1章 森の中の出会い 3-1
「はぁ~、変な天気ですねぇ」
緑の深い森のなか、天蓋のように頭上を覆い尽くしている葉陰の切れ目から空を透かし見ていたエルフ族の青年が、のどかな声をあげていた。
青年に連れはなく、蟲や鳥が動くときのふいの物音や木々のざわめき、そして青年が石や根に蹴躓いたり枝草を踏みしだく音が聞こえるばかり。
薄青色のクセのない髪は美しく、顔の横には種族の特徴である先端の尖った耳が覗いている。背丈は高いが全体的にひょろりとした印象で、腰紐に手挟んだ短杖、荷袋を背負い、魔術師風の旅装束を纏っている。
青年は、髪と同じ薄青色の瞳を空に幾度も向けていた。そのたびに、のんびりとした独白が薄い唇からこぼれるのであった。
「困りましたね……ここはいったい、どのあたりになるんでしょう」
自然に溢れる四大元素と親しいはずのエルフ族が道に迷っている――今でこそ森に住まう傾向が強い種族も、魔法王国期には、人間族をはじめとする他種族と同じように、その大半が大都市に集って暮らしていたのだ。自然と調和した景観で名高かったエルフ族の統べる首都トレントリアでさえ、魔導技術に支えられた便利で衛生的な暮らしを享受していたのである。
しかもこの青年は、現在のエルフ族たちとは少々異なる育ちのようであった。
「やれやれ、本当に困りました」
誰かが耳にしていたら全然困っていないんじゃないかと思われるような、実にのんびりした口調で青年がぼやく。
「ここが、大森林アルベルトの南東部のどこかっていうのは、わかるんですけどねぇ」
世界に存在する大陸の中で、最も広大なトリストラーニャ大陸。その北部に位置するソサリア王国の領内には、ふたつの大森林地帯が存在する。王都ミストーナがある北部のカクストア大森林、南部にあるのが大森林アルベルトだ。
カクストア大森林の奥まった場所にひっそりと存在する『隠れ里』から出てきた青年にとって、南の森アルベルトは初めて訪れる地域だった。
ティアヌ・シル・レーア。青年の名である。二十五歳というのはエルフ族としても魔術師としても、まだまだ半人前だ。
故郷を飛び出して七日間、南北を貫いている主要街道沿いにのんびりと旅をしてきたというわけである――少なくとも、その途中までは。
「やはり、あそこで森を近道しようなんて考えたのが、いけなかったんでしょうねぇ」
森とはいっても平坦な場所ばかりではない。行き止まり同然の崖や大地に穿たれた穴や亀裂、それらの通れない場所を延々と迂回し、剣呑な気配を避けて進むうち、ふと気づくと進んでいた方向すらわからなくなっていたのだ。
うっそうと茂る樹々は枝葉を伸ばし、空を覆い尽くしている。太陽の位置が確認できない場所も多く、すでに時間の経過もわからなくなっている。ティアヌは仕方なく、あまり自信のない勘だけを頼りに歩き続けていた。
独り言をつぶやきながら、いったいどのくらいの距離を歩いたのだろう。前方に、かなり開けた場所があるのが、木々の間隙から見えた。
「もしかしたら、村があるのかもしれませんね」
そうでなくても、空を見上げて太陽の位置を把握することができるかもしれない。そうすれば方向くらいはわかるだろう――そう考え、ティアヌは張り出した根に躓きながらも早足で歩み進んだ。
住んでいた者が絶え、焼かれて灰になった集落は、朽ちてゆくがままになっていた。
そんな集落の空き地に、注意深く周囲の気配を窺いながら、ひとりの少女の姿が現れた。歳は十代半ばほど。栗色の髪と琥珀色の大きな瞳、ツンと小さく整った鼻は可愛らしいとさえいえる顔立ちである。
