9章 過去と今をつなぐもの 7-27
幻精界の中心たるアウラセンタリアは本来、光と闇の領域の支配者たちによって守られている。
この世界を巡る魔力は大地に吸収され、まるで天から降った水が地脈を通って泉と呼ばれる場所から湧き上がるかのごとく、この中心の地から放出され、世界を隅々まで満たしている。
その中枢に開かれた『扉』から突入したアウラセンタリア内部には、現生界に住まうリューナたちの五感では理解できぬほどに凄まじい異空間が待ち受けていた。
透明な水と濃いミルクが混ざり合いながら流れる大河に、都市ひとつぶんを色とりどりに染め上げられるほどの染料をぶちまけたら、こんなふうになるだろうか。しかも色自体が眩い光を発しながら、凄まじい勢いで螺旋のように渦を巻き、後方へと流れ去ってゆくのだ。
「これが魔力の本流の内部か……なんというか、すっげぇ圧迫感だな。息まで苦しい気がするぜ」
「……瞳の奥がズキズキしています。張っていただいた守護の膜がなければ、あたしもスマイリーも意識を集中できなかったに違いありません」
トルテがここには居ない統治者たちに向けて「ありがとうございます」と律儀に礼を言いながらも、ひどく辛そうに目を細めている。
――いまリューナたちは『月狼王』スマイリーの背に乗り、ラムダという名の憎悪が隠れ潜む場所へ向かう途上にあった。
質量をもった光の塊が流れている中を突き進んでいるようなものだ。魔力そのものを視覚的に捉えることのできる魔導士には辛い光景である。魔力の気配に疎いリューナですら、眩しすぎてクラクラするのだ。
トルテとナルニエは片手を互いに握り合い、もう一方の手をスマイリーの背に当てている。
光の領域の統治者ファリエトーラと闇の領域の統治者ラウミエールはどちらも、それぞれの都から離れることができない。ナルニエと意識を繋ぐことで道案内をしてくれているのだ。
言葉の伝達では不便なことこの上ないので、トルテの『精神感応』の魔導の力を通じ、スマイリーに直接情報を伝えている。統治者たちは戦力になれないということだが、このように進むべき方向すらわからないような驚異の空間においては、道案内だけでも非常にありがたい助力であることは間違いない。
リューナはトルテとナルニエの体を両腕にかかえ、万一のときでも落ちることのないよう、ふたりを支えている。
三人の後ろには、大きな卵を抱きかかえたピュイの姿がある。出発前の遣り取りの途中から姿が見えないと思っていたら、いつの間にかスマイリーの背に乗せたままだった『巨大魔海蛇王』の卵を護るように抱き支えていたのだ。
同じ始源の存在であることに仲間意識でもあるのか、単にトルテの手伝いがしたいのか、ピュイにしては役に立っているとリューナは素直に感心していた。
それにしても、いくら魔獣のものとはいえ、常識では考えられないほどに大きな卵であることは間違いない。だが、親の常識破りな巨大さから考えれば、これでも小さいといえるのかも知れなかった。トルテが言うには、「魔力が少ない環境でも生命維持できるよう変異した結果」ということらしい。
「ピュイ、落とすんじゃねえぞ」
振り返ったときに目が合ったのでそう声を掛けたら、「当たり前だ」といわんばかりに凄まじい目つきで睨まれた。舌まで出されてしまう。まったく古代龍というのは表情豊かで生意気で器用な種族だよな――リューナは口をへの字に曲げて前方に視線を戻した。
「卵さん、連れてきてよかったのかな」
「心配すんなよ、ナル。このほうがいいんだ」
レヴィアタンの姿が見えない現状で、卵だけをアウラセンタリアへ残しておくわけにはいかなかった。いつまた親が戻るかも知れず、また無駄に敵から狙われる標的を分散させておく理由もない。
