4章 決着 外-8
クレシュナを捕らえた男が、手にしていたものとは別の短剣を抜いて彼女の首筋に当てる。薄く皮膚が切れ、僅かに血が滲む。ゾウムが引きつったような声をあげた。
「さて……そこの爺、おまえに訊きたいことがある」
「わ、わかった。何でも答える! だから、どうか孫を放してくれ!」
ゾウムは必死で言った。男は鼻で笑い、後方に立っていた男のひとりが問いを発した。
「貴様が拾った女神像はどこにある?」
「女神像……?」
ゾウムの脳裏に、『竜の岬』周辺の海で網にかかったハーデロスの像が浮かんだ。
「邪神ハーデロスの像か」
ゾウムのつぶやきに「邪神だと?」と飛び出しかけた男を、短剣を突きつけている男が視線で制した。
「その像だ。どこにある?」
「……海に捨てた。『はぐれ島』の周辺で」
後方の男が顔を歪め、低く詠唱をはじめた。そして、まだ言葉を続けようとしていたゾウムに、魔法によって生み出した無数の光る矢を叩きつけた。
くぐもった悲鳴、そして充満する、血の臭い。
「お、おじいちゃんッ! いやあぁ!」
クレシュナが血を吹き出しながらドサリと倒れた祖父のもとに駆け寄ろうと、必死にもがく。だが、男の手は容易に外れなかった。
「ク……クレシュナ……孫を放せ」
ゾウムは、血に濡れた土気色の顔をのろのろと上げた。
「あの周辺は潮の流れが速い。しかも外洋に向かっている。『導きの女神像』を、よくも我々の手が届かぬところへやってくれたな。礼をくれてやろう。その目で、まだ命のあるうちに見るがいい――おまえの孫の最期をなッ!!」
男は躊躇せずに短剣を振り下ろした。クレシュナの喉もとを狙って。
「やめろぉぉぉぉ!!」
ゾウムが悲痛に叫び、
「いやぁぁっ!!」
クレシュナが悲鳴をあげた、その瞬間――。
ギュン! 大気を裂いてどこからか放たれた光の塊が、喉もとに届く寸前の短剣に直撃した!
どずん、という重い衝撃の余波にクレシュナはよろめいた。だが傷ひとつ負っていない。後方の男たちは呆然としている。短剣のみが、粉々に砕け散っている。
「よかった、間に合って」
林の奥からひとりの少女が現れた。ふぅっと、出てもいない汗を手の甲で拭う仕草をしながら。印象的なオレンジ色の大きな瞳と、やわらかそうな金の髪、そして手にしている虹色の輝石の嵌まった美しい長杖。光り輝く石が、夜闇に慣れた黒装束たちの瞳を射る。
「お、おまえはっ」
だが、黒装束の男たちがまぶしさ以上に衝撃を受けているのは、その少女の登場だった。男たちの声にはっきりと怯えが混じる。
少女――ルシカは、倒れていた老人に駆け寄り、膝をついてそっと背中に触れた。
「あ、あなたは?」
苦しげな息のなか、ゾウムは訊いた。
「私は魔導士、ルシカです。大丈夫、敵ではありません」
ルシカはやわらかく微笑むと、ゾウムに触れていた手と逆の『万色の杖』を握る右手のほうを動かした。
青と緑の光が煌めき、瞬時に展開された魔法陣が老人の体を囲んだ。たちまち、ゾウムからドクドクと流れていた血が止まり、痛みに歪められていた顔も戸惑うような表情に変わる。
「おお、信じられん。傷が……!」
ゾウムは身を起こした。血と土に汚れていたが、傷は消えていた。
「おじいちゃん!」
走り寄ってきた孫娘を抱きしめ、ゾウムがルシカを振り返った。
「本当にありがとうございます。何と礼を言ったらよいか……」
その言葉にはにかんだようにルシカが微笑んだ。その隙に、黒装束の男たちはじわりじわりと後退していた。
「逃がさないわよ」
視線だけを男たちに向けたルシカは低くつぶやき、右手で宙を横に薙いだ。ふたつの魔法陣が同時に展開される。『麻痺』と『眠り』の魔法が行使され、黒装束の男たちは硬直したように立ちすくみ――地面に倒れ伏した。
「ルシカ!」
別の方向から声が聞こえ、新たに黒髪と神官衣の女性と、魔術師風の派手な衣服を着た男が駆けつけた。シャールとメルゾーンである。
「なんだ、もう終わっているではないか」
地面に倒れている男たちを見て、メルゾーンが残念そうにつぶやく。
「い、いえ。まだ向こうにいます!」
弾かれたように顔を上げ、クレシュナが言葉を発した。
「テロンが、まだ――」
「テロン!?」
ルシカがオレンジ色の両の瞳をいっぱいに見開いた。クレシュナの指差す方向に慌てて走り出す。転びそうになりながらも足元に頓着しないまま、真っ直ぐに駆けていく。
「あなたたちはここにいてください。すぐに王宮の兵たちが到着しますから」
シャールはふたりにそう言い残し、メルゾーンとともにルシカの後を追いかけていった。
クレシュナはその背を見送りながら、先ほどの少女がテロンの名を聞いたときの表情が頭から離れなかった。
「ゲホッ……ゴホゴホッ」
テロンは喉の奥からあふれてくる自身の血に噎せ、激しく咳きこんでいた。
手の甲で口の端を無造作に拭い――目の前に立ってこちらを燃えるような目で睨んでいる黒装束の魔術師を、鋭い眼差しで見返した。
向こうの数はふたりまで減っている。テロンが破壊魔法をぎりぎりで避けつつ放った『衝撃波』で昏倒させることができたからだ。
だが、こちらが受けたダメージも相当なものだ。もはや立っていることもできなくなり、膝をついている。左足は痺れ、感覚がすでにない。
