8章 織り成された虹 7-23
「ゆくぞ!」
テロンが叫び、『巨大魔海蛇王』へ向かって突っ込んでゆく。
トルテにとって遥かに長身であるはずの父の背が小さく思えてしまうほど、始原の魔獣は凄まじい大きさだ。けれど父は僅かも臆することなく、その背を見つめる歳若い姿の母も、決然とした面持ちを崩してはいない。
だがトルテは、ふいに気づいた。驚きのあまり目を見開き、母ルシカの顔を見つめてしまう。その凛とした表情、強い信頼を宿した眼差しの奥に、祈るような光を見つけたのだ。
もしかして、かあさまたちの強さは当たり前のことではなく……。
「さぁ、あたしたちも始めましょう」
ルシカが彼女のほうを向いたので、トルテは咄嗟に視線を外し、慌てて「はい!」と返事をした。
テロンが動いたと同時に、リューナも剣を構えて走り出している。
彼が勢いよく向かっていった相手は、黒鎧の男ラムダだ。憎々しげに顔を歪めた大男は、腰に留めつけてあった鞘から黒く禍々しい輝きを放つ剣を引き抜いて斜めに構え、突っ込んでこようとしている青年を待ち受けていた。
リューナの強さはトルテもよく理解している。
彼の剣技は独学であったが、彼の周囲に存在している手本と呼べるべき相手は、今なお素晴らしい魔法剣の遣い手である国王クルーガーや、若き日には大陸一と謳われていた騎士隊長ルーファスだ。
彼らの動きや技を当たり前のように見て育ってきたリューナの剣は、豪胆にみえて繊細、大胆にみえて用心深い。体格では大男のラムダに敵わないだろうが、動きならばリューナのほうが勝っているはず。
けれどトルテは心配だった。彼の強さをこの上もなく信じんている。だが万一にも傷ついて欲しくない、いつでも無事であって欲しかったのだ。
「心の強さというものは、闘う力の強さとは全く異なるもの。無事でいると信じることは、心配しないということではない……テロンとうさまが言っていた意味、ようやくわかった気がします」
トルテは心のなかでそっとつぶやいた。父がよく語っていた言葉がしみじみと理解できたと思った。母だってはじめから強かったわけではないのだ。周囲に向けた彼女の優しさ。心配させまいと背伸びして毅然と振舞ってきた、その結果なのである。
はじめから強いものなんていない。強くあろうとしたものだけが強くなれる――トルテは、きゅっと唇を引き結び、しっかりと顔を上げ、ルシカの傍に駆け寄った。
両腕を開くようにして体を球体へ真っ直ぐに向け、動きを止めていたルシカは、彼女の駆け寄る気配に気づいた。
「あまりに濃い魔力に晒されて……内部のいのちが張り裂けそうになっているわ」
額に垂れてきたやわらかな金の髪を指で横に払いながらつぶやき、ルシカはトルテに顔を向けた。稀有なる色彩の瞳には、魔導の白い輝きが数多煌めいている。極度の精神集中と疲労によって頬は上気し、額にはうっすらと汗を浮かべていた。
「濃い魔力……ですか」
「ええ。下で渦巻いている魔力は、この卵へ流れ込んでいるようね。取り返しがつかなくなる前に、本来の流れを取り戻さないと」
同じ魔導士であるトルテの瞳には、ルシカの体内に残存している魔力がはっきりと見て取れた。生命を維持できるぎりぎりまで、すでに余裕がなくなっていることも。
「あ、あの……! あたしにできることはやりますから。おか――ルシカさんはどうか無理をしないでください」
「ありがとう。でも平気よ、ここからが正念場だもの」
口もとだけを微笑ませてトルテの心配に応え、ルシカは真剣な眼差しを足もとへ向けた。
魔力が渦巻いている大地の淵は、すでに目が眩むほどに光を強めている。度重なる衝撃で、そこかしこに網の目のようなヒビが生じていた。自分たちの立っている結晶の床も、もうあまり長くはもってくれないだろう。
トルテはごくりと喉を鳴らし、視線を上げて母を見た。足下が吹き飛ぶかも知れないという状況も気になるが、いつ倒れてもおかしくないほどに消耗した母の様子が何より心配だった。
トルテの知る現在の母と変わらない無茶ぶりだ。父はどうして平気なのだろう、心配のあまり心が引き裂かれてしまうことはないのだろうか。
「平気という言葉は、大丈夫とは違います!」