自分たちと一緒に『同乗』させておくほうが、敵を打ち倒すために出向いてきたリューナたちにとっても都合がよかったのだ。
「なぁ、ラウミエールのおっさん。ひとつ訊いていいか?」
リューナは闇の統治者に向け、声に出して語りかけた。心の内で念じるように言葉を紡いでも伝わるのだろうが、ラウミエールの声なき言葉は仲間たちにも届くのだ。明瞭な言葉の応えはなかったが、先を促すような雰囲伝わってきたので、リューナはずっと疑問に思い続けていたことを尋ねてみた。
「なんであいつは――ラムダは、俺たちのことを憎悪しているんだ? 会ったことなんて一度もないし、もともと幻精界の、あんたの領域の兵士だったんだろ。それがどうして現生界まで来ることになったのか……好奇心だとか移住とか、そういう理由なわけないよな」
少し間が空いたあと、ラウミエールから思念の言葉が返ってきた。
「……あの者は、そなたたちの時代より二世代ほど遡った時代に、特別な役割を担ってそちらの世界へと送り込まれたのだ。激しい戦乱の只中に辿り着き、魔導士たちと遭遇したという。結局は任務を果たせず戻ってきたのだが……そのときの魔導士たちとそなたたちを重ね合わせているのかも知れぬ。さらに帰還に相当な労力を要したこと、肉体の一部を損なったことが、あの者の理性を吹き飛ばしてしまったのであろう」
「肉体の一部……って、もしかしてあの腹の魔法傷のことか。なんかよほど恨みがありそうな感じだったけど」
「……戦乱というのは、東に隣接しているラシエト聖王国と戦争をしていた時代のことですね」
やはり聞こえていたのだろう。リューナとラウミエールの遣り取りに、トルテの意識が割って入った。
「戦争は、悲しみや憎しみをたくさん生み出します。意図しなかった悲劇によって大切なものを失ったり、居場所や家族を奪ったり奪われたり……特に魔陣戦争の末期には、敵味方の区別も出来なかったほどの混乱があったと聞きます」
「大魔導士ヴァンドーナがソサリア王国を救ったという、あの戦争だろ。悲惨な思い出話ばっか出てくるもんな」
「暗き部分を担うが故に『陰なる軍勢』と揶揄されながらも、忠義を尽くしてくれていたはずの男であった。だが戻ってきたあの者は実体を持つに至っており、自分自身を含め全ての存在に対し憎悪と殺意を抱くようになっていた。そこをある女神に付け入られたのだ」
「無への回帰を目論む『無の女神』、ハーデロスのことだな」
「神々の世界では互いの存在意義を巡り、勢力争いのようなものが常にある。その神々のなかに、名を持たぬ神が存在している。あまりに気まぐれであり、司る役割も持っておらぬ故、そなたらの世界まで伝えられておらぬかも知れぬが――」
「それはもしかして、『名無き神』のことですか」
「そなたは、その名を口にしないほうがよいであろうな」
「え……どうして、でしょうか?」
トルテが戸惑う。リューナにも話の流れがさっぱりだったが、ラウミエールは構わず先を続けた。
「名を持たぬ神こそが、神々のなかで最も強力な存在。それ故に女神はその神の干渉を疎み、この上ないほどに忌み嫌っている。恩恵や影響を受けたもの全てを、自分の領域である『無』へと引きずり込みたいのだろう」
「そんな」
「名を持たぬ神は、そなたらの世界の創世にも関与しておる。よって、そなたらの現生界そのものが女神にとって滅亡の対象なのだ。けれど神界から直接手を伸ばすことはできぬ。別世界に在るものを滅ぼしたければ、自分の目的に合った手駒を手に入れて操るしかない」
「それで過去にも手を出してきたってのか?」
「時間の流れという概念がそれぞれの世界で異なっているが故に、果たして何処から何処までが意図されたものであるかは我らにも判別できぬが、あの禍々しき雷撃を放っていた黒矢は間違いなく邪悪な関与のひとつであろうぞ」
