6章 決戦と、願い 2-12
階段を上がった先は、下階と同じような小部屋になっていた。
違うのは、片側の壁が真四角に切り取られるように開かれており、外の岩棚に通じていることだ。ゾムターク山脈の最高峰ゴスティア山の中腹、岩棚を利用して作られたバルコニーである。
グラビティだった生き物は、夕日を背にしてうずくまっていた。
すでに、その肉体は人でも竜でもないモノに変貌している。肉芽の盛り上がった頭には角が生え、頸の後ろには骨が飛び出したような突起が並んでいる。溶けて流れかけ、また固まったかのごとく幾重にも重なった表皮はぬれぬれと輝き、開いたままの顎からは長い舌が出ていた。
テロンは、身に余る力を欲した男の末路を目の当たりにしているという気がしてならなかった。これが、望んでいた結果ではないはずだ。
「魔法王国の遺産の力は、昔語り以上に凄まじいものなんだな……」
テロンのつぶやきに、クルーガーが応える。
「……不死は、誰もが手に入れたいと思うのだろうが……この、目の前の光景は何なのだ」
「魔晶石は、魔導の力を結集させた、純然たる魔力の結晶だわ……。しかもこの宝玉は、かつて魔導士でも制御できなかったというのに」
怒りと哀しみを含んだ声で、ルシカが言った。右手の『万色の杖』を、指が白くなるほどに握りしめながら、言葉を続ける。
「力も、その存在も、全てが想像を絶する――五宝物は本来、手に入れてはならないもの……なのかもしれない」
「欲望の果てに、呑まれてしまったというわけか、グラビティ……。よくも、そんなことのために我が妹を……!」
タナトゥスが杖を右手に構え、左腕を交差させるように動かした。
黄色の光が空中を駆け抜け、周囲に幾つもの魔法陣を描き出す。それぞれの魔法陣からは一体ずつ、白い影が飛び出した。光を纏った幻獣である。全部で五体。白い獣たちは勇ましい唸り声を発しつつ、敵の周囲をぐるりと囲んだ。
テロンは呼吸を整え、身構えた。全身から、金色の陽炎が立ちのぼる。『聖光気』だ。
習得したんだな、と、傍らに立つ弟の姿に目を見張ったクルーガーは、自身の魔法剣を抜いて体の前に構えた。手をすぅっと剣の刃に触れないようにして添わせながら、緊張した面持ちで詠唱を試みる。
刀身に緑の煌めきが広がり、剣全体を風が巻く。魔法で風の属性を付与したのだ。
テロンとクルーガーは刹那、そっくりの青い目を合わせた。そしてすぐに視線を戻し、目の前の敵を睨みつける。ソバッカは剣を真っ直ぐに竜だったものに向け、盾とともに体にぴたりと引きつけた。
ルシカは杖を握り直し、左手を空中にすべらせて、自身の周囲に複数の魔法陣をひとつずつ具現化していった。仲間たちの体に、攻撃力を上げ守りを固める強化魔法を行使する。
メルゾーンとシャールは後方でそれぞれの両手を複雑に組み、印を切って詠唱をはじめた。
グウオォォォォ!
グラビティが吼えた。闇色の体のなかで、唯一両の目だけが炭に燃える高熱の部分のように赤く輝く。ズン、と重い前足を踏み出す。正気を失った両の瞳には、はっきりとした殺意が燃え盛っていた。
「終わりにしよう、グラビティ!」
テロンの声とともに、決戦がはじまった。
白い獣たちが、光の軌跡を残しつつ巨体に飛びかかった。闇の体に牙を立てる。グラビティは激しく身をよじり、数体を空中に跳ね飛ばした。
獣に気が逸れた好機を逃さず、双子の王子が飛び込んだ。
「はぁぁぁぁぁっ」
金色の陽炎の尾を引きながら繰り出されたこぶしが、ズン、と巨大な胴を陥没させる。
「タァァァァァッ」
同時に、風をまとった魔法剣が、尻尾の付け根の半分ほどを切り裂いた。旋風が、どす黒く変色した血を周囲に撒き散らす。
ふたりに喰いつこうと頸をもたげ上体を起こした竜の腹部に、ドン、と別の剣が突き刺された。ソバッカだ。
一気に引き抜かれたあとに、魔法で生み出された真空の嵐が炸裂し、傷をさらに広げる。
「メルゾーン様の魔術で倒れるがいい!」
真空の嵐と同時に、後方から威勢のいい声があがった。
グオオオオォォォ!
