7章 護るべきもの 7-19
生まれたばかりの現生界において、最初に個として確立した始原の存在のひとつ――レヴィアタンと呼ばれる魔獣。
始原の存在とは、古代魔法王国より遥か昔から伝説として語り継がれ、いまなお世界のどこかに眠っているかもしれぬと言われている大いなる脅威でもある。
テロンとルシカは、緊張した面差しで空を飛ぶ幻獣の背からレヴィアタンの威容と想像を絶する光景の細部に眼を凝らした。
白く凍てついた湖面の切れる場所から山脈のごとく屹立しているのは、脈動する赤い光を発している大地を覆い隠した天青石さながらに青く澄んだ結晶の集合体だ。牡丹の花弁のごとく幾重にも折り重なった外殻が、溶けかけてもう一度固まり、薄く幾千もの薄い断面にひび割れたかように複雑な構造を成している。
「なんという光景だ……まるで結晶でできた砦のようにも見えるが、規模がまるで違う。俺たちの世界では在り得ない大きさだぞ」
「厳密にいうと結晶ではなさそうだけれど……判らないわ。どんな鉱物でも、あれほどの大きさのものが存在しているなんて考えられない。それに、魔獣と呼ばれているものがあそこまで育つなんて」
ユラリと鎌首を擡げたレヴィアタンは、夜闇に染まる氷のごとく捉えどころのない蒼の体表を波打たせ、急速に近づきつつある彼らに敵意のある凝視を向けていた。巨大な顎をかっぱりと開き、鋭い威嚇音とともに凄まじい冷気を発する。まだ距離があるにもかかわらず、肌に感じる温度が急激に下がる。
あまりにも規模が大きすぎる周囲の光景ゆえに錯覚を起こしてしまいそうだが、相手は凄まじくでかい――おそらくはその長い体躯で王都そのものをすっぽりと囲んでしまえるほどに。そんな相手が身を隠すことのできる結晶の塊は、驚異の創造物なのであった。
「間違いないわ……あの青い透明な物質が蓋になって、本来地表に噴き出して巡るべき魔力を地下へ封じ込めている」
ルシカが魔導の力を宿した瞳を狭めながら、テロンの腕のなかで囁くように言葉を続けた。
「魔導の技によって造られたものではないのに、構造があまりに洗練されている……まるで幾重にも重ねられた立体魔法陣みたいだけれど、明らかにひとの生み出した技術ではないわ。でもこのままでは」
その昇りゆく太陽を宿した眼差しには、待ち構えている破滅の兆しが捉えられているのだろうか。テロンの胸に添えられた彼女の細い手の指先が、はっきりと震えている。
どれほどの脅威を直視しているというんだ――ルシカ。
テロンは発しかけた問いを危ういところで呑み込んだ。かわりに自身の大きな手で、ルシカの小さな手を包み込むように握る。
闘うための技には長けているつもりだが、魔法に疎い彼には、魔導士である彼女の感じている恐怖や不安の片鱗すら窺い知ることはできない。だが危険そのものを分かち合うことはできる――テロンは青く燃え立つ焔を宿した瞳で、眼前の凄まじく強大な存在を睨めつけた。
「あれがアウラセンタリアに巣食う諸悪の根源というわけか。奴をあの場所から移動できれば、破滅は防げるんだろう、ルシカ」
「そうね。あの結晶を取り除かなければ、本来地中から噴き出して世界を巡っていた魔力の流れを復活させることはできない。要所を破壊するしかないわ。でもこのままではおそらく、レヴィアタンはそれを阻止しようと向かってくるでしょうね……」
ルシカはそこで言葉を切り、テロンを見上げた。
「テロン……上位魔獣と称されるものたちのほとんどは人語を解し、なかには魔導を操る術を習得している個体もいると聞くわ。もしレヴィアタンと話し合うことができたら、状況は良いほうへ変わらないかしら?」
