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ソサリア魔導冒険譚  作者: 星乃紅茶
【第八部】《聖王国と時の魔法陣 編》
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プロローグ 運命のはじまり

「生きていますか、もしもし?」


 その声は優しかった。たとえるなら、森の静寂しじまを流れるせせらぎのように耳に心地よく、野の花をそっと揺らす春風のように穏やかなぬくもりに満ちていた。


「それとも、返事がないただのしかばねさん?」


 のんびりとした口調はやわらかく、とがめも警戒もまったく感じられない。ほがらかな口調はおとなびているが、甘くやわらかな声は幼い女の子のものだ。


「ふしぎ。おケガはないみたいだし、ご病気ともちがうみたい」


 まぶたを透かして白い光が見える。ときおりその光が途切れるのは、遮るように誰かが俺の顔を覗き込んでいるからだろう。誰かが――声の主が。


 話しかけられていることはわかる。言葉の意味も理解できる。だが奇妙な違和感があった。発音のせいだろうか。だが、その発音はよどみなく洗練されていて、とても聞き取りやすいものだ。


魔力マナの流れはしっかりと見えますのに、どうしましょう」


 夢見心地だった感覚が、ふいにはっきりしたものになった。すずやかでひんやりとした大気が喉を押し開いて肺に流れ込み、大地の固い感触を背中に感じる。指先が……動く。


 彼は、目を開いた。息を呑むかすかな気配とともに、声が途切れる。


 まばゆいほどの光量に刺され眼球の奥に痛みを覚えながらも、まぶたをじ開け、目の前の光景に焦点をゆっくりと合わせる。


 彼は驚いた――すぐ目の前に、吸い込まれそうなほどに綺麗な瞳があったのだ。


 一度も眼にしたことのないほど、清らかに透きとおった美しいオレンジ色の瞳。いや、どこかで見た覚えのある色彩だ……夜明けの太陽が一日のはじまりに地表を照らすとき、世界をぬくもりで満たす最初の色である。


「ああ、よかった。ぜんぜん動かなかったから、心配しちゃいました」


 瞳が揺れて微笑むように細められ、少し遠ざかったので、相手の姿が視界に入った。美しい少女だ――思わず、呆けて見惚みとれてしまうほどに。


 青空を背にして、蜂蜜色の髪が光に透けて揺れている。まるで世界一の人形師が丹精をこめて作りあげた外観に、内側からたましいのもつ光そのものがあふれ出ているかのような印象だ。


 少女は安堵したように息をつき、にっこりと笑った。白磁のように肌理きめ細かな肌が、ほんのりと桜色に染まっている。


 伸びやかな手足はすこやかそのもの。腰は細く、ふわりと裾の広がる薄桃色の衣服に包まれている。優美な弧を描く眉は優しげで、ちいさな鼻梁は可愛らしく整い、唇は咲きそめの花びらのよう。金色のまつげは微笑むとオレンジ色の瞳にヴェールのごとくかぶさったが、それは隠すというよりむしろ特徴のある瞳をいっそう際立たせていた。


 まだ幼女といってもよい年齢なのが惜しい。あと十年もすれば、素晴らしく魅力的な女性に育つだろう。


「あなたの体に流れる魔力マナ、おかしなところはないみたい。立てますか? できれば移動したいの。ここは、とても危険な場所だから」


 少女の言葉に、彼はこたえようとした。だが――。


「……ッ……?」


 喉から、音が出なかった。言葉は理解できるのに、体のほうが咄嗟に反応できなかったらしい。それどころかせてしまい、咳き込んでしまう。


 そんな彼の様子を心配したのか、少女が腕を差し伸ばしてくれた。ひんやりとした絹のような感触が首の後ろと腕に当たり、ゆっくりと視界が持ち上がっていく。


「だいじょうぶです、手伝いますから。ゆっくりと、ね?」


 幼い少女に抱き支えられ、上体を起こしたところで、彼はさらなる事実に気づいた――少女と彼の背丈は、それほど変わらなかったのだ。


「これは……いったい……」


 腕は、頼りないほどに細かった。まるで背が伸びている最中の少年のような棒状の手足は、ひょろひょろと長いばかりで、健康的なしなやかさはあるが筋力はいかにも弱そうだ。おそるおそる自分の顔や肩に手を伸ばしてみると、そのすべらかな手触りの良さと細さに驚く。


 仰天して一気に立ち上がろうとした途端、ぐるんと視界が回った。吐息が片頬をかすめ、もう片方の頬はやわらかな薄絹に押し付けられた。


 ようやくめまいから回復し、周囲を眺め渡す。


 緑に覆われた自然の樹木、生い茂る草や低木、名も知らない野花……そして舗装されていない小道が視界に入る。尖った石ころだらけの固い大地だ。そんな地面に激突するところを少女が腕をのばして頭部に抱きつき、なんとか護ってくれたらしい。


「あ……ご、ごめん」


 ようやく声が出た。自分の声のはずなのに、凄まじいほどの違和感がある。だが、動くたび、声を発するたびに、意識と体の感覚のズレがなくなっていくような不思議な感じがあった。


 なんとか立ち上がり、改めて周囲と彼女に目を向ける。植物の種類は判別できず、少女の容姿からしても自分の生まれ育った環境とは考えられなかった。空気は甘くさわやかで、肺に染み渡るほどにすがすがしい。


