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ソサリア魔導冒険譚  作者: 星乃紅茶
【第七部】 《双つの都 編》
195/223

6章 幻精界の中心 7-18

「見晴らしが良すぎるわ。振り切れないかも――あッ!」


 腕に抱かれているルシカが、テロンの肩越しに背後を見て息を呑む。鋭敏な感覚が回避を命じ、テロンは凍りついた湖面を蹴った。


 ガツリ! 噛み合わされた凄まじい牙音と質量をもった吹雪が、真横に跳んだテロンの肩を鋭くかすめ過ぎる。一拍遅れて大気が猛然と渦を巻き、冷気の余波が微細な針となってふたりを襲った。


 否、それは吹雪ではない。『氷狼アイスウルフ』の上位種の巨躯が襲い掛かってきたのだ。


 テロンは距離を開けつつ体を捻り、凍てつく大気の渦から腕のなかのルシカをかばった。冷気をまともに受けたテロンの片腕を激痛が駆け抜け、痺れたかのように感覚が失せる。『氷狼』の体表の放つ冷気の凄まじさに、肩から腕の皮膚が凍りついたのだ。


「テロン!」


 ルシカが顔を上げて手指の動きで魔法陣を紡ぎ出し、『治癒ヒーリング』の魔導を行使した。痺れが溶けるように消え去り、テロンはすぐに体勢を立て直すことができた。


 『氷狼』が凍りついた湖面に爪をたて、ガリガリと氷を派手に破砕しながら遥か先で踏みとどまった。苛立たしげにずらりと光る牙を剥き出し、グルルルルと腹底に響くような唸り声を轟かせる。体躯から発している白い靄は蒸気ではない――凍てつく冷気そのものなのだ。


 がっきと氷を掴んだ爪からザルバーン霊峰のいただきを思わせる蒼白いたてがみの揺らめき立つ頭部まで、およそ十二リール(メートル)。実に堂々とした威容である。ただし、燃え盛る翡翠ヒスイの両眼は餓えた獣のそれ。体毛に触れただけでも低温による火傷を負う羽目になるだろうことは容易に想像できた。


「クッ、どうするか……!」


 『聖光気せいこうき』ならば相手が幻獣相手であっても攻撃と防御が可能になるが、腕にルシカを抱えたままでは『気』を練り上げることができない。襲ってきた相手との距離を開けるために移動しながら、テロンは素早く周囲を眺め渡した。


 白く凍りついた広大な湖の対岸に、赤く発光しながら脈動している領域がある。凄まじいまでの圧迫感を放つ、幻精界を巡る魔力マナの『みなもと』――目指すアウラセンタリアの地は、視覚的にも確認できる距離にあった。


 だが、眼前には襲い掛かってきた巨大な『氷狼』が立ちはだかり、その個体とは別の『氷狼』たちが群れを成して背後の湖岸から押し寄せている。このまま駆け走っても追いつかれるのは必至、逃れる道はない。


 判断に窮して足をゆるめたテロンの腕の中から、強い意思を秘めた軽やかな声が彼の名を呼んだ。


「テロン」


 呼びかけると同時にルシカが彼の腕を滑り抜け、凍てついた湖面にふわりと降り立った。頭を振って顔を上げると、彼女のやわらかな髪が揺れ、テロンの眼前に一瞬、くらく赤く沈みゆく大地を背にして金の花冠のごとく咲き開いた。


 グワオォォォォオッ! 包囲を狭めつつある幻獣たちから歓喜とも威嚇ともつかぬ吼え声が轟き、殺気と凝視が強まった。獲物を狙い定めた捕食者の気配が雪崩のように押し寄せる。


「闘うしかない」


 テロンは覚悟を決めた。『気』を練り上げつつ、拳を握りしめて体勢を低める。全身を金色こんじきに輝くほのおのような『聖光気せいこうき』で覆い尽くす。視界の隅で、ルシカの体を包んでいた銀紗の外套がバサリと揺れた。彼女の腕によって、その背に跳ね除けられたのだ。