竜は地面に血の塊を吐き捨てた。千切れかけた尻尾を振り回し、さらに斬りかかろうとしたクルーガーとソバッカを牽制する。
そこへ、花火のように炸裂する複数の衝撃が巨体のあちこちを吹き飛ばした。ルシカの攻撃魔法『衝撃光』である。
グゥゥゥゥ……!
グラビティの巨体が苦しげな様子で傾ぎ、ドン、と腹を床につけた。だが、血は流れを止め、傷口からはさらに別の突起が生えはじめる。『生命の魔晶石』の魔力が解放されているのだ。傷口の奥から白い光が漏れている。
「くっ……不死身同然か」
ソバッカが舌打ちした。
「自然の理から外れた悲しい生き物よ、本来の命に!」
シャールの神聖魔法も、むなしく四散する。『生命の魔晶石』の魔力は絶大だった。白い獣も、新たに増えた足に踏み潰されてしまい、あと一体を残すのみとなっていた。
「何とか、あいつの体から取り出さないと」
ルシカが言い、新たな魔法陣を描き出す。そこへ、不可視の重力攻撃が襲いかかった。ぼこぼこぼこ、とルシカの周囲が陥没していく。危ういところで、ルシカは身を横に転がして難を逃れた。
「ルシカ!」
テロンが叫ぶ。そのテロンに、信じられないほど長く伸びていた尾がうなりを上げて襲いかかった。咄嗟に『聖光気』を纏った腕を構え、その攻撃を受ける。
「ぐっ!」
テロンの体は衝撃に堪えきれず、後方の岩肌に叩きつけられた。
これが崖側だったら……、目の当たりにした仲間たちはそう考えてゾッとした。
グハァグハァ!
グラビティは息を吐き、天へ向かって激しく身を震わせている。もう、個体としての意識が残っているのかどうかさえ窺い知ることはできない。
テロンの体に白い輝きが降り、痛みが和らぐ。シャールが『癒しの神』に祈ったのだ。
「くそっ、どうすればいいんだ」
テロンたちは再び油断なく構えながらも、次の攻撃を仕掛けることができなかった。闇雲に攻撃を繰り返しても、相手の体の新たなパーツを増やすばかりだ。逆に、こちらは消耗するばかりである。
「このままでは負けてしまうぞ。奴は本当に不死身なのかっ?」
甲高い声でメルゾーンが叫ぶ。
テロンは迷う心を落ち着かせ、考えを巡らせながら口を開いた。
「回復する隙を与えず、連続で攻撃する。体の内部にある『生命の魔晶石』を狙うんだ。それさえ奴から分離させることができれば――」
「危険かもしれぬが、このままでは埒が明かぬな。……やろう!」
ソバッカとクルーガーが頷き、怪物の周囲を駆けて回り込む。メルゾーンは魔法行使のための詠唱をはじめた。
グラビティが逆棘の生えた尾を鞭のように振るう。ソバッカが立っていた床を粉砕し、テロンが身を屈めて避けた頭上を通り過ぎる。
メルゾーンが放った炎の魔法が、竜の成れ果ての眼球に当たって爆発した。片目の視界を奪われた竜の動きが鈍る。
「今だ!」
クルーガーが声をかけると同時に魔法剣を真横に構え、突っ込んだ。胴の中心、人間ならば心臓がある位置にずぶりと刀身が突き刺さる。体をひねり、返す力でそのまま一気に切り裂いた。
ソバッカが斬りつけ、さらに傷口を広げる。
テロンは狙い澄ました『衝撃波』を放った。ドンッ、という爆音ともに、グラビティの胸に大きく穴が穿たれる。煌めく白い光が、埋没している肉の隙間からちらりと見えた。
ルシカが魔法陣を完成させた。『氷嵐』の冷気が傷口を瞬時に凍らせる。
「ゆけ! いまだ!」
タナトゥスの召喚した光の獣が、傷口に飛び込んだ。牙を剥き、肉を食むようにして奥へと潜ってゆく。
グワァァァァァァァ……!
