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ソサリア魔導冒険譚  作者: 星乃紅茶
【第七部】 《双つの都 編》
205/223

エピローグ 大切なひと

 穏やかな光に満ちた『千年王宮』の室内、星の巡りを光る糸で織り描いた天蓋てんがいの張られた寝台――。長い金の睫毛が震え、再開された呼吸とともにかすかな声がもれる。


「……ん……」


 ルシカがゆっくりと目蓋をあげた。


 彼女が最初に見たのは、夫であるテロンの顔だった。彼は意思の強そうな口もとをわななかせ、澄んだ秋空のような青い瞳を潤ませていた。いつも揺るぎないはずの眼差しに、深い安堵と喜びがあふれている。


「テ……ロ、ン……?」


 囁かれた呼び声に、彼は大きく何度も頷いた。


 ルシカが再び目を開いたのだ。ゆっくりと瞬きをし、テロンの顔を見つめている。


 長く暗かった夜闇を越え、明るくなりはじめた天空から降りそそぐ太陽が地表を染める最初の色――あたたかなオレンジの色彩。澄み渡った泉のような彼女の瞳に、彼自身の姿が映っている。


 朝の光が室内に差し込み、ふんわりと優しく彼らを包み込んだ。


 ルシカはまだ力の入らぬ頬と唇を何とか微笑みのかたちにした。腕を持ち上げ、夫の頬に触れようと手を伸ばす。


 おずおずと震えながら持ち上がってゆく細やかな手を握り、その温もりを感じとったテロンは顔を歪め、妻の上に覆いかぶさった。細く甘やかなルシカの上体を抱きしめ、やわらかな金の髪を、しなやかな首筋を、すべらかな頬を何度も撫でさする。そこに生命の温もりを感じ、鼓動を、息吹を確かめるかのように。


「ルシカ……良かった、俺は……俺は……」


 抱きしめられたルシカもまた、涙をあふれさせていた。夫の腕の、常日頃では考えられぬほどの勢いと力強さ。テロンにどれほどの心配と衝撃と安堵を与えてしまったのかに思い至り、彼女は強く抱きしめられたまま、テロンの耳にそっと優しく囁いた。


「テロン……もう大丈夫よ。だいじょうぶ……ね?」


「ルシカ。体は平気なのか、もうどこも何ともないか? いったい――」


「話せば長くなるかも。あの子たちのおかげなの……覚えている?」


「ああ……」


 テロンはようやく腕の力を緩め、愛妻の体を寝台に戻した。上掛けを整えながら、ごめん、と申し訳なさそうにつぶやくのがいかにも彼らしく思われたのだろう、ルシカが頬を染めてくすくすと笑う。


 その笑顔を見たテロンの口もとにも、ようやく笑みが戻った。


「さっきルシカに言われた言葉で思い出したよ。不思議だな……今の今まで記憶になかったなんて」


「そういうものなのよ。るがままに受け入れて」


 ルシカは優しく囁き、夫の瞳をじっと見つめた。その思いを正しく理解したテロンが顔を近づけ、妻に口づける。少しの間ふたりは無言で互いの温もりを確かめ合った。


 しばらくしてテロンは身体を起こし、魔導士である彼女の稀有なるオレンジ色の瞳を見つめながら口を開いた。


「つまり……ルシカ、こういうことなのか? 今出掛けているはずのふたりが幻精界へ入り込み、過去の俺たちと逢ったということか。――アウラセンタリアから膨大な魔力マナが噴き出してきたあのとき、俺たちは渦に呑まれ、体の自由が利かなくなっていた」


「そう、あたしの残存魔力ではどうしようもなかった。せめてあなたを護りたかったけれど……そのときあの子の魔導の力を感じたのよ」


「あの子……魔導の力?」


「生まれたばかりのあたしたちの赤ちゃん。まるで『万色の杖』にはじめて出逢ったときの光の奔流みたいに、あたしの中に流れ込んできたの」


「トルテではなく?」


「違うわテロン、どちらもトルテだったのよ。あたしたちの娘――あたしたちの危機を本能で感じ取ったのね。世界の危機を、そして自分と両親の生命の危機を……」


 ルシカは爆発するように噴出した『中心の地』アウラセンタリアの魔力マナの奔流に呑まれたとき、凄まじい魔導の力が身体の内に流れ込んでくるのを感じたのだ。それは純粋な「生きようとする力」そのものであり、母を求める赤児の自然な反応でもあった。ただ、生まれながらに魔導の力を持っていたというだけだ。