「話し合うだって? あれほどに大きな存在に、俺たちの言葉が届くのか」
「莫迦な考えかも知れないけれど、やってみたいの」
ルシカの言葉の意味することを理解し、テロンの胸に嫌な予感が込み上げた。「危険すぎる」と口に出そうとして、ルシカの蒼白な顔色に気づく。彼女はもちろん、それがいかに危険なことかを承知しているのだ。
そうか――テロンは納得した。和平の道を探して倦まず弛まず話し合うこと、それは双子の兄クルーガーの信念であり、王国の基本概念のひとつである。王という立場で宿敵ともいえたロレイアルバーサに対峙したとき、心の迷いを断ち、平和を実現し維持してゆく方法として見出した理念でもあった。
「俺たちはソサリアの護り手、だからだな」
ルシカは王国に属する宮廷魔導士、そしてテロンは外交の担い手でもあるのだ。
テロンがつぶやくと、ルシカは安堵したようにホッと小さく息を吐いた。微笑みながら、彼に信頼の眼差しを向ける。迷いなく差し伸ばされた彼の手を借りて真っ直ぐに立ち、小さな頤をグッと持ち上げ、凛とした表情で背筋を伸ばす。
レヴィアタンの攻撃に入るか入らぬかの位置で、『飛行海鷂魚』が旋回するように方向を転ずる。海鷂魚の背がひどく傾斜したので、ルシカが滑り落ちてしまわぬよう、テロンは彼女の危なっかしげな姿勢をしっかりと抱き支えた。
「聴いて!」
ルシカの言葉は、幾つもの音が重なったように不思議な響きを持っていた。
「この場所は、とても危険な場所なの。あなたの足元にある結晶の蓋が邪魔をして、地中から噴き出して幻精界を巡るはずの膨大な魔力が、何もかも吹き飛ばしてしまう。いますぐにその蓋を取り除かないと大変なことになるの……!」
ふいに、レヴィアタンの動きが止まった。
ルシカの言葉が届いたのだろうか――テロンは注意深く相手の様子を見守った。対象がでかすぎるゆえに表情はわからないが、少なくとも凄まじい形相をしている。蒼闇に沈みゆく世界にあって、下から溶岩のごとき赤い光に照らされたからだ躯のほうはどこまで続いているのか測り知れぬほどに長大かつ巨大な胴体をしており、蛇というよりは竜に近い形状の頭部を持っていた。
ぎらぎらと光る蒼白い眼球の大きさは、人間族のなかでも長身であるテロンの背丈の倍以上ある。ソサリア王国の大森林地帯を流れる大河ラテーナをも飲み干してしまいそうなほどに巨大な口蓋からは、背筋の寒くなるような蒼白い光がちろちろと見えていた。
なんて大きさだ――テロンは改めて驚嘆した。魔導船を軽々と曳くことができるほどに長大な体躯を誇っている『海蛇王』のウルでさえ、レヴィアタンの大きさには敵わない。
「……明確な反応がないわ。この距離では、『使魔』の魔導の技で直接イメージを語りかけるわけにもいかな――」
落胆したルシカの言葉は、終わりまで続かなかった。
ゴアゥアアァァァアアアッ! 大地が震撼し、天空が悲鳴をあげた。視界が真っ白に塗り上げられる。
咄嗟にルシカを抱きしめたテロンが幻獣の背に伏せると同時に、腕のなかのルシカが何かを叫んだ。幻獣の背が急激に傾く。激しく押し付けられるような勢いが幸いして虚空に放り出されることはなかったが、一瞬後、凄まじい衝撃が彼らを襲った。
「……う、クッ!」
ビリビリと空気そのものが激しく震え、鼓膜を揺さぶる。肌が燃えあがるのではと思えるほど急激に温度が上がり、凄まじい烈風が渦を巻く。必死に伏せたからだの下で幻獣の皮膚が痙攣するように波打った。
大気を震撼させた衝撃が通り過ぎ、今度は肌が粟立つような感覚が押し寄せる。
テロンは顔を上げた。
「落ちるぞ!」