あの悪意と喪失そのものが凝縮されたかのような黒い破壊矢のことか――ラムダが放ってきた攻撃のことを、リューナは思い出した。
「そなたらにとって過去に起こった出来事は変えられぬ。けれど続く未来は変えることができるはずだ。そう考えた者が、そなたらをここへ導いたはず」
「それって――」
リューナとトルテは眼を見合わせた。彼らに母ルシカの危機について助言し、幻精界への『門』を開かせた『時間』の魔導士のことがはっきりと脳裏に思い描かれたのだ。
「ハイラプラスさんのことですよね……」
「あのおっさん、さっぱり理解できねえ……」
感心したものと脱力したもの、ふたつの声がばらばらと重なる。
「そろそろだ。気を引き締めよ」
唐突に、ラウミエールが警告を発した。弾かれたようにリューナとトルテの視線が前に向けられる。スマイリーが唸り声と同時に減速した。近いのだ。
眩く光り輝く色模様ばかりであった光景を覆すかのような、『それ』が見えた。
「なんだよあれ。すっげえ大きさの……砦か?」
破壊され粉砕された建造物の破片が、魔力の流れの滞った奥底に留まっていた。無数に浮かぶ岩塊となって多重の螺旋を描きながら不気味な気配を放つ、何かとてつもなく危険なものの巣のように複雑に絡み合っている。
「我が宮殿が崩されたとき、そのほとんどが大地の裂け目から魔力の地脈へと呑まれた」
ラウミエールの声なき思念が語った。
「壁や柱が破片となり形を変え、そなたらの往く手を阻んでいる。瓦礫の迷宮で自身を鎧い、姿を隠そうとするとは。実体を無くし剥き出しの憎悪のかたまりと成り果てたか、或いは……虚無に食い尽くされた残滓のみが漂っているのやもしれぬ」
「こっから先は、さっき伝えたとおりだよ、おねえちゃん」
それまで静かに目を伏せていたナルニエが顔を上げ、トルテに向けて口を開いた。
「うん、ありがとうね、ナルちゃん。ここからは任せてください」
光を透かした水色の瞳と、朝焼けに空を染める太陽色の瞳が見つめあう。白銀と金、髪の色は違うけれど、こうして並んでいるとふたりはまるで仲の良い姉妹のようだ。
「おにいちゃんも気をつけてね」
「おう」
こちらのことも気にかけてくれているらしい。こんな可愛い妹ならひとりいてもいいかもな――リューナはぶっきらぼうに返事をしながらも、ちらりと嬉しくそんなことを考えた。
「ぼっとして柱にぶつかったりしないでよ。おにいちゃんいっつもカンジンなところで抜けてるんだもん」
前言撤回だ――思わずつぶやき、口の端を曲げたリューナだった。腕を組んでわざとらしいため息をついていたナルニエがニッと微笑み、リューナと互いに舌を突き出し合ったのをみて、トルテがくすりと笑う。ピュイがさざめくように鳴き声を響かせた。
さきほどまで重苦しい会話を交わしていたのがうそのようだ。まるで春の風を受けたかのように雰囲気がふわりと和らいだものになる。このほうがいい――リューナは微笑みながら目を閉じ、そして開いた。
魔導の瞳に覚悟とありったけの力を籠め、手のなかの剣に意識を集中させる。慎重に選んだ付与魔法を魔導の技で行使し、さらに呪文として馴染み深いふたつの魔法を自らの身体にかけた。
トルテも腕で円を描くようにして幾つもの動きを重ね、複合魔導を行使する。守護の魔法が仲間たちをしっかりと包みこんだ。
リューナの体の内にも力が炎となって燃え上がり、神経が研ぎ澄まされ、高揚感に満たされる。やっぱトルテの魔法が一番だな――リューナはニッと笑い、青い光を纏った剣の柄を握り締めた。
「さぁて、いこうか!」
人語を解する『月狼王』スマイリーが、リューナの声に反応した。澱み停滞しかかっている魔力の流れを猛然と蹴りつけ、絡み合った瓦礫の奥へと進撃を開始する。
