エピローグ 王子と少女のハッピーエンド
高く澄んだ青い空と緑広がる地平の境目に、陽光を受けてきらきらと輝く白亜の建造物が見えてきた。
千年もの昔から、戦乱の時代もくぐり抜け、今なおそこに在り続けている。ソサリア王国の『千年王宮』だ。
「こんな遠くからも見えるのね。何だか、久しぶりに帰ってきた気分」
「うん、俺もだ。二週間も経っていないのにな」
まだ遥か先にある白亜の城壁を見て伸びをするルシカに、テロンは笑顔を向けた。
「そういえばルシカは、街道から王都ミストーナへ帰ってくるのは初めてなのか」
「初めてって訳じゃないけれど、近道ばかりだったから。森の中を進んで途中から街道に入るから、途中の街にも寄ったことがなかったし。テロンと一緒にいると世界のいろいろなものが見れそうで、いつもドキドキが止まらないの」
「そ、そうなのか。……あ、ルシカはまだミストーナの港も見たことがなかっただろ。俺でよければ、帰ったら案内するよ」
「すごい、行ってみたい! でも、帰ったら本の整理とかたくさん溜まっていそうだから……。がんばって一区切りつけたら、連れて行ってくれる?」
「もちろん――」
テロンがルシカに応えながら彼女に眼を向けたとき、脚がもつれたのかルシカが転びかけた。
咄嗟に手を伸ばして彼女を支えたとき、ふわりと風に揺れる金色の髪や肌のすべらかさを感じるとともに、腰や腕の細さ、その身の儚いまでの軽さと柔らかさに気づいた。歩幅も、自分たちとはまるで違う。
「ありがとう。……テロン、どうしたの?」
支えてくれた姿勢のまま動きを止め、こちらの瞳をまじまじと覗き込んでくるテロンに、ルシカは戸惑ったように頬を染めながら尋ねた。
「あ……。いや、ごめん。ルシカはがんばり過ぎていると伝えても、自分にできることは自然にやってしまうだろうから……。そうだな、うん。これからは俺が君を支えるから、俺を頼ってほしい」
「……そんなこと言われたの、はじめて」
ルシカがびっくりしたように大きな瞳でテロンを見上げた。すぐに、花がほころぶようにこの上なく嬉しそうな笑顔になる。
「じゃあ、互いに支えていたら、転ばないね!」
明るく澄んだルシカの声が、テロンの胸の奥を満たした。幼少の頃、大事な相手を護れるようにと願い、自身を鍛えてきた。けれど――こんな考え方もあったんだな、と。
「ああ、その通りだ」
テロンはゆっくりと微笑み、高く晴れた空を眺め渡した。
「ね、シャールさんとメルゾーン、どうしてるかな?」
テロンと並んで空を見上げながら、唐突にルシカが言った。
シャールとメルゾーンのふたりとは、ファンの町で別れていた。
ゴスティア山麓にあるファンの町には、地震による混乱を鎮め復旧作業のために行動していたダルメス魔術師の別部隊が滞在している。テロンたちは遺跡から脱出したあと、一度町に立ち寄っていたのだ。
ルシカは事の顛末をダルメスに話し、王宮へはひと足速く馬で伝令を送ったのである。
報告を受けたダルメスは、このままファンの町に留まることにした。ダルメスはメルゾーンの実の父である。そして、幼なじみだったシャールに家出息子への伝言を託していたらしい。
その伝言とは、『メルゾーン、おまえもいい加減に戻ってこい。私は、魔術を志す者たちの学校を建設したいと思っている。おまえに手伝ってもらいたいのだ』という内容だ。
伝言をシャールから伝えられたメルゾーンもまたファンの町に留まった、という訳である。――幼なじみであり、将来を約束していたシャールとともに。
「もう、なかなか会えなくなっちゃうのかな。メルゾーンとは別に、遭えなくていいんだけどね」
「そんなことはない。結婚式には、一緒に祝いにいこう」
テロンの提案に、ルシカがオレンジ色の瞳を輝かせる。
「そうだったね、うんっ!」
魔導士の少女は跳ねるような足取りで、『万色の杖』を高く掲げながら楽しげにくるくると回った。転ばないかハラハラしながらも穏やかな気持ちで、テロンは彼女が進む速度に合わせながらともに歩いた。
ふたりの後方では、クルーガーとソバッカのふたりがゆっくりとした足取りで並ぶように歩いていた。
「仲睦まじいですなぁ。似合いのおふたりだと思いませんか」
「そうだなァ」
大河ラテーナから吹き渡ってくる爽やかな風に視線を乗せ、クルーガーは言葉とともに空へと眼を向けていた。
「クルーガー王子も、そろそろ誰か見つけなければなりませんな」
ソバッカが、本気なのか冗談なのか図りかねる口調をクルーガーに向ける。
「王宮に戻ったらルーファスの小言を聞いて、空白になっていた日数分を剣の稽古でしごかれて、いろいろ勉強させられるんだろうから、そんな時間あるかねぇ」
