エピローグ 明日に向かって
北の街道を荒らしまわっていた『黒の教団』は、ようやく姿を消した。
邪神の像は、『無の女神』の神殿に辿りつくための鍵だったということだ。
この教団を捕らえるのに尽力してくれたマイナムの漁師に、王宮から多額の謝礼が渡された。しかし、その漁師は頑として受け取ろうとしなかったという。「今の生活を変えたくないし、助けられたのはお互いさまだったから」と。
ただ、孫娘のもとに届けられた包みだけはそのまま受け取った。それは、個人から届いた礼の品だったのだ。
海辺で、ひとりの女性が撥弦楽器を手に歌っていた。伸びやかな声が波の音と重なるように、どこまでも穏やかに広がっていく。
ひとつ歌い終わると、女性は息をつき、波の音を奏で続ける穏やかな内海を眺め渡した。
「あれからもう四ヶ月かぁ……」
「何から四ヶ月なんだい?」
女性が振り向くと、岩場をひょいひょいと身軽に歩いてくる黒髪の青年の姿があった。冒険者として旅に出ていた若者だが、最近村に戻ってきたのだ。リュートを手にした女性の幼なじみである。
「ごめんごめん。あまりにきれいな声だったから。昔、よくここで歌っていたよね」
純朴そうな青年は照れたように笑いながら、自分の黒髪をくしゃくしゃにした。
「ねぇ、何か歌ってくれないか、クレシュナ」
クレシュナと呼ばれた女性は、目をぱちぱちと瞬いて青年の目をじっと見つめていたが、やがてゆっくりと微笑んだ。
「いいわ。隣に座って、聴いていて」
再び、リュートの旋律と歌声がその場所をあたたかく満たした。吹き抜けた風が、遠く歌を運んでいく……。
王都ミストーナでは、春を告げる祭りの準備がはじまっていた。
王宮の建物で一番高い場所――天体観測ドームの外をぐるりと囲むテラスの一角からは、王都の中央広場の様子が眺め渡せた。
遠いので街の喧騒までは届かないが、色とりどりの布が飾られており、あちこちの通りも同じように飾りつけられ、光を反射する装飾がきらきらと輝いているのがわかる。
あたたかい風が街を吹き抜け、このテラスまで届いた。ふわりとやわらかな金の髪を揺らして、通り過ぎていく。
「もうそんなに経つのね……」
ルシカはテロンと並んで街の光景を眺めていた。ともにテラスをぐるりと歩き、反対側に回ると、大河ラテーナの煌めく流れと三角江が広がり、遥か対岸にはソーニャの草原と砂漠が遠く霞んでいる。
大陸の北部ソサリアの春は少しだけ遅めだが、その分待っていた喜びは大きい。今年も祭りは盛り上がりそうだ。
四ヶ月前……。
『竜の岬』でテロンが行方不明になった夜には、雪が冷たい風とともに少女の身に叩きつけられていた記憶がある。そのときの心に受けた衝撃を思い出したのだろう。ルシカのオレンジ色の瞳が揺れ、腕をさするように手が動いた。
テロンがそんなルシカの心の変化に気づいた。その腕を包み込むように、自分の大きな手を添える。
「ルシカ……心配かけて、すまなかった」
穏やかな声に含まれた痛みに気づき、振り返ったルシカが、背の高い彼を見上げた。そのルシカを、テロンが静かに抱きしめる。
「テロン?」
そっと力が込められた腕に、ルシカがテロンの揺れる青い瞳を戸惑ったように見つめる。
「俺は、何があってもルシカの傍にいるつもりだった。それなのにルシカを独りにして、辛い思いを――」
テロンは言葉を途中で妨げられた。
ルシカが彼の首に腕を回し、自分の身を軽やかに引き揚げて、続きの言葉をやわらかな唇で塞いだのだ。
至近距離で開かれた、明け方の太陽のようなオレンジ色の瞳。陽光にきらりと煌めく澄んだ瞳には、テロン自身の揺れる青い瞳が映っている。
少女の唇が離れ、微笑みの形を成した。次いで元気いっぱいの明るい声が響く。
「何度も言っているでしょ、テロン。今、あたしの目の前にいるのは誰なんですか?」
身長差があるので、ずり落ちそうになるルシカの体を抱きとめた格好のまま、テロンは驚いたように目を開いた。――その表情が引きしまり、揺れていた瞳に力が込められる。
「ああ、ちゃんと俺は帰ってきた。そうだったな」
「そのとおり!」
満足そうにルシカは頷いた。その言葉は彼女が彼に何度も語り伝えた言葉だった。
「だから、もうそのことはいいの。それより――」
テラスの床に降り立ったルシカは、いつものように背の高いテロンを見上げた。
彼と出逢った頃よりずいぶんと大人になった……どきりとするほど印象的な笑顔で、ルシカは言葉を続ける。
「あたしたちはきっと、どちらかがあきらめなければ――いつか必ず逢える、一緒にいられる。そんなふうに考えるようになったの」
ルシカは目を閉じて頷き、そしてゆっくりと開いた。真っ直ぐな視線がテロンに届く。
「だから――もう迷わない。これからだって、危険な状況はいっぱいあると思う。でも、どんなことがあっても」
その言葉の後は、テロンが継いだ。
「ああ。どんなことがあっても、俺とルシカ、一緒に乗り越えていこう」
テロンはルシカを抱きしめた。ふたりの額がこつんと触れ、互いの唇が重ねられた。決してもう二度と離れはしないと、誓うように、何度も。
「……ルシカ」
囁くようなテロンの声に、ルシカは優しく微笑み――。
バンッ!
天体観測ドームの内部に、扉が開け放たれた音が響き渡った。それは外壁のテラスまでもよく聞こえた。
弾かれたように王子と宮廷魔導士の体が離れ、ふたりの顔が真っ赤に染まる。
「テロン殿下! ルシカ様!」
続いて文官の声が響き渡った。
「は、はい! ここに居ます」
ルシカが髪を手で撫でつけ、背筋を伸ばして返事をした。
「どうした、何かあったか」
テロンは堂々とした態度を装って、テラスに駆け出てきた文官に応えた。ルシカにはその声が少し乱れているのがわかり、つい微笑みが顔に浮かんでしまう。
「はい。ラシエト聖王国との国境付近で、不審な黒装束の集団を見掛けたと連絡が入りました。ラシエト聖王国の兵も動いているとのことです。そのことで、陛下とクルーガー殿下がお呼びです。至急であるとのことです」
「む」
ふたりの表情が厳しいものになる。ルシカが自分の額に指を当てて唸った。
「先の誤解はすでに解き、問題はなくなったと思っていたのに。すぐに次の問題が起こるのね」
「わかった。すぐに行く」
文官に頷いてみせたテロンは、愛しく頼れるパートナーに真っ直ぐに向き直り、手を差し出した。
「行こう、ルシカ!」
オレンジ色の瞳に力を込め、ルシカはやわらかな金色の髪が揺れるほどに大きく頷いた。
「うん!」
青年の大きな手に、少女の華奢な手が重ねられる。
ふたりはともに歩み出した。ソサリア王国を支える道を、『ソサリアの護り手』として――。
――番外編 完――