リューナの戦いなれた本能に、尋常ならざる力が奥に渦巻き潜んでいるのが感じ取れた。隠しようのない『無』の気配と喪失感、そして途方もない憎しみと嫌悪……世界のみならず自分自身ですら許せないもの、滅ぼさねばならぬもののように思っているのかも知れなかった。
ラムダは実体という殻を無くしてしまったのだろうか。ひどく不安定な、蠢くようにさざめいている気配。自らが引き起こした爆発に吹き飛んだか魔力の奔流に呑まれたか――いずれにせよ、感じる気配はもはや生き物のそれではなかった。
「来ます!」
魔導の力を遣って前方の動きを探っていたトルテが声をあげた。
往く手を阻んでいた瓦礫のかたまりが吹き飛び、間髪を容れず黒い影が襲い掛かかってくる。周囲に渦を成していた色彩が光とともに弾け、ごっそりと闇の内に呑み込まれた。まるで爆発的に増殖した粘菌か、餌に襲い掛かる微細な肉食蟲の大群さながら、周囲の魔力を貪欲に喰らっているのだ。
「ひいッ」
あまりの気持ち悪さに、ナルニエが引き攣るような悲鳴をあげた。卵と幼女をかばい、ピュイが鋭い威嚇の声を発する。
トルテは腕を振り上げたままだ。その大きなオレンジ色の瞳には、無数の白い星の輝きが宿っている――魔導の技を行使している最中だ。リューナはいつものように、トルテの魔導の技『遠隔操作』で虚空を駆け巡っていた。
「てやあぁぁぁぁッ!」
気合の入った掛け声とともに、真上からリューナが剣を叩きつける。スマイリーの鼻先を掠め、闇色の肉塊と化したラムダが吹き飛んだ。剣の刀身に付与した『完全魔法防御』が、肉体という容れ物を失ったラムダを阻んだのだ。まるで水袋を叩いたような感触が、リューナの腕に残る。
吹き飛ばされたラムダは、すぐに方向を転じて再度襲い掛かってきた。
スマイリーが器用に身を翻すように立ち回り、距離が狭まったタイミングを見計らってピュイが炎を吐く。リューナも魔法での攻撃を連続で叩き込んだ。
闇の塊と化したラムダは少しずつ、だが確実にその身を削られていった。
知性のかけらもみられない不気味な動きは迅速で躊躇なく、個性が残っているとは言い難いほどの外見だ。リューナは顔を歪めた。斃すことに躊躇はない。けれどなにか……途方もない嫌な予感がする。
「トルテ、ヤツの内部に違和感を感じないか? 得体の知れないものがまだ隠れているような」
「はい、あたしも感じています」
剣の魔法で攻撃をかわしつつ魔導の技を繰り出していたリューナの疑問に、トルテが即座に答える。以心伝心、リューナの僅かな視線や動きをトルテは正しく読み取ってくれているのだ。
「よし。俺をヤツに思い切りぶつけてくれ、トルテ。この剣でぶった切って確かめてくるッ」
「わかりました。気をつけてね、リューナ」
大胆なリューナの考えにもトルテはすぐに応じた。
だが、リューナが次の攻撃のために態勢を整えたときだ。相手のほうが猛然と突っ込んできた。
「なっ」
「あ……」
ラムダの闇が眼前でふたつに割れ、リューナの両脇を掠め過ぎる。スマイリーの鼻先を飛び越え、トルテの細い体を絡め捕らえた。まさに一瞬の出来事であった。
「イ、ヤアァァァアッ!」
トルテが凄まじい悲鳴をあげた。魔導の集中が途切れかけ、リューナの体勢がぐらりと傾ぐ。けれどトルテは歯をくいしばって苦痛を堪え、リューナを自らのほうへぐいと引き寄せた。
彼女の影に締め付けられている箇所から、黒い陽炎のようなものが立ちのぼっている。すべらかな頬が赤く染まり……次いで急速に蒼ざめてゆく。維持していた魔導に対する集中が途切れ、リューナの体を虚空へ飛ばしていた力がフッと消失した。
「トルテッ!!」