「ルシカ! 魔導は――」


「あたしは平気。危険なのはわかっているわ。でもこのままでは闘えない、そうでしょ?」


 輝くように明るい瞳だけを向けてルシカはテロンに微笑してみせ、幻獣の群れに視線を戻してキリリと表情を引きしめた。短い呼吸を繰り返して緊張を鎮め、心を平らかにしたのだろう。深く穏やかな呼吸となって細い両腕を差し上げ、大地や空を抱きしめようとするかのように左右に開いて真っ直ぐに立つ。


 彼女も覚悟を決めているのだ。テロンは頷き、ルシカの前に出た。


「ルシカ、俺が飛び出す瞬間に魔法を頼む。あとは自分の身の安全だけを考えるんだ」


「わかったわ。こちらのことは心配しないで――あなたも気をつけて」


「では、行くぞ!」


「ええ!」


 頷きとともにルシカが腕を虚空へ向け、舞うようにふわりと動いた。瞬時に複数の魔法陣が具現化される。濃い魔導の気配が空間に満ち溢れ、光とともに現れた魔力マナの風が虚空より吹き広がり、テロンとルシカの立つ空間を燦然ときらめかせた。


 魔導の光がふたりの体を完全に包み込んだ瞬間、テロンは猛然と湖面を蹴っていた。


 効果を定着させた魔導の輝きが瞬時に解け失せたあと、周囲を取り囲んでいた幻獣たちが異様な勢いで迫りつつあるのが見て取れた。容赦なく押し寄せてくるさまは、自然の猛威たる大海嘯そのものだ。


 幻獣たちの爛々(らんらん)と光る無数の眼は、憎悪と飢餓の光を宿し、全て魔導士ルシカに集中している。先ほどの驚異的な規模の魔導の技、彼女の内包している強く濃厚な魔力マナの輝きに、どうしようもなく惹きつけられているのだ。

 

「そうはさせない!」


 魔導によって何重もの援護効果を受けたテロンの肉体は、天より降りた流星さながらの速度と金剛石ダイヤモンドのごとき強靭さを備えていた。群れの先頭の眼前に着地すると同時に、真っ向から『衝撃波』を叩きつける。


 湖面のみならず空間そのものが衝撃に揺れ、衝撃に吹き飛ばされた幻獣たちの巨躯が宙を舞った。弾き飛ばされなかった個体も尋常ならざる力の壁に叩きのめされ、もんどりうって倒れた。


 テロンは立ち止まらなかった。そのまま群れの中心へ飛び込み、体を低めて眼前にあった太い脚をすくい上げるようにして本体を湖面に叩きつける。構えを瞬時に整え、次々と飛びかかってくる後続の『氷狼』たちを迎え撃つ。


 いまや『氷狼』たちの憎悪は完全にテロンへ向けられていた。


 テロンは僅かずつ位置を変え、疾風のように動きまわった。次々と噛み合わされる鋭い牙の連なりの全てを、紙一重で避けていく。


 身をかわしながら次々と狙いを替え、拳を、蹴りを、容赦のない力と速さで叩き込んでいった。巨躯にもかかわらず『氷狼』たちの動きは速く、通常の人間ならば動きを目で追うことすらできないほどであったが、ルシカの魔導で強められたテロンの肉体はそれらを遥かに凌駕していた。


 ルシカの類稀なる力――魔法王国より継がれし魔導の血統、愛し愛されることで手に入れてきた様々な知識と心の強さ。ともに王国を陰で支える護り手としての日々で得てきた力もあった。テロンは畏怖にも似た敬虔な想いを抱くとともに、心から彼女を愛している。彼女の強さ、そして弱さも、全てをひっくるめて。