思わず発したトルテの言葉に、ルシカが一瞬、呆気に取られたような表情になった。そして吹き出すように小さな笑い声を洩らした。
「ふふっ。……あ、笑ったりしてごめんね。テロンと同じようなことを言うものだから。やはり――いえ、それより今はこちらを何とかしないとね」
やわらかな笑顔をみせたルシカだったが、言葉の後半を口にしたときにはすでに、厳しい表情をしていた。トルテの喉がごくりと鳴る。
「ということは……卵のほう、そんなに危険な状態なんですか?」
「ええ。このままでは、きっと助からない」
静かな口調で応えたルシカの言葉に、トルテは息を呑んだ。
「そ、そんな! なんとか……なんとかなりませんか? この子を助けることができなければ、レヴィアタンも鎮まらないと思うんです。なんとかして助けなければ!」
「そのつもりよ」
不安に慄くトルテを安心させる為なのだろう、ルシカは口もとに気遣うような微笑を浮かべながら言葉を続けた。
「だいじょうぶ、原因はわかっているわ。この幻精界全体から集められた膨大な魔力が、卵のなかの生命の存続を脅かしているのよ。魔力を消耗しすぎれば、生き物は生命そのものを維持できなくなって死んでしまう。逆に魔力を多く詰め込まれすぎても、生命そのものが圧迫されて死んでしまうから」
「つまり、卵を助けるためには――」
「ええ。注ぎ込まれ続けている魔力を断ち切り、魔力の巡りを安定させることができれば、救うことができるはずよ」
「そうなのですね……よかった。でもどうして、親であるレヴィアタンはこんな仕掛けを作ったんでしょう」
「おそらく、通常ならばこの方法が自然だったのでしょうね。もしかしたらこの子は、環境に適して生まれてきた変種なのかも。むしろ『進化』といったほうが正しいのかも知れない――環境の変わった太古の現生界で生き残るためには、大量の魔力を必要としない生命であるほうが望ましいから」
ルシカは語りながら、再び塔に向き直っていた。魔導の瞳に力を篭め、球体を銜え込んでいる結晶の残存部分を仔細に調べている。
「自分自身の存続すら危うくなってしまったレヴィアタンがこの世界に渡ってきたのは、胎内のいのちを守るためもあったのでしょうね。けれど、そのときすでに胎内では環境に順応した新しい生命が確立していた――」
「そうと知らなかったレヴィアタンは、自分の体力と魔力を戻すために眠りにつき、目覚めたあとすぐに普段通りの巣を造り、孵化に備えようとしたのですか」
「そう考えるのが自然ね。魔力の濃い部分を探って巣を造ることは、魔獣の生まれ持っている本能なの。濃い魔導の気配に惹きつけられるのと同じことだわ」
「でも、この子にとってこの場所は危険なんですよね。なんとか……できるんですよね?」
「ええ。まずはここから、手遅れになる前に引き離してあげないと。あたしも親だもの。たとえ異種族の命であっても助けたい」
決然と顔を上げ、ルシカは力強く言った。
トルテたちが卵や周囲の結晶を調べている間にも、始原の魔獣は、そのしなやかで長大な体躯を使い、この世界の中心たる位置にそそり立った結晶の塔を広場ごとぐるりと取り囲んでいた。
あまりに大きく太すぎる胴体であるがゆえに、直接締め付けてくることがないのが幸いだった。だがレヴィアタンは、今も凄まじい眼差しでこちらを睨みつけている。濃い魔導の気配にも惹きつけられているのかもしれないが、卵を狙っている敵だとみなされていても仕方のない状況であった。
体躯は蛇だが、頭部は竜そのものだ。怖ろしくも厳しい頭部、人智を超越した巨大さと存在感は、神にも見紛うほどの威圧感すら感じさせる。神竜だと伝説に記されていたのも頷ける、実に堂々とした見惚れるほどの威容である。
これほどまでに輝かしい生命が多数息づいていた始原の世界というものを、ひと目でも見てみたいと思わずにはいられないほどの。
だが、いまは敵対している恐るべき相手だ。ともすれば魔導士のふたりに向けられそうになる敵意と狙いとを、テロンが挑発と攻撃を絶え間なく繰り返すことで逸らしてくれていた。
「こっちだ! さあ来いッ!」