 容赦なく流れ込んできた魔導の力は、その膨大さと強大さゆえに、母の生命の存続をも危ぶませた。けれど結果的には、世界を、母を救うことができたのだ。


「幻精界と現生界と時間の流れが異なっているとは聞くが、まさか現在のあのふたりと過去の俺たちが出逢うなんて」


「あの子たちに感謝しなくちゃね。いつの間にかすっかり頼もしくなっちゃって」


 ルシカがそっと微笑んだ。ふたりが向かったという、霊峰フルワムンデの方向を見つめて遠い眼差しになっている。


 いつのまにか暗く長かった夜はすでに終わり、室内にも窓の外にもまばゆい輝きがあふれていた。今日もきっと、晴れ渡った青空の広がる、良い天気になるのであろう。


「まだまだ子どもだと思っていたんだけどな、ふたりとも」


「ふふっ」


 新米の父と母であった頃のことを思い出し、テロンとルシカはともに微笑みあった。そして互いの瞳を見つめ、改めてゆっくりと唇を重ねる。


 やがてバタバタと騒々しい足音が部屋の外から響いてきた。複数の気配が近づいてきたかと思った途端、バンッと音高く重厚な扉が開け放たれた。


「ルシカさま! ルシカさまっ!」


「ルシカさま、おぉ、本当に……本当にご無事で!」


 宮廷魔導士の回復を祈り続けていた王宮のみなが文字どおり飛び込んできたのであった。なかには目や鼻を赤くして夜通し起きていた様子の者や、身支度もそのままに駆けつけた者もいる。皆が皆、この上ないほど嬉しそうに顔を輝かせていた。


 テロンと同じ、低くすずやかな声も聞こえた。


「ルシカ、寝過ぎにもほどがあるぞ。毎日忙しく動き回っているから疲れているんだろう」


 扉のところでニッとした笑みを刻みながら言い放ったのは、クルーガーだ。冗談まじりの言葉だったが、表情には深い安堵と喜びのいろが隠しきれていない。


「まァッたく、おまえは俺たちに心配ばかりかけてくれる。しばらくはゆっくり静養でもしてろ、テロンが見張り役としてな」


 寝台の上で上体を起こし、メルエッタやらマルムやら各神殿の神官司祭、医療術師、警護兵、文官たちに囲まれて皆に手を握られていたルシカが、少女のように唇を尖らせて親友であり義兄である国王陛下を睨む。ただし、瞳には彼と同じ安堵と喜びがあった。すぐに口もともゆるんでしまう。


「そんな必要ないわよ、クルーガー。寝てなんかいられないんだもの、魔導書がたっくさん解読と分類待ちになっているんだから」


 笑いながら言葉を返したルシカに、クルーガーが大仰にため息をついてみせる。


「もしおまえに何かあれば、我がソサリアにとって非常に困ったことになるんだぞ。他国を圧倒している叡智が失われる、多大なる損失ってやつだ。持ち込まれる魔導書も行き場を失い、それこそ図書館棟がパンクしちまう。いいから休んでいろ、ということだ。たまには王宮内が静かになるのもいいだろう」


「それだと、あたしがいつも騒がしいみたいじゃない」


「ルシカ、休養は俺も賛成だ」


 兄と妻との遣り取りに、くっくっと笑いを抑えきれなくなっていたテロンが笑いながら口を開いた。


「見張り役として、目の前でしっかりと休んでもらうよ。君は俺にとってかけがえのない大切なひとなんだ。そしてそれは、皆にとっても同じなんだから」


 周囲に押し寄せていた皆からも、口々に賛同の声があがる。大臣たちも到着し、ルシカの無事な姿にホッと胸を撫で下ろした。クルーガーの傍では、王妃マイナが涙ぐみながらにこやかに微笑んでいる。


 窓の外には魔竜のプニールが現れ、王都に隣接した港からは『海蛇王シーサーペント』のウルのき声が聞こえてきた。さらにこの日の夜には、友人であるティアヌとリーファがウルとともに到着し、ソサリアの天才天災グリマイ兄弟が祝いの花火を盛大に打ち上げるなど、大変な騒ぎに発展したのである。


