プロローグ 炎の幕開け、旅の途上
夜空は厚い雲に覆われ、天空から降り注ぐはずの星明かりを遮っていた。大森林地帯と呼ばれる地表は深い闇色に没し、その広大な森の一箇所から闇よりなお黒き煙が立ちのぼっている。
そこには、小さな村があった。小さな、というのは単に集落の規模が――という意味ではない。
森が少し開けた平地に寄り添うようにして並んだ集落は、この領域を治めている人間族のものより遥かに小造りだったのだ。平屋作りの一軒の大きさは、一般的な女性の背丈ほどしかない。
入り口の扉は木材ではなく、草を編んだ蓆が掛けられており、美しい彫り細工の木珠飾りが提げられていた。夜目の利く者が目を凝らせば、入り口の階に設けられた手摺りにも、小さなテラスに置かれた揺り椅子にも、見事な彫刻を見分けることができたであろう。
だが今、それらの建物全てが焔によって蹂躙されつつあった。破壊を免れた建物は、ただの一軒もない。パチパチという木の爆ぜる音と貪欲な火の勢いに渦巻く風音のみが、森の静寂を散り散りに引き裂いている。
夜の森というものは夜行性の獣たちの活動時間であり、昼とは違った騒々しさがあるもの。けれど今宵は、村の周囲だけがぽっかりと空いてしまったかのように、何の気配もなくなっていた。
まるで何かに怯えているかのように。
キシャアアァァァ!
村の一角で、この世のものならざる奇声が発せられた。焼け落ちていく村の建物の間隙を、ちょろちょろと赤黒いものが駆け回っている。
一匹ではない。五匹は居るようだ。そいつらは燃えあがる焔そのもののように透き通った表皮をもつ、猟犬ほどの大きさの生物だった。だが、これらを「生物」と呼ぶことができるのかは疑問である。
それらは『火蜥蜴』と呼ばれていた。四大元素のひとつ『火』に連なる精霊のうちでも下位に属する幻獣であるが、その気性は荒く、容易に飼いならすことのできぬ存在であった。
『召喚』の名を持つ魔導士でもない限り、このような元素獣を同時に複数召喚し、なおかつ意のままに操ることができるものは、四大元素に最も親しい種族、エルフ族のみ。
「……フン、他愛もない」
冷めた眼差しで周囲の惨状を睥睨しつつ、低くつぶやきながら、村の中央を堂々と歩く者がいた。丈高いが線の細い、けれど並ならぬ筋力を窺わせるしなやかな動作、真っ直ぐに通った鼻梁と顎のかたちは男のものである。
小さな集落は燃え尽きて炭化しつつあり、ドサッ、ガラガラと不穏な音ばかりが響いている。
広場に無数に転がる柔らかそうなミルク色の塊のひとつを、男が通りざまにボンと蹴りあげた。塊は、まだ盛んに煙をあげている半ば倒壊した小屋に突っ込んだ。赤く透き通ったサラマンダーが一体、ひどく嬉しげな奇声をあげて喰らいつき、塊は生き物の肉がこげる黒い煙を発した。
その様子を冷ややかな眼差しの端に捉え、苛立たしげに息を吐いて再び歩き出す男の耳の先端は、はっきりと尖っている。炎の踊る様を映す瞳の色は、村を舐め尽くした焔そのものであるかのように透ける鮮血の色。人間族にはあまり見かけない色彩であった。
男は、エルフ族なのだ。
急ぐふうでもなく躊躇うふうでもなく、男が確実な足取りで目指していた場所は、集落の最も奥まった場所であった。
小さな祠のようなものが、森の夜闇のなかでひっそりと佇んでいる。唯一その場所だけが、焔の破壊と蹂躙を免れていた。
エルフ族の男が祠の前板と装飾を蹴り崩し、慎重に内部を覗き込む。
そこには美しい絹の織物に包まれた箱がひとつ、納めてあった。男は箱を掴み取り、十字に掛けてあった封印の結び紐を引きちぎって蓋を開いた。
指輪がひとつ入っている。男は長い指でつまみあげ、目の前にかざした。傍に寄ってきたサラマンダーの体躯が燃え上がり、指輪に嵌め込まれている黒い大粒の輝石が炎の照り返しを受けて美しく煌めく。
「クククッ……アーッハハハハッ!」
男が嗤った。口を大きく開き、星の見えぬ天空に向けて吼えるように。
「みーッ!」
