2章 すてきな思いつき 外3-3
リューナは仰ぎ眺めていた天井から視線を戻し、「よっしゃ」という掛け声とともに勢いよく立ち上がった。
「とりあえずさ! その友だちの山羊たちのいる丘へ向かおうぜ」
「メリダの丘っておっしゃってましたね。もしかしたら、そこまで向かう途中に、きれいなお花が見つかるかもしれませんよ?」
リューナの隣で、トルテが手を合わせるようにして明るい声をあげた。
「そうだったらいいんだけど。――うん、そうだね。僕たちはいつも空を行くから、見つけられなかった場所に咲いているのかもしれない」
友人たちの心遣いに、ディアンが微笑みながら応える。エオニアはテーブルの上の茶器や皿を片づけはじめた。
「あたしも手伝いますわ」
「いいのよ、トルテちゃん! ありがとう。でもそれよりチビちゃんたちの支度をしなきゃね。みんな食べ飽きちゃったのかな、なんか窓にベッタリ張りついちゃってるけど」
「まぁ、本当ですね。外になにかおもしろいものでも見えたのでしょうか?」
「その窓からだと、森がよく見えるからね。この辺りの地域にしか生息していない、珍しい魔獣が出てくることも多いんだ。魔法王国期には絶滅していたはずの種族もいたりして、僕も驚いてばかりだよ。この土地独特の、なにか生命力の増強を促す要因があるんじゃないかと思うんだけど」
「ディアンは勉強家なのよ。父の蔵書はもうほとんど読み尽くしちゃって、最近は王都の図書館にふたりでよく出掛けるの」
片づけの合間に、エオニアが笑いながら言う。
「へぇ、ロウロナにも図書館があるのか」
「ソサリア王宮の図書館棟ほどの規模はないけれどね。あそこは凄すぎるよ、魔導書が地下書庫いっぱいに並んでいる光景なんて、こっちでは考えられない」
「確かにそうかもな……。近隣の国から手に負えない魔導書なんかが集まってくるらしいし。親父が、大陸のどこ探してもこれほど魔術と魔導が民と共存している国はないとか言ってた気がする」
それは奇跡とも称される建造物『千年王宮』の存在も大きいのだろうし、トルテの母である宮廷魔導士ルシカの活躍や、その祖父である大魔導士ヴァンドーナの偉業も影響しているんだろうな――リューナの視線は自然に、類稀なる魔導の力を継承しているはずの幼なじみの細い肩に向けられた。
「ナルちゃん、ピュイちゃん、キュイちゃん」
トルテは窓に歩み寄り、窓の外を熱心に眺めながら小声で話し合っていたらしい子どもたちに声をかけた。子龍と幼女の肩が弾かれたようにびくりと反応する。
「これからディアンたちと一緒にお出掛けして、ミルクをもらいにいきませんか? エオニアさんのお友だちをご紹介いただけるんですって」
「キュッ、キューイ」
キュイはいつものように、すぐに賛同の声をあげた。世話をしてくれているトルテの言うことには素直に従うからだ。すぐに窓から離れてトルテのもとへ向かいかける。
「だめっ」
そのキュイの胴にしっかと腕をからめて動きを制したのは、ナルニエだ。何事かと目をぱちくりさせるトルテに、えへへと笑いながら慌てて顔を上げる。
「あ、いやえっとぉ……ナル、なんだかもう、ふぁぁぁ~あぁ、眠くなっちゃったの。ピュイちゃんとキュイちゃんも一緒、おるすばんしてる。もう、ホントに眠くて眠くて」
「え、そ、そうなんですか?」
トルテは首を傾げながらも、素直に頷いた。うーん、と自分の頬に指を当てて少し考えたあと、歩み寄ってきたリューナを振り返り、申し訳なさそうな表情で彼に告げた。