 『千年王宮』の奇跡を謳った伝説に、この日、もうひとつの物語が書き加えられたのであった。





「うわっ!」


「キャッ!」


「にゃっ!」


 折り重なる三人の声と、ピュイッ、キュイッ、という二種類の鳴き声。一番大きな影は唸り声ひとつあげることなく地面に降り立った。


「ッテテテ。無事……帰ってきたのかな、俺たち」


 一番下に敷かれてしまったリューナは、後頭部を押さえながら起き上がろうとした。やわらかな草が芽を伸ばしていた場所に到着したので、どこにも怪我はなかった。


「どけよっ、おまえらスゲー重てぇったら。ピュイ、おまえぜってー食いすぎだろ」


「あ、ご、ごめんなさいリューナ」


 慌てて謝りながらリューナの上から降りたのは、もちろんピュイではない。どちらかというとやわらかくて温かくて心地よいほうだったので、退いたことでちょっぴり残念に思わないでもないリューナだった。


「ルシカかあさまは、だいじょうぶです。次元の扉を開いたとき、ラウミエールさんが教えてくださいました」


「そ、そうか……うん。よかったなトルテ、本当にさ!」


「はい!」


 トルテは嬉しそうに微笑み、それから周囲を見回した。


「そういえば――ここはどこでしょう。見覚えのあるような、とてもなつかしい匂いがします」


 ふわりと立ち上がったトルテが、派手に目を回して仰向けになって大の字に倒れているナルニエに手を貸しながら、リューナに尋ねた。むろん彼はいまだ、起き上がろうとしつつも地面に突っ伏したままであったが。


「ふえぇぇ、ばらばらになっちゃうかと思ったあぁ……」


「大げさだな、ナル。俺なんか全員のクッションになっちまったんだぜ。特にコイツの」


 古代龍ピュイのでっかい腹を押し退け、なめらかな体表をした蛇のような体躯のレヴィアタンの幼体を降ろし、リューナはようやく立ち上がった。ぐるりと周囲を眺め渡す。


 周囲には様々な種類の木が植えられていた。よく見ると、それぞれの幹に小さな大陸共通文字を綴った小板が添えられている。花壇のようなこんもりとした薬草の群生場所にも同じようなものがあった。ざっと見ただけで植物の分類名であることがわかる。


「俺の……家?」


 なつかしいはずだ。振り返った背後には、リューナとトルテのふたりにとって馴染みの深い『秘密基地』である木造りの建物があった。木々の向こうに透かし見えるのは、生まれ育った大きな三階建ての屋敷、そしてソサリア王国で初めて創設された魔術学園の建物だ。


「な、んだ……一気に帰ってきちまったってのか?」


「そうみたい……ですね。とってもびっくりです……」


 幻精界の地脈であるアウラセンタリア内部から、自分の家の敷地内に戻ったのだ。リューナとトルテは呆然と目を見合わせた。


「え、なになに、ここがお兄ちゃんの家なの?」


 ナルニエが嬉しそうにピョンと跳ね、ピュイの手をとって周囲を駆け回りはじめる。すっごぉい、ナニコレ、早く行こうよと楽しそうに声をあげかけたが、すぐにピタリと静かになった。


 突然息を呑んだように黙ってしまった幼女の気配にようやく我に返り、リューナが視線を向ける。


「やぁ、おかえりなさい。これはまたずいぶんと、お友だちが増えましたね。さすがはトルテちゃんです」


 のんびりとしたほがらかな声。ゆっくりと歩み寄ってくる人影のひとつは、『時間』の魔導士ハイラプラスのものだった。銀色の髪を肩に流し、中性的に整った顔には温和な微笑を浮かべている。オレンジ色の瞳は、トルテやルシカと同じ魔導の血統である証だ。


「ハイラプラスのおっさん!」


「おっさんではないのですが、まあいいでしょう。おかえりなさい、ふたりとも。大変だったでしょう」


「はい。ただいま戻りました」


 まるで近所におつかいで荷物でも届けてきたかのように挨拶をかわすトルテとハイラプラスだった。


 大陸の北から南へ旅をして、異境に聳え立つ霊峰のてっぺんまで登り、さらに次元を渡って別世界まで行ってきた者との挨拶とは、到底思えない――リューナは今更ながらに頭を抱えてうずくまり、心配そうに擦り寄ってきたレヴィアタンの幼体の胴を、どんよりとした表情のまま撫でさすってやった。


「そうだ、トルテちゃん。おなか空いたでしょう? サンドイッチが用意してありますよ」


「まぁ、そうなんですか。あたしもうおなかペコペコなんです」


「おう! 戻ったか!」


 ハイラプラスに続いて歩いてきたのは、リューナの父メルゾーンだった。相変わらず赤くてド派手な魔術師のローブを身に纏い、腰や指に魔石のアクセサリーをジャラジャラと携えている。赤みを帯びた金髪、はっきりした目鼻立ち、男にしては甲高い声――黒髪と海色の瞳の母に似て、本当に良かったとリューナは思う。


