9章 過去と今をつなぐもの 7-26
テロンの腕のなかで、ルシカは穏やかな呼吸を繰り返している。
すべらかな頬にはあたたかな色が戻り、金色のまつげとやわらかな髪が光に透けるように輝いていた。先ほどまでの苦しそうな様子がうそのようだ。
「体温は戻っているが……魔力のほうは足りているのだろうか」
魔導の瞳を持たぬテロンには、魔導士である彼女の状態すべてを理解できるわけではない。だが今までに行使してきた魔導の凄まじさは、魔法を遣えぬ彼であっても充分すぎるほどに理解できるものであった。
まるで自分の痛みであるかのように彼女のことを心配するテロンに、ファリエトーラは光に透ける水宝玉色の目を優しく細めながら口を開いた。
「幻精界がこうして本来の姿を取り戻したのですから、アウラセンタリアからの魔力によって魔導士たちの回復も速まっているはず。心配は要りませぬ」
「本来の……光景。そうか、これがそうなのか」
テロンは顔を上げ、改めて周囲の驚嘆すべき光景を眺め渡した。彼らの世界では存在し得ぬほどの規模を誇る虚空に浮いた美しい都と、色のついた風が際限なく吹き出してくる螺旋状の光の柱が天と地を繋いでいるさまを。
「天に在りて光を投げかけ、導きと繁栄をもたらすのが我ら『光の都』。地に在りて夜を支配し、平穏なる闇に包み憩いをもたらすのが『影の都』。幻精界の中心であり要たるアウラセンタリアに繋ぎ留められていると同時に、この世界すべてに存在しているともいえまする」
テロンが目を見張りながらも真の理解にまで至っていないことを正しく読み取ったのであろう、ファリエトーラは穏やかに話題を変えた。
「現生界と違う次元にあるこの世界とでは、あまりにも違いすぎますから、感じるままに信ずればそれで良いのです。とはいえ、我が故郷であるこの世界が、そなたたち別世界の者の目にも美しく映っていることを願いますが――。今、『光の都』からエトワがこちらへ向かっています。そなたたちの子はとても元気ですよ」
超然たる美貌のファリエトーラが微笑むと、空高く広がる光の都から発せられる光も明るさを増しているような気がした。統治者は都と命運をともにしていると言っていたから、あながち目の錯覚ではないのかもしれない。
テロンは腕に抱いたルシカの顔に視線を落とした。
「子どものことも、ルシカのことも……この世界も無事で本当に良かった。きっとあの子も安心しているだろう。母親のいない寂しさは、俺も兄貴もよく知っているから――」
ルシカの顔に、もうひとりの愛する小さないのちが重なって見えた気がした。あどけない笑顔、新米の母と父。腕に抱いている妻ルシカの生命の印である温もりを、改めて感じる。
無事で本当に良かった。胸にじんわりと広がってゆく安堵と未来への喜びに、テロンは顔を上げた。
「本当に感謝している、ありがとう」
テロンの揺らぐことのない真っ直ぐな眼差しに、ファリエトーラが深く頷くようにして応える。傍らの幼女が嬉しそうに黄金の衣の端を掴み、ファリエトーラに寄り添った。
幼女は膝をついてもなお自分より丈高いテロンを見上げ、屈託のない笑顔でにぱっと笑った。
「感謝してるのは、こてゅ――こちらのほうなんだよ。助けてくれたでしょ、ありがと!」
「たいしたことはしていないよ。こちらも君たちに助けられた、ありがとう」
まなじりを下げて幼女に頷いたあと、テロンは空を見上げ、深く息を吸い込んだ。
幻精界の空気は濃く、潤いに満ちている。甘く芳醇な香りは、どこかで花々が一斉に満開に咲き開いたのかも知れない。確かに幻精界は変化した。これでもう安心だろう。
ふと移動させた視線の先には、巨大な幻獣と子どもほどの大きさの龍、そして魔導士の若い娘と剣を扱う青年が立っていた。姿も種族も違うというのに、ふたりと二体はとても仲が良さそうに互いに寄り添い、自然に言葉を交わしている。
目を細め、テロンはつぶやくように言った。