 だからこそ彼女を失いたくなかった。もう、二度と。


 テロンは疾風さながらに動き、怒涛のごとき攻撃を続けた。


 氷属性をもつ幻獣の上位種を相手にしているためにテロンの周囲は著しく温度が下がり、大気そのものが微細な氷となって肌を刺し、呼吸するたび肺に痛みを生じさせた。さしものテロンも『聖光気』と魔導の援護がなければ、一瞬で氷の彫像となって粉砕されていたに違いない。


 離れた場所に立つルシカはすでに、次の魔法陣を具現化していた。彼女の周囲の空気が変わったことにテロンは気づいた。『力の壁(フォースウォール)』と『完全魔法防御(パーフェクトバリア)』を自身に向けて行使したのだ。


 次の魔導を行使するため自身に張った防護壁でなければいいが……ルシカ、それ以上は無理をしないでくれ。――テロンは思わず口のなかでつぶやいた。


 立て続けに遣った魔法の影響で、彼女の呼吸が浅くなっている。内なる痛みをこらえているかのように、唇から小さな呻きが洩れている。身を護る魔導の技は充分だろうと思われた。あとは、さらなる魔法行使の必要が生じなければ良いのだが……。


 ルシカの様子に意識を逸らしていたテロンの周囲に、濃い影が生じた。


「む!」


 上空から迫る気配を振り仰ぐことなく、テロンはすぐに身を転がしてその場を離れた。一瞬後、それまで立っていた場所の氷が粉砕される。別の巨体がズシャリと上から落ちてきたのだ。


 複数の眼と巨躯、凄まじい重量、弧状に延びた剣呑な牙――。


「追いつかれたのかッ」


 テロンは歯噛みした。『氷狼』の群れは、すでに二体を残すまでとなったというのに。そのうちの一体は最初に突っ込んできた個体で、いまもルシカより遥か先でこちらの様子を窺っている。ルシカの強大な魔導を目の当たりにして突撃を思いとどまったのかもしれない。


「狼のほうは、厄介な奴が残っているということか」


 上位種は本来、知能が高い。獣のごとく本能に支配されて攻撃を繰り返している相手より、冷静に状況を見極めて仕掛けてくる相手のほうが、遥かに強敵となるのだ。噛み付いてきた一体を蹴撃と拳の連撃で叩き伏せ、割って入ってきた牙もつ巨大な幻獣に向き直り、テロンは目を狭めた。


 いままさに彼を踏み砕かんと前脚をあげて迫ってきた新手は、遥か後方に引き離したと思っていた『牙象マンモス』である。はじめに倒された『氷狼』の巨躯を乗り越え、闘っていた彼の頭上目がけて落ちてきたらしい。


「――まずいな。このままでは無駄な時間を費やしてしまうぞ」


「テロン!」


 迷いに動きをゆるめていたテロンは、ルシカの声にハッと我に返った。彼女の視線に導かれるように上空を見上げる。さらに新たな幻獣が数体、こちらを狙っていた。


「あれは……!」


 思わず驚きの声をあげてしまう。悠然と空を旋回している影は、まるで南海に棲むという希少な魚のようだ。祭のときに飛ばす凧のような、扁平でありながら幅広い体躯。優美ともいえる流線を描く胴と尾の表面は、まるで虹色に煌めくスペクトルのようにひどく美しい。


 胴の幅と全長は、闘っていた『氷狼』の体躯の二倍以上ある。エラのような短い切れ込みがずらりと並び、長細い針のような尾はどこまでも真っ直ぐだ。


「すごいわ……はじめて見る幻獣よ。古代の暖かい海に生息していた海鷂魚(エイ)に似ているけれど、体の内側に濃い風属性の輝きが見える――真空の刃の攻撃に気をつけて!」


 言葉の最後の部分は、彼に向けて声を大きくしてあった。


 緊迫した声でありながらも、彼女の眼差しは明るかった。怖ろしいという感情の前に瞳を輝かせて珍しいものを分析し、好奇心に満ちた表情を押さえ切れていないのが、彼女らしいといえば、らしい。


