごしてきたというのに。
だが、リーファの頭のなかに浮かんできた人物がいた。薄青色の髪と瞳の、温かく微笑むエルフ族の青年だ。そして、自分を当たり前のように受け入れてくれた、双子の王子や傷を癒してくれた魔導士という仲間たち……。
(ティアヌ……ティアヌ!)
リーファは繰り返し、青年の名前を呼んだ。容赦なく、黒い無数の腕は少女の肢体を覆い尽くしてゆく。
圧倒的な存在に呑まれながらも少女は必死に抵抗し、活路を見いだそうとして視線を動かし、ふと影の中を覗き込んでしまった。
そこには何も無かった。自分の生きる意味も、世界の在る意味も無い。何も、無いのだ……リーファは絶叫した。
(『始原の無』になんか帰りたくない!)
「……リーファ」
ティアヌは、ふと空を仰ぎ見た。呼ばれたような気がしたのだ。
だが、彼女はここに居ない。耳のよいティアヌといえ、まだ遠いはずの目指す場所から実際に声が届いたとは思えなかった。
『はぐれ島』に入ってからは高低差の激しい場所を移動してばかりの行程であり、あまりに苦しく単調なので様々な思いや記憶が頭に浮かんでくる。ティアヌはずっと、連れ去られた少女の面影を追っていたのだ。
ルシカの意識は戻らず、テロンが抱き上げたまま移動していた。テロンの筋力にとって、ルシカの体重はほとんど苦にならない。彼の背には『万色の杖』が荷物とともに括りつけられている。
クルーガーは先頭を進み、移動できるルートや危険な箇所を調べ、十分に警戒しながら一行を導いている。
『はぐれ島』クリストアは呪われた地というだけあって、植物が島の表面に何ひとつ育っていなかった。野獣はおろか、昆虫すら気配のかけらもない。
『邪霊』との戦いから、すでに二時間が経過している。一行は島の北端を目指していた。南から島に渡り、それらしい気配を探りながら最奥へと進んでいるのだ。
祭器を全て揃え、ルレファンは『無の女神』ハーデロスをこの世界に『召喚』するための条件を手に入れてしまった。場所に相応しいのは『無の女神』の神殿をおいて他に無い。
あとはタイミングだと、出発前にルシカが語っていた。『神の召喚』は、発動させることができるタイミングが限られているのだと。
ヴァンドーナが文献や資料から算出した日数の大半は、神殿までの行程で消費されてしまう。それでも猶予は十分にあったはずだが、その瞬間が刻々と迫っている気がしてならなかった。
神界には神と称される多数のものが存在しており、互いの影響力の均衡を保っている。凄まじい力を揮う存在そのものが、この現生界へ渡るようなことがあったらどうなるか。
次元の揺らぎの上に存在する個々の世界は、互いの干渉が少ないからこそ安定し、絶妙なバランスを保っている。そのバランスが崩されれば容易に引っくり返り、全ての世界が崩壊する事態になるのだ。
そうなれば――何もなかった状態、『始原の無』に逆戻りだ。時間すら崩壊し消え去ってしまう。進んできた道も、大切なひとも思い出も、全ての存在とその意味が失われてしまう……何としても、阻止しなればならないのだ。
何度目かの小休止のあと、テロンの腕の中でルシカが意識を取り戻した。
「……ん。……テロン?」
「気がついたか?」
「うん、ありがとう。もう平気よ」
「ルシカの『平気』は平気じゃないんだけどな」
微笑みながら発せられた、テロンのため息混じりの言葉を聞き、ルシカも思わず口元を緩めた。
テロンはそのまま彼女を抱き運ぶつもりだったが、ルシカは『万色の杖』を受け取り、自分の足で歩くことを申し出た。
不毛の地は風雨に浸食されるがままになっている。場所によっては容易にボロボロと崩れた。足場は悪く、瘴気のように濃い霧には微かな腐臭と錆びた金属のような不快な匂いも混じっていた。
「俺たちが、一番先を進んでいるようだ」
クルーガーと先頭を代わったテロンは、地面の痕跡を探り、耳を澄ますようにしばし動きを止めていたが、そう報告しながら仲間を振り返った。
「ルシカ、目指す方向はこれで合っているのか?」
テロンの問いに顔を上げ、魔導士の少女がコクンと頷く。
「合っているわ。この先にはっきりと感じるから、祭器の放つ力を……」
岩だらけの道なき道を進み、通れそうにない場所は迂回を余儀なくされ、一行はかなりの時間を費やしながら進んでいった。上空の雲が低く厚く垂れ込めいるので、太陽の位置すらも確認できない。
地図も存在しないので、最終的にはルシカの魔導の力と感覚が頼みの綱だった。
「魔導士たちが、いにしえの魔法王国の末裔だといわれるゆえんがわかったような気がします」
魔術師のティアヌがぼやく。それを聞き、クルーガーが口を開いた。
「その分、魔導士は消費が激しいが……な。ルシカ、少し座っていろ、顔色が悪いぞ」
ルシカは素直に頷き、手近な岩に座りこんだ。深い呼吸を数度繰り返して落ち着いたあと、胸の隠しから何かを取り出した。
「何だい、それは」