突然の哄笑に驚いたのか、祠の裏で悲鳴のように震えた幽かな声があがる。
男は造作の整った顔を歪め、祠の裏の闇を覗きこんだ。
そこには、恐怖に震えるミルク色の小さな生き物がいた。卵形の胴体に、羽のない鳥の翼のような形状の小さな手と、胴体と比べて大きな扁平足がある。首はなく、胴体の上部につぶらな青い瞳と小さな口がついている。頭の先にはこぶのような角が生えていた。
両の瞳をうるうると涙で揺らしながら、目の前がぶれるのではというくらいに激しく震えている。
エルフ族の男が目を細め、薄い唇の端を残忍なかたちに歪めた。一歩を踏み出し、手を前へと突き出す。だが、手のなかに握りこんでいた指輪の重さに気づき、満足したような笑いを浮かべて腕を下げた。
男がフンとひとつ鼻を鳴らし、祠から離れる。
「さて、我が故郷たる森の樹々に、程度を知らぬ愚かな火蜥蜴が飛びかからぬうちに、引っ込めておくか」
ニタリと唇を笑わせ、男が精神を集中させて何事か口の内でつぶやいた。ひとつづきの詠唱を完了させると、周囲を狂ったように走り回っていたサラマンダーの姿がひとつ残らず、空気に溶けるようにすぅと消え失せた。同時に、村を焼き尽くした焔も瞬時に掻き消える。
男は握りこんでいた指輪を丁寧に布に包み、懐の隠しに仕舞い込んだ。
「これで、残るはあとひとつか」
低くつぶやき、クックックッと笑いながら、エルフ族の男は次の目的地へと向けて歩み去った。
――残されたのは、静寂と闇。そして、つい昨日まで平和であり続けた小さな集落の、変わり果てた姿のみであった……。
金の髪を持つ人間族の少女が、森の小道を軽やかな足取りで歩いていた。
自然あふれる小道は優しい緑の天蓋が覆い尽くし、陽光はやわらかな光の筋となって樹々の狭間を通り抜け、風とともに揺れ動く美しい斑の紋様を大地に描いている。
「大きな争いにならなくて良かったね、テロン」
娘が踊るようにしなやかな体を回すと、金の髪がふわりと広がり、あふれる陽光を受けて小さな翼のように煌めいた。
呼びかけられた青年はどきりと鼓動を跳ね上げ、それから嬉しそうに微笑んだ。
青年の名はテロン・トル・ソサリア。世襲君主制であるソサリア王国においては現国王ファーダルスの双子の息子であり、第二王位継承権をもつ。
だが、双子の兄であるクルーガー・ナル・ソサリアに王位継承を任せ、テロンは自ら王国を陰で支える『護り手』としての生き方を選んでいた。
剣などの武器の類は腰に帯びておらず、重装備はおろか軽鎧すらも身に着けてはいない。上質な仕立てではあるが飾り気の少ない胴着のみを纏っている。彼は『体術家』なのだ。自身の内なる魔力を『気』として、さまざまな『技』に変えて戦う。
彼を見つめている娘の瞳は、朝の太陽を思わせる澄み渡ったオレンジ色だ。印象的な輝きを宿す、美しい稀有なる色彩――その眼差しに見つめられると、テロンはいつも胸の高鳴りを覚える。青い目を愛おしそうに細め、テロンは彼女に応えた。
「そうだな、ルシカ」
ルシカと呼ばれた娘は、輝くような笑顔をテロンに向け、彼に歩調を合わせて隣に並んだ。
背の高いテロンと小柄なルシカは、かなりの目線の違いがある。ルシカからはテロンの顔を見上げるような姿勢になるので、彼から見る少女は、すべらかな頬と澄んだ瞳に光をいっぱいに浴びて、輝いてみえる。
彼女の名は、ルシカ・テル・メローニ。ソサリア王国の宮廷魔導士であり、テロンとともに行動するパートナーである。手には『万色の杖』という名の杖を携えている。虹色の魔晶石が先端に嵌められ、蔦のような装飾と魔導の文字が織り込まれた、大変に美しい長杖であった。
『万色の杖』は、古代魔法王国の遺した五宝物のひとつである。この杖を手にしたときから、彼女は『万色』の名をもつ魔導士となった。
通常では不可能だとされている事象を、物理法則の範疇を超えて実現することのできる『魔法』。その力の根源は『魔力』と呼ばれている。世界に存在する全てのものの根源であり、生命を構成し維持しているのも魔力である。