苦痛のなかで機転を利かせたトルテが引き寄せてくれたおかげで、リューナは魔力の流れのなかに落ちずに済んだ。飛ばされた勢いのままスマイリーの横腹に着地して体毛を掴み、体を引き上げるようにして急ぎ背の上まで登る。トルテの為だ、スマイリーも唸り声ひとつ発しなかった。
「お、お姉ちゃん」
「ピイイイィィイッ!!」
目を見開いてナルニエが震え声でトルテの名を呼び、ピュイは卵を支えながらも炎を口から噴いて彼女を救い出そうと必死になっていた。
リューナはすぐさま剣を構え、ふたりに「任せろ!」と大声を出した。ナルニエとピュイを下がらせる。苦しそうなトルテと一瞬、眼が合った。ほんの僅かな間でリューナの意図を理解したのだろう、トルテが息を詰めてもがくのを止め、彼の瞳をしっかりと見つめる。
リューナは剣を閃かせ、怒涛のように連続で突き入れ、切り払った。
凄まじい剣圧と衝撃がトルテに叩き込まれる。けれどその繰り出された切っ先は、トルテの肌にひと筋の傷すらつけていなかった。
切り刻まれた黒い闇が四散するようにバッと離れ、トルテの体を解放した。倒れかかる小柄な細い体を、リューナはすぐに抱き留めた。衣服はあちこちが焼け焦げ、露出していた肌に火傷のような傷が幾つも生じている。リューナはすぐさま自身の魔導の力を総動員させた。『完全治癒』だ。
「リュ、ナ……ごめんなさい……ゆだ……しました」
「油断したのは俺だ」
「でも……これで判別できました」
リューナの魔導の技で全身の傷を癒されたトルテは呼吸を整え、すぐにしゃんと顔をあげた。
「ハーデロスです。闇の内側に『門』が開きつつあります!」
「なにッ!?」
「この場所は、魔力の流れが停滞していることで濃さを増しています。次元もかなり不安定な状態です。もし神界との『門』がこんなところで開かれたら……!」
リューナはラムダであった黒い闇を見つめた。四散していた闇は離れた場所に再び収束し、わやわやと形を整えつつあった。ぽっかりと開いた虚無の穴だ。その光景を見てすぐさま脳裏に浮かんだのは、最初に過去へと飛んだとき、ミッドファルース大陸が消失した戦闘のさなか、ドゥルガーという魔導士が実行した『神の召喚』の魔法のことだった。
「おそらく、すでにあのひとは身も心も憎悪に食い尽くされて、自身の内側にハーデロスの為の礎を創ってしまっていたんですね」
リューナの腕のなかでトルテが静かな面持ちで言った。憤怒でも闘志でもない。その声はとても悲しそうで、憐れんでいるかのような響きさえ感じられる。幼なじみの少女は、自分を傷つけた相手すら憎むことがないのだろうか。リューナは言葉にできない感情に衝かれ、思わずトルテを抱きしめた。
「お兄ちゃん、くるよ!」
ナルニエの声に弾かれ、リューナは顔をあげた。影が再び襲い掛かってきたのだ。
リューナの剣に付与された守護魔導に押し返され、動きが鈍ったところをピュイの吐き出す高熱の炎に焦がされる。シュウシュウと音を発しつつ、影は干上がるように縮んでいった。だが内に抱えていた虚無の穴はますます大きくなっていく。
押し寄せてくるような底知れぬ恐怖。本能が危険を感じているといえばいいのだろうか。ふいに生じたゾワリと背筋を駆け抜ける予兆に、リューナは思わずトルテや仲間たちを背にかばった。
「いけません! スマイリー回避して!!」
気づいたトルテが叫ぶ。同時に、穴から波動のような衝撃が海嘯のように押し寄せた。
「うわッ!」
「キャアァッ!」
逃れることができたのは、『月狼王』の身体能力のおかげだろう。いままでリューナたちの居た場所の周囲の瓦礫が、ビキビキと音を立てて変容していった。みるみるうちに色を失くし、細かなひびを生じ……端からまるで砂のようにザラッと崩れ去ってゆくではないか!