「何だリューナ、また嫌なものでも見る目つきで俺を見やがって。シャールがダイニングで待ってるぞ、さっさと無事な顔を見せに行ってこい」


 今日もまた珍しく上機嫌のようで、メルゾーンは高笑いをしながら首を上に向けた。木々よりも高い位置にあった『月狼王』の頭部にようやく気づく。


「――な、なななななッ! なんでい、このデカい狼はッ!? もしかして幻獣かッ?」


「はい、メルゾーンおじさま。スマイリーといいます。あたしたちの大切なお友だちなんです」


 トルテがにっこりと説明すると、「そ、そうか」とメルゾーンは咳払いをして口の端を曲げた。ほんのりと目もとが赤い。親父は自分のことを尊敬してくれているトルテのことがお気に入りだからな――と、リューナは横目でふたりの遣り取りを見ながら心のなかでつぶやく。


 トルテはすぐに『小型化ダウンサイジング』の魔法陣を具現化して、『月狼王』の大きさを両手で抱えられるほどに小さくした。肩の上に乗せたところを見ると、襟巻きかぬいぐるみのようにしか見えない。リューナはミドガルズオルム王宮でのトルテとの会話をなつかしく思い出した。


「そういやディアンやエオニアも元気かな。スマイリーが居るなら、すぐに逢いにいけそうだよな」


「いいですね、それ」


 パンと手を打ち合わせ、トルテが微笑んだ。まるで咲き開いたばかりの可憐な花のように、なんとも愛らしい笑顔だ。


 思わず見惚れてしまったリューナの腕をつつき、ナルニエが「お兄ちゃんとお姉ちゃん、仲いいねぇ」と茶化してきた。ぐるるるる、と唸っているのは、じっとりした半眼でリューナの顔を睨んでいるピュイだ。


「でもそれよりまず、ごはんですよリューナ! シャールおばさまの作ってくださるタマゴサラダのサンドイッチ、食べたいです!」


 なんとも無邪気な様子でトルテが言った。リューナの傍の草に寝そべっていたレヴィアタンの幼体を抱き上げ、親しげに微笑みながら語りかける。


「ね、キュイちゃんもそう思うでしょ? おなか空きましたよね?」


「……トルテ、もう名前つけたのかよ。鳴き声そのまんまだし。それにしても良かったのかな、みんな現生界コッチへ連れてきちまって」


 あきれ半分、あきらめ半分で、リューナは頭を掻きながら盛大に息を吐いた。近寄ってきたナルニエが彼を見上げる。ふと真面目な表情になって、そっと口を開いた。


「いいんじゃないかな。おかあさんがね、『おとうさんによろしく』ってナルに言ったもの」


「え、それってどういう――」


「さあさ、行こうよ! ナルもお姉ちゃんの好きな『さんどいっち』っていうの、食べてみたい!」


 白銀色の髪と、蒲公英たんぽぽ色をしたワンピースの裾がふわりと広がる勢いで、ナルニエは弾むように駆けていった。


 レヴィアタンの幼体は、トルテのつけた名前がとても気に入ったようだ。なめらかな体表は陽光の下では虹色に煌めき、始原の存在である竜の特徴である脚のない胴はしなやかであった。嬉しそうに身を震わせて、古代龍のピュイや幻精界の幼女の背を、懸命に追いかけている。


 彼らの後ろを歩いていたトルテがリューナを振り返り、「リューナ」と彼の名を呼んだ。


「あぁ、すぐ行く」


 そう言いかけてリューナはハタと足を止めた。「そういえば……」とこぶしを握りしめ、首を巡らせてハイラプラスの姿を探す。


「ちょっ、待てよ! 出立前、俺の居ねぇときにトルテになにしやがったんだッ? 今日こそはしっかりはっきり答えてもらうからなッ!」


 銀髪で年齢不詳の魔導士は、「さぁ、何のことですか?」と人好きのするにこやかな微笑を崩さないまま、歩きはじめていた。


「そういえばトルテちゃん。メルゾーン殿と面白いものを開発しましてね。冷凍させる魔法を封じ込めた箱でアイスクリームが作れるんですよ。自動攪拌機能つき、適度なやわらかさを保ちつつ、様々なフレーバーにも対応します」