「ともに闘ってくれた彼らは……何と言ったらいいのか、とても不思議な感じがする。どこかで逢ったことのあるような、けれどそれを口に出してはいけないような気がするんだ」
「運命とはめぐり合わせ。全てに意味があり、無駄なものはただのひとつもありませぬ。けれどそのひとつひとつを見定めなくても良いのです。あるがままを受け容れてゆくこと、そのために勇気や覚悟が必要なことも、時には必要でしょう。けれど、いつも恐れず立ち向かってゆくことができるのならば――」
光の領域の統治者は肩越しに背後を振り返り、言葉を続けた。
「必ず、未来を拓くことができるはずです」
「それはどういう――」
とても重要なことが語られている感覚に押され、テロンが口を開きかけたとき、腕の中から微かな声があがった。
「……ん」
ぐったりと伏せられていた金色のまつげが震え、ルシカが目を開いた。
「ルシカ、気がついたか」
「……どう、なったの。みんな無事……なの?」
かすれるような声でルシカが問うた。大きな瞳を潤ませ、嗚咽をこらえるように、急き込むように、目の前のテロンに問いかける。
「あたし……体のなかに……何か、魔導が……魔導が霧散してしまって制御が――」
無理に身を起こそうともがくルシカを抱きしめ、テロンは彼女の顔をのぞき込んだ。
「ルシカ。心配するな、すべて落ち着いたんだ。君もあの子も無事だ。幻精界も本来の姿に戻ったし、皆ここにいる。何も心配することはないんだ」
「テ……ロン」
テロンと視線が交じり合い、ルシカの表情がふっと緩んだ。
「ほんと……に。あなたも無事なの……?」
おずおずと伸ばされた手を、テロンは自分の大きな手で包み込んだ。抱きついてきた細やかな体をしっかりと抱きしめ、彼女の懼れや懸念を受け止める。ようやく心から安堵したようにあたたかな吐息をついたルシカは、テロンの腕に支えられてゆっくりと身体を起こした。
周囲を眺め渡した彼女は、驚きの声をあげた。
「まぁ……! すごいわ、なんて素晴らしい。そうか、そうなのね……。これが本来のファントゥリア・エランティスなんだわ」
「今、何と?」
「とても古い古い言葉よ。グローヴァー魔法王国よりもっとずっと昔に使われていた古代の言葉……輝ける希望と未来、幻精界の大いなる都、時空を彷徨う光と影、すべての調和と円環を意味しているの」
「そう、それが失われていた双つの都の真の呼び名です。幻精界と称されるこの次元を支え、森羅万象を導くもの」
口を開いたファリエトーラは、超然とした美しい面立ちを悲しみに浸していた。
「その名が失われたことは、今までに二度ありました。此度のアウラセンタリアの危機、そして、かつてわらわが未来を夢見て現生界へと渡ったときです。そこで出逢った人間族の者と結ばれ、さまざまなことが起こりました。手に入れたものも失ったものも、手にしたけれど最後には失ってしまったものもありました」
静かに語り続けるその声は、はっきりと震えていた。
「本来は肉体という外殻を持たぬ幻精界の存在が変化してゆく原因について、はっきりとは解っておりませぬ。けれど憎しみや友愛など、とても強い感情が関わっていることはおそらく真実のひとつでありましょう」
「憎しみや……友愛?」
テロンは傍らのルシカに視線を向けた。ひとの心の痛みを我が事のように感じることのできる彼女は、大きな瞳を涙で潤ませていた。
「わらわにとっては愛でしょう」
ファリエトーラの瞳の透き通るように明るかった色は、雨降る前の藍空のように翳っていた。永遠に等しい時のなか、痛みと後悔、失ったものへの愛しみとそれゆえの喪失感に打ちのめされ続けているのだ。
「……多くの魔法、出逢い、そして愛による奇跡がありました。幸福で満ち足りた日々も。しかし、わらわは幻精界を離れるべきではなかったのです。愚かにもそのことに気づいたのは、ファントゥリア・エランティスが消失するという危機を迎えたときでした。『光の都』のみならず『闇の都』もが消滅しかけたのです」
「そんなことが」
