5章 護りたい者 2-11
シャールの癒しの祈りにより、ルシカの喉に刻まれた血色の痕が薄れてきた。
だが、鼓動は弱く、呼吸は今にも止まりそうである。意識は戻ってこない。回復の術をもたぬテロンだが、ルシカの上体を支え、呼び掛け続けていた。
「グラビティ……どういうつもりなんだ。答えろ! 『万色』の魔導士を失ったら、アレーズは助からない!」
『召喚』の魔導士は、もはや人ではなく真なる竜へと変化を完了させつつある男に向け、低く問うた。裏切られたという確信があるとはいえ、その事実をはっきりさせたかったのかもしれなかった。
けれど、返ってきたのは聞き取りにくい咆哮混じりの人語だ。真なる竜でも知性高く言葉を発するものだが、目の前の男の状態は普通ではなかった。
「便利ナ道具、タナトゥス。オマエの妹モ、わレが殺しタ。グハハハ……愚カナリ。おまエはようズミダ!」
男は、ついに変化を完了させた。長い頸をもたげ、凄まじい咆哮を放つ。
グオォォォォォオオォ!!
ソバッカが長剣を構えて突っ込んだ。竜の胸を狙い、斬りつける。だが、その一撃は弾かれてしまった。そこへ、メルゾーンの放った炎の魔法が炸裂した。多少は驚いた竜だったが、火傷すら与えられなかった。
「駄目じゃメルゾーン! こいつは地の属性を持っておるらしい」
噛みついてくる竜の牙を剣で弾きながら、ソバッカが叫ぶ。
「風の属性で、何か魔法は覚えておらんのか!」
「うるさいっ。指図はするな!」
反射的に叫び返し、メルゾーンは次なる詠唱を開始した。
ソバッカは、メルゾーンの詠唱がはじまると同時に床を蹴り、竜に攻撃を仕掛けた。竜は動かず、牙による攻撃を繰り返しているので、狙いを引き付けるのは容易かった。詠唱が完了する絶妙のタイミングで、後方に跳び退くように距離を開ける。
今度は『真空嵐』の魔法が放たれた。竜の鱗がはがれ飛び、頸の付け根に亀裂が入る。
澱んだ藍色の血を撒き散らしながら、竜は狂ったように頸を床に打ちつけた。
「今だ!」
『召喚』の魔導士が声をあげる。
クルーガーは小剣を逆手に構え、すでに跳躍していた。竜の背後から頸の付け根を狙う。
狙いは過たず、クルーガーの刃は吸い込まれるように傷ついた鱗の亀裂に突き刺さった。そのまま体を回転させて剣を捻り、抜き放つ。頸の傷が深くなり、穿たれた傷穴から大量の血が吹き上げられた。
ギャアアァァァァッ!
竜が尾を振り回した。尾は床を叩き割り、天井を砕いた。
『召喚』の魔導士が、魔法陣を完成させた。魔導特有の青と緑の光とともに烈風が巻き起こり、クルーガーが離れたあとの竜の体を包みこむ。メルゾーンと同じ魔法だが、威力はその比ではない。竜の表皮を切り裂き、鱗をはがして、血の飛沫を巻き上げた。
グ……ウゥ……ゥゥウウ。
竜は苦しげに呻いている。そのまま倒れるかと思ったが、その呻きは唸りとなって徐々に高まっていく――。
「クルーガー王子、よくぞご無事で!」
ソバッカが、床に降り立ったクルーガーに声を掛けた。
クルーガーは竜から目を離さないまま、頷きで応えた。異様な唸り声はさらに高く、高くなっていく。
「気でも触れたか?」
竜の周囲は、飛び散った藍色の液体に染められていた。竜が流した血だ。タフな存在で知られる竜とはいえ、これほどに流せば生命維持に関わるだろうと思われた。
だが、竜は笑っていたのだ。右前足の下に顎を突っ込み、その牙で隠していた何かを取り上げた。
それは箱だった。ルシカから奪った、『生命の魔晶石』の封じられた箱――。
「いかん!」
気づいたソバッカが叫ぶ。前足の鉤爪で攻撃してこなかったのは、箱を隠し持っていたからだ。
竜は、箱を咥えた顎にグッと力を込めた。箱そのものが、凄まじい閃光を放つ。同時に高音域の、耳がおかしくなるような轟音が発せられた。悲鳴じみた轟音は周囲を圧し、光はさらに強まっていく。
ソバッカたち、周囲にいた者は、這い寄る凶兆に毛が逆立つのを感じた。目を固く閉じ耳を塞ぎながら、急ぎ竜から距離を開ける。
「爆発するぞ!」
叫んだ声が、誰のものであったのか。
ソバッカとクルーガー、メルゾーンと魔導士の男は腕を上げて低く構えた。シャールを後方にかばったテロンが、腕の中のルシカを、覆い被さるように抱え込む。
そのとき、唐突にルシカが目を開いた。昇りたての太陽のようなオレンジ色の瞳が、テロンの青い瞳と至近距離で出会う。ルシカの唇が動き、魔導士以外には発音も叶わぬ言葉が発せられた。