「ごめんなさい、リューナ。ディアンとエオニアさんと一緒に、出掛けてきてください。あたしはここでナルちゃんたちについていますから」
「……うーん。そうだな、こいつらだけ放っておくと何するかわかんねぇし。仕方ねえな、トルテが行ってこいよ。俺がここで――て、うわッ!」
リューナは危ういところで半歩の距離を跳び退り、ガジリと噛み合わされた鋭い牙から自分の足先を遠ざけた。
「危ねぇだろがッ! ピュイ、いったいなんだってんだよ?」
「あ、ごめんねおにいちゃん! だからね、大丈夫だよってことなの。ピュイちゃんがついてるでしょ。ナルたち、おとなしくここで寝てるから。ね、いってきて。ふぁ、ふあぁぁぁ~」
ナルニエが再び盛大なあくびをした。小さなこぶしで目の端をこすりながら、トロンとした上目遣いでリューナたちを見上げてみせる。
「ナルね、もう、ねむくてねむくて仕方ないの。ね、ほら、キュイちゃんもだって」
「そうなんですか?」
トルテに視線を向けられ「キ、キュイィ」と迷うような鳴き声とともにおろおろと首を振りかけたキュイであったが、ちらりとナルニエのほうに視線を向けたあと、観念したように、困ったように、床に置かれていたクッションに突っ伏した。
次いでトルテに視線を向けられたピュイは、すぐに視線を逸らすようにして床の敷布の上に寝転がり、幅のある体躯にしては精一杯に丸く寝入るような格好になった。
「でも……」
心配そうなトルテからすがるような視線を向けられ、リューナは悩んだ。彼女にしては珍しく、心の底から困っているときの表情だ。胸の奥で熱が生じ、頬まで熱くなったのを自覚してしまう。
「うぅ、そう……だなぁ、こいつらだけで放っておくわけにもいかねぇし……」
「この家の中は安全だよ。結界を幾重にも張り巡らせてあるから、敵意あるものは敷地内に入ることができない。もし外から訪うものがあれば、僕に伝わるようになっているから」
見かねたディアンが口を開いた。
「じゃあ、なんかあったら俺がすぐ戻る。トルテ、それでいいか?」
「は、はい」
「ふわあぁぁぁ。んじゃ、いて、らっしゃ~」
力の抜けるような返事をしたあとすぐ、ナルニエとピュイ、キュイの幼子たちは互いに身を寄せ合い、平和そのものの寝息を立てはじめてしまった。
そういえば――リューナはふいに思い出した。ナルニエのやつ、外見は幼いけれど、必ずしもそうではないんだったっけ。心配ない……のかなぁ?
視線を床に落とすと、窓辺に飾られたハーブの束が床に描いている影が、先ほどより伸びている気がした。天頂にあったはずの太陽が傾きはじめているのだ。ソサリアより南国であるとはいえ、夕闇は等しく巡ってくる。出掛けるならば急いだほうが良さそうだ。
「じゃあ、さっさと行って、帰ってくるか」
リューナの言葉に、トルテが頷く。彼女はナルニエたちのもたれているクッションの按配を確かめ、体を冷やすことのないよう、エオニアが差し出してくれた毛布をそれぞれにかけてやった。
それでもまだ心配そうな彼女の肩を抱くようにしてなだめながら、リューナはディアンたちとともに外へと出ていったのである。
ナルニエは毛布の下でぺろりと舌を出した。
そわそわと落ち着かないキュイが首をもたげかけるのを「シッ」と小声でたしなめ、彼女は閉ざされた扉と遠ざかる足音に耳を澄ませていたのである。
門の外の開けた場所で、魔導の力場が展開された気配。一瞬、空からの陽光が遮られて室内が陰った。ザザザッという葉ずれの音が遠ざかってゆく。
「――もういいかな、行っちゃったみたい。気配はナルにもよくわかるんだ」
