6章 決戦と、願い 2-13
『生命の魔晶石』は、すでに周囲の生命を脅かすほどに危険な魔力を放出していなかった。静かに、穏やかに『万色』の魔導士の手のなかで光を発している。
ルシカはメルゾーンに駆け寄り、『生命の魔晶石』を彼の胸にかざした。みるみるうちに流れていた血が止まり、無残な裂傷が回復してゆく。致命傷であったはずの大怪我の、傷跡すら残らなかった。
満足な呼吸もできず痛みのあまり朦朧としていたメルゾーンだったが、突然の完全回復に驚いてぱっちりと目を見開き、泣き腫らした目のシャールの胸に抱かれていたことに気づいて真っ赤になった。慌てて宙を泳ぐように腕を振り回し、身を起こす。
止まらぬ涙に深海色の瞳を濡らしていたシャールの顔が、ぱっと明るく輝いた。
「メルゾーンっ!」
「ちょっ、うわ、おまっ」
シャールが喜びのあまり、赤金色の髪の魔術師を熱烈に抱きしめ……予想外の展開にうろたえた仲間たちが目の前の光景から視線を逸らすこととなった。
日暮れの時刻はとうに過ぎ、濃紺に染まった夜空の天頂には降るような満点の星たちが煌めいている。ルシカの手のなかで白く光り続けている宝物だけが、やわらかな灯りとなって岩棚の上をあたたかく照らしていた。
少し離れた位置に立ち、ルシカたちの様子に視線を向けていた黒髪の魔導士が、意を決したように一行のもとへゆっくりと歩み寄ってきた。
気配に気づいて振り返ったテロンとクルーガーだが、黒髪の魔導士の静かな表情を見て口を開くことなく、ルシカの目の前まで通した。
「『万色』の魔導士、ルシカ殿。改めて、頼みがある」
ルシカの瞳に力が込められ、表情が引きしめられる。次に続く言葉を予測していたからかもしれなかった。タナトゥスはルシカの瞳をひたと見つめ、ためらうことなくはっきりと言葉を続けた。
「我が妹、アレーズを生き返らせてもらえまいか」
「……復活の秘術は、あたしでも遣えると思います。『真言語』で綴られている文献を出発前に読み、内容も全て理解しています。『生命の魔晶石』が、こうして輝きを失っていないからこそ。――でも、代償となる別の命が」
「私の命を使ってくれ」
タナトゥスの言葉に、ソバッカたちは目を見開いた。『召喚』の魔導士の挙動に注視していたテロンは思わずルシカに視線を向けたが、彼女は言葉を切ったまま、ただじっとタナトゥスの翠の瞳を見つめ続けている。
「妹……アレーズには何の罪もない。私はあなたに、こんな願いをする立場にはないが……。でもどうか、頼む……!」
さきほど白い光とともに、さまざまな意志や想いがルシカと『万色の杖』に集められたとき、そこにはタナトゥスからの強い願いと意志も流れ込んだのであった。
どれほどに妹を大切に思っているか。そして、その死に対する責任を取り、妹を復活させ元に戻すことができるのなら、自分の命を犠牲にする覚悟があることも。
「けれど」
ルシカは瞳を伏せた。『生命の魔晶石』の光に照らされてあざやかに輝いていたオレンジ色の瞳が、迷いと戸惑いに揺れる。――本当にそれでいいのだろうか、と。
宝玉を握る手にキュッと力が篭められ、細く小さな肩が微かに震える。そんなルシカの傍に立っていたテロンは、ゆっくりと少女の肩を支えるように手を置いた。
「ルシカの、考えた通りでいいんじゃないか。何が正しいのか、きっと誰にも答えは出せないと思うんだ」
「うん……」
ルシカは顔を上げて、クルーガー、ソバッカ、メルゾーンとシャール――仲間たちのを順に見回した。クルーガーとソバッカは頷き、メルゾーンは口をへの字に曲げている。シャールは心配そうにルシカを見つめていた。
タナトゥスに視線を戻すと、『召喚』の魔導士は深々と頭を下げていた。青年から伝わってくる想いには、決して揺るがぬであろう固い決意があった。
ルシカは肩に置かれた手の温かさを感じ、自分の気持ちに寄り添ってくれる青年テロンの揺るぎない瞳を見上げた。ゆっくりと目を閉じ……開いて、『万色』の魔導士の少女は頷いた。
「わかったわ。あなたの願いを、叶えます」
テロンとルシカたちは、一階層下の、アレーズが眠る部屋へ戻った。
ルシカによって新たに生み出された魔法の光球が、部屋の四隅に浮かべられた。
その光の中で、ルシカは小さな筒をポケットから取り出し、床に描かれていた魔法陣を書き換えた。指で線をたどりながら、ひとつの間違いもないように何度も何度も確認を重ねる。
非常に複雑な魔法陣であり、三つの文様を重ねるように描いていたので、用意ができるまで半刻以上もかかった。それだけの知識が少女の頭のなかに入っているということが、テロンにとってはかなりの驚きだったのだが……。
「簡単に説明するとね――」
筒状のケースに収納されていた筆記具で床に線を描きながら、ルシカが仲間たちに向けて語った。
――本来、数人の魔導士たちが複数の属性領域で展開した力を一斉に重ね、行使する復活の魔法なのだという。しかし、それを可能とする魔導士たちは、大陸中を探しても揃わないであろうと。制限に縛られぬ『万色』の力ならば、それら全ての魔法を同時に展開し、ひとりで力を束ね、重ねることができる。だが、あまりに大変な作業となるため、あらかじめ魔法陣を描いておき、手順のいくつかを代行させるということだった。