テロンは見た。まばゆい光の中に、真っ直ぐに『万色の杖』が浮かんだのを。
刹那、オレンジ色の瞳の中に白い魔導の光が煌めいた。
直後、箱内部の亜空間が破壊され、衝撃が空間を圧迫した。その衝撃は壁の一部を破壊し、外へ吹き抜けたのである。抜けた壁の向こうには何もない、ただ暮れかけた夕空があった。
竜が、亜空間から開放された白い光球を、ごくりと呑む。途端に恐るべき変化が起こった。
穿たれた傷口から新しい肉芽が盛り上がり、流れる血を止める。足が何本も胴体から突き出され、牙が何重にも生えた。
竜はごぼごぼと血泡を吹きながら咆哮すると、壁に開いた穴からずるりと外へ這い出していった。
「う……何だ、何が起こった?」
瓦礫に半ば埋もれていた者たちは、頭を振りながら身を起こした。そして、自分たちの体を見下ろして驚いた。
あれほどの衝撃と爆風の中で、傷ひとつ負っていなかったのだ。淡く優しい光の膜が、全身を包み込んでいる。光の膜は、開いた壁から差し込む夕日のなかで、ゆっくりと溶けるように消えていった。
仲間たちは周りを見回し、今なお部屋の中央に真っ直ぐに浮かび続けている『万色の杖』に気づいた。
「……ルシカ」
テロンは腕の中の少女を覗き込み、顔にかかっていた髪をそっと払ってやった。そのまま包み込むように、手をすべらかな頬に添える。
「テロン……」
ルシカは、自分を覗き込んでいる青い瞳にゆっくりと微笑んだ。頬にあてがわれた手に、自分の手を重ねる。
「今の力は……? いや、それより無事でいてくれただけでも、俺は――」
喜びに顔をほころばせたテロンの隣では、シャールが目の端からこぼれ落ちる涙を何度もぬぐっていた。
「ルシカ!」
クルーガーとソバッカが、テロンたちのもとへ駆け寄ってきた。
「兄貴、無事だったのか!」
変わりない姿の兄に、テロンは心底ほっとした表情をみせた。
メルゾーンもルシカが目を開いているのを見て、安堵に似た表情を浮かべかけたが、断固として口の端を曲げている。
「『万色』の魔導士……、すまなかった」
ソバッカやメルゾーンの背後の幾分か離れた位置に、『召喚』の魔導士が立っていた。翠の目を逸らすようにして、こうべを垂れている。まだ若く、黒髪と美貌の持ち主であったが、今は憔悴したように目の周囲に隈を浮かせ、沈鬱な表情が痛々しかった。
「何か深刻な理由があったんだろう?」
クルーガーが腰に手を当て、まだ痛む頭にもう一方の手をやりながら問うた。
「……ああ……」
そのとき、『万色の杖』が音を立てて床に落ちた。ルシカがゆっくりと上体を起こす。裂かれていた衣服に気づき、テロンは慌てて自分の上着を脱いで細い肩に着せ掛けた。
「ありがとう。みんな、ごめんね」
ごめんね、の言葉は、心配をかけたことに対するルシカの気持ちなのだろう。
テロンはルシカを支え、立ち上がろうとするのを助けた。自分の足で立ったルシカは、ソバッカが拾ってくれた杖を受け取った。
「おい、あの竜はどこだ」
メルゾーンが、竜が出ていったと思われる、抜け落ちた壁の穴から外を覗いた。眼下を見て驚き、次いで頭上を見てさらに驚く。
「ひぁ、これは高いところだ! ……絶壁だぞ。ゴスティア山の中腹か?」
テロンも穴に歩み寄り、足元を崩さぬよう注意しながら外の様子を調べようと身を乗り出す。
「……真上に、棚岩みたいなものがある。かなり大きいな」
「それは、遺跡の最上階にあるバルコニーだろう」
『召喚』の魔導士が口を開いた。
「あいつは『生命の魔晶石』を呑み込んでいった。放っておけば、間違いなく世界にとって災厄の火種になるだろう。グラビティ……あいつはこの世の全てを憎悪している」
「追おう」
テロンはきっぱりと言い、『召喚』の魔導士に向き直った。
「その場所にはどこから行けるんだ?」
問われた魔導士の男は頷き、「こっちだ」と言って部屋の奥――クルーガーが出てきた場所とは別の通路に、一行を案内した。
通路の先は、小部屋になっていた。さらに奥には、上へと続く階段が見える。
……その部屋は不思議な空間だった。床一面に、大きな魔法陣が描かれている。かなり高度な魔法技術のものであるらしい。魔法陣の中心には、棺のような箱が置かれていた。