急速に迫る、凍りついた湖面。アウラセンタリアの地に照らされて赤く茫洋と続く、どこまでも平らかな天蓋。ふたつの光景が目紛るしく入れ替わっている。
けれど『飛行海鷂魚』は必死に体勢を立て直し、どうにか落下速度を緩めることに成功したらしい。視界の傾きが水平になる。と、同時に周囲の光景が変わった。深海のごとき深い蒼と、赤く胎動する光の洪水が視界を染めあげる。墜落したとき、アウラセンタリアを覆い尽くしている結晶体の間隙へ突入したのだ。
結晶体の隙間は複雑に入り組んでおり、透き通った結晶の壁面からは内側からの光が放出されてあちこちの断面を煌めかせ、ひどく距離感を狂わせた。
レヴィアタンより遥かに小さな体躯とはいえ――それでもかなりの大きさであったが――『飛行海鷂魚』は姿勢を水平に保ったままの移動にかなりの苦労を強いられているようだ。背に乗せているふたりを振り落とさぬよう気遣っているからだ。
このままでは、幻獣はいずれどこかの壁面へ衝突してしまう。
「ルシカ」
テロンが声をかけると、彼女はすぐに彼の胸にぴたりと寄り添った。指先で魔導の印を紡ぎだし、素早くテロンへ向けて強化の魔法をかける。何を言いたいのか正しく理解してくれているのだ。
覚悟を決め、着地の場所を見定めるために前方に眼を凝らす。かなりの速度だ――下手なタイミングで飛び出したら、切り立った壁面に激突してしまう。幻獣の速度と姿勢を見極め、やや後ろへ向けて大胆に跳躍する。
「…………!」
浮遊感が押し寄せた一瞬、腕のなかのルシカが身を固くしたが、悲鳴をあげることはなかった。ルシカの細い首と頭部を腕で護りながら、両脚をばねにして衝撃を抑え、見事な着地を決めることができた。
平らな場所に降り立ったテロンはルシカを抱えたまま、すぐに姿勢を低めて空を振り仰いだ。身を竦ませるほどに凄まじい敵意が頭上から雪崩れ落ちてくるのに気づいたからだ。
レヴィアタンは彼らの動きを追っていたのだ。怒りの気配を発している巨大な頭部が、長い牙のある口蓋を開き、放たれた矢のように凄まじい速度で迫る。
ビュッ! 力強い風と見紛う影がテロンとルシカの真上を通り過ぎた。一瞬後、緑に透ける輝きが鋭い複数の刃となってレヴィアタンの鼻先に突き当たる。
渾身の力を籠めた『聖光弾』を放とうとしていたテロンは驚き、過ぎ去った影の行方を眼で追った。
『飛行海鷂魚』だ。ふたりが背から降りたことで体勢を整えて衝突を免れ、急旋回して戻ってきたのだろう。
「海鷂魚の内には風属性の魔力の輝きが見えるとルシカが言っていたな」
すでに接触は断たれている。ならばこの幻獣は自らの意思で、俺たちから注意を逸らすことを狙ってレヴィアタンに突撃したというのか――テロンは驚いた。ルシカの魔導の根底にある力の真髄を垣間見たような気がした。
見ればルシカが、はらはらと落ち着きのない瞳で海鷂魚の後ろ姿を追っていた。上空で旋回し、彼女を護るために再びレヴィアタンへ突っ込んでいこうとしている幻獣へ向け、悲痛な声で叫ぶ。
「いけない、逃げて!」
彼女の叫びと同時に、鎌首をもたげたレヴィアタンの喉奥から、先ほどと同じ白熱した光が吐き出された。まるで空に突き立てられた光の柱だ――大地をも震撼させるほどに凄まじい光の余波から腕のなかのルシカを護ろうと咄嗟に彼女を抱きしめようとして、戸惑った。
ルシカがテロンの腕を振りほどき、細い両腕を幻獣へ向けて振り上げたのだ。裂帛の気合いとともに彼女が解放した魔導の力は、光り輝く魔法陣となって友である幻獣の眼前に展開された。いつもの魔法障壁かと思ったが、やや斜めに傾いて見えるのは気のせいか――。