 こんなときだというのに。


 テロンは思わず微笑した。笑ったことで心に落ち着きが戻った。改めて呼吸と体勢を整え、眼前の『牙象マンモス』に向き直る。


 先ほど足場代わりに踏みつけた群れと同じ個体なのかどうかは分からなかったが、その幻獣は傷の奔った長い牙をふりたてながら咆哮をあげ、テロンに向けて突進してきた。


 牙をもつ巨大な頭部に衝突される寸前、彼は地を蹴って跳躍し、ごつごつとした背骨の上に着地した。拳を握りしめ、『気』を素早く練り上げる。


「はああぁぁぁぁッ!」


 気合いとともに拳を連続で打ち込み、一突きごとにその速度を上げ、急速に攻撃間隔を狭めてゆく。怒涛のごとく拳を繰り出して敵の骨を砕く技――最近習得したばかりの『疾風迅雷拳しっぷうじんらいけん』である。


 巨体が咆哮をあげて湖面にめり込んだ。地響きを立てて崩折れる『牙象』の背から跳躍し、テロンが湖面に降り立つ。ルシカを振り返り、すぐさま彼女へ向けて猛然と駆け出した。


「ルシカ!」


 テロンは叫んだ。彼の瞳はルシカの背後に忍び寄る蒼白い巨躯を捉えていた。最初に突っ込んできて、冷静にこちらの動きを窺っていた『氷狼』が、いままさに好機だといわんばかりにルシカを狙って飛びかかろうとしていたのだ。


 にわかに強まった肌を刺す冷気とテロンの視線で事態に気づき、ルシカがハッと背後を振り返る。彼女が眼前いっぱいに迫る幻獣に気づいたときには、すでに遅かった。


 テロンの目の前で剣呑な牙の連なりが彼女の姿を覆い尽くし、バシンと音高く噛み合わされた。


「ルシ――」


 テロンは息を呑んだが、すぐに気づいた。彼女の細やかな体は噛み切られていない。魔導の技によって展開されていた障壁が、しっかりと彼女を護っていたのだ。衝突音は、魔法の障壁に牙が突きたてられたときのものであった。


 けれどその障壁とて完全無欠ではない。際限なく攻撃を吸収し続けてくれるわけではないのだ。この攻撃で、かなり効果を減ぜられているはずである。


 急ぎ、テロンはルシカの傍に飛び込んだ。相手の眼球に力任せの拳を叩き込む。ルシカに牙を突き立てることに集中していた『氷狼』はテロンの『聖光気』による攻撃をまともに食らい、弾かれたように跳び上がって後退した。


 魔法障壁を張り直すタイミング――テロンはルシカを見た。


 テロンの視線に、ルシカが無言で応える。その瞳の虹彩に魔導の白い輝きが現れた。深い精神集中と魔導行使のための思考構築。そのタイミングはすなわち、魔導士が完全に無防備になることを意味する。


 ブルブルと巨大な頭部を打ち振り、氷の幻獣が起き上がった。怒りに無事なほうの翡翠の眼球をぎらつかせ、『氷狼』が凍てついた湖面を爪で掻きむしる。苛立たしげに牙の並んだ口蓋を開くと、周囲の温度がさらに下がった。


 しなやかな体躯をたわめ、狼は滑るように突っ込んできた。さすがに氷属性の幻獣だけのことはある。障害物のない氷上での動きは驚嘆すべきものであった。瞬きの間もなく一気に距離を詰めてきたのだ。


 テロンはルシカの前に飛び出した。体当たりを喰らうと同時に体勢を変え、牙と巨躯を押し退けるように腕に力を籠めて、背後にかばった妻から攻撃の軌道を逸らそうとした。


 そのとき、『氷狼』が咆哮ロアを放った。


「ぬッ!」


 突進の勢いを全身で受け止めていたところへ、目に見えぬ衝撃を正面から喰らってしまった。ウルフ系の咆哮ロアには、硬直や麻痺を引き起こす効果がある。ルシカの魔導で属性攻撃に対する耐性を高められていたとはいえ、至近距離から浴びせられた特殊攻撃の効果は凄まじかった。


