1章 魔導の転生 8-1
「何なんだ……これは」
鋼のような光沢の鱗に覆われた表皮は、耳障りな呼吸とともに波打ち、骨格の動きは自然で無駄がない。踏みしめる足爪はガッシリと大地を掴み、牙の隙間から吐き出される息は生臭く、湿り気を含んで凄まじく熱い。
こんなに生気あふれるものが、作りものであるはずがなかった。
人間の頭ほどもある眼球がぎょろりと動き、こちらを睥睨する。圧倒的な眼力。その血走った眼球の表面に映るふたつの人影を、ただ喰うための獲物としか認識していないことが、恐ろしいほどに伝わってくる。
逃げないとまずいことになる――そう思いながらも、体は麻痺したように動かなかった。
「こんな……莫迦なことが」
あまりの恐怖にすくみながらも、まだ信じられないでいる。いっそ悪い冗談であればよかった。だが、目の前のものはあまりにも生々し過ぎる。
唾だらけの口蓋とズラリと並ぶ先の尖った牙が、容赦なく迫ってくる。ばかでかい鼻面の周囲には蒸気の渦が生じたり消えたりしていた。どうやらこの恐竜もどきの吐く息は信じがたいほどに高温らしい。
「『蒸気竜』です」
囁くように彼女が言った。さきほどの独白めいた質問に、律儀に答えてくれたらしい。
「ありえない……ドラゴンだって?」
彼は己が耳を疑った。だが、納得するしかない――恐竜や蜥蜴が蒸気を吐くわけがない!
ドラゴンがブルッと巨大な頭部を振り、後脚を踏みかえた。ズン、と地面が揺れ、視界がぶれる。
その衝撃で、驚愕と恐怖による膝の硬直が解けた。少女の手を掴んだまま、つんのめるように地面を蹴って走りだす。もちろんドラゴンとかいう捕食生物とは、きっぱりと逆方向に。
「あ、あのっ、道はいけません! すぐ追いつかれてしまいます!」
少女が声をあげた。すぐ後方をズシズシと凄まじい衝撃が追ってくる。今にも頭上から巨大な顎がバクリと降ってきそうだ。
「確かに……そのとおりだ」
後方を確認したくなる衝動をこらえつつ、いきなり横に進路を変える。道の両脇に続くみっしりとした原生林のような緑の壁に、ねじ込むようにしてからだを突っ込ませた。
「うわっ!」
剥き出しの腕や顔の皮膚が枝葉に切り裂かれ、鋭い痛みが脳を打つ。だが、植物のほうもたまったものではないだろう。枝は折れ、こんなときでなければ見惚れるほどの見事な樹花が花弁を散らす。まるで悲鳴のような、噎せるほどに強烈な緑の匂い。
「ごめん!」
思わず、言葉が喉から滑り出る。
後方に続く少女をできるだけ自分の真後ろにかばい、素手のまま片腕で低木をかき分け、天然の迷路の隙間を縫うように突っ込んでいく。繋いだ手の温もりが、彼を前へ、前へと進ませる。
だが、絡み合った枝葉に視界を遮られてスピードも出ず、極度の緊張と焦りが全身の筋肉を痙攣させはじめた。自分の呼吸の音がいやに大きく感じられる。
「生きたまま喰われるわけには……!」
そのとき、不思議なことが起こった。
前に立ちふさがっていた低木の枝葉が、しなるように左右へ避けていくではないか。彼は訝しんだが、深く考える余裕はなかった。ベキベキと凄まじい音と振動が、背後に迫っている。このままでは追いつかれる――そう思ったとき、緑の光景が唐突に切れた。
目の前に地面がない。慌てて脚を突っ張り、制動をかける。
「崖か!」
自然にできた断層なのだろう。高さは十メートルほど。絶望のあまり、意識が吹き飛びそうになる――足場はなく、そのまま飛び降りて無事に済むとも思えなかった。ますます強まる、刺激的な緑の匂い。
「木々が悲鳴を上げているわ。このあたりの森は意思をもっているから」
場違いなほどに落ち着いた声を聞き、彼は少女を振り返った。細い肩や腕に血を滲ませて、金色の髪を汗ばんだ白い額に張り付かせている。上気した頬を強張らせてはいるが、錯乱しているふうには見えなかった。なにか別のことを心配しているような、思慮深く気遣わしげな表情だ。
「意思をもっているって……森が?」
そう訊き返したとき、ベキベキと凄まじい音が響いた。だが彼は、少女の瞳から目が離せなかった。彼女はなにか重要なことを説明しようとしている。
「いったい、どういう――」
「シッ!」
少女は小さな唇に指を当てて彼をたしなめると、手振りで「静かに」と伝えてきた。そろりと地面に身をかがめる姿勢になったので、それに倣う。
「こんな場所で伏せたって、あいつにすぐ見つかってしまうぞ」
「いいえ、そうはならないと思うわ」
少女は確信に満ちた瞳で、ゆるゆると首を振った。
彼は黙った。なにもかもが現実離れしていて、逃げ場はなく、目の前にはドラゴンという名の捕食竜――まさに絶体絶命という名の状況だ。
なにか打開策はないかと、必死に視線を巡らせる。あの巨大な眼球に木切れでも刺してやれば、隙が生じるだろうか。相手がひるんだら足下をすり抜け、森に再び走り込んで身を隠すか。痛みに気をとられて、ちっぽけなご馳走のことなど忘れてしまうかも……。
ひときわ鋭い、生木の折れる凄まじい音が響き渡った。自分たちと魔竜を隔てていた最後の木が踏み砕かれたのだ。自分は今ひとりではない、少女が一緒なのだ。自分と出逢ったせいで死なせていいのか。
恐ろしい予見に、彼は奮起した――否、彼女を死なせたくはない!