ズドオォォォォンッ! 先ほどと同じ衝撃が空間を震撼させ、爆風が地表にまで達した。
光の奔流の突き当たった魔法障壁は、粉々に砕かれたように一瞬で霧散した。けれど凄まじい威力をもった光の奔流は障壁に突き当たったことで折り曲げられ、『飛行海鷂魚』はからくも直撃という最悪の事態を避けることに成功していた。先ほど魔法障壁が傾斜して具現化されていたのは、これを狙ってのことだろう。
幻獣は無事だ。ふらつきながらも飛んでいる。
胸を撫で下ろすテロンの視界の端で、ルシカが魔導行使のために振り上げた腕を下げることなく連続して動かすのが見えた。今度は白い輝きが虚空に出現し、幻獣を包み込んだ。一瞬で美しい魔法の紋様を織り成す。
「癒しの魔法か」
彼にとっても馴染みのある魔法陣を見て、テロンは得心した。
ルシカの放った魔導の光が海鷂魚の体躯に穿たれた裂傷と火傷を癒すと、幻獣のぎこちなかった飛び方が真っ直ぐなものになった。海中を飛ぶように泳ぐ海鷂魚そのものの動きで幅広い鰭を打ち羽ばたかせ、迷うような動きを見せつつも、彼の還るべき場所へと戻ってゆく。
「ありがとう! あとは必ずあたしたちが何とかするわ」
遠ざかる幻獣の背に向け、ルシカがつぶやくように言った。彼女らしい、優しい眼差しと笑顔がテロンの瞳に好ましく映る。空へ差し伸ばすように振り上げていた腕を下ろしたあと、『万色』の魔導士はようやく深い息をついた。張り詰めていた空気が和らぎ、魔導の気配が解けるように薄らいでゆく。
カクリと膝を折りかけたルシカが倒れそうであることに気づき、テロンは慌てて彼女の体を受けとめた。
ホッとして眼を向けると、ルシカはテロンを見上げるようにしてなんとも申し訳なさそうな表情になっていた。テロンは何も言わず、ただ彼女を抱く腕に力をこめて自分の胸に引き寄せた。
「……ごめんなさい、テロン」
「いいんだルシカ。俺だって魔導が遣えたならば、同じことをしたと思う」
その言葉に、ルシカがきゅっとテロンの衣服を握った。彼女を抱きしめ――そして表情を引き締めてテロンは顔を上げた。
レヴィアタンは遠ざかってゆく幻獣を追おうとはしなかった。巨大な頭部を巡らせ、彼の領域にいまも残っているであろう不埒な侵入者たちを捉えようと、殺意のこめられた眼球をぎらつかせながら振り返った。巨大な頭部をじっと空中にとどめたまま地表の気配を探り、胴体のほうを移動させて体勢を整えているかのようにみえる。
テロンは自分の気配を押し殺し、ルシカを抱き上げたまま素早く駆け出し、その場を離れた。
「……考えが足りなかったわ」
彼女にしては珍しく、しょんぼりとルシカがつぶやく。
「ごめんなさい……テロン。ウルのように魔獣であっても、上位種というものはほとんどが高い知能を持っているから、生きているうちに言語や魔導の知識を習得しているはずだと思ったんだけど……この世界ではそんな環境はなかったのよね。幻精界は現生界とまったく違うから……」
「ウルが可愛く思えるな」
「え?」
突然のテロンの言葉に弾かれるように、ルシカが顔を上げた。彼女はすぐさま、真面目な面持ちで考え込んだ。
「えっと……ウルは可愛いと思うけれど」
「あの大きさだ。ウルが可愛らしくみえてしまう、そうは思わないか? ということさ」
緊張や暗い雰囲気を良いほうへ替えたいとき、兄クルーガーはよく軽口を叩いている。それを思い出しつつ発した彼なりの言葉だったのだが――普段あまり冗談を言わないテロンであったがゆえに、ルシカに本気で考え込ませてしまう結果になってしまったようだ。