スマイリーのことだ。リューナたちは、再びもとの大きさに戻した『月狼王』の背に乗って出発したのだ。周囲を圧倒するほどの凄まじい気配を発している上位幻獣、スマイリー。同じ幻精界の存在であったナルニエだからこそ、近くにいるかいないかの判断くらいできる。
「さぁ、戻ってこないうちに行動開始っ」
ナルニエは扉を開き、敷地の外へと走り出た。二体の魔獣の幼子がそれに続く。
「やっぱり、結界とかいうのは、出ていくほうには関係ないみたい。ゴサンだよねぇ」
「キュ、キューイ?」
空を仰ぎ見れば、燦々と輝く南国の太陽。煌めく陽光が、惜しみなく地上に降りそそいでいる。生い茂る緑の葉を透かした光は、ふんわりと草の覆う大地を美しい斑に染め上げ、生命に満ちあふれた緑のグラデーションをよりいっそう豊かなものに感じさせていた。
水霧の混じる爽やかな風が吹き抜け、白銀の糸のような髪をさらりと梳いてゆく。蒲公英色のワンピースの裾がパタパタと楽しげな音を立てた。
「なんだか気持ちいーいっ! ねえねえ、ピュイちゃん。ここって、すっごい幻精界に似てるよねぇ?」
深呼吸をしたナルニエは、うっとりとため息をついた。あれこれ心配してくる者たちがいないので、開放感にワクワクと小さな胸を踊らせているのだ。
問われたピュイは周囲をぐるりと眺め渡し、やれやれとでも言いたげに首を振りながら長く息を吐いた。ずいぶんとおとなびた仕草である。リューナたちがいないので、一番の年長者になったと思っているらしい。
ナルニエは、ぷぅと頬を膨らませた。
「キュー、キュイ。キュ?」
キュイが慌てたような鳴き声とともに、ふたりの間に割って入った。そんな場合ではないだろうと言いたいらしい。
「わかってるもん、ちょっと待って」
幻精界の幼女はつま先で立つようにして背筋を伸ばし、大気の中に混じる微かな香りを確かめようと小さな鼻をひくつかせた。さきほどまでの膨れっ面はどこかへ飛んでいってしまい、ほんわりと緩んだ笑顔になっている。
「うん、やっぱりまちがいないよ。いいにおーい」
「ピピピィ、リリ?」
「ううん、近くじゃないみたい。こっちかなぁ」
くんくんと鼻をさかんに動かしながら、匂いをたどろうとして半ば目を閉じ、ナルニエは何かに導かれるように歩きはじめた。
何か――じんわりと心の奥底まで満たすやわらかな芳香、爽やかなのに甘く咲き誇る華やかな匂いに。
「まだそんなに強くないけど、絶対に見つけるんだから。ナルならわか――ひゃッ!」
突然、足もとが消滅していた。いや、そう感じたのは匂いをたどることに夢中になっていたナルニエ本人のみだったかもしれない――警告するように発せられた甲高い鳴き声が耳に響いたような気もする。
「え、え?」
気がつけば、ナルニエは虚空に吊り下げられていた。
ぷらんと両の脚を何もない空中へ垂らし、小さな体は頼りなげに、右に左にと大きく揺れているのであった。ぞわりと肌が粟立つ。
「な、なに……あったの」
「ピ、グィィィィ!」
ピュイの歯を食いしばったような声が、上のほうから聞こえる。不安定な姿勢のまま、おそるおそる頭上を振り仰いでみて、ナルニエはようやく理解した。
ぽっかりと開いた穴。その向こうに見えるのは、足下とは真逆の光あふれる青い空――そう、地面が抜け落ちている場所から落下したのだ!
咄嗟の行動だったのだろう。ナルニエの頭巾ごと衣服の背の部分を、キュイが必死に咥えている。そのキュイの胴を掴んだピュイは両脚を踏ん張り、穴の縁ぎりぎりのところで全員の落下を食い止めているのであった。