魔法を具現化する為には、自分の中の魔力と意思の力で対象の魔力に影響を与え、その在りようを望むかたちに変化させなければならない。より強力に、より確実に具現化できる者たちが『魔導士』だ。かつて魔導という強大な魔法の力を日常のものとし、超常の文明を有していたグローヴァー魔法王国。その王国を統べていた魔導士たちの末裔であるといわれている。
そして、魔導の血を生まれつき持たない者でも、同じような力を使えるよう、言葉や魔道具の助けを借りるのが『魔術師』。そのとき使用される言語が魔法語だ。
本来、扱いやすいように魔法は、創造、破壊、時間、空間、召喚、幻覚、察知などに区分付けされており、魔導士や魔術師は中級までの魔法であればほとんどの種類を使うことができる。だが、上級の魔法となると、専門の『名』を持つ魔導士が、どれかひとつ、もしくはふたつまでの種類しか行使することができないという制約があった。
しかし、その制限に縛られず、どのレベルであろうと全ての魔法を行使することができる者が存在する。――それが万能の魔導として冠される『万色』の名を持つ魔導士なのだ。
「ルシカ、足元を見るんだ」
テロンは穏やかな表情のまま、けれど内心では心配そうに眉を寄せつつ、彼女に向けて注意を促した。
「うん? 大丈夫よ、テロ――」
言い終わらないうちに、ルシカが地面の石を踏んでバランスを崩した。
予想していたテロンは彼女との距離を瞬時に詰め、華奢な体が地面にぶつかる前にしっかりと抱きとめた。やわらかな感触がテロンの腕に伝わってくる。
彼女のぬくもりに安堵すると同時に、つい苦笑が洩れてしまった。
「本当によく転ぶな、ルシカは」
「ごめんね、テロン。ありがとう」
抱きとめられた腕から顔を上げ、ルシカが照れたように頬を染めながら礼を言った。
宮廷魔導士である彼女とテロンがともに旅をしている理由――それは、このソサリア王国の『護り手』として動いているからであった。
「疲れていないか?」
再び歩き出した彼女に向け、気遣う口調でテロンは声をかけた。旅慣れているとはいえ小柄な彼女にとって、長身のテロンと並んでの徒歩の移動は大変なはずであった。
「ずっと歩き詰めだろう。大きな魔導の技を行使していないとはいえ、満足に休息を取ることもできていないのだから」
「そうね。黒装束のしつこい連中――『黒の教団』が、ソサリア王国とラシエト聖王国の関係にちょっかいを出さなければ、あの聖都まで行かなくて済んだのに」
「……ああ」
テロンの胸に一瞬、怒りの火が灯る。
「あのまま友好同盟が決裂ということになっていたら、本当に危ないところだったな」
現国王ファーダルスの治世になってから、ソサリア王国には平和な日々が続いている。だが、やはり表面下ではさまざまな問題を抱えていた。それらが表面まで浮上しないよういち早く解決するために、テロンとルシカは日夜を問わず奔走する毎日を送っているのだ。
東の隣国であるラシエト聖王国との外交的な問題も、そのひとつであった。
北の街道を荒らしまわっていた『黒の教団』、それは無の女神ハーデロスを崇める黒装束の男たちの集団だった。五ヶ月前の騒動で、その指導者であるダームザルトとギルドラースの兄弟を失い、一網打尽にされたはずの組織であったが――思ったより大きな勢力であり、他に潜伏していた者も少なくなかったのだ。
南の国境付近に再び集結して活動を再開し、あろうことか隣国のラシエト聖王国との揉め事を誘発したのである。知らせを受けた王子テロンと宮廷魔導士ルシカが、ソサリア王国の代表としてラシエト聖王国の都まで赴いた。迅速に行動したおかげで事態は収束したのだが、それは容易な交渉ではなかったのである。
「今回、気を使いまくって疲れちゃった」
ルシカがため息をつきながら、物憂げな眼差しを空へ向けた。やはり疲れているんだな、とテロンは思った。