テロンの威勢の良い声とともに、レヴィアタンの巨躯がズシリと揺れる。爆音と同時に広がった衝撃の嵐に、破砕された結晶の粉塵がもうもうと舞い上がった。
体格差どころの話ではない。装備の軽い父だからこそできる軽快な立ち回りで重く広範囲な攻撃を避けることができているのだ。一撃でもまともに食らってしまったら、文字通りぺしゃんこになってしまう。現に、すでに自分たちにとっては見上げるほどに巨大であった結晶壁のいくつかが破壊され、或いは完全に崩れ去っている。単独で立ち回るには、あまりにも危険すぎる相手であった。
もはや闘っている父の姿も、レヴィアタンの長大な胴体の全容も、『封魔結晶』を掲げていた黒鎧の男の姿も、剣を振り続けているだろうリューナの勇姿すらも、赤と青の光に染め上げられた濃密な粉塵に遮られて見ることができなくなっていた。
それでも絶え間なく続いている爆音と振動とが、彼らの無事と闘いの激しさを伝えてくる。
「化け物が、たかが人間族相手に何を手間取っているッ! 潰せ、潰せええええぇぇッ!」
苛立ちと憤りを感じさせる醜い怒声が、殷々と轟き渡った。思わずトルテが首を向けた声の方向に、背筋が凍りつくほどに凄まじい殺気が生じた。まるで破裂する寸前の風船のように、大気が激しく震える。
ラムダがトルテたちへ向け、黒い矢の攻撃を仕掛けようとしているのだ。
「しつっこいんだよ、すけべ野郎ッ!」
ひときわ威勢の良いリューナの声が響き渡り、重々しい衝撃音と金属の軋る不快な音が響き渡った。黒鎧の男の叫び声があがり、激しい剣戟の気配と炸裂音がそれに続く。
視界は粉塵に閉ざされたまま、彼らの状況を目で見て確認することができない。音と衝撃で判断できる限り、父とリューナが決死の攻撃を絶え間なく繰り返すこと敵の思惑をくじいてくれているのは確かだ。ふたりはきちんと無事なのだろうか。
「周辺の結晶を割り砕いて、まず卵を取り出すわ。破壊が大きいと床までもが割れてしまうから、慎重にいきましょう」
内なる不安を押し殺したようにどこまでも冷静なルシカの声に、トルテは我に返った。
普段は優しげな弧を描いている眉をきりりと撥ね上げ、ルシカは真剣な面持ちで言葉を続けている。
その様子は宮廷魔導士としてふるまっているときの母を思い起こさせたが、蒼白に近い顔色を見るまでもなく、今のトルテには彼女の心の内を理解することができた。母だって心配には違いない。けれど彼女は自分の感情より、本当に為すべきことを優先しているのだ。
「卵は見た目より遥かに重いはずよ。あたしたちの腕力で持ち上げられる重量ではないから、あなたに『遠隔操作』を遣って欲しいの。結晶から卵を切り離すとき、決して落とさないように。結晶を割り砕くのはあたしがやるわ。卵に接している部分だけを『分解』で消し去るから」
「待ってください。そんな最上位魔法を……! 駄目です。残存している分だけでは耐えられません!」
トルテは思わず声をあげた。
『分解』は魔導士のみが扱うことのできる最上位魔法のひとつだ。本来は『風』の『名』をもつ魔導士にしか扱うことができないのだが、万能といわれる『万色』の力をもつルシカにも魔法行使は可能である。しかし、その消費魔力は半端なものではない。
「あなたの魔導の力は、とても特殊なものみたいね」
ルシカは表情をやわらげ、刹那、トルテに優しげな眼差しを向けた。
「同じ瞳の色といい……あたしの『万色』の力に通ずるところがあるわ。それに、最上位魔法にも充分な知識がある。でも平気よ、あたしに本来の常識は当てはまらない――魔法の行使に必要となる魔力の消費を、通常よりうんと抑えて遣うようにするから」
「そんな加減ができるというのですか。でも――」
「急がなければ、テロンたちが危険になるわ。素早く動き回ることで攻撃を避けているけれど、体力は無尽蔵ではないもの。それに、黒い弓矢使いも何かを企んでいるみたい。急いだほうがいいわ」
言い募ろうとしていたトルテを、ルシカは静かなできっぱりと遮った。
「落ち着いて冷静になれば、為すべきことがみえてくる。あとはそれに従うだけ。さあ、いくわよ!」
凛と響き渡る声とともに、ルシカが両腕を振り上げた。然るべき動きで、複雑な紋様を綴った魔法陣を具現化させる。トルテも急いで精神集中を完了させ、頭のなかに綴りあげた魔導の技を行使した。
