1章 森の中の出会い 3-2
狼の、無駄な肉のない引き締まった体躯が宙を跳ぶ。むき出した牙は獲物を前にした昂揚でぬれぬれと輝き、闇色に縁取られた口蓋は、まるで血でもすすったばかりのような赤だ。
眼前まで迫った一匹に指を突きつけ、ティアヌが力ある言葉を短く叫ぶ――。
「ヴォルト!」
いまにもティアヌに喰いつかんと顎を開いていた狼が、空中で弾かれたように吹き飛んだ。喉奥から頭蓋に衝撃が抜けたのだろう、獣の魂消える悲鳴が細く陰惨に響き渡る。その仲間を踏み越え、次に飛びかかってきた狼も同じように後方へと吹き飛ばされた。
風の属性を持つ『気弾』の魔法だ。一度呪文を完成させておけば、気力尽きるまで何発も連続で撃つことができる。エルフ族に伝わる初歩的な魔術のひとつだ。
弓を構えた少女は、最初に襲いかかってきた狼に素早く矢を放ち、正確にその眉間を射抜いた。そして目にも留まらぬ速さで次矢をつがえ、放つ。狙いは正確であり、さらに速射の腕にも長けているらしい。
だがやはり、それでも狼のほうが数が圧倒的に多い。矢を四本射たところで少女は弓を捨て、腰の後ろに留めてあった鞘から短剣を抜き放った。喉もとに迫った狼を身をひねってかわし、流れるような動きでダガーを振るい、突き、斬りつける。
まるで舞い踊っているかのような、美しく見事な動きであった。腕を振り上げようとも足を踏み変えようとも、決して全体のバランスが崩れることがない。あまりに洗練された技の連続は脈々と伝えられた伝統の舞さながら、選ばれし者のみが継承してゆく特別な剣技のよう――ティアヌの視線は少女の動きに強く惹きつけられた。
「油断しないで!」
少女の鋭い叱咤の声が飛ぶ。すっかり少女の動きに魅せられていたティアヌは、はっと我に返り、目前に迫っていた狼に気づいた。
慌てて体をひねるが、鋭い牙先に手の甲を深く抉られてしまった。
視界にパッと赤い雫が散り、激痛が脳天まで駆け上る。傷つけられたのだというショックに動きが鈍り、あっけなく体勢が崩れた。そこへ、別の方向から同時に二体が飛びかかってくる。
血の匂いに爛々と眼球を輝かせ、涎の滴る鋭い牙を剥きだした狼が目の前にあった。自分が喰いつかれ喉を破られるさまが脳裏に浮かび、回避行動が遅れる――。
絶望を感じる暇もなく牙の並ぶ顎が迫り、閉じられようとしたそのとき。
少女が突っ込んできた。ティアヌの首に牙が突き立てられる寸前、その狼に自身の体をぶつけたのである。少女に押しやられた狼の顎が、ティアヌの首から僅かに逸れた場所でガツリと閉じられる。
死角から迫っていたもう一匹の狼を巻き込み、勢い余った少女が地面を転がった。ティアヌは呆けたようにこの光景を目で追っていた。
「何ぼやっとしてるのよッ!」
少女は転がりながらも大声でティアヌを叱りつけたあと、素早く体勢を立て直した。起き上がろうと前脚で地面を引っ掻く狼の腹に容赦なく貫き、完全に絶命させる。その隙に跳躍したもう一体の狼は逃してしまった。
少女はティアヌの傍に駆け寄り、彼の背中に自分の背中を合わせるように立った。後方から跳びかかられることのないよう、死角を消したのだ。明らかに実戦慣れしている。
狼たちの数は半分に減っている。仲間を倒され、餌であったはずの獲物の思わぬ戦闘力にようやく気づいたかのようだ。
ふたりから距離を取り、取り囲むような位置で凄まじい唸り声を響かせる。一撃必殺の攻撃チャンスを探るように、大地に鋭い鉤爪を喰い込ませ、油断のない眼で獲物を睨めつける。
背を合わせたまま呼吸を整えながら、少女がティアヌに尋ねた。
「あんたって、もしかして実戦ははじめて?」
「す、すみません」