ルシカが驚いたように小さく息を呑む。古代魔法王国期の記録から自然現象、魔法などの凄まじい量の知識をもつ彼女でさえ知り得なかった歴史なのだろう。
「双つの都と民たちを救うため、『影の都』の統治者が自らの身体を犠牲にして時間を稼いでくれました。わらわは現生界での大切なもの全てを置き去りにして帰還し、結果として幻精界は危機を脱しました。……けれど夫と子、そして同胞たちを現生界へ置き去りにすることになってしまったのです」
光の領域の統治者は瞳を伏せた。
「夫は……そんなわらわを追って幻精界に入り、双つの都の民たちに追われました。入ってきた次元の扉とは別の場所から放り出され……結果として生きていた本来の時代と場所を永遠に失ってしまったのです。格闘の技に長け、正義感にあふれ、拳も心もとても強かったあのひと。光の闘気を身に纏うことで、民ならず幻獣たちですら退け屠ることもできた。けれど、あのひとはそうしなかった」
ファリエトーラは顔をあげ、悲しみに顔を歪めてテロンを見つめた。超絶した美貌はそれでもひどく美しかったが、頬に涙の雫は流れなかった。ただ、光を内包した水宝玉色の瞳から、淡く儚げな光の粒が宙へとこぼれていったような気がする。
「光……の闘気?」
彼女が語った言葉のひとつが、何故かテロンの意識に引っかかった。
けれど聞き返したその時、少し離れた場所に光のかたまりが生じた。爆発するようではなく、ふうわりと穏やかに羽を広げて降り立つ鳳のように。『光の都』から、エトワたちが到着したのだ。
イシェルドゥたち三人の女性を付き従えたエトワの腕には、上質であたたかそうな布に包まれた赤児が抱かれていた。ルシカの顔がぱっと明るくなり、テロンの腕から駆け出していく。
「さて、どうやら戻るべき時が来たようですね。そなたたちは本来の時間の流れと居るべき場所に在らねばなりませぬ。我らの力も戻っておりますので、今ならば問題なく同じ光の道を造り出すことができましょう」
ファリエトーラが表情を改めて言った。先ほどまでの悲しみは水が流れ去ったように跡形もなく消え失せている。
今の彼女は統治者に相応しい悠然とした微笑を湛えていた。揺るぎのない柱のごとく堂々と立っている――ほっそりとした背を真っ直ぐに伸ばして。
その様子にテロンは何故か、兄クルーガーのことを思い出した。国王として、いかなるときも己の内にある懸念や弱さを表に出すことなく毅然として佇んでいる姿を。自分たちが消えたことで、兄をはじめ、王宮の皆もどんなにか心配していることだろう。
生まれて間もなかった娘を抱き渡されたルシカが嬉しそうに微笑んでいるのを見ながら、テロンは頷いた。
「そうだな。俺たちは戻らねばならない」
その決然とした言葉を聞き、ファリエトーラが彼の瞳を真っ直ぐに見た。
「これからも、そなたにとって辛く苦しい事があるやもしれませぬ。けれど、どんなときにも愛する者を護り通そうとする覚悟のある、そなたならば」
続く言葉は声としても思念としても語られなかったが、テロンは眼に力を籠めて頷いた。
ファリエトーラは身体の向きを変え、エトワたちのほうへ歩んでいった。ナルニエが母の衣の裾から手を離し、仲間たちのもとへと駆け戻っていく。
テロンとファリエトーラが近づいてくるのに気づいたエトワが、理解の光を眼に宿してルシカに向き直った。
「戻るのだな、暁の魔導士。名残惜しいが、そのほうが良いだろう。そなたには休息が必要だ」
「うん。ありがとうエトワ。それにみなさん。お世話になったわ。あたしと娘のいのちを救ってくれて、本当にありがとう!」
生まれたばかりのふわふわした頬に自らのすべらかな頬を触れさせながら、ルシカが言った。テロンも妻の傍らに歩み寄り、幻精界の友人に向けて右手を差し出した。
「俺からも礼を言うよ。大切な家族を守ってくれて、ありがとう」