ふたりの周囲に色のついた光が次々と生じ、絡み合うように空中を駆け奔ってゆく。魔導の光は周囲の空間を生き生きとした美しい輝きで満たした。壁や床からの青や赤の不安な放射光を押し退け、ふたつの魔法陣をくっきりと空中に描き出す。
虚空が震え、脈打つように変化した。球体の周囲の結晶がごっそりと消え失せ、すべらかな外殻の全容が明らかになる。ルシカの魔導だ。
卵は転がり落ちてしまうことなく、支えのない空中に浮かんでいる。トルテの魔導だ。
トルテは卵を無事に彼女らの立つ床上へと降ろした。
すぐさま卵に駆け寄り、トルテはざらつく表面に自分の耳を押しつけた。熱いほどの温度にドキリとしたが、懸命に中の様子を探ろうとする。すぐにトルテは顔を上げた。
「コトコトと微かな音が聞こえます。助かりますか?」
「やってみるわ。少しだけ離れていて」
彼女が離れると、ルシカは卵の表面に右手を翳した。左手を宙へ撥ね上げ、素早く印を描いて頭上に輝く魔法陣を具現化する。次いで両手を重ねるように卵の表面に置くと、ぽぅっとあたたかな色の光が手のひらの下に生じ、光は瞬く間に広がって卵を優しく包み込んでいった。
ルシカのやわらかな長い髪が背で舞い踊り、見守るトルテのツインテールがさらさらと流れる。魔導による力場が大気の流れを生じ、ゆるやかな風となって渦巻いているのだ。
卵の内で小さな生命を圧迫していたという余剰な魔力が、ルシカの手に触れられた表面からほろほろと溢れるように抜け出してこぼれかかり、空中へ固定されていた魔法陣によって天高く導かれて幻精界の空へと散じていった。
それはまるでオレンジ色の陽に透け照らされて旅立つ蒲公英の綿毛のように、不思議で胸の奥がじぃんと温められるような光景であった。
トルテは、ほぅと息を吐き、『万色』の魔導士の姿に視線を戻した。上向いていたルシカはトルテの視線に気づいて顔を戻し、にっこりと微笑んだ。
そのときだった。
レヴィアタンの尾が、大地に激しく叩きつけられた。ズウゥゥン! と、ひときわ大きく揺れた足場に深い亀裂が次々に生じる。その場にいた全員がひやりと肝を冷やし、ぐらつく足もとに体勢を僅かに崩された。
「きゃっ……」
トルテたちの立っている場所にビシリと大きなヒビが走った。内なる圧力に押されたように盛り上がった床が傾き、丸い卵がごろりと転がりかける。倒れかけて互いを支えあうようにして堪えたふたりが顔を上げ、それに気づいた。
「いけない!」
「卵が……!」
叫ぶと同時に、トルテは卵に跳びついた。
腕を差し伸べかけたルシカは体勢を崩し、ふらりと倒れかけた。気力体力とも削がれているなかで激しく揺さぶられ、眩暈を起こしたのだ。
「トルテ!」
自身も体勢を崩しかけていたリューナが異変に気づいて叫んだ。トルテとルシカの立っていた床は、まるで膨れ上がった膜の表面のようだ。今にも弾けてしまいそうである。
呼び声に気づいて顔を上げたトルテとリューナの視線が、一瞬だけ交じり合う。彼の向こうに、小山のような人影が粉塵を割って現れた。
「リューナ! 気をつけて!」
トルテの警告の声に、リューナが慌てて挑んでいた相手に視線を戻そうとする。
けれどラムダは、その隙を逃さなかった。
「馬鹿めッ!!」
素早く大弓を構えたラムダが禍々しく輝く矢をつがえ、放った。電雷のような音が空間を引き裂き、トルテたちの傍にあった結晶の塔にまともに突き当たって爆発した。
「きゃああぁぁぁぁッ!!」
吹き荒れたのは黒い嵐――いや、そうではない。当時生まれていなかったトルテには知るべくもなかったが、王都消失の危機を経験したテロンとルシカは息を呑み、ぞっと背筋を震わせた。
それは『無』を司る神ハーデロスの力そのもの、破壊ではなく消失と消滅に踏みにじられた空間の悲鳴だったのだ。
結晶の塔のほとんどがごっそりと掻き消え、身の毛もよだつような憎悪と喪失感が取って代わるように空間を埋め尽くした。魔力の流れを断ち切られて沈黙していた場所から噴出するように赤い光が現れ、天へと突き刺さる。消失の余波を受けた周囲の床が激しく震え、生じた亀裂がさらに深いものになる。