「石化の呪い……神界の力がどんどん強まっています」
リューナの背にしがみつき、トルテが震える声で続けた。
「近づいているんです、リューナ。……すぐにハーデロスがここまで到達してしまいます。そうなってしまったらもう、次元の転覆は避けられません。アーストリア世界の全てがはじまりの『無』へと返ってしまいます!」
五つの世界はバランスを失い、現生界だけではない、幻精界も、神界ですら『無』に帰するのだ。世界創世より前の状態に戻ってしまう――その光景がどんなものなのか、リューナには想像すらできない。はっきりしているのは、自分やトルテ、仲間や家族、全ての者が存続できないという事実だ。
「チクショウ! どうすることもできないのかよ……これじゃまるで『神の召喚』の再来じゃねぇか」
邪神の波動を懸命に回避し続けるスマイリーの背の上で、リューナは奥歯を噛みしめた。
「二千年前……あのときは『邪悪の主神』でしたけれど、あたしたち、神界まで押し戻すことができましたよね」
「押し戻すというか、わかってもらったというか。けどあのときは五人の術者とおまえの描いた魔法陣があったんだぜ。いまここには――」
「あのときの魔法陣と魔導の理は全部、覚えています! 構造原理は理解していますから、この状況への調節も可能です!」
決然としたトルテの言葉に、リューナは目を剥いた。彼女は自分ひとりで神界へと開かれつつあるこの『門』を閉ざそうというのだ。魔法王国ヴローヴァーの滅亡のきっかけとなった事件の折には五人の魔導士が行使し、膨大な量の知識と魔力を必要とした魔法陣である。いくら幼なじみの記憶力と魔法知識が並外れて優れていようとも、魔力が足りなさすぎると思われた。下手をすれば生命維持の魔力すら保持できず、死に至ってしまうだろう。
たがトルテの瞳は確信を持っているような強い眼差しで、リューナを真っ直ぐに見つめている。トルテの背後には、ナルニエとスマイリーが固唾を呑んで、祈るように成り行きを見守っている姿があった。
リューナはごくりと唾を呑んだ。
「けど魔力が足りなくなったら――」
「やるしかないんです、リューナ!」
こうすると決めたときのトルテの意志は、幼なじみのリューナであっても覆すことは難しい。どんなに困難な状況であろうとも、手立てがあるのならば躊躇なく自分の生命を差し出すような少女だ。世界の命運というより、仲間や父や母、そしてもしかすると俺のために――。
いままでは差し伸べた手も間に合わず、この目の前の大切な少女を失うという危機に何度も直面してきた。そのたびに何度も後悔し、護るという決意を胸に刻みつけ自分に言い聞かせてきた。
リューナは剣を下した。かわりにトルテの細い肩を掴み、大きなオレンジ色の瞳をひたと見つめる。胸の前に両手を重ね、こちらを祈るように見上げてくる少女に、彼は言った。
「よっしゃ、トルテ。その魔導の理、俺に教えてくれ」
「え……で、でも」
リューナの言葉に、トルテが瞳を揺らした。自分以外の人間を巻き込むことは頭になかったようだ。トルテの瞳をしっかりと見つめ返しながら、リューナは明るい口調で続けた。
「一緒にやろう。こう見えても俺は魔導士だ。やらせてくれ、傍で見守っているだけじゃなく、俺ならおまえと一緒に出来るんだからさ!」
「リューナ……あのときみたいに、ですか?」
「そう、あのときみたいに!」
トルテは僅かに顔を赤らめて頷いた。腕を伸ばし、リューナの首に抱きつく。きゅっと力を込めて体を寄せたあと、上体を離して間近にリューナの深海色の瞳を覗き込むようにして顔を近づけた。
トルテの唇とリューナのそれとが穏やかに重なる。