「……ここは、どこだろう?」


 虚空へつぶやくように問いを発すると、少女は大きな瞳でじぃっと彼を見つめてきた。その瞳にくらかげりはなく、警戒のいろもなければ戸惑いの気配すらない。少女はこちらを安心させるように微笑みながら、ゆっくりと答えた。


「ここはミルト領内、メローニ家の屋敷の近くです。とはいっても、アルベルト大森林という、ひとの住まう領域ではない場所との境界付近になります。だからこうして道がありますが、普段はひとが通らないほどに危険なのですよ」


「聞いたこともない地名だ……。ひとが通らないような場所に、なぜ君のような子が? それに俺はどうして倒れていたんだろう……」


「憶えて――いないのですか?」


「ああ……。でもここが、俺が見知っている場所ではないというのはわかるんだ」


「そう、ですか」


 少女は小さな手の指を頬に当てるようにして、ちょこんと首をかしげた。傾げたまま、大きな瞳を彼に向けて問う。


「もしかして、お名前も?」


「あ……」


 彼は絶句した――そういえば、名前は何だっただろう。住んでいた場所も、親の顔も、何も浮かんでこない。意識して頭のなかを探ってみても、不思議なくらいに自分に関する記憶だけがごっそりと抜け落ちている。知識は残っているようだが、記憶というものが失われたことにより、まるでばらばらのピースを箱にごっそりと詰め込んだような状態だ。


「あの――もしお困りでしたら、父に相談してみましょうか」


「父……それは、君の?」


「はい。屋敷は歩いていける場所にあります。でもわたし、これほど屋敷から遠くへ来たのは初めてですから、正確な距離はちょっとわかりませんけれど」


「屋敷……?」


 思考が追いつかずに空回りしている彼に、少女は興味津々という様子で身を乗り出し、再び顔を近づた。


「あなたの魔力マナの強さ、すごいわ。『魔導士』なんでしょう? だって、わたしの部屋の窓から見えたくらいに、とても強くてきれいな輝きなんだもの。魔法でここまで飛んできたのかしら」


「い、いや、ちょっと待ってくれないか」


 彼は慌てて少女の言葉を遮った。


「まほう……『魔法』だって? この科学の世の中で魔法だなんて、君はいったい――」


 だが、続く言葉を呑み込むことなったのは彼のほうだった。その視線の先に、とうてい信じられないモノを見たからだ。あまりの恐ろしさに、目を逸らすこともできなくなってしまった。


 けれど少女は背後の脅威に気づいていない。ポンと両手を打ち合わせるようにして、のんびりと話を続けている。


「そういえば、忘れてしまうところでした。ここは危険なの。もし魔獣に出遭ってしまったら、たとえおとうさまが急いで屋敷から駆けつけてくれても間に合わないわ。だからお話より、今はここから――」


「ま……じゅう、っていうのは、もしかして牙が並ぶあごと、鱗びっしりの皮膚をして、鋭い鉤爪をくっつけた肉食恐竜みたいなもの……?」


「はい、それはきっと魔竜のことですわ。よくご存知なのですね。もしかしてご家族のかたが、自警団とか冒険者だったりするのかしら」


 聞き慣れない言葉に首を傾げつつも、少女は頷いた。陽光の中で蜂蜜色の髪が揺れ、まばゆい金色こんじききらめく。まるで猛牛の前で赤布を振るのも同然の挑発的な行為だろう――彼女の背後に立つ存在にとって。


 今なお、気づいていない少女の背後で、恐るべき巨影がのっそりと動く。


 現実だとか、ありえるとかありえないとか、そんなものはすでに問題ではない。少女の背後に現れたそいつは、間違いなく『捕食者の目』で彼らを見ているのだ。背筋にはしる冷たい感触、逆立つ首筋の毛……震えはじめる膝。本能的な命の危険を、感じる。


 巨大な口蓋はぬれぬれとした血色の闇だ。それを縁取っている乳白色の牙の隙間からは、温泉のように密度のある湯気を放つ液体がじゅうじゅうと滲み出ている。眼球は猛禽のごとく見開かれ、底知れぬ穴のような瞳孔が中央にある。


 その恐ろしい瞳孔が、黄金さながらに輝く彼女の髪を見てグッと開かれた。まるで歓喜に跳ねるようにそいつは一歩を踏み出し――舌なめずりをした。


 不気味に響いた、ベシャリという水音。


 少女はようやく、目の前の少年の視線が自分の後方に向けられていることに気づいたらしい。地面から伝わってくる振動に背後を振り返ろうとした。だがそれではもう、彼女にとっては手遅れだ。


「危ないッ!」


 彼は叫ぶと同時に彼女の手を掴み、グイと力任せに引っ張った。少女の体すら満足に支えきれず、そのままふたりで勢い良く転がってしまう。


 だが、それがかえって幸運となった。


 今まで自分たちが立っていた地面に、爬虫類めいた巨大な頭部が衝突したのだ。凄まじい衝撃と土埃が渦巻き、岩土を含んだ地面がバリバリと噛み砕かれる。


 そんな光景を間近に見せられ、彼の首筋がぞわりと冷たくなる。


「何かの悪い冗談なのか、これは」


 眼前で唸るような声を低く響かせている、この化け物じみた巨大な生き物(クリーチャー)。これが『魔竜』と呼ばれるものでなければ、なんだというのだ……!



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