テロンがルシカの隣に座る。ルシカは傍らの青年にもよく見えるよう、手のひらを開いてみせた。
透明な球状のガラス容器に赤と青の液体が同量入れられ、密封されていた。そのふたつの液体は水と油のように決して混ざり合うことはないようだった。不思議なことに、二色の液体が接している面の波のような動きは容器を振っても変わることはなく、常に独自の振動で動いている。
「おじいちゃんが持っていけって、出立前に渡してくれたの。持っていればわかるからって」
ルシカの言葉を聞き、テロンは少し笑った。
「はっきりと説明しないところが、実にヴァンドーナ殿らしい」
「そうね」
ルシカも目を細めて笑った。そして、真面目な顔になって言葉を続ける。
「たぶん『極』を知るためのものだと思うの」
「きょく……?」
聞きなれない言葉に、テロンは青い目をすがめた。
「天文学では、地軸と地表が交わる地点のことを指す言葉なんだけど、魔導では、世界が浮かんでいる揺らぎの波が最大になる瞬間のことをいうの。『極』が来る周期は、およそ二千年だといわれているわ」
「今から二千年前といえば、グローヴァー魔法王国が滅亡したときですか?」
興味深げに聞き耳を立てていたティアヌが口を挟んだ。
ルシカは頷いた。
「そう。『神の召喚』が滅亡の引き金になったのではないか、というのはおじいちゃんの仮説なんだけれど、根拠はそこからきているの」
「『極』の瞬間が、ハーデロスを召喚することができる唯一のタイミングということなのか?」
「うん。その瞬間でないと、神界との大きな接点を作ることができないから。凄まじい影響力をもつ存在を、実体を保持させたまま次元を渡らせるんだもの。相手はその瞬間に向けて、今、準備をしているはず」
ルシカは、不思議な液体の入ったガラス球を目の前にかざした。中の赤と青の液体の接触面は、穏やかなときの海の波のようにゆっくりと動いている。
「おじいちゃんから渡されたときよりずっと、波が小さくなっている気がする。これが完全に静止したときが『極』の瞬間ということね……」
テロンたちは、ガラス球の中の液体を見つめた。球を持つルシカの手は動いていないというのに、一定の動きで揺れている。まるで正確に動く何かの生き物のようだった。激しくはなく、穏やかな動きだ。……もうすぐ動きが止まってしまうかのように。
「急いだほうがいい、か」
クルーガーは屈めていた身を起こした。テロンも立ち上がりルシカに手を差し伸べて、起き上がるのを助ける。
再び一行は歩きはじめた。
ルシカの体を心配して、テロンは彼女の様子を見守っている。淡い色合いの魔法使いの旅着も、やわらかそうな金の髪も、すべらかな頬も、土や変色した血で汚れていた。
唇が開かれ、息遣いは乱れている。
ルシカは弱音を吐かないが、苦しそうなのは見て取れる。ただ、昇りたての太陽の色を宿した瞳だけは、強い輝きを失っていなかった。
時々転びそうになるが、一行に遅れることのないように懸命に足を前へ前へと動かしていた。自分の力でできる限り頑張っている姿が、いじらしくもあり、また愛おしくもあった。
(俺の力がもっと強ければ、大切な相手を護れるのだろうか……)
テロンは考え、すぐに首を横に振った。強大な力は周囲を犠牲にした上で成り立つことが多いことを、今までに対峙してきた敵や『ソサリアの護り手』として関わってきた事件から、彼は知りすぎるほどに知っていた。
テロンの視線に気づいたのか、ルシカが彼に眼を向け、視線を合わせて微笑んだ。
「平気よ、心配しないで、テロン。無理だと思ったら、ちゃんと頼るから」
約束だもんね、と、もう一度微笑み、ルシカはまた足元や前に視線を戻した。
「ああ」
テロンはゆっくり頷いた。彼女が少しでも歩きやすい道を選びながら進んでいく。
ティアヌはひとり、足元を見つめたまま無言で歩き続けていた。
(ルレファンに再び会って、何と言葉をかけたらよいのだろう)
幼い頃から一緒に育ってきたルレファンは、兄弟のいないティアヌにとって兄のような存在でもあった。互いに隠し事はなく、相手のことはよくわかっているのだと無邪気に信じていた。
なのに、ルレファンがあんなに激しい想いを、憎しみを、怒りを内に秘めていたなんて、気づきもしなかったのだ。相当にショックだった。だが――今は落ちこんでいるよりも、為さねばならないことがある。
(リーファ……無事でいるのでしょうか)
まぶたの裏に浮かぶ、琥珀色の瞳をした少女。その輝くような笑顔を、ティアヌはまだ一度も見たことがなかった。出逢ったときから傷ついたような瞳で、泣き出しそうなのを堪えていたように思う。
だが、時折見せる驚いたときの表情が、安堵したときの顔が、戸惑ったようにこちらを見上げる大きな瞳が……ティアヌの胸を甘く疼かせる。このような感情を何と呼ぶのか、ティアヌにはわからなかった。
楽しげに声をたてて笑うことすら知らない少女。まだ死ぬには早すぎる。
彼女が無事であることを、ティアヌは祈り続ける。