大森林アルベルトは、ソサリア王国の南部全域を覆い尽くしている緑の領域だ。それを貫くようにして、国境から王都ミストーナまで続いている街道の中途に、ミルトという名の村がある。その郊外にある、ルシカの祖父ヴァンドーナの所有している屋敷に寄るつもりで、ふたりは徒歩で移動しているのだ。
「まぁったく、聖王国のひとたちってば、頑固で思い込みが激しいんだもん。あれじゃすぐに昔みたいに戦争ってことになりかねないじゃない」
そんなストレートに言う方が争いの種になりそうだが、とテロンは思っていても突っ込みはしない――兄とは違うし。
それに今はソサリア国内、人間の領域にあらざる森林地帯だ。周囲にひとの気配はない。ルシカもそれを承知で言っているのだ。ふたりだけでいるからこそ、そんな愚痴が出てしまうのだろう。
無理もないな――と、さすがにテロンだって思ってしまう。彼自身、隣国での遣り取りを思い出すだけで疲れてしまうほどに、頑固で思い込みの激しい司祭と側近たちだったのだ。聖国王そのひとは話のわかる人物であったが、あまりに頼りなげで覇気がなく、周囲の意見ばかりが通ってしまい、王の決定権はないも同然であった。
「しかし、聖王国の司祭たちも莫迦じゃない。今頃、騒ぎで取り逃がした連中も全員捕らえられている頃だろう」
「ん……だと、いいんだけど……」
「どうしたんだ、ルシカ?」
ルシカが立ち止まり、真剣な面持ちでテロンを見つめる。いつも明るく輝いていたオレンジ色の瞳は、不安そうに揺れていた。
「ねぇ……テロン。今回の事件って、実はそんなに簡単なものじゃなかったのかもって、あたし思うの」
ルシカは言葉を続けた。
「これって、混乱に乗じて何かをするためだったのかなって。だって、考えてもみて。ソサリア王国の国境付近の魔術師たちが邪教徒を手引きしているなんて、あまりに突飛な話だわ。それを信じた司祭たちも司祭たちなんだけど」
「まあ、先王の時代の不仲を思えば、仕方のないことかもしれないけれどな」
「でももう、戦争は終わっているのよ。おかげで、国境を護ってくれているこちら側の魔術師たちまで巻き込んでくれちゃったし。数日の間だったけど、国境周辺の魔法の干渉、動向の監視が空白になってしまったんだもの」
ルシカが深いため息をつく。
「……せっかくあたしが宮廷魔道士に就いてから、努力して、あちこち駆け回って、国内の魔法使用に対する警護と監視のシステムをきちんと構築したのに。こ~んなにもろいシステムだなんて。おかげで改善点が見つかったから、無駄にするつもりはないけれど――」
「ルシカは、よくやっているよ」
テロンはそう言って、ルシカの肩を抱いて引き寄せた。彼女の澄んだ瞳を覗きこむようにして視線を合わせ、ゆっくりと言葉を続ける。
「今まで、ダルメス殿にも、誰にも為しえなかったことを、ルシカはひとつずつ本物にしているんだ。親父も、ルシカにとても感謝している」
テロンはいつも、事実だけを伝える。安易に「大丈夫」という言葉ばかりを使って相手の心を軽くしようとはしない。言葉だけの気休めは、ルシカにとって負担になると承知しているからだ。
それに、大丈夫だという保証はどこにもないのだ。世界は刻々と変化し、どこかで問題が発生しているからこそ、自分たちが大陸中を飛びまわっているのだから。
だからこそ、何があろうと必ず傍にいる。テロンは、自分の気持ちを込めた眼差しを、腕の中の大切な相手に向けた。ルシカが彼の胸に寄り添う。
テロンは思う――この愛しい少女が心穏やかに暮らすことのできる平和な日々がくるのだろうか――それを叶えることができるのだろうか、と。
ふたりが互いのぬくもりを感じながら顔をあげると、陽光はいつの間にか遮られていた。初夏だというのに山脈から吹く風はひどく冷たく、見上げた空には黒い雲が千切れるように流れている。
テロンはルシカを抱きしめる腕に、そっと力を込めた。
今回の事件に、隠されていた深い闇がある。
ふたりがそう確信したのは、家族や仲間、そして生活全てを失ったミルク色の体をもつ小さな種族――ただひとり生き残ったトット族の幼い子どもに、助けを求められたときであった。