しかし少女の鋭い眼光には、他人に可愛いとさえ言わせない強さが秘められていた。歩みを進める動きも俊敏で隙がなく、腰の後ろに留められた短剣も実用を重視した飾り気のないもの、斜め掛けに吊られている矢筒も弓も本物だ。
「……遅かった、か……」
周囲の惨状を厳しい表情で眺め渡し、少女は唇を噛んだ。
「打つ手もない。もう手掛かりもない」
低くつぶやいて琥珀色の瞳を伏せ、少女が震えるこぶしを握りしめる――。
「わぷっ。本当に凄い。生命力にあふれた森ですねぇ。僕の故郷とは大違いです」
広い空間は見えているのだが、そこに到るまでの道がない。ティアヌは、草が生い茂り低木が遮っている中を、両手で掻き分けるようにして進まねばはならなかった。
本来、おしゃべり好きであるティアヌにとって、ひとり旅は退屈だった。もちろん、故郷の里を出て様々なことを実際に目にして耳にすることは、彼にとって感動の連続だ。けれどやはり、道連れが欲しいのが本音である。
「……ルレファンは、僕が旅に出たことを父上や母上に告げたのでしょうか」
ティアヌは幼なじみの青年のことを思い浮かべた。
ティアヌの父は『隠れ里』の族長であり、息子であるティアヌが将来はその地位を継ぐことになっていた。その時が来るまでに、外の世界を旅してみたい――『隠れ里』を離れることが禁忌であることを知りながらも、好奇心を押さえられなかったティアヌは里を飛び出した、というわけだ。
だが『隠れ里』を出る際、幼なじみの青年ルレファンに見つかってしまったのである。「一緒に世界を見てみないか」と誘ってみたのだが、断られてしまったのであった。「自分は他に為すことがある」とルレファンは言っていた。
「あれは一体、どういう意味だったのでしょうねぇ……」
ティアヌは自分の思考をたどることに夢中で、絡まりあっていた低木の茂みを突き抜けたことに気づかなかった。ふいに視界が開け、気がつくとティアヌは広い場所に出ていたのである。
そこは、小さな集落の広場だった。
いや、正確には、集落だったものというべきかもしれない。無残に黒焦げ、焼け落ちている。相当な火の勢いだったのだろうと思われたが、周囲の森に燃え移った様子はなかった。火の精霊との付き合いもあるエルフ族のティアヌにとって、それはあまりに不自然な火の痕跡であった。
「……ここで何が起こったのでしょう? どうやら大きさからして、人間の村ではないようですが」
「おまえは誰だ!」
突然、誰何の声が投げかけられた。心臓が飛び出すのではないかと思ったほどに驚いたティアヌは、声の聞こえたほうを振り向き、さらに驚いた。
自分の位置から七リールほど離れた場所に、少女がひとり立っている。手にした小型の弓につがえた矢の先端を、ぴたりとティアヌの喉に向けていたのだ。僅かの揺るぎもない構えと必殺の気配。この少女が優れた腕をもつ射手であることは、戦いに疎いティアヌにも容易に理解できた。
「おまえ、エルフ族だな。あいつの仲間か?」
少女が、語気は鋭いが幼さの残る、少し舌足らずな口調で訊ねてきた。
「僕は別に怪しいものではありませんよ。見ての通り独りですし」
ティアヌは敵意がないことを証明するように、ひょろりとした両腕を大きく広げてみせた。魔術の行使に使う短杖は腰紐に手挟んだまま、触れないように気をつけながら。
「いまここへ着いたばかりです。この村の惨状、まさかあなたが?」
「違う!」
少女が間髪を容れず、きっぱりと答える。
ティアヌは少女の瞳を見て、すぐに「そうですか」とあっさりと頷いた。
警戒心の欠片もないその反応に、少女はいささか拍子抜けしたようだ。尖っていた表情がほんの少しだけ和らぐ。目尻が下がると、いかにも少女らしく可愛らしい顔立ちになる。