 自身の生命たる根源――魔力マナを高めて意思の力を強め、抵抗レジストを試みる。筋力に僅かなゆるみが生じ、テロンの体が巨躯の下敷きになりかける。すぐに腕を突っ張り、巨躯を押し退けることができたが――。


「きゃああぁッ!」


 起き上がるテロンの眼前で、ルシカの体が悲鳴とともに宙を舞った。巨大な影が雪崩れ落ちるようにふたつ、突っ込んできたのだ。ひとつは湖面に突き刺さるように湖面を破砕して停止し、もう一体はルシカを弾き飛ばしたあと、彼女の体を追って再び宙へと舞い戻っている。


 先ほどから彼らを狙っていた『飛行海鷂魚ソアリングレイ』が襲いかかったのだ。最悪のタイミング――障壁が張り直される前に残存していた余力を上回る衝撃を受け、ルシカの魔法障壁はあとかたもなく霧散していた。


 上空高く撥ね上げられた彼女の体はぐったりとして生気がなく、『浮遊レビテーション』が行使される気配もない。ルシカは意識を失っていた。細い腕や首が烈風に吹かれるままに弄ばれ、揺れている。凍てついた湖面へ向け、遥か上空から落下を開始した。


 そのルシカに向け、『飛行海鷂魚ソアリングレイ』が迫っていた。現生界の海鷂魚エイでは有り得ない突端の巨大な口蓋が、かっぱりと開く。


 彼女をひと呑みにしようとしているのだ。テロンは狙いすませた『聖光弾』を撃ち出し、空を舞う幻獣の腹をえぐった。幻獣が啼き声とともに方向を転じる。


「ルシカ!」


 攻撃と同時に跳び上がったテロンは空中で彼女を抱きとめ、湖面に降りた。そこへ別の海鷂魚(エイ)が突っ込んでくる。細心の注意をこめて素早くルシカを降ろし、巨大な飛行幻獣を受け止めた。


 凄まじい力だ――テロンは足を踏ん張り全身の筋肉に力を籠め、軍船の甲板ほどもある相手の体躯を押しとどめた。


「……ん、て、テロン?」


 ルシカが意識を取り戻した。事態に気づき、細い腕を突っ張って起き上がる。彼女は腕を差し伸ばし、魔導の光を宿した瞳に力を込めてもう一方の腕で素早くひとつの魔法陣を描いた。


 テロンは眼を見張った。虹色に煌めく海鷂魚エイの巨躯の表面に、幾筋ものオレンジ色の輝きが瞬時に駆け奔ったのだ。驚いた彼は傍らに立つルシカに眼を向けた。


 虹彩に魔導の輝きを躍らせた『万色』の魔導士は、すべらかな頬を自身の魔法陣の放つ光に彩られ、まるで奇跡を体現しようとしているかのように神々しくみえた。オレンジ色の瞳があざやかにくらく沈み込んだ世界のなかに浮き上がり、瑞々しい可憐な唇がうっすらと開く。


 その唇が動いた。囁くような声が発せられる。


「ピンチを……チャンスに変える確実な手段……。親愛なる友獣よ、我とともにくことを願う」


 言葉の後半は、凄まじい魔力をそなえた『真言語トゥルーワーズ』であった。テロンの腕にかかっていた重圧がふっと抜ける。彼を押し潰さんと圧し掛かりかけていた海鷂魚エイが打ち震えるようにびくりと撥ね、力を抜いたのだ。