グラビティは咆哮をあげ、激しく身をよじった。尾が、頸が、鉤爪が、周囲の床をめちゃくちゃに叩きまくる。胴を落とした衝撃によって光の獣が弾き出され、床に転がった。踏みつけられて現生界での存在を壊され、解け失せるように本来の幻精界に戻っていく。
グラビティが暴れ狂う衝撃で、バルコニー全体がぐらぐらと揺れた。めちゃくちゃに振り回され続けていた尾が、後方で魔法に集中していたルシカとシャールに迫る……!
足場を揺るがす衝撃と振動に阻まれ、テロンは咄嗟に動けなかった。
「ルシカ!」
「シャール!」
テロンとメルゾーンの叫び声が重なる。
バシッ! 鋭い音を立ててルシカの体が宙に舞った。床に落ちてもまだ勢いは落ちず、転がり続ける――バルコニーの向こうへと。
テロンは必死で床を蹴った。危ういところで間に合った。片手でルシカの細い手首を掴み、残る手で岩の突起に指をかけ、落下を止めることができた。
「ぐっ……」
だが、ひどく無理な姿勢だ。テロンの上体のほとんどが空中に飛び出しており、足先を動かして周囲を探ってみても、体を引き上げるためのしっかりとした足がかりが見つからない。テロンの腕のみが彼自身とルシカ、ふたりの体重を支えていた。
『万色の杖』は床を転がったときに離れたのだろう、ルシカの手になかった。
「……ん……」
ルシカはぐったりと弛緩し、気を失っているようだった。だが、幸いにもすぐに意識を取り戻した。両目を開き、状況に気づいて愕然とする。
「……テロン!」
「クッ……手を離すんじゃないぞ、ルシカ。必ず助ける!」
上腕に力をこめるテロンだったが、手がかりにしていた岩がいまにも砕けそうになっているのが感覚でわかる。
「駄目だよ、ふたりとも落ちちゃう!」
ルシカは大きな瞳を揺らし、次いで唇を微笑みのかたちにして言った。
「テロン、手を離して。あたしは……平気だから」
「嫌だ」
テロンは即答した。ルシカの手首をつかむ腕に力を篭める。
「ルシカの平気は、平気じゃない」
必死に探るテロンの足が、岩の割れ目に気づいた。何とかなりそうだと判断し、足先を慎重に引っかける。
「……テロン」
テロンは決して諦めない。今までもずっとそうだった。ルシカの目の端に涙の粒が盛り上がる。
ルシカの位置からは見えなかったが、クルーガーたちがふたりの名を呼んでいるのが聞こえる。だが、彼らの助けは間に合いそうになかった。
何故なら――。
必死に体を固定しようと奮闘しているテロンを見上げたルシカは、そのテロンの上に被さるようにしてグラビティの頸が現れたのを見たのだ。
「テロン、上!」
「なにっ」
背後を見なくてもルシカの瞳に映った影で事態を察したテロンの表情が、厳しいものになる。
怪物の、度重なる肉体の再生に半ば埋もれている目が、地獄の炎のようにぎらぎらと輝いている。ルシカには、グラビティがニヤリと残忍に嗤ったように感じられた。
棘のついた長い尾先を、これ見よがしに頭上高くに掲げる。動くことができないふたりを、ふたり一気に串刺しにするつもりなのだ。
ソバッカが、クルーガーが剣で必死に斬りかかる。だが、怪物はふたりに向けた殺意を逸らそうとはしなかった。
「……ルシカ!!」
「……テロン!!」
テロンは渾身の力を込めてルシカの体を自分の胸に引き上げ、抱きしめた。ルシカはテロンの胸に顔をうずめた。
死なせたくない、この世界にただひとりの、大切な存在を。
どうか助けて! ……助けたいっ。
ふたりの心がひとつに重なった瞬間――。
光が、弾けた。
岩棚の壁際では、座り込んだシャールがメルゾーンの頭を胸に抱きしめていた。