「それはお互いさまだ、君たちの言葉で言うのなら。世界の恩人なのだから。それに……我らは君たちから様々なことを教わった。魔導という技術、生命というもののもつ大いなる可能性、そして何より、互いを思い遣る気持ちがもたらす強さというものを」
幻精界の青年はそう言って微笑み、差し出されていた手をしっかりと握り返した。まるで雪花石膏のごとく涼やかな感触が、テロンの手のひらに残った。
ルシカがテロンの腕に寄り添うようにもたれかかり、注意を促してきた。妻の視線に導かれて顔を向けると、リューナとトルテが近づいてくるところであった――ともに戦った魔導剣士の青年と、ルシカによく似た瞳をもつ魔導士の少女だ。
「もう帰るのですか」
幼女に聞いたか、或いは雰囲気で察したのであろう、少女が寂しげな顔で問い掛けてきた。
「ああ。妻を休ませなくてはならないし、生まれたばかりの娘を俺たち本来の世界に連れ帰らなくてはならない。――共に闘えたことを嬉しく思うよ」
テロンの視線を受けた青年が、少々緊張気味に肩を強張らせながらも、真っ直ぐな眼差しで見つめ返してきた。隣に立っている少女のほうが何か言いたげな様子で瞳を伏せていたが、息を吸い込み、顔をあげた。
「あ、あのっ。あたしたち本当は――」
少女が言葉を発しかけたとき、まばゆい光が忽然と生じた。周囲を一瞬で真っ白に染め上げる。
光の統治者が天高く腕を差し伸べ、開いたのだ――次元を渡る為の『光の道』を。
「なッ。ちょっ、早いぞ!! もうちょい待ってくれたって」
白い光の向こうから、青年の威勢の良い声が聞こえた。その声に被さるようにして、ファリエトーラの凛然とした声が響く。
「運命の紐は絡まることがあってはなりませぬ。円環は閉じられてこそ意味のあるもの。……焦ることはありませぬ、時が満ちれば全ての問いに対する答えが得られましょう」
なおも強まってゆく光のなか、テロンはルシカとその腕に抱かれた赤児をかばように腕で包み込んだ。その腕のなかから、ルシカが静かな、だが心浮き立つように明るい声を発した。
「あなたなら大丈夫! あなたは独りじゃないんだもの。自分自身で限界を定めなれば可能性は無限なのよ。だって――あなたも限界から解き放たれた魔導士なのだから」
彼女の言葉は、いやにきっぱりとテロンの心にも響いた。同時に、光の向こうでも息を呑んだ気配があった。そして、「はい!」という涙まじりの応えの声。
「ルシカ、それはいったいどういう――」
彼女に問いかけたとき、凄まじい光量が弾けた。視界が真っ白に染め上げられる――テロンの意識は白き光の奔流に呑み込まれた。
彼が全身全霊を懸けて護ろうと心に誓った、ふたつの大切ないのちの温もりを感じながら。
「トルテ、どうした? やっぱどっか痛むのか……?」
リューナは身をかがめ、目を見開いたまま大粒の涙を零した少女の顔をのぞき込んだ。
「ううん――なんでもないの! リューナ」
魔導士の少女が慌てたように涙を手指で拭い、にっこりと微笑む。旅の出立からずっと思い詰めたようだった表情がきれいに消え失せ、笑顔が輝いてみえたので、リューナは思わず見惚れてしまった。
ぼぅっとしたリューナの腹に、ナルニエがえいやっとばかりに頭突きをする。不意を衝かれてまともに喰らってしまったリューナは、「て……てめッ!」と思わず怒鳴りかけたが。
「それにしても、おにいちゃんとおねえちゃん、ラッブラブだよね~!」
幼女がおませな調子で流し目をくれるものだから、リューナは「ぶっ!」と吹き出すように息を吐いた。体勢を崩し、振り上げたこぶしを意味もなく振り回す羽目になってしまう。
「なななな、なに言ってるんだ突然!?」
「だあってねえ。さっき、動かなくなってたおねえちゃんをギュ~っとして。おまえがいなくなったらオレが生きてる意味ないだろっ、目を開けてくれよトルテ! とかなんとかおっきな声でさけ――もがもがっ!」
リューナは喋り続けるナルニエの襟首を掴んで小さな口を塞いた。怒鳴ろうとして息を大きく吸い込んだところで目の前に立っている超然とした容姿の女性に気づき――慌てて幼女を床に下ろした。ナルニエの母だという女性にあたたかく微笑まれて、行き場のなくなった恥ずかしさのあまり頬が熱くなってしまう。