おどけたように言葉を返したクルーガーであったが、心の内では真面目に考えを巡らせていた。王位は、自分が継ぐことになりそうだな、と――。弟は、自分の選んだ道をゆくだろう。生まれる前から一緒だった双子でも、いつかは生き方を違え別々の道を歩んでゆくのだ。
「さて、帰ったら忙しくなるぞ。此度の騒動の処理、警備体制の見直し、やることは幾らでもある」
クルーガーは口の端を持ち上げて、傍らの傭兵隊長に真剣な眼差しを向けた。
「心得ております」
王宮でのいつもの口調に戻って、背筋を伸ばしたソバッカが王子に応える。
白亜の王宮、そして王都ミストーナの城壁が遠く、陽光に煌めいている。三角江に繋がる大河の流れは穏やかになり、水面に美しい輝きを躍らせていた……。
帰還から、数日が経った。
ルシカは図書館棟の奥で、古文書の整理をしていた。ルシカはひとりであることに気づき、ゆっくりと伸びをした。解読に没頭していて気づかなかったが、他の文官たちは別場所での保管作業に移動してしまったようだ。
「早く一区切りつけて、テロンと一緒に港に行きたいなっと」
古文書を仕舞ってある部屋の天井は高く、棚も高い位置まで続いているため、木造りの梯子が設置されている。その梯子の横木に座り、ルシカは古文書に目を通していたのだ。
入り口にひとの気配がして、ルシカは顔を上げた。背の高い人影がひとつ、入ってくるところだった。
「ルシカ」
待ち切れなくなって誘いに来てくれたのかな――。嬉しくて笑顔になったルシカは、慌てて古文書を閉じ、彼の名を呼ぼうとして口を開いた。
「テロ……んっ」
名前を最後まで言い切らないうちに、テロンの手がルシカの唇に置かれる。
「しーっ。これでもやっと抜け出してきたんだ。ここにいるってばれてしまったら困るんだ」
戻ってから数日が経つが、テロンもクルーガーも王宮に帰ってからは大忙しで、ほとんど顔を合わせることがなかったのだ。ルシカも報告やら王宮警備の再構築で忙しく、分類待ちになっていた文献や古文書が文字通り山になっていたということもある。
「何かあったの、クルーガーはどうしたの?」
「ルーファスに捕まってから、未だ解放されていない」
「あらら……」
「『生命の魔晶石』の封印は、もう終わったのか?」
テロンに訊かれて、ルシカは素直に頷いた。
祖父ヴァンドーナと相談して、古代魔法の五宝物のひとつ『生命の魔晶石』の保管場所は、王宮内の祭壇奥に隠されていた小部屋にしたのだ。
邪悪な意志に翻弄されたことで力を暴走させたこと、アレーズとタナトゥスを救ったこともあり、『生命の魔晶石』は既にほとんどの力を使い切ってしまっていた。
あの宝玉は、数多くの命が凝縮されたものだ。もう二度と他の者の欲望に晒されることなく静かな眠りにつけるよう、できるだけの配慮をしたつもりである。
「タナトゥスとアレーズさんは、どうなっちゃうのかな」
ルシカは、アレーズの気力と体力の心配もあって、ファンの町の王国警備隊のもとに残してきたふたりのことを気にしていた。国家への反逆罪として極刑に問われるのではないかと心配なのだ。タナトゥスは『召喚』の魔導士として王宮へ侵入した際、多くの犠牲を出している。
「無罪放免というわけにはいかない。けれど事情が事情だったこともある。拘束されたあとは、抵抗ひとつしていないそうだ。酌量の余地があるかどうか、兄貴も口添えすると言っていた」
「そっか……」
「ルシカは心配しなくていい。後は、俺たちに任せておいてくれ」
ルシカはオレンジ色の瞳を伏せて手を胸の上に置き、こくんと頷いた。
「親父に、俺の気持ちを話したんだ」
突然のテロンの言葉に、ルシカが弾かれたように顔を上げ、彼の青い瞳を見つめた。
「親父は、世継ぎの決定は今すぐできないが、おまえの気持ちはよくわかったと言ってくれた。ルーファスが、なかなか納得してくれなくて」
その件で、今ルーファスに執拗に追われているのだという。
騎士隊長は、良くも悪くも頑固で真面目で堅物だ。いつもみたいに「殿下あぁぁ」とか言いつつ、王宮中を探し回っているに違いない。普段から鍛え抜いている騎士隊長なら、広い王宮中を幾ら駆け巡ろうとも体力が尽きることはないに違いない。
そんな光景を思い描いて、ルシカはくすくすと笑った。
「笑い事じゃないぞ」
テロンが苦笑しながらかがみこみ、ルシカの座っているはしごの横木に片手を置いた。
やわらかな金の髪に、テロンの大きな手がそっと差し入れられ、ルシカは上を向いた。近づいてくる顔に、すべらかな頬が薔薇色に染まっていく。
王子は、愛しい魔導士の少女の唇に、自分のそれをゆっくりと重ねた……。
――生命の魔晶石 完――