「……メルゾーン」
「き、気にする……な」
「あなたは、いつもいつも私をかばって。いつもいつもいじめっ子に、私の代わりにボコボコにされて」
シャールの目から涙がこぼれ、メルゾーンの頬を濡らしている。メルゾーンの衣服の胸は、今なお流れる血に染まり続けていた。涙で濡れるシャールの頬に、メルゾーンが指でそっと触れる。
「……泣くな……って。おまえの涙は……苦手なんだ」
口の端を曲げながらも、メルゾーンの目は限りなく優しかった。
シャールは神に祈った。大切なひとをどうか連れて行かないでください、と。
『魔力は誰もが持っている始原の力じゃ。それを忘れるでないぞ』
祖父の言葉が、魔導の力を継承した少女の耳奥で、強く何度も響き渡っていた。
『魔力の行使は、己の意志の具現化じゃ。強く強く心に描いた光景は、必ず本物になる』
幼いルシカに、繰り返された言葉。
『魔導や魔術とは、それらを判りやすく分類して形に当てはめただけにすぎぬ。心の内にある様々な想い、たくさんの感情――それらを無理矢理言葉に当てはめるようなものじゃな。だがルシカよ、おまえはいつかきっと、そんな概念を超えるだろう。枷は存在しない。自分に限界を作ってはならぬぞ』
木漏れ日の記憶、高い位置にある祖父の顔。頭の上に置かれた、大きな手の温もり。
ルシカは目を開いた。昇りたての太陽のようなオレンジ色の瞳に、白い輝きが灯る。ルシカの想いには『万色の杖』が瞬時に応えた。
テロンの真っ直ぐな気持ち、シャールとメルゾーンの互いの無事を祈る心。生きていたい、生きていてほしいという、強い意志が少女の胸に集まっていく。
魔導の光は生命の輝き、魔力そのものである。『万色の杖』によって光は収束され、怪物と化したグラビティの胸に突き刺さった。
『生命の魔晶石』は、たくさんの哀しい命が凝縮された結晶体だ。魔導の技によって形を成した命たちは大きく震え、解放を求めて激しくもがいた。
ぐぎゃるぅおぉぉぉぉぉぉぉ……。
グラビティは苦しみ、暴れ、喉を掻きむしり、血泡とともに悲鳴を発した。体内から『生命の魔晶石』が出てこようとしているのだ。凄まじい高熱が発せられているらしく、肉の焼き切れる音が途切れることなく続いている。水晶球が喉を逆流しているのだ。
やがて、『万色の杖』からとは違う、別の白い光が岩棚に溢れる。
『生命の魔晶石』だ。グラビティの体内から抜け出た生命の宝玉は、静かに輝いていた。
「テロン! ルシカ!」
クルーガーとソバッカがようやくふたりのもとに駆けつけ、岩棚に戻るのを手伝った。
「ありがとう、兄貴」
クルーガーはテロンに向けて微笑んだ。
「こちらこそ、弟よ」
「みな、油断するな!」
ソバッカが叫んだ。
『生命の魔晶石』を失ったグラビティは、もはや何の形だか分からないほど急速に崩れつつあった。だが、目の輝きは消え失せていなかった。憎悪と憤怒に一段と強い光を放っている。
凄まじい咆哮とともに、グラビティは四人を岩棚から押し出そうと突っ込んできた。
「道連れにするつもりだ!」
テロンが叫んだ。逃れようにも、崩落寸前の床の突端ぎりぎりである。
ルシカが魔導の力を放とうとしたとき、燃え盛るものが天空から降ってきた。炎の尾をひくそれは、正確にグラビティの脳天を直撃した。
魔導士しか為しえない召喚の最上位魔法、『隕石落下』である。
ぐ……ぅ……。
もはや形を留めていない巨体を横倒しにするように、グラビティが倒れる。その背後に、仇を討った『召喚』の魔導士の姿があった……。