 そのまま湖面にゆっくりと伏せ、魔導士の体に触れるか触れぬかの位置で静止する。


「ありがとう、ここからは宜しくね」


 ルシカが優しく囁きながら虹色の体表を撫でさすると、幻獣はぶるぶると嬉しそうに身震いした。怖ろしく巨大な一枚の岩盤が、風渡るしなやかな草原くさはらのように従順に表面をなめらかに変化させ、彼らを背にいざなう。


「こ、これは一体……。ルシカ、まさか君の『使魔』の力なのか?」


「そうともいえるかもしれないわ。頭のなかにイメージを組んだまま魔導の力で『彼』に伝えたの。あたしたちはいまから、あなたたちを苦しめている元凶をもとに戻すために赴くんだって。そのために協力して欲しいって願いを込めながら」


 ルシカは微笑んだ。


「本来は幻精界から魔導士たちが使役のために召喚する魔法なんだけど、力で捩じ伏せるのは好きではないから、お友だちになって欲しいって伝えたのよ」


 彼女の魔導の名は、無限の可能性を秘めたものだ。経験と知識、強い意思さえあれば魔法そのものを望みの形に構築できる。


 けれどその行為は、凄まじい負荷と消耗を術者にいるはず。テロンは彼女を横抱きに抱き上げ、幻獣の広い背に跳び乗った。


「よし、では頼むぞ」


「うん。――さあ、行きましょう」


 ルシカの呼びかけに応じ、『飛行海鷂魚ソアリングレイ』の巨躯が宙に浮き、ヒレの羽ばたきひとつでグンと空高く舞い上がる。追いすがってきた後続の幻獣たちが怒涛のように押し寄せてきたのは、そのすぐ後のことであった。


「……危なかったな」


 テロンは踏み荒らされてひび割れてゆく凍てついた湖面を眼下に眺め渡し、つぶやくように言った。空の巨大幻獣は力強くヒレを打ち羽ばたかせ、墜ちゆく夕陽のごとく輝き渡る眼前のアウラセンタリアの地を目指し、一直線に向かっていく。





 耳もとでは、風が無機質な声で囁き続けている。どこまでも続く不毛の地には何も存在していない、そのわびしさを、通り過ぎてゆく旅人に訥々(とつとつ)と訴えかけているかように。


 ガクッと顎が落ち、リューナの意識が鮮明になった。どうやら、自分では起きていたつもりが少し眠り込んでいたらしい。スマイリーが全力で駆け走っている途上で、崖か亀裂を飛び越えたタイミングだったようだ。


 腕に抱いたトルテは、まだすぅすぅと穏やかな寝息を立てている。体温はあたたかく、その鼓動はトクトクとゆるやかな命の音を響かせていた。彼女の体を揺らさぬように気遣いながら首を後ろへ巡らせると、そこには互いに支えあい、まるくなって眠っている子龍とあどけない寝顔の幼女の姿があった。


 魔導の技で小さく灯してある『光球ライトボール』の白い輝きが周囲を淡く照らしていても、景色はいまだ深く暗い闇に塗り染められている。常闇の空虚な平原はどこまで続いているのだろう。決して明けることはないのだろうか。


「そういえば太陽ってあったっけ?」


 リューナは首を捻ってしまう。


「リューナ」


 耳に心地良く響くトルテの声に気づき、リューナは視線を自身の胸もとに落とした。彼の腕のなかでトルテが目覚め、顔を上げていた。『光球ライトボール』の魔法で灯した白い光がオレンジ色の瞳に映り、小さな希望の灯火のように煌めいている。


わりい、起こしちまったかな」


「ううん。もうすっかり回復したから目が覚めたみたい。それに――なんだか変に現実感のある夢を見たんです」


「夢?」


 トルテの夢なら無視はできない。リューナは聞き返した。


「はい。あの黒鎧のひとが、大きな石を握りしめて立っていたんです。黒く澄んだ水晶みたいな石で、中に水色の光がドクン、ドクンって明滅していたの。見つめていたらすごく不安になってしまうような怖ろしい光でした……」