苦笑したテロンの顔を間近で見上げ、ようやくルシカはそのことに思い至ったらしい。気遣いを嬉しく感じたのか、ぽかんとした表情のまま頬を赤らめるものだから、テロン自身もつられて頬が熱くなるのを感じた。
「これからは俺も気の利いた台詞のひとつやふたつ、言えるようにならないとだな」
そうつぶやいてみせると、ルシカの瞳に力が戻った。
「そうねテロン。娘もできたんだし、そのくらいはいいよね」
「そうだな。ルシカ……何があっても無事帰るぞ、ふたりともだ」
「うん……約束する」
頷いたルシカに向けてテロンは素早く顔を近づけ、やわらかな唇に自らのそれを強く重ねた。
ルシカの瞳が一瞬だけ潤んだが、彼女はすぐに表情を引き締めた。類稀なる力を宿した眼差しに力を籠める。オレンジ色の虹彩が明るく澄み渡り、白き魔導の輝きが燃え立つように現れた。
テロンに抱き運ばれている利点を活かし、深い精神集中を済ませたルシカは、魔導の知識と力をフル回転させた。周囲を流れ過ぎてゆく光景に織り込まれている魔力の構造を片っ端から見極めていく。
アウラセンタリアの地の中心――『源』の位置を探り、ここへ来たそもそもの目的を完遂させねばならないのだ。
テロンはそんな彼女の様子を見守りながら、巨大結晶の造りあげている迷宮の内部を移動していた。
直立しているかのごとくそそり立つ断崖絶壁にも似た結晶の高い壁は、繋がり、別れ、また繋がって、凄まじく複雑な構造を成している。まるで巨人たちが考えに考え抜いて建造した巨大迷路のようだ。
方向感覚には自信があったはずのテロンの感覚でも、星も太陽のないこの状況下では果たしてどちらの方向を向いているのかすら定かではなかった。
背後に聞こえている物音は、どんどん大きくなってくる。まさに蛇が腹板と呼ばれる鱗で移動しているときの音そのものであり、うつろに反響するほどに長く、長く尾を引いて幾重にも重なって耳に届く。全長が測れるものならばいったいどれほどあるというのだろうか。
それにあの動きの速さ――ルシカを抱えたままでは、まともに正面から遣り合うことは不可能に近いだろう。
まずはルシカの為さねばならぬことを実行できる場所を確保し、充分に彼女の安全を確保した上で挑まねばならない。このように入り組んだ場所で闘うことになれば、彼女が危ない。冷たい焦りに心臓を掴まれ、思考が乱れる。
「ルシカ、どちらへ向かって進めばいい?」
「待って……もう少し。あちこちへ向いている魔力の網の重なりが複雑すぎて、読み解くのが難しいから……」
ルシカも焦っているようだ。普段は優しげな弧を描いている眉を上げ、魔導の瞳をせわしなく動かしている。
あちこちに守護や環境維持のための魔法陣が設置されている『千年王宮』では、幾重にも重ねられた薄い透かし織りのカーテンが張り巡らされているかのように、ルシカたち魔導士の瞳には映るのだという。注視してひとつひとつを読み解くのは、大変な作業になるとルシカが以前話していたことをテロンは思い出した。
ましてやここにあるものは、魔法で創りあげられたものですらないのだ。
「とりあえず動き回り、レヴィアタンを一度振り切らなければ――」
ふいに押し潰されるような圧力が生じた。肌を刺し貫くほどに凄まじい気配を感じたテロンが、真上を振り仰ぐ。
「見つかったか……!」
怒りに白熱する眼球、凄まじい形相。心弱いものが目にしたならば、即座に昏倒してしまうほどに怖ろしい頭部がそこにあった。
ルシカも蒼白な顔色で頭上を仰いだ。障壁を展開しようとした彼女の腕先がぴくりと動く。けれどルシカは何かに気づいたかのように動きを止め、驚いたように目を見開いた。弾かれたように首を向けた先を見つめ、ルシカはつぶやいた。