それらがきっかけとなった。
風船を針でつついたようなものだ。圧せられて限界に達しかけていた魔力が結晶の床を完全に突き破り、爆発するように一気に空へと噴出した。
凄まじい轟音が周囲を圧し、広場になっていた結晶の床のほとんどが空へ向けて塵のように吹き飛んだ。
トルテは衝撃の渦に巻き込まれ、宙高く飛ばされていた。近くにいたルシカの体も同様に、一瞬で無機質な空へと跳ね上げられている。
「ルシカ!」
「トルテ!」
テロンとリューナの声が重なる。噴き上がる魔力の起こした爆風と衝撃に押され、広場外に移動せざるを得なかった彼らが間に合うはずもなかった。
魔力の渦は一瞬でトルテたちを空中へ押し上げたあと、空の高みに散じていった。トルテは閉ざされていた目を開き、驚いた。落下していたはずの体は、いつの間にかなじみのある広い背に救い上げられていたのだ。
「スマイリー! 無事だったのね」
トルテは喜びに満ちた声をあげた。母も卵も無事だ。彼女の傍でしなやかな毛に埋もれるようにして支えられている。
だが、スマイリーの背は塵と血に汚れ、脇腹はズタズタに引き裂かれていた。傷のほうはレヴィアタンを引き回していたときに強烈な尾の一撃を食らい、割れた結晶壁のひとつに突っ込んだときのものであることが、心の繋がりを通して伝わってくる。満身創痍であるにもかかわらず、必死で駆け走ってきてくれたらしい。
「スマイリー、傷が……!」
従来の魔法の治癒では、幻獣の傷を塞ぐことはできない――トルテは涙を浮かべかけた。
ルシカが幻獣の背から顔を上げ、すぐに自身の右の腕先で素早く印を描いた。トルテにとってもなじみのある魔導の光がスマイリーの体躯をすっぽりと包み込んだ。
『月狼王』の体躯に刻まれていたいくつもの傷が、次々に塞がれてゆく。『治癒』特有のあたたかな白い光と温もりを感じ、トルテはルシカを凝視した。
本来魔導の技とは、神々より伝えられた叡智をもとに定められた範囲で構築された技術なのだ。迷うことなく、こんなにも簡単に状況に合わせた改変ができるものではない。
「すごい……やはりあなたは、すごいです。あたしには全然追いつけないくらいに……リューナたちもきちんと助けることができなくて、あたしは……」
安堵と焦燥、胸を刺す様々な痛みと突き上げる想いに翻弄され、胸を押さえたトルテが思わず涙を滲ませると、ルシカはゆるゆると首を振って静かに応えた。
「そうかしら。あたしは思うわ。この幻獣は、あなたの為に自らの命を張って頑張ってくれている。こんなふうに幻獣とお友だちになれるなんて、すごいことよ。互いに信頼しているということだもの。……あたしの娘も、そんなふうに優しい思い遣りのあふれる子に成長してくれたらなって、思っているの」
「そうなん……ですか?」
「そうよ。素晴らしいことだと思うわ」
戸惑うトルテに、ルシカは微笑しながら言葉を続けた。
「信頼や友愛というものは、勉学や才能では獲得できない。みんなを繋げる力というものを、あなたは確かに持っている。それはきっと、魔導を超えるほどにすごいことなのよ。あたしはそう思う」
「つなげる……ちから」
「自信を持って。きっとあなたの両親も、あなたのことを信頼して、誇りに思っていると思うから」
「でも、想いの力だけでは大切なひとを護りきれないこともあります! どうしたら……」
「自分の力に限界を作らないで。限界を定めてしまったら、そこで終わりなの。可能性はいくらでもあるんだから。あなたの中には素晴らしいものが秘められている――継がれた血や魔導の知識だけではなく、もっと素敵なものが」
トルテは顔を上げた。
「でも、あたしは……」
「あなたは、まだまだこれからだもの。焦らないで。あなたはあなたでいいのよ。あなたにしかできないことがあるんだもの。ね?」
トルテは口を開いた。けれど何を言ったらよいのかわからず、動きを止めてしまう。
「あたしは――」
続く言葉を探して視線を彷徨わせ、トルテはようやく気づいた。ルシカの左手が、何かの魔導を行使していることに。意識を凝らして周囲の魔力を探り、事態に気づいたトルテは息を詰まらせた。震える声でようやく尋ねる。