「ナルうそ言ってないもん!」
「あ、あの……本当にごめんね、リューナ。なんだかとっても心配かけてしまったみたいで」
トルテが必死で謝るものだから、リューナは余計に落ち込んでしまい……床にへたり込むところでパッと顔を上げた。笑い出しそうなのを必死で堪えている幼女に顔を向け、拗ねたような声をかける。
「そういやナル、おまえどうして今まで母親のこと話してくれなかったんだよ? なんにも憶えてないみたいに言ってたじゃんか」
「そりゃ、そうでしょが。ナルだってついさっき逢ったとき、いろんな記憶や質量を受け取ったんだもん。そのときにだよ」
幻精界の幼女はそっくり返るように胸を張って何故か途方もなく偉そうに咳払いをし、得意げに言葉を続けた。
「おにいちゃんたちと会ってすぐのときには、質量がきひゃ――希薄だったから、相応の姿でないと維持できなかったんだから。でも今はね」
ナルニエは、にぃ~っとばかりに意地悪く微笑んだ。一瞬で、その姿が変化する。
リューナとトルテは目をぱちくりと瞬かせた。ふたりの目の前には、彼らよりは明らかに歳上の、見事な肢体をもつ目鼻立ちの整った美女が立っていたからだ。
「……へ? お、おまえナルか?」
「そうよ、おにいちゃん。幻精界とあたしたちの都がもとの姿を取り戻した今、ナルの身体を構成している集合体もぎゅ~っと増えたから、成熟した姿にもなれるの」
「それでも、話し方は変わんねぇみたいだけど。あとガキっぽい態度も――ッテェ!」
リューナは幼女――もとい美女に踏まれた足を押さえ、いつも要らぬことを口にしては母シャールに爪先を踏まれて飛び上がっている父メルゾーンを思い出し……凄まじく落ち込んでしまう。
「でもナルちゃん、問題はそこじゃありません。ルシカかあさまは、助かったわけではないんですよね?」
トルテが珍しく適切な指摘をした。この上もなく真剣な彼女の視線につられるように眼を向けた先には、ナルニエの母ファリエトーラが立っている。
超然とした容姿の美しい女性だが、あまりに典雅な立ち振る舞いにはどこか生物離れしたものを感じる。だがそれでも、親しみを感じさせるほど自分たち人間族に近い雰囲気をもっている。女性の後方に控えるように立っている他の四人の幻精界の住人たちと比べてみれば、その違いが際立っている気がした。
ファリエトーラが面を改め、トルテの問いに答える。
「そう、まだ助かったわけではありませぬ。魔力の奔流に呑まれたとき暁の魔導士が万全の状態であったならば、悪しきものの侵入を許すことはなかったでしょう。けれど生命維持のため魔力すら危うく、かつ意識を失いかけていたことによって、生命の中枢に巣食われてしまうという隙を作り出してしまったのです」
「悪しきものって、まさかあいつか」
「たとえ魔導の力があろうとなかろうと、健康であろうとそうでなかろうと、現生界に住まう存在にとって出産はさまざまな危険を伴います。生命の存続にすら影響を与えることもあります。特に暁の魔導士は、非常に稀で複雑かつ厳しい状態にありました。それに加え、産後すぐに立ち向かった此度の危機……」
ファリエトーラは僅かに眉を寄せ、表情を曇らせて言葉を続けた。
「最終的に世界を救ったのは、今のそなたと生まれたばかりのそなた、『次元転移』の魔導士ふたりの力でした。その力は強大なものであり、今のそなたであっても自在に遣うことはできませぬ」
「魔導士……ふたり?」
「本来、時間の流れに委ねられ、決して出逢うはずのないふたつの脅威なる力――次元転換が、母という共通の存在を核に融合したのです。それは一時的ながらも爆発的に噴出した魔力の奔流という破壊的な圧力を引き受け、別次元に転換させたかたちで運ぶことで魔力を世界中に拡散させました。魔導は属性によってさまざまな色を発します。そなたの魔導は複合的なものであるゆえに、虹という色で表れているのでしょう」