「うわぁっ、それすごいです! あたし実はずっと、アイスクリームの味が忘れられなくって」


「トルテ! おまえ最近また食い意地張りすぎだぞッ」


 空は高く、晴れ渡っていた。


 屋敷に向かう彼らの上にも、ファントゥリア・エランティスの『双つの都』の片割れを思い起こさせるような陽光が、そっと包み込むようにあたたかく降り注いでいるのだった。





 ソサリア王国は、人間族の王が統治する、大陸トリストラーニャのなかでも比較的大きな国だ。


 冬の寒さは厳しくとも実り豊かな、ふたつの巨大森林地帯を有する。穏やかで幅広い大河ラテーナが国土を潤し、魔の海域と呼ばれるグリエフ海に開けた三角江エスチュアリーに王都を建造し、陸路や海路のかなめとして発展した四つの大都市を抱えている。


 王都ミストーナ、その大都市に住まう国民のほとんどが自慢としているのが、ソサリアの中心であり奇跡の建造物である『千年王宮』だ。


 揺るぎなく建てられた白亜の壁や柱のひとつひとつは、その全てが互いに干渉しあって強大な守りの魔法陣を展開しており、過去の魔陣戦争や邪神ハーデロスの襲撃をくぐり抜け、すでに文字どおり千年を越える月日を経てもなお存在し続けているのであった。


 その『千年王宮』のなかで戦乱の頃より変わった点は幾つかあったが、王宮で日々を過ごす者たちの大半に好まれている場所といえば、見事な薔薇バラの植えられた中庭の広場のことであった。


 いまは亡き先王の妃が大切に植え育て、先王自身もこよなく愛した薔薇のその。世話を任されているのは、かつてこの国に流れ着き、腕を買われて近衛兵として務めていたバルバと名乗る格闘家だ。いまはもう老体であることを理由に引退し、庭師として穏やかながらも孤独な日々を過ごしていた。


 現在の王弟が幼かった頃には体術の師匠として稽古をつけていたが、いまではその王子も大人になり、彼自身を超えるほどの体術家として成長した。もう教えることはない。


 いま彼は、シンプルな衣服に大きな前掛けを着け、移植ごてや針金や紐、剪定せんていに使うはさみなどを手にゆっくりと中庭を歩いていた。


 昨日の朝には、大変な騒ぎがあった。


 皆に親しまれ愛されている宮廷魔導士が突然倒れ、ついに亡くなってしまったと思われたとき、奇跡が起きた。再び息を吹き返し、王宮中が大変な喜びの渦に包まれたのである。


 彼の教え子であった王子テロンとめでたく結ばれた、宮廷魔導士の娘ルシカ。婚姻の儀の王子の姿は、なんと凛々しく立派だったことか――彼は、テロンの晴れ姿を我が子のことのように喜ばしく思ったものだ。


 そう……大魔導士ヴァンドーナの孫娘でもあるルシカは、みっつの頃までこの王宮に住んでいた。


 鼻歌を歌いながらちっちゃな足で歩き回り、薔薇たちのことをとてもきれいだといって喜んでいた。どうしてこんなにもきれいに咲くことができるの、きっととっても大切にされているからだね、といって嬉しそうに笑っていた。


 彼は歩きながら微笑んだ。


 遠い日々の出来事が、心の内であざやかによみがえる。なつかしく思い出しながら、世話をする薔薇の場所へ向かっていた彼の歩みが、ふと止まった。


 鼻歌だ。中庭に差し込む明るい陽光のなか、薔薇の植え込みを前に小さな人影がたたずんでいた。


 後ろ手に手のひらを重ね合わせ、背筋をしゃんと伸ばし、におやかに咲き開いた薔薇の花を眺めている。きれいだねぇ、大切に育てられているんだねぇ、と囁くようにつぶやきながら。


 バルバは息を呑み、空いたほうの手で目をこすった。


 あるかなきかの風にさらさらと揺れ、光に透ける白銀の髪。なめらかな白磁の肌。それはかつて彼が愛し、別の世界、別の時代に引き裂かれてしまった大切な女性のことを思い起こさせた。


 護れなかった深い悔恨の思い。絶望のなか、彼はそれまでの名前と格闘家であることを捨てた。自身の生命も捨て去るつもりで彷徨い、この国に流れ着いた。


 幸せだった過去、もう戻らないはずのとき――。


 彼の気配に気づいたのだろう。少女が振り返った。


「ここのお花たち、とってもきれいね」


 振り向いたナルニエの笑顔とその面差しが、バルバの瞳に映る。水宝玉アクアマリン色の瞳には、彼の姿が映っている。


 あたたかな陽光がきらめいた。見守るかのようにそっと優しく、彼らを包み込んでいる。


 それはまるで、未来への明るい可能性をみちびく光そのものであった――。





――双つの都 完――


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