部屋は、不自然なくらいに低い温度に保たれ、ひんやりとしている。吐く息が白く凝るほどだ。ルシカが、それが意味していることに気づいた。
「この氷の属性を持つ幻獣の力……その棺に誰か眠っているの?」
眠っている、は、遠まわしな表現だ。誰かが死んで、棺に納められているのだ。冷気は、その肉体の保持に必要なのである。
「私の妹……アレーズだ」
『召喚』の魔導士が、苦しげにその名を言葉にした。
「妹は私のために殺された。私は彼女を救いたい。そのために『生命の魔晶石』と『万色』の魔導士が必要だったのだ」
『召喚』の魔導士の男は、タナトゥス・ハイエルシュと名乗った。
「妹のため……?」
クルーガーは、魔法文字を踏まないように注意しながら近づき、蓋のない棺の内側を覗き込んだ。
中には、美しい黒髪の少女が眠るように横たわっていた。ルシカと変わらない歳の少女である。白磁のような顔は表情を映さないまま、ただ静かに目を閉じていた。面差しは、確かにタナトゥスによく似ている。
「グラビティが取引を持ちかけてきたとき、疑うべきだったんだ。まさか奴が……アレーズを殺した張本人だったなんて……」
唇を噛み、タナトゥスは目を伏せた。握り込んだこぶしが震えている。
「奴の真意になど全く気づかなかった。今思えば……アレーズを死に追いやった呪いも、奴が仕掛けたものだ」
アレーズは『透視』の力を持つ魔導士だったという。
ある日突然、兄の部屋に、触れたものを死へ導く強力な呪いの品が置いてあることに気づいた。アレーズがそれに驚き、立ちすくんでいたところに、背後から兄の声がかかった。
兄に知らせようと振り返ったとき、アレーズは呪いの品に触れてしまい、心臓の鼓動を止められたのである。兄を危険に晒すことを怖れて平常心を失っていたのか、或いは、よろめいたはずみに指先がかすめてしまうことすらも、呪いに含まれていたのか――。
タナトゥスとアレーズは、とても仲の良い兄妹であった。両親を亡くしてからは、互いが唯一の家族だったのである。
グラビティは、妹のなきがらを抱きしめ打ちのめされていたタナトゥスに、声を掛けたのだという。
たったひとつだけ、妹を救う方法があると。たったひとりの大切な家族を失ったばかりの青年に、取引を持ちかけたのだ。断る理由などなかった。自分の命より大切な存在を取り戻すためなら――。
「そうだったの……」
涙を流しながら語るタナトゥスに、ルシカが瞳を潤ませた。ソバッカもメルゾーンも、黙ってタナトゥスの話を聞いていた。
テロンには、その想いがよく理解できた。さきほど、大切な少女を目の前で失いかけたばかりだったから。
「相当な覚悟だったんですね」
シャールが胸に手を当て、自身の信仰する神に祈りを捧げた。
「だからといって許されないことをしてしまった。……しかも裏切られて」
タナトゥスはガクリと膝をついた。
上の階から、凄まじい咆哮が聴こえる。
「今はとにかく、奴を倒さなければ」
テロンの言葉に、ルシカが頷く。彼女は、膝をついたままのタナトゥスに手を差し出した。
「同じ魔導士だもの。あいつを倒すために、力を貸して。グローヴァー魔法王国の遺産を、あんな奴に使わせていてはいけないわ。それに――」
魔導士たちは、古の魔法王国の末裔とされている。継承された大いなる力には責任が伴うのが常であった。誤った方向へ力を揮ったことを悔いるならば、正さなければならない。
タナトゥスの濡れた瞳に力が戻った。黄色の魔石を嵌めた杖を握りしめる。
「了解した。この命に代えても、あの者の企みを阻止しよう」
「そうじゃ。忘れるところでしたぞ。――クルーガー王子」
ソバッカが背負っていた荷物を解きながら、クルーガーに呼び掛けた。丁寧に布に包まれた、長細い品を取り出す。
差し出され、受け取ったクルーガーが布を解くと、触手に拉致された際に手放してしまった魔法剣が鞘ごと現れた。
「ヴァンドーナ殿が、持っていけと。託されましたのじゃ」
「ヴァンドーナ様が……ありがたい」
ソバッカの言葉を聞き、クルーガーは目を細めた。無事で合流できると知っていたのであろうか――『時空間』の大魔導士のことだ、確信していたのだろう。
「行こう」
テロンの言葉に、クルーガーは頷きながら魔法剣を抜いた。仲間たちもそれぞれの武器を構え、階段に向かう。
あとには、祈りの形に指を組んだまま横たえられた黒髪の少女が残された。