「確かにあたしの力の『名』は『虹』ですが……」
「次元転移の力は、始原の力です。もし軽々しく世に現れることがあれば、予想もしないような多くの災いや争いの種を生み出すことになりましょう。始原の力は神々の力と同等ともいわれております。具現化される際に自然の『虹』の織り成す色模様にも似た、さまざまな種の光を発するといいますから、暁の魔導士は力の『名』を巧みに言い換えたのでしょう」
「神々の力と同等って……トルテに、そんなすっげえ力があるのかよ」
「過去のあたしと今のあたしの力が、ルシカかあさまを中核として具現化されたということでしょうか」
「その通りです。『万色』の力をもつ魔導士には、生まれながらにして自在に魔力をまとめ操るための構造が身体にあるようです。だからこそ万能魔法の遣い手なのでしょう」
ファリエートラは言葉を切り、微かなため息をついた。気遣わしげな微笑みを唇に刻み、類稀なる魔導を内に秘めた少女の瞳を見つめる。
「けれど暁の魔導士とて、ひとに変わりはありませぬ。そなたたちの力が流れ込んだとき、悪しきものも機に乗じて侵入したのでしょう。凄まじい負荷に耐えることだけでも精一杯だったところへ付け入られたのです。……そなたの母には休息が必要です。そして産まれたばかりのそなたのためにも、一刻も早く本来の時代、本来の世界に還すことが必要でした」
「本来の時代……。そういえば、あたしの産まれたときに――そっか、そういうことだったのですね」
「ん? なにがあったって?」
「お産のときの騒動のこと、クルーガー伯父さまから聞いたことがあります。ルシカかあさまの容態が急変して、直後に突然ものすごい光が爆発したそうです。ルシカかあさまと傍にいたテロンとうさま、おなかにいたあたしも一緒に忽然と消えて居なくなってしまったんですって。……クルーガー伯父さまたちが王宮中を探しても見つからなくて、王宮のみんなもすごく心配して、総出であちこち駆け回って探したそうです」
「あ、そういやそんな話をどこかで……」
リューナにも記憶があった。当時の彼はまだ幼すぎて、成長したのちに聞いた話ではあったけれど。
リューナの母シャールにとって、トルテの母ルシカは血を分けた妹のように大切な存在だ。当時、知らせを受けたシャールの心配ぶりは相当なものだったらしい。そのときの騒動が、ファンの街の自宅と王宮とを『転移』の魔法陣で繋ぐきっかけとなったのだ。
「次の日の朝、東領域エリアの図書館棟の近くの草原で、産まれたばかりのあたしをテロンとうさまとルシカかあさまのふたりで護るように腕に抱いて、倒れていたのが見つかったんですって。クルーガー伯父さまは、発見された三人がきちんと目を覚ますまで生きた心地がしなかったそうです。安心したあまりぶっ倒れるかと思ったって――あ、ここのところは内緒ですよ」
トルテが唇に人差し指を当て、リューナが苦笑しかけたとき、どこからともなく声がかかった。
「ファントゥリア・エランティス……か。やれやれ、その言葉を現生界の者の口から聞けるとは思わなかった」
ふいに響いてきたのは、音ではない。心そのものに伝わる波動のような力強い思念だ。
「この気配、まさか」
凄まじいまでの力を持つものの気配が、ファリエトーラの傍らに生じた。男がひとり、座した椅子ごと虚空から現れたのだ。彫り浅くとも凄絶なまでに整った美貌の持ち主だが、まぶたは閉ざされ、椅子から立ち上がることができぬ身体であることが見て取れる。
光あふれる光景の中にあっても闇そのものが凝ったような椅子は、いかなる魔法の業か、よく見れば水晶の床から僅かに浮いていた。
「我ら『双つの都』が引き裂かれていたことで失われたものは少なくはないが、すでに民らは心の平穏を取り戻し、我らの力も戻りつつある。現生界の魔導士というものは恐るべき存在のようだ」