甘くやわらかな衝撃とともに、リューナのなかに膨大な量の知識が流れ込んできた。相変わらず凄まじい体験だが、熱に浮かされるような流れに翻弄されると同時に、体の一部に感じる優しい温もりに、こういうのも悪くないという想いがちらりと頭の隅をかすめる。
「だいじょうぶですか、リューナ」
「あ、あぁ、いや。あのときみたいにって、そこまで再現しなくてもよかったんだけど……いや、な、なんでもねェ!」
繋がる体はどの部分でもよかったはずだが、素直なトルテは「あのとき」のままに実行したらしい。自分より細い腕に支えられながら、リューナは照れ隠しに笑ってみせた。跳ねおどる心臓はどこかへ行ってしまいそうだったが、頭のほうはトルテから魔導の理をしっかりと受け入れていた。
「いいぜ、やろう!」
ふたりはスマイリーの背の上に並び立ち、同時に魔導の技を行使した。
トルテが腕先の動きとともに魔法陣を形成し、リューナが魔導の理にしたがって意志の力で魔法陣を埋め、重ねてゆく。怖ろしいほどに複雑な多重魔法陣だ。けれどトルテのもたらしてくれたばかりの知識が、迷うことなく導いてくれる。トルテが綴る魔法陣に自らの魔法陣を重ね、溶け込ませてゆく。
開きかけた『門』が閉ざされてゆく。けれどハーデロスも容易くは退いてはくれなかった。ぎりぎりと凄まじい力を籠めて『門』を押し開いてくる。
リューナとトルテの描く魔法陣は、かなりの大きさに達していた。組み上げるだけでなく、維持のためにも膨大な魔力を要する。
体内からごっそりと魔力をもっていかれる感覚――リューナにとってここまで限界を感じたことは初めてだ。トルテひとりに実行させなくてよかったと思う。成功したとしても間違いなく、彼女の生命は助からなかっただろう。
『門』の奥に感じる強大な存在。それがいまだ全体像ではなくとも、なんと怖ろしく凄まじい圧迫感なのだろう! 自分たちが生まれる前の出来事である『極』の折、邪神の降臨を阻止した親たちの世代が直面した危機は、これほどまでに凄いものだったというのか。
リューナはトルテと意識をひとつに重ね合わせ、ふたりの魔導の技がついに邪神の抵抗を上回った。効果が完全なものとなる。
そのときだ。ピキピキという、薄い氷に亀裂が走るかのように微細な音が響いた。
「ピ、ピピィッ、ピュルティ、ピューリ!」
魔導の行使に意識を集中させながらも、ピュイの鋭い呼び声にリューナは思わず振り返った。
巨大な卵が内側から割れている! 周囲の魔力の圧力に刺激され、卵が孵化しようとしているのだ。
剥がれ落ちた乳色の殻の向こうから、何かが覗いた。くるくるとよく動く瞳――まるで竜のような、稀有なる宝石さながらのまるく輝く星のような、不思議であどけない煌めくような眼差し。
そいつとリューナの眼が合った。刹那、時が止まったような静寂。
「リューナ!」
トルテの悲鳴で我に返る。抗うように闇色の明滅を繰り返しながら、急速に縮んでいたはずの穴から最期の足掻きともいえる強力な波動が放出されていた。範囲が広すぎる――すでに回避をはじめたスマイリーでも避けきれないことを、戦い慣れたリューナの感覚が告げた。
――冗談じゃねェ。あんなもの喰らったら、みんなおしまいだぞ!
「させねぇッ!!」
リューナは一歩踏み出し、トルテの前に飛び出した。
「俺のことは構うな! やっちまえトルテ、あいつを神界へ送り還してやれッ!!」
正直、文字どおり自分の全身全霊を懸け踏ん張っても、トルテはおろかナルニエたちですら護りきれるかどうかわからなかった。だがリューナは、それがたとえ不可能でも可能にしてやるつもりでいた。
息を吸い込み、気合いを込め、『生命』の魔導である己の内なる力を鼓舞させる。
押し寄せる破滅の波動。リューナたちを石に変え打ち砕くであろう圧倒的な力の先触れの圧力となり、耳を聾する。
……キュイイィィィィィッ!