手近にごろごろと転がってきたひと振りの枝を、両手で掴む。魔竜にへし折られた枝の先端は、まるで剣先のように鋭く尖っている。
「うわあぁぁぁああッ!」
怒声を上げて突っ込んだ。首をもたげた凄まじい形相の顎から蒸気が吐き出され、まだ残っている低木の茂みを包み込む。じゅわっ、という胸の悪くなるような音ともに、緑の葉が一斉に萎れてしまう。
その幹が一瞬、身震いしたようにみえた。突撃をかけようとしていた足が思わず止まる。
次の瞬間、両手で抱え込んでいた太い木の枝がブルッと震えた。思わず取り落としたと同時に、信じられない光景が眼前で繰り広げられた。
足もとから突き上げる、強烈な縦揺れ。鼻先をかすめ、大地を割り天高く突きあがった影がいくつも現れた。粉砕された岩のかけらや小石が巻き上げられ、もうもうと立ち込める土煙が視界を閉ざした。
「なっ……」
唖然として頭上を振り仰ぐ。地面から現れたものの動きは凄まじく速かった。自分の今の背丈より遥か上に伸びあがった影は、ビュンとうなりをあげて宙を薙いだのだ。
魔竜が危ういところで後ろに下がった。その鼻先を削るように掠めたのは、見紛いようのない、生きた木の根だ。
黒い土にまみれた根が、使い込まれた鞭さながらのしなやかな動きで幾筋も宙を切り裂いている。見える範囲の大地はボコボコと穴を生じ、あるいは巨大な蟲が地中を這い進んだ跡のように盛り上がっている。
ガアアァゥオォォッ!!
突然の猛攻を受け、魔竜が怒りに瞳を血走らせて後脚で立ち上がった。深く息を吸い込み、周囲に向かって憤然と蒸気を吐き出す。
「うわッ」
彼の前に雪崩落ち、蒸気をまともに食らった根が二本、苦しみに身をよじるように震えて白く変色した。だが、その仕返しとばかりに地中から四本の根が飛び出した。
打たれ、引き裂かれ、魔竜の全身はあっという間に傷だらけとなった。けれどもともと頑丈な鱗に覆われた巨躯である。傷はどれも致命的なものではなかった。しかしその苛立ちは、他種族である人間の目にも明らかだ。
「これは……いったいなにが起こっているんだ。あれは本当に木の根なのか?」
問われた少女は、動揺しているこちらとは対照的な、とても落ち着いた声で答えた。
「このあたりの森には、木々に混じって『樹擬人』が棲んでいるんです。普段はとてもおとなしいので普通の樹木と見分けがつかないんですけれど、仲間を傷つけられたときの悲しみと怒りは恐るべき脅威となるの。それで壊滅させられた人間の町もあるんだって、おとうさまから聞いたことがあります」
さきほどから気になっている、噎せ返るような緑の香りはフィトンチッドなのかもしれない、と今さらながらに気づく。天然物化合物テルペノイドを本体とするその芳香は、森林浴などの効能でも知られるが、実は殺菌力を持つ揮発性の物質だ。傷つけられた植物が、悲鳴のように発したのだろうか。
「木々も痛みを感じ、仕返しとして戦っているというのか」
そのような意思の伝達をして動き回る植物という進化の形があってもおかしくない……かもしれない。断絶された島や絶壁に囲まれた台地で独自の進化を遂げている動植物は存在する。もっとも、これほどまでに驚異的な生物は聞いたこともなかったが。
「なんにせよ……すごい光景だ」
崖っぷちで身を伏せるふたりのすぐ近くで、無数の根や蔓が『蒸気竜』の巨体を激しく打ち据えているのだ。ビュンビュンと凄まじい音が大気を切り裂き続けている。不思議なことに、ふたりには蔓の先ひとつ掠めてすらいない。