言葉通り、心底すまなそうにティアヌが謝った。
「はじめてです。まさか、ここまで遅れをとってしまうとは――」
「謝るのはあとにして」
少女の口調は厳しかったが、相棒を励ますような響きが感じられる声音でもあった。
「まず、こいつらを何とかしないとね。あんただって死にたくはないでしょう?」
ティアヌは無言で頷いた。だが背を向けているので相手に見えていないと気づき、言葉を発する。
「もちろんです。……しかし驚きました、あなたって強いんですねぇ」
素直な気持ちを述べたつもりであったが、あまりに能天気な物言いだったのだろう、少女のあきれたような言葉が返ってくる。
「あんたのその調子、きっと死んでも治らないでしょうね」
背中合わせの体勢なので、少女の表情は見えなかった。だが、微かに微笑んでいるかのような気配が伝わってくる。こんなときだというのに、ティアヌは自分の心が浮き立つように感じられた。
緊張がほぐれ、考えを巡らせるほどの余裕がようやく戻った。魔術師としての頭脳が働きはじめる。
「それにしても、妙ですね」
ティアヌの言葉に、少女が戸惑いながら「何が?」と訊いてくる。
「この狼たち、動きがあまりにも組織立っています。もしかしたら誰かが操っているかもしれません」
「それって、まさか!」
優しげだった気配が瞬時に霧散し、少女の口調が激しいものに変わった。
「操るなんて、いったい誰が――やっぱりエルフのッ!」
ウガゥッ!!
少女の大声が合図になったかのように、狼たちが一斉にふたりに襲いかかった。
視界に入るだけでも狼の数は五は超えている。ティアヌは指を突きつけ、次々に風の精霊の力をぶつけた。弾き飛ばされても狼たちはすぐに起き上がり、死ぬまで何度でも突撃してくる。本能で行動する獣にはあり得ない、無益な特攻であった。
だが、ティアヌの精神力も魔力も無尽蔵ではない。疲れが圧し掛かってくる。
「あうッ!」
悲鳴に近い呻き声に、眼前の狼を魔法で倒したティアヌが振り返る。少女の左腕に狼の牙ががっしりと食いこんでいた。
少女の小さな体と狼の体がひとつになって、地面を転がった。噛まれる寸前に差し入れたダガーの刃で、かろうじて腕を食いちぎられるのを防いでいる。大地に鮮血が振りまかれ、少女の顔が苦痛に歪む。
少女は素早さに長けているが、筋力があるわけではない。ぎりぎりと締まってゆく牙口に、今にも腕がちぎられしまいそうだ。逃れようにも重量のある狼に踏みつけられ、起き上がることができない。
ティアヌは腰に提げていた小さなナイフを抜き、少女と狼に向けて駆け出した。魔法を詠唱をしていたのでは間に合わないと判断したのだ。まるで世界が制止しかけているかのごとく、ほんの数歩の距離がやけに長い。
「これが魔導士なら間に合うのに……!」
苦しむ少女に腕を伸ばしながら、ティアヌが奥歯を噛みしめる。
発現に至らない魔法には意味がない。魔術師には詠唱が必要だ。力あるひと続きの言葉を一字一句間違うことなく、唱え切らねばならない。だから、距離を詰められれば剣に劣る。呪文が完成する前に攻撃を受け、たとえそれで倒れなくても、詠唱を中断されたり、精神集中が乱されてしまえば、魔法を行使することができなくなってしまう。
だが詠唱の必要のない魔導士ならば、瞬時に魔法は発動する。そして遥かに強力な結果をもたらすのだ。
永遠とも思えるふた呼吸分の時間を駆け抜け、ティアヌは狼にナイフを突き立てた。少女の腕に喰らいついている顎を素手でこじ開けようとする。自分の血と少女の血で目の前は真っ赤に染まったが、ティアヌは必死で腕に力を籠めた。
そのとき、凄まじい悲鳴があがった。まるでひとの発する悲鳴のようであり、野生の狼のものとは思えない叫び声だ。