「弓で狙われていて、のほほんとしているなんて。あんたって、ほんっとに変わっているのね」
ふう、と少女が息を吐き、心底あきれたような感想を洩らす。
「いやぁ、よく言われます」
ティアヌはにこやかな表情で応えた。照れたように後頭部を掻きながら、のんびりとした口調で言葉を続ける。
「それに、僕は魔術師です。あらかじめ行使しておいた風の精霊の力で矢を逸らす、なぁんてこともできますし」
その言葉に、少女の表情が再び険しくなる。が、すぐにふっと緩んだ。はったりはお見通し、といわんばかりの眼差しで小さな頭を振り、顔に垂れていた栗色の髪を払いのける。琥珀色の瞳が、ティアヌの全身を眺め回した。
「……敵、じゃあなさそうね。そうなら手の内をばらすはずないし」
「さきほど『エルフ族だな』と言いましたよね。この村をこのように破壊した相手を知っているのですか?」
ティアヌの問いに、少女は再び瞳に怒りの焔を宿した。だがそれは、目の前のティアヌに向けられたものではなかった。少女の視線は、遠い記憶の影を見つめているようだ。
「知っているわ……私の仇よ」
「かたき……とは誰のことですか?」
少女はティアヌの言葉には答えず、引き絞っていた弓をようやく下ろし、矢を背の矢筒に収めた。
「こちらの話よ。あんたは関わらないほうがいい。関係ないでしょ」
「そんなことはありません。もし同族の者が、このように残虐な行いをしているのならば、僕にはその者を止める義務があります」
「名誉と責任を重んじてるのね」
少女はつっけんどんに言い返したが、その眼差しと表情は先ほどより、ずいぶんと和らいだものになっていた。もしかしたらティアヌのストレートな物言いに、好感を持ったのかもしれない。けれどすぐに、少女の目は苦々しげに狭められた。
「……それでも、わたしには関わらないほうがいい」
吐き捨てるように言って目を伏せた少女の顔に、十を過ぎて半ばほどの若い年齢には似つかわしくない、諦めと寂しさの影が掠め過ぎる。
「何故なら、わたしは――」
少女は突然言葉を切った。弓に再び矢をつがえ、厳しい面持ちで琥珀色の眼差しを周囲に走らせる。
「どうやら、騒ぎすぎたようね」
「え、なんですって?」
突然の少女の行動に戸惑っていたティアヌだったが、遅れながらもすぐに気づいた。
ウゥウウゥゥ……。
地を這うような低い唸り声とともに、何匹もの狼が周囲の茂みから現れたのだ。――いつから狙われていたのか、逃げる隙もないほど完全に囲まれている。
「変だと思ったのよ。この村の住人の死体がひとつもないなんて」
少女が押し殺した声でつぶやく。
その言葉が意味することに気づき、ティアヌは心の内を噴き上がってきた怒りのあまり、両頬がカッと熱くなるのを自覚した。
姿勢を低めて身構える。素早く腰から短杖を引き抜くと同時に精神を集中させ、魔法行使のための詠唱を開始する――。
狼の群れの先頭は、すでにふたりの居る空き地の半ばまで包囲網を狭めつつあった。ティアヌの視界のなかで数えただけでも十は越えている。
森の茂みにも、異質な気配を感じる。それでも幸いなことに、相手はただの野生の狼のようだ。もしこれが魔獣であったなら、この数で囲まれた時点ですでに命運尽きたといえただろう。
狼たちは飛びかかる機会を窺うように、じりじりと距離を詰めてくる。空気は一触即発の気配で、いまにも音を立てて切れそうなほどに張りつめていた。
ティアヌの発している詠唱の声が、徐々に高まってゆく。まもなく魔法が完成するはずだ。
「来るッ!」
少女の声が耳に届いた瞬間。
ガァウッ!!
狼たちが大地を蹴り、容赦なく一斉に飛びかってきた――。