重く圧し掛かるような威風堂々とした思念を響かせながら薄く微笑んだのは、『影の都』と常にともにあるべき存在、闇の領域の統治者ラウミエールだ。彼には訊きたいことがいっぱいある――リューナは息を吸い込んだ。口を開いた途端、苦々しい言葉が喉から滑り出る。
「おっさん、どうしてここに? こう言っちゃなんだけど、あの部屋に引き篭もっているのかと思ってたぜ」
「それは否定しない。孤独はすでに私の一部だが、だからといって外界のすべてとの接触を断ち切っている訳ではない。ここに来ねばならぬ理由があったからな」
「どうして自分で動けるなら、こんなことになる前に自分の部下ぐらい――」
ラウミエールは片手を挙げ、怒鳴りかけたリューナの言葉を遮った。
「まずは此度の騒ぎを完全に鎮めねばならぬ。私はその為にここへ来た。アウラセンタリアの本脈へ入り込むには、双つの都それぞれを統べている我らの力が必要なのだ」
「ほん……みゃく?」
「あの者は幻精界の最も奥深く、魔力の地脈の奥底に身を潜めている。この世界は現生界にも多大な影響を与えているのだ。あの者が存在し続けている限り、憎悪の念が消えることはない。暁の魔導士に巣食う生命の危機。永久に潰えることのない呪いのようなものだ。世界を『無』に帰することが叶わなくなった今、せめてもの道連れとしておのれの復讐の念を満足させたいのかもしれぬ。或いは――」
「或いは、神界に存在している神のひとつに操られているのやもしれませぬ。現生界の現状や万能魔法の遣い手を疎ましく思い、全てを消し去ろうと暗躍しているものが居るのでしょう。恐ろしい呪いです。呼吸を詰まらせ、肺を壊死させ、心臓を停止させる――肉体という殻を持つそなたたち現生界の住人にとって、それは『死』という最悪の結果となりましょう」
統治者ふたりの言葉に、トルテが蒼白になった。リューナは倒れかけた細い肩を抱き支えた。彼女に代わり、統治者たちに尋ねる。
「でもさっき、その呪いみたいなやつは解呪してくれたじゃんか。あれで助かったんだろ?」
リューナの問いに、ファリエトーラは眉根を寄せながら首を横に振った。
「いいえ。あれは『解呪』ではありませぬ。ただ『封印』したにすぎませぬ」
「封印だって!?」
「呪いの効果はすぐに現れるところでした。――が、わらわがその呪いを封印したのです。けれどその呪いは、幻精界の力とは全く異なる神界の力。おそらくは『無の女神』ハーデロスのものでしょう。完全に消し去ることはできませぬ。せいぜい十五年か十六年、発動を先延ばしにするしかできませんでした」
ファリエトーラは言葉を続けた。
「けれど案ずることはありませぬ。呪いの源を今から打ち砕けば良いのです」
「……え?」
リューナに肩を抱き支えられていたトルテが、弾かれたように顔を上げた。
「その為に、そなたたちはこの世界へ来たのだろう。母を救うために次元の異なる別世界まで来るとは……ひとがひとを思い遣る力というものは、思いも寄らぬ程に凄まじい力を発揮するものなのかもしれぬな」
それまで変化のなかったラウミエールの表情に、感情の起伏とも呼べる動きが生じた。傍らのファリエトーラが驚いたように『影の都』の統治者へ顔を向け、口を開きかけた。けれどすぐに思い直したように姿勢を戻し、リューナたちに向けて言葉を継いだ。
「今はこれ以上、多くを語りますまい。その時機ではありませぬゆえ。けれどこれだけは言えまする。母を救えるのは、そなたたち以外にはないと」
細い肩を抱き支えていた手に温もりを感じ、リューナは視線を落とした。トルテが大きな瞳で真っ直ぐに彼を見上げている。手に手を重ねたまま、魔導士の少女は力強く頷いた。
「いきましょう、リューナ!」
「当ったり前だ。いこうぜ、トルテ!」
声を弾ませたふたりの耳に、ファリエトーラの言葉が天に昇る希望の陽のようにあたたかく届く。
「アウラセンタリアの本脈からあの者の潜む場所へ向かい、邪悪な意思を阻止するのです。我らが案内しましょう」