だが、その竜巻さながらの攻撃を避けてこの場から逃げることもできず、ふたりはただじっと待つしかなかった。地面は激しく波打ち、震えている。まともに立ち上がることすらできなかった。
「植物は、こちらを襲ってくることはないのか?」
眼前で繰り広げられている恐ろしい光景に不安を隠せず、彼は少女に問いかけた。
少女はまるで意外なことでも訊かれたかのように目を瞬かせて彼を見つめたあと、落ち着いた口調で答えた。
「大丈夫よ、襲われないわ。だって、あなたは彼らの敵ではないもの。むしろ彼らに――」
少女が言葉を続けようとしたとき、魔竜の首が土埃を割ってふたりの眼前に現れた。蔓に打たれてよろけ、偶然にもこちらに視線が向いたのだ。
相手の眼球がぎょろりと動き、傍観者に気づいた。怒りの形相に変わり、その喉の奥から凄まじい熱があがってくるのがわかった。
「蒸気か――やばいぞ!」
彼が叫んだとき、すでに少女は立ち上がっていた。魔竜の鼻先で真っ直ぐに背を伸ばしている。巨大な頭部の前で、彼女の姿はひどく小さく見えた。危険を感じた彼がその手を引くより早く、少女が叫んだ。
「おやめなさいっ!」
可愛らしい声音を懸命に大きく鋭いものにして、少女は両手を振り上げた。
「うわ!」
まるで太陽フレアのごとく、少女の全身から炎のように輝く光が噴き出したのだ。
熱はない。少女の体を呑み込んだ真紅の篝火が、まるで本物としか思えないほどの立体映像のように広がり、烈風をともなって周囲を圧倒したのだ。
魔竜が、悲鳴のような高音域の咆哮を発した。剣呑な逆棘の並ぶ背がビクリと跳ねる。その爬虫類めいた瞳がいっぱいに見開かれた。
そこに浮かんだ光は、恐怖のいろだ。魔竜は仰け反るようにして慌てて向きを変え、蔓と根を必死に振りほどき、凄まじい勢いで崖とは反対方向へと突進していった。
……驚きのあまり言葉を紡ぐことすらできなかった。
騒音と振動が遠ざかると、少女の周囲に吹き荒れていた炎のような光は跡形もなく掻き消えた。少女の華奢な体が、ゆっくりと倒れかかる。
彼は慌てて腕を伸ばして彼女に飛びつき、全身で受け止めた。少女の体は熱くなかった。すべらかな肌はひんやりと冷たいくらいで、炎のようにみえた光はすっかり消え失せている。
「い、今のは……? あのドラゴンはなぜあんなにも怯えて逃げていったんだろう。それに……さっきの光はいったい」
「やはり、あなたには……見えたのですね」
ぐったりと弛緩したように身を預けたまま、少女がつぶやくように言った。
「ああ。まるで太陽フレアか燃え盛る炎のように見えた。あれは……いったい何だったんだ?」
「わたしのなかにある魔力を限界まで強めて、一気に放出したんです。それであの子に圧力をかけ、退いてもらったの。魔獣は――彼らはあまり賢くないの。本能に従う傾向が強いから、わたしのことを侮りがたい、危険な存在だと思ったのでしょうね。『樹擬人』たちの攻撃で、すっかり気が動転していたみたいですし」
「ま……な?」
「魔力というのは――」
彼の反芻した言葉に少女が答えようとしたとき、ビシリ、と不穏な音がいくつも響き渡った。彼らの足下だ。
「く……まさか。やばいぞッ!」
彼は急ぎ、立ち上がろうとした。だが、少女を抱えて移動するには無理がある。どのみち時間はすでになかった。
「わあぁッ!」
「え――きゃぁああっ!」
なすすべもなく、破砕した足場とともにふたりは落下した。彼が少女を腕の中に抱え込んだとき、後頭部に凄まじい痛みが爆発した。どこかにぶつけたに違いない。
火花が散ったように世界がまばゆく発光し、青空が回転する――。それらは全て、急速に覆いかぶさってきた闇の向こうに見えなくなった。




