プロローグ 事件の幕開け、王子の危機
雪まじりの冷たい風が吹きつけていた。
月明かりに怪しく光る暗い海を一望できる『竜の岬』の先端。僅かに上に向かって傾斜している地面は唐突に切れ、その先は目もくらむような断崖絶壁となって奈落の底に続いていた。
闇に徘徊する生き物たちが支配する時間――その絶壁の周辺にいくつもの影が動いている。
「とうとう、追い詰めたぞ」
月の光が、冷たく蒼い光でその光景を照らしていた。
絶壁の上には、闇よりなお黒い装束を身に纏った人影が五つ。
「相手は『黒の教団』、しかも指導者の男がいる――どうやらこちらが当たりのようだ」
白く凝る息を吐きながら、油断なく歩みを進める青年は、後ろに続く兵士たちに声をかけた。低いが、よく通る声だ。
ゴウ、と鳴った風が、凝った息を一瞬で掻き散らしていく。
短く整えた金髪と、身に着けた胴着が風に大きく煽られたが、丈高い青年は微塵もバランスを崩すことなく歩いていた。端正な顔立ち、月の光にあってもなお青く透き通る瞳、意志の強そうな口元――ソサリア王国の第二王位継承者、テロン・トル・ソサリアである。
テロンの背後に付き従うのは、王宮の直属兵であった。こちらは十名、倍の数だ。眼前に立つ黒装束の男たちの退路を断つように、慎重に包囲を狭めつつあった。
「ルシカたちが追った賊の数は、六だったか?」
「はい、間違いありません」
テロンの問いに、すぐ後ろにいた兵士が素早く答えた。
「ルシカ様なら、おそらく一瞬で決着がつくと思われます」
ルシカ・テル・メローニ。ソサリア王国の宮廷魔導士の名だ。テロンの一番大切な存在であり、一番頼れるパートナーの少女である。類稀なる魔導の力を持つ彼女ならば、魔術師六人では相手にもならないだろう。
彼女の顔を思い出し、微笑みを浮かべかけたテロンだったが、その表情はすぐに引き締められた。
「相手は暗殺の熟練者、しかも黒魔術使いだ。油断するな」
王子の言葉に、兵士たちが無言で頷く。『黒の教団』の恐ろしさは皆がよく理解している。
黒装束の男たちは、はるか崖下の暗い海と、岩に当たって砕け散る白い波に立ち止まり、後ろを振り返った。もう後がない――五人の中から背の高い影がひとつ、包囲する兵たちに向かって踏み出した。
飛び出そうとする兵士たちを手で制し、テロンは真っ直ぐに背筋を伸ばして声を張りあげた。
「もう諦めて投降しろ『黒の教団』、ダームザルト!」
黒装束の指導者から返ってきたのは、鋭い舌打ちと――闇を切り裂いて飛ぶ短剣だった。
体が本能のまま動くに任せ、テロンはダガーを蹴り落とした。黒い液体を僅かに散らした刃が、地面に突き刺さる。
それが合図になったように、兵士たちが一斉に突っ込んだ。
テロンは指導者に向かって地面を強く蹴り、ひと呼吸で彼我の距離を詰めた。同時に突き出されたテロンの拳が、ダームザルトの手にあった数本のナイフを弾き飛ばす。
「クッ……王宮の双子王子め……!」
血を吐くような声を発し、ダームザルトは後方へ下がった。絶壁の一歩手前である。
伏せた顔に、一瞬投降するのかと思ったテロンだったが――。
微かな詠唱が聞こえ、突然、激しい眩暈がテロンを襲った。
「な……ッ」
テロンの体がグラリと傾いだ。目の回るような感覚をこらえ、右から突っ込んできた別の賊のナイフをかわして手刀を叩き込んだ。手刀を首筋に受けた敵が、地面に頽れる。
「無気力をもたらす、魔法か!」
同じ魔法の影響が、周囲で賊たちと切り結んでいた兵士たちにも及んだらしい。テロンの背後で、断末魔の叫びが幾つもあがった。
テロンの脳裏に、自身にかけられた魔法に対処する術を語る少女の姿が閃いた。
――かけられた魔法に対抗するためには、自分の中の魔力を強めるの。負けないぞって、強い意志で打ち勝つのよ、テロン……!