一声聞こえたのは、なんの咆哮だったのだろう。突然、目の前が真っ暗になった。意識を失ったのではない。圧倒的な大きさをもつ影が眼前に割って入ったのだ。リューナは目を見張った。
『巨大魔海蛇王』だ。巨大な体躯をもつ始原の魔獣が、ハーデロスの力の前に立ちはだかったのだ。
凄まじい衝撃が始原の魔獣に突き当たる。さしものレヴィアタンですら苦痛と衝撃に耐えかねて激しく身を捩り、暴れ回った。
空間が渦を巻いている、と言われたら、果たして想像がつくだろうか。
いままさに、そうとしか言いようのない光景が目の前で繰り広げられている。凄まじい音を立てて石化しながら、レヴィアタンは渦成す空間に引きずられるようにして螺旋状に落ちていった。その先に、綻びのような別の穴が開いているのが目に入った。周囲を満たしていた膨大な魔力も、大量に吸い込まれてゆく。
スマイリーの背にしがみつき、為すすべもなく一行はそのさまを見守った。生まれたばかりのレヴィアタンの幼体が心細げにキュイと啼きながら、リューナとトルテの腕に擦り寄ってきた。
「孵ったばかりの子どもを、護ろうとしたのでしょうか……」
なだめるように細くなめらかな生まれたばかりの体躯を抱きしめ、トルテが涙まじりに呟いた。リューナはレヴィアタンの幼体ごとトルテを抱き、穴へと吸い込まれながら激しく渦を巻く魔力を油断なく見守っていた。
神界の『門』は完全に消滅していた。開いているのは自分たちの通ってきたものと同じ次元の扉だろうか――なんとなく似た雰囲気を感じる。
「次元の扉だよな、あれは……向こう側に現生界があるような気がする」
リューナの言葉にトルテが顔をあげた。こくりと頷く。
「はい、現生界へ続いています。でも、あたしたちの時代とは違うはずです。あたしにも正確にはわかりませんけれど、ずっとずっと昔みたい」
こぼれ落ちた涙のひとしずくを拭い、トルテは瞳に力を込めて言葉を続けた。
「巻き込まれてしまう前に、あたしたちはあたしたちの居た時代へ戻らねばなりません」
「も、戻るって……出来るのか、今ここで!?」
リューナたちが幻精界へ降り立ったのは、暗闇の続く『常闇の地平』だった。同じ地点に開いた『扉』でないと正しい時代と場所へ帰れないと思っていたのだ――誰かそんなことを言っていなかったか?
「できるよ!」
返事をしたのはナルニエだった。水宝玉色の瞳を煌めかせ、身を乗り出すようにして力いっぱい声をあげた。
「おかあさんが、ナルの手を握ってって言ってる! そしたらもと来たときと同じ『扉』が開けるって。あたしとお姉ちゃんがカギになっているんだって」
トルテがなにかを感じたように、ハッと息を呑んだ。慌てて自分の指先を見つめる。
リューナも目を見開いた。トルテの指先が輝いている。『時間』の魔導士ハイラプラスが先読みして、またなにか魔法を仕込んでいたに違いない。出発前、リューナが忘れ物を取りに行っている間に、トルテの部屋を訪れていたことを思い出し、リューナの心の内が落ち着かないものになった。
魔導士の少女は幻精界の幼女と手を繋ぎ、輝いているほうの腕先で魔法陣を描いた。絢爛に夜空を彩る花火のように、虹色の魔法陣が描き出される。美しい魔導の輝きが周囲に滔々とあふれ、一行を包み込んだ。
なつかしい風が肌に、音が耳に届いた気がした。穏やかに澄み渡る青空ときらきらと輝く大河の水面が、あざやかに眼に浮かぶ。清冽な水がひたひたと押し寄せ潤おしてゆくような安堵感が全身を包み、満たしてゆく。しかしリューナは心中穏やかではなかった。
――戻ったらトルテになにをしたのか、とっちめてやるからな。ハイラプラスのおっさん!
リューナは固く心に誓った。次元の扉は一行を呑み込み、パシンと音を立てて閉じた。