広場の外、森の茂みから何かが飛び出した。己の意志で飛び出してきたのではな。潰れたような悲鳴とともに地面に叩きつけられたからである。
残っていた数匹の狼はそれに気づき、仰天したように飛び退った。尾を丸めて後退り、くるりと背を向ける。次々と反対側の茂みの中に姿を消していったのだった。
少女の腕に食いついていた狼も同様だった。ひるみ、顎が緩んだ隙に、少女のダガーによって眉間を一突きにされ、絶命した。
よろめくように立ち上がったティアヌは、目の前に転がった異様なものに視線を吸い寄せられた。
「こいつは……いったいどこから?」
戦っていた狼たちよりひと回り大きく、歪だがかなり五種族に近い外観をしていた。顔に刻まれた恐怖の表情を見ても、それが獣と呼ばれるものであるとは思えなかった。
「それは『擬似人狼』って呼ばれている、魔獣の上位種よ。今までにも群れを統率して旅人を襲わせていたの」
ティアヌの耳に届いたのは、明瞭な発音の大陸公用語であった。言葉と同時に、ひと組の人間族の男女が森の木々の向こうから現れる。
「ワーウルフ?」
ふたりの出現に驚きながらも、ティアヌは思わず聞き返した。敵味方を考えるよりもまず、好奇心のほうが勝ってしまったのだ。彼の隣に立つ少女は武器を下ろしていたが、警戒するような眼差しをふたりに向けている。
「そう。魔獣が野生の狼の群れを操っていたのよ」
若い娘のほうが口を開いた。手に意匠の凝らされた美しい長杖を携えており、朝の太陽を思わせる明るいオレンジ色の瞳をしていた。
連れの若い男のほうは背が高く、落ち着いた眼差しと、気品が感じられる端正な顔立ちをしている。剣も戦斧も腰に帯びておらず、鎧の類すら身に着けていないが、受ける印象は戦士のそれだ。
このふたりに助けられたことに思い至り、ティアヌはまだ礼も言っていないことを思い出した。
「えっと、助けていただいたようで、ありがとうございました。何と言ったら良いか……僕は故郷の森を出て日が浅いので、どうも世間の礼儀や挨拶がよくわからないので……」
若い娘のほうが、にっこりと微笑んだ。裏表のなさそうな明るい眼差しを向けられ、ティアヌの警戒心が一気に氷解する。
「気にしないでください。それよりあなたがたは、どうしてこの村に?」
「わたしたちを疑っているのっ?」
ティアヌが答えるより早く、傍らの少女が挑むように口を挟んだ。叩きつけるような鋭い口調を向けられても、相手の若い男女は顔色ひとつ変えなかった。落ち着いた口調で言葉を返す。
「いいえ。あなたたちじゃないって、わかっていますから」
「何故そう言いきれるの?」
さらりと答えた娘の言葉に、訝しんだ少女が言葉を返す。
「ちが、ちがう。このひとたち、なしです」
長身の青年の足もとから、幼い子どものような声が聞こえた。見れば、ミルク色の小さな生き物がおずおずと前に進み出ている。
「トット族……?」
少女が激しく戸惑い、琥珀色の眼をその生き物に向ける。
「ああ、わかっているよ、マウ」
ミルク色の生き物に見上げられた青年が、屈みこむようにして視線を下げ、優しい微笑で応えた。そして顔を上げ、無残な村の有様を青い瞳に映して表情を厳しく引きしめる。
「ひどいことを。家屋のみを焼いたあとすぐに火を消したようだ。森に火が移らないようにしたんだな……。村だけを確実に全滅させておいて」
「そうね。マウの言う通り、相手は火の精霊魔法に長けたエルフ族で間違いなさそう。おそらく四体以上の『火蜥蜴』を召喚したんだわ」
周囲に視線を走らせ、稀有なる色彩をもつ目を狭めた娘が、彼に同意した。