「魔力の放出……さっきので終わりではなかったのですね」
「ええ……もちろんよ。さっきのはほんの僅かに漏れただけ……。残る全ての魔力は、あたしが今、抑え込んでいるところ。海面に現れている氷山の一角のようなものだわ。没している本体のほうは……とてつもない濃さと規模になって……いる……から」
語っている間にも、ルシカの息が乱れてゆく。幻精界の全土を巡っていた魔導の流れのほとんどを、たったひとりの魔導士が意志の力で制御しようとしているのだ。
「これから……少しずつ開放していくから、あなたは……巻き添えにならないように少し離れて……いて」
「そんな! あたしも――!」
トルテは急いで精神を研ぎ澄ませ、魔導の力を宿す瞳に力を籠めた。焦る気持ちを必死でなだめつつ、母の行使している魔導の構造と魔力の流れを見極め、手助けをするために。
だが、そのときだ。再び凄まじい衝撃が空間を震わせた。
噴出した魔力の奔流ではない。稲妻めいた火花を散らし、空間の一部を『無』の領域へと引きずり込みながら、ラムダの放った矢が通り過ぎたのだ。気配に気づいたスマイリーが反射的に回避行動をとってくれなければ、トルテかルシカのどちらかが射抜かれていたかも知れないほどに、危険なタイミングであった。
直撃は免れたが、魔力の行使に意識を集中させていた魔導士はどちらも咄嗟に反応することができなかった。
体勢を立て直したスマイリーの背で、卵は何とか転がり落ちずに済んだ。だが、体力に余裕のないルシカが吹き払われるようにしてスマイリーの背から滑り落ちてしまった。
伸ばした腕も間に合わない。トルテは思わず叫んだ。
「かあさまっ!」
「はははッ! うわははははははッ!」
下ではラムダが勝ち誇ったように嗤い、突き上げるように天高く『封魔結晶』を掲げていた。
大地は激しく揺れ、破砕された結晶が大量の粉塵となってもうもうと舞い上がっている。レヴィアタンがのたうつように激しく暴れているのだ。父の姿も、リューナの姿も見えなかった。
大地はすっぽりと崩れ落ち、凄まじく巨大な穴が口を開けていた。奥底には揺らめくように強烈な赤い光が太陽のごとく輝いている。まるで真上から煮えたぎる鍋の中を覗き込んでいるかのようだ。真っ赤な輝きがあふれんばかりに激しく揺れ動き、波打っている。
いまにも噴出してきそうな様子だが、いまはまだその気配がない。ルシカの魔導によって押し留められているのだ。落下しながらも意識を保ち、魔導を行使し続けているらしい。
「スマイリー、お願い!」
トルテが叫ぶまでもなく、スマイリーが反応した。まだ無事に立っている壁のひとつに着地すると、すぐさま身体を捻って壁面を蹴り、ルシカの落下地点へ向けて再び跳躍した。
だが、それより早く――。
「……あうッ!」
黒鎧の男の大きな手が、落下してきた『万色』の魔導士の首をがっしりと捕らえていた。
ルシカは抗うことができなかった。爆発寸前である魔力の奔流を制御し続けていたためだ。
ラムダは大地に穿たれた穴の縁に立ち、これ見よがしに強靭な腕を穴の上に突き出した。その腕先では、ルシカの細い体が揺れている。
首を絞められたまま完全に宙吊りにされ、それでも魔導を行使し続けているルシカには為す術もない。
「ふはははははッ! もう遅い、もう遅いわ! さあ、世界の終焉の始まりといこうぞ」
ラムダは甲冑に包まれた強靭な腕の先に吊るしたルシカの体を眺め、その手に握った細やかな首を握る力をさらに強めた。狂気じみた顔には、恍惚とすらいえる不気味な笑みを浮かべている。
「おまえたち魔導士とやらは、その体内に膨大な魔力を秘めているそうだな。死ぬ間際にその身体から抜け落ちた魔導の血は、この状況下においては破滅への確実な引き金となる。おまえのいのちは世界を消滅させる起爆剤となるのだ」
「…………!」
ルシカが苦しげに眉を寄せ、唇を歪めた。すべらかな頬が紫に変わってゆく。それでも足もとの魔力を抑え込んでいる力を維持しようとして魔導の力を維持し続けている。
周囲ではレヴィアタンが激しく暴れ続けている。蓋となっていた結晶の大地の崩落は、ますます大きなものになっていった。