 トルテの言葉に、リューナは真剣に考え込んだ。脳裏に閃いた記憶があったのだ。それを引っ張り出しつつ、口を開く。


「黒い水晶……? いま聞いていてパッと思い出したことがある。確か親父が自慢げに言ってた話のなかに、『封魔結晶ふうまけっしょう』とかいう魔道具マジックアイテムがあった気がする。すっげぇ強力な力を持った存在を封印できるとか何とか」


「はい。『封魔結晶』というものは、古代魔法王国期の魔導士たちが作ったものです。……そうですね、持っていたのはその水晶だったみたいでした。なぜあのひとが持っていたんでしょう。それにその光景も、あたしの夢のなかのことで――」


 トルテはそこで言葉を切った。呆然とした表情で、進行方向を見つめている。彼女の視線を追い、リューナもまた同じ驚きに打たれてポカンと口を開いた。


「夜が明ける……いや違う、太陽なんかじゃない。俺、あれと同じようなものを見た覚えがある気がするんだけど……」


 リューナが思わずつぶやくと、トルテも頷き、彼の言葉を継いだ。


「……遥かな未来でエオニアさんを救い出すために、みんなで向かった……『夢幻の城』エターナルのことですね、リューナ。あのときお城の背後にあった巨大な結晶体……そっくりです」


 美しくも異様な光景だ。屹立きつりつしている巨大結晶は天青石セレスタイトのごとく凍りついた色をしていたが、奥深いところから濃い赤の光が溢れるように導かれて燦然と煌き、陰惨な闇と不毛の大地を幽玄なる美の世界に塗り替えているのであった。


 トルテが深く息を吸い込み、白い輝きの宿るオレンジ色の瞳に力を込めて凛とした声を響かせた。


「いよいよですね、リューナ。あの場所こそが目指している地、アウラセンタリア。あそこに始原の存在のひとつ、『巨大魔海蛇王レヴィアタン』がいるはずです」





 それは巨大な宮殿のようにも見えた。だとしたら信じられぬほどに巨大な結晶体で造られた空色の宮殿ということになる。けれど纏っている雰囲気は異様で重苦しく、心を斬り裂かれるほどに危険な気配を放っていた。


 テロンとルシカのふたりは、凄まじい速度で飛び進んでゆく『飛行海鷂魚ソアリングレイ』の背から、眼前の光景を眺め渡していた。


 テロンは腕にルシカを抱き支えたまま手を伸ばし、自らの襟元をゆるめた。渇いた喉がひりつくほどの緊迫感と、胸を締め付けるほどに強い不安――対峙するのは、この世界を破滅の危機に晒している元凶であり、人智を超越した始原の存在なのだ。


 なにより心配なのは、彼にとって自身の生命よりも大切な相手であるルシカの魔力マナの消耗が尋常ではないことだ。これから荒れ狂い、弾ける寸前の魔力マナの根源を鎮めなければならないというのに。


 複雑な多面体の巨大結晶の奥から、細く長い影がゆらりと立ち上がった。


 遠目に見たその影の本来の大きさを理解し、ルシカが驚きの声をあげる。魔導の瞳を通して魔力マナの強大さを視覚的に捉えている彼女には、古代龍を目にしたときと同じか、それを上回る本能的な恐怖を感じているのだろう。


「テロン。あれが……」


「そうだな。あれが始原の生き物……古代龍よりでかい個体が存在していたとは、驚きだ。あれがどれほど危険な存在であるのかは俺にもわかる」


 始原の存在――レヴィアタンはゆっくりとその頭部を持ち上げた。色を失った天蓋を突くほどに延々と伸びてゆく。


 ふたりを乗せている『飛行海鷂魚ソアリングレイ』が引き攣ったように身を震わせた。だが、ルシカの唇に乗せた魔導の歌によって再び力強くヒレを打ち羽ばたかせ、巨大な影に向けてまっしぐらに突っ込んでいった。



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