――このまま、やられてしまうのだろうか。
テロンは荒い呼吸の中で考えた。せめて自分がいったい何者だったのか、知りたかった。あの、明け方の太陽のようなオレンジ色の瞳の少女にも逢ってみたかった。そうすれば自分の記憶も戻ったかもしれない。
テロンは苦笑した。死の間際にならば走馬灯のように……全てを思い出せるのだろうか。
「……何を笑っている」
ギルドラースが低く言葉を発した。相手もまた無傷ではなかったが、テロンに比べればかすり傷程度だろう。
「そろそろ冥府へ旅立ちたいか」
テロンは最期まであきらめる気は毛頭なかったが、体のほうは限界を越えている。もう一度攻撃魔法を食らえば――。
ギルドラースの詠唱に合わせ、手の中で炎が踊っている。『炎嵐』だろうか。とどめとして、こちらを焼き尽くすつもりらしい。
「さらばだ、王子!!」
ギルドラースが叫んで手を突き出すと同時に、テロンの目の前に誰かが立った。彼をかばうように、細い両腕をいっぱいに広げて。やわらかそうな金の髪が、ふわりと揺れて視界を塞ぐ。
「あ、危ないっ!」
テロンは叫び、その人物を横に突き飛ばそうとした。だが、敵の魔法はそれより速い。凄まじい熱気が押し寄せた。
――そのとき、何もない空間に青の光が輝いた。
「な!?」
渦巻く炎の嵐は、テロンとその人物の周囲に展開された魔法陣に阻まれ、一定の距離から近づけなかった。圧倒的な力の障壁に阻まれた炎の嵐は、やがて収束し、術者らに向かって撃ち返された。
「何ッ!?」
黒装束たちは驚愕の叫び声をあげ、慌てて身を翻そうとしたが、もう遅い。後方の男も巻き込み、炎の嵐が盛大に渦を巻いた。
すさまじい魔法の力に呆気に取られ、テロンは目の前に立つ人物に注意を戻した。
――やわらかい金の髪がふわりと広がり、その人物が振り向いた。明け方の太陽のようなオレンジ色の大きな瞳が、テロンの青い瞳を正面から真っ直ぐに見つめる。
それもつかの間、安堵と喜びに顔を歪め、少女は大粒の涙をこぼしながらテロンに抱きついた。
「……テロン! テロン!! よかったぁ……」
テロンは片膝立ちのまま、首にしがみついてきた少女に戸惑いながらも、自分の腕が、自然に少女の背を抱きしめようと動いたことに驚いていた。
さらに驚いたことに、全身の傷と痛みが急速に癒されていくのである。痺れが消え、動かなかった足も焼けたはずも右半身も、夜風を感じるほどに感覚が正常に戻っていた。
――この少女の、力なのか? 自分のことをよく知っているようだ。誰なのだろう。
少女は泣きながらテロンの名前を何度も、何度も呼んでいた。やっと再会できた、と。テロンの胸に苦しいものが込みあげてくる。
そのとき、テロンは見た。ギルドラースが憎しみに満ちた顔をあげ、倒れたままこちらに向けて右手を突き出すのを。
「む……『無の女神』ハーデロスよ。私の力を全て捧げよう。あの者たちに滅びを、破壊のちからをぉぉぉぉ……!!」
テロンは咄嗟に、全身でかばうようにして少女を抱えこんだ。
ようやく駆けつけたシャールとメルゾーンの目の前で、ボロボロの黒装束の男の手から禍々しい真っ黒な炎の塊が放たれた。テロンとルシカ、ふたりの姿を轟音とともに覆い尽す。
「ルシカ!!」
シャールが悲鳴を上げた。
黒い炎が周囲にまで及び、咄嗟に動いたメルゾーンが妻に覆い被さるようにしてその身をかばう。すさまじい爆風に、周囲の木が傾き、あるいは吹き倒された。
ふいに白い光が周囲を満たし、渦巻いていた破壊の炎が消え失せる。シャールとメルゾーンには懐かしい、いつかと同じ光だった。
黒く焼け焦げた地面に、円状に大地本来の色を残した箇所があり、その中にテロンとルシカは倒れていた。
「……テ、テロン……? テロン!」
ルシカは無事だった。自分をかばうようにして倒れたままのテロンの無事を確かめようと、おそるおそる手を伸ばす。
テロンが静かに起き上がった。安堵のあまり今にも泣き出しそうな表情になったルシカの瞳を、彼はしっかりと見つめた。そして青い目を細め、この上もなく温かい微笑みを見せたのである。
「……ルシカ……!」
テロンはルシカの体を腕いっぱいに抱きしめた。自分の欠けていた部分を埋めるかのように、強く、しっかりと。
ふたりの無事を確認して、シャールはそっと目元を拭った。メルゾーンが、そんな妻の肩を抱き寄せる。メルゾーンの目も少し赤くなっている。
「あなた、泣いてるの?」
妻に見上げられ、メルゾーンは「ばか言え」とあさっての方向に視線を向けた。
爆発のあとにようやく駆けつけ、木々の間から今の光景を見ている者がいた。ふぅと息を吐き、背中を木の幹に預けたクレシュナは、きつく唇を噛んだ。
祖父の制止を振り切って戻った結果が、これである。
「何となく、こうなることはわかっていたけどね」
クレシュナは強がってつぶやいてみたが、逆効果だったらしく目から涙がこぼれ落ちてしまった。
だが、ルシカと呼ばれた少女を愛おしそうに抱きしめているテロンを見ていると、不思議と悔しさも妬ましさも湧きあがってはこなかった。
クレシュナは固く抱き合うふたりの姿を見つめ、ようやく心の底から言うことができたのである。
「よかったね」
と……。