テロンは目を見開き、体を捻った。心臓を狙っていたダームザルトの渾身の一撃を、かろうじてかわす。
「なにッ!?」
驚いたのはダームザルトのほうだった。黒い頭巾が背に落ち、灰色の目を剥いた顔があらわになる。
テロンは目の前に突き出されていたナイフを握る手を、ガッシリと掴んだ。捻り上げるようにしてナイフを地面に落とす。
「観念しろ!」
テロンは強い口調で告げた。集中を乱されたことで敵の魔法効果が切れたのだろう、気力を回復した兵士たちが賊を次々と斬り捨てていた。形勢逆転だ。
だが、テロンの目の前の敵は諦めが悪かった。腕の痛みにも頓着せず、全身をぶつけてくる。
「おのれ! 憎き双子の王子めがッ!」
テロンとダームザルトが揉み合っていたのは崖の縁だ。そこへひときわ強い風が吹きつけた。危ういバランスを保ちながら戦っていたふたり――王子と『黒の教団』の指導者は、ともに虚空へ倒れこんだ。絶壁の切れ目の、向こう側へと。
「……て、テロン様!!」
驚き叫ぶ、複数の兵士の声。胸が押し潰されるような圧迫感。
凄まじい速さで迫りくる岩盤と、暗く渦巻く海面がテロンの視界いっぱいに広がった。
テロンが意識を失う寸前、脳裏に浮かんだのは、ふわりと揺れる金の髪――そして愛しい少女の顔だった。昇りたての太陽のようなオレンジ色の瞳で、真っ直ぐに彼を見つめている。
「……ルシカ」
そして、目の前は闇に閉ざされた。
「テロンッ!」
賊たちが全て地面に倒された絶壁の縁へ、緊迫した声とともにひとりの少女が走りこんできた。
「あたしたちの追っていた賊はひとり残らず確保したわ。――こっちは、いったい何があったの? テロンは……?」
やわらかそうな金の髪を風に激しく吹き上げられながら、少女は周囲に視線を走らせた。凍てつくような雪まじりの風が、彼女のすべらかな頬を叩いている。
「ルシカ様!」
声がして、少女が走ってきた背後から兵士が数名、駆けつけた。崖の上でうずくまっていた兵士たち、地面に倒れ伏している者たちを示し、救護と確保を命じる。手に握っている『万色の杖』の光が、少女のオレンジ色の瞳をあざやかに照らし出している。
「嫌な予感がして、走ってきたの。――テロンは? いったい何があったの!?」
ルシカは手に握った杖で魔法陣を描き、自らも治癒魔法を行使しながら、崖上で狼狽して座り込んでいたひとりの兵士に訊いた。
「ル、ルシカ様。テロン様が……」
その兵士は、そのあとを言葉ではなく、行動で語った。……暗い海の方向、断崖絶壁の向こうへと目を向けたのだ。
ルシカは息を呑み、飛び込むような勢いで崖の縁に駆け寄った。風に吹き払われないように岩を掴んで、遥か下を覗きこむ。傍にいた兵士が慌てて彼女の腕を掴み、万一の落下を防いだ。
ルシカは魔法の光を、崖下へ進ませた。真下の岩の表面に、大量の血痕があった。
「おそらくは、波に……」
震える兵士の声が、ルシカの耳に届いた。
「そんな。こんなの――」
ルシカは荒れ狂う風のなかで必死に目を見開き、白く泡立つ波の狭間に視線を走らせた。
「嘘だよね? ……テロン!」
ルシカは暗い海に向かって悲鳴のような声をあげた。
「テロン、返事をしてッ! テロン……!!」
だが、聞こえてくるのは、吹きすさぶ風の音と、兵士たちの狼狽した声のみ。
ルシカは呆然と海を見つめたまま、冷たい地面にぺたんと座り込んだ――。