「何かしら、この気配……あたしの他にもこの幻精界に魔導士がいるの? まさか!」
ルシカと同時に、レヴィアタンも何かの気配を感じ取ったようだ。同じ方向へ首と視線を向けている。苛立たしげにシュウシュウと鋭い音を立て、こちらと、新たな気配を感じた方向とを往復するように頸が動く。
『月狼王』のスマイリーが薄闇にも鮮やかな白銀の前脚を虚空へと伸ばし、黒紫の体毛を冷気になびかせて飛ぶように上空高く舞い上がる。穏やかなタッチダウンを決めたあと、雪原を渡る風のように再び走り出す。
アウラセンタリアと呼ばれる領域へと続く闇の地平の、最後の亀裂を飛び越えたのだ。
「なんだか、これまたすっげぇことになってんな……。古代龍といい、環境を変える魔法でも使えるのかな。有り得ないだろ、こんなでっかい結晶なんて」
漆黒の髪をはためかせ、瞳を真っ直ぐ前方に向けたまま、リューナは傍らの少女に言った。
ツインテールに結い上げた金色の髪をさらさらと鳴らしながら、トルテが顔を上げ――くしゅんっ、とひとつくしゃみをしたあと、リューナの言葉に応えた。
「『巣』……なのかも知れませんね。ひとが居城を建造して、地位を誇示し自身の安全を確保するように、始原の生き物たちも自分たちの縄張りを主張するものなのかも……ッ、くしゅん!」
「寒いか、トルテ。なんか冷えてきたもんな。それにしても……俺たちが何日もかけて乗り越えてきたフルワムンデの周りの山岳地帯と同じくらいあるぜ」
「だいじょうぶですよ。スマイリーの脚なら、タマゴサラダのサンドイッチを食べて温かい紅茶を一杯いただくくらいの時間で着きますから」
「……おまえ、腹減ってんだろ」
リューナは呆れたように肩を落とし、いつもと同じのんびりとした表情で微笑んでいる少女の顔を見た。けれど、幼なじみとして長年付き合ってきたリューナは気づいている。余裕げに構えているが、類稀なる魔導の力を宿した瞳――母譲りのオレンジ色の虹彩をもつ眼差しだけは真剣な光を湛えていることを。
「もしかしたら、『増幅』の働きをもつ魔石の結晶を創り上げることで、外敵が侵入してきたときに有益となるよう備えているのかもしれません。遥か未来の世界で古代龍の作っていたエターナルのお城、背後にあったものと魔力の流れが似ていますから」
「それって、相手が強敵だってことだよなぁ。……って、おいこら!」
ぼやくリューナの背にずどんと体当たりをかまし、小さな手を伸ばして自分より背の高い青年の頬をむにむに引っ張ろうとしてきたのは、水宝玉色の瞳をした幼女だ。その肌は抜けるように白くなめらかで、白銀色に輝く涼やかな髪と、薄闇にぼんやりと光を放っているように見える体は、幻精界の光の領域の住人であることを示す特徴らしい。
「ごちゃごちゃ言ってないで、世界を救いにいくんだから! もっとしっかりしてよね、おにいちゃん!」
「ピピピュ!」
賛同するように啼き声を発したのは、ずんぐりとした胴と昆虫のごとく透けた美しい翅をもつ子龍だ。
「ナルちゃん、ピュイ、おはようございます」
青年と幼女と子龍の遣り取りを眺め、トルテが首を傾げて笑った。ふと、その表情が強張る。
「この気配、まさか――」
片手でナルニエの襟首を掴み、もう一方の手でピュイの噛み付き攻撃を押さえ込んだリューナは、少女の震える声に気づいた。何事かと弾かれたように振り返った視線の先でトルテのただならぬ表情に気づき、騒いでいた一同の表情が真顔に戻る。
揺れるスマイリーの背の上で、トルテは真っ直ぐにアウラセンタリアの地に視線を向けていた。震える唇が微かなつぶやきを発する。
「まさか、ルシカ……おかあさま?」