やがて、全ての準備ができた。タナトゥスが、アレーズの棺の傍に片膝をつく。
ルシカはその横に立ち、両手を使って『万色の杖』を床に突いた。杖が、倒れることなく真っ直ぐに立つ。両腕を左右非対称に動かし、ルシカは『真言語』を唱えはじめた。言葉に合わせ、準備動作として腕や指を虚空へ滑らせ、足先で非常に複雑なステップを刻んでいく。
描かれた魔法陣から青、赤、緑の光が生じ、床を奔った。光は円陣を駆け巡り、やがて全ての領域を駆け巡りはじめ、様々な色合いを生み出しながら優しい白の光に落ち着いていく。
テロンは、まるで静かに舞を踊っているかのようなルシカの顔を見つめていた。
今ルシカは、奇跡にも近い事象を具現化しようとしている。目を伏せ、朗々とした声で、聞いたこともない響きの力ある言葉を唱え続けている。
半ば伏せられている瞳には幾つもの白い煌めきがが現れ、オレンジ色の泉のごとく輝いていた。すべらかな頬は足元からの魔導の光に照らされて艶めき……ひどく美しかった。
やわらかな金の髪は、そよ風に揺れているようにふわふわと肩から持ちあがり、まるで小さな翼のようだ。
なんてきれいなんだろう。それらすべてに魅せられたテロンは微笑み、優しい眼差しでその光景を見守った。
『万色の杖』が、ふいにさまざまな色の光を緩やかに放ちはじめた。淡い翠の光が生じ、他の色をすこしずつ取り込んで周囲を染めあげる。次に『生命の魔晶石』から放たれていた白い光が強まり、膝をついたタナトゥスと、横たわったアレーズの体を同時に包み込んだ。
やがて両方の光は数度煌めいたあと、ふわっと広がるように消滅した。部屋に、静寂と青白い光球の作り出す影が戻る。
「……ど、どうなったのだ」
固唾をのんで見守っていたソバッカたちが声をかけた。
ルシカが息をつき、ゆっくりと顔をあげた。いつもの笑顔に戻っている。
「うまくいったわ」
棺に横たえられていた黒髪の少女の指先が、ぴくりと動いた。ゆるゆると、閉ざされていた両の目蓋が開く。
瞳の色は、タナトゥスと同じ翠色だった。
アレーズが生き返ったことに、驚きと安堵の声をあげかけたテロンたちだったが、次の言葉には咄嗟に応えられなかった。
「にい……さん?」
「あ……君の兄さんは……」
歩み寄ったクルーガーは、棺のなかから上体を起こすアレーズに手を貸し、事の次第を説明しようと口を開きかけた。だが、何と言えばよいのだろう……皆が沈黙したそのとき。
「――う」
膝をついたまま動かなかったタナトゥスが呻いた。黒髪がかかる額を片手で押さえ、ゆっくりと顔を上げる。
「私は……生きているのか……?」
そして、はっと目を見開く。
「アレーズは!」
タナトゥスと、手を引かれ起き上がった黒髪の少女、同じ翠の瞳の視線が合った。向かい合う顔の両方に、深い喜びと安堵のいろが広がる。
ふたりの兄妹は、互いの無事と生命の鼓動を確かめるように、しっかりと抱きしめあった。
「でも、いったい何がどうして」
クルーガーが、ルシカを振り返った。
「復活には、必要なことがふたつあるの。ひとつは、『生命の魔晶石』を使い、肉体を癒して完璧に生命として機能できる状態に整えること。もうひとつは、命の根源でもある魔力を肉体に宿らせること。この魔力のほうが、別の代償となる命ってことなの。命の根源を一方から一方へ移すから、その命を失ったほうは死んでしまう」
ルシカは言葉を続けた。
「あたしは、その命の根源を半分だけ移動させたの。魔導士として継いだ膨大な魔力を半分こにしたから、ふたりとも、もう魔導士としての力は発現できないけれど――」
「おまえ、そんなことができたのか?」
話の内容の凄まじさを理解している魔術師メルゾーンが顎を落とし、見開いた目で凝視してきたので、ルシカは大仰に胸を張って応えた。
「えっへん。あったりまえです」
そして、花が咲くようにとびきりの笑顔になった。
「あたしは、『万色』の魔導士ですから!」
ルシカの芝居がかった所作に、思わず、テロンが吹き出した。迷いを吹っ切った深い安堵と、覚悟。少女の心の内を正しく理解したテロンは、笑いながらルシカを抱きしめ、そのまま腕で宙に抱えあげる。
「はわわわっ」
突然の視界の高さの変化に驚いたルシカは、慌ててテロンの首に腕をまわし、しがみついた。そのルシカの慌てぶりに、クルーガー、ソバッカ、シャール、そしてメルゾーンまでもが笑顔になる。
シャールが、そんなメルゾーンの腕に手を絡め、何事か耳に囁いた。メルゾーンが驚いたように眼を彼女に向けてしばし沈黙したが、やがて鼻をかきながらもしっかりと頷いた。
クルーガーは、王宮に居る時よりいきいきとした表情のテロンを見て、ゆっくり微笑んだ。誰にも聴こえぬほどの声で、静かにつぶやく。
「我が弟は、どうやら自分の道を見つけたようだな」
「ルシカ」
テロンは、自分の顔の傍にある少女の澄んだ大きな瞳を覗き込んだ。今まで募らせてきた想いを伝えるために、ゆっくりと口を開く。
「愛してる」
ルシカはやわらかく微笑んだ。
「うん」
少し伏せられた青とオレンジの瞳が、触れそうなほどに近づいてゆく。こつん、とふたりの額がぶつかった。ルシカが囁く。
「愛してる、テロン」
そっと、ふたりの唇が重なった。




