6章 幻精界の中心 7-16
テロンとルシカが『転移』した先は、風の囁きすらも聞こえぬ凍りついた銀世界であった。
起伏の穏やかならざる大地は、パウダーのごとく乾いた、握ったこぶしからさらさらとこぼれ落ちる雪に覆われていた。樹齢の計り知れぬ巨大な樹々はひとつ残らず氷となり、塔と見紛うほど無機質にそそり立ち、不思議な色模様をにじませる空と銀の大地とを繋いでいる。
ドウドウと音を立てて流れ落ちていたに違いない滝は、内に幻想的な光を宿す氷柱の巨壁となってそこにあった。滝つぼは煌めく一枚鏡、滝の飛沫はさながら散り撒かれた金剛石のよう。
滝つぼのそばには、五柱の並ぶ屋根がかけられ、五芒星が描かれている建物があった。
屋根の下に描かれていた魔法陣に、一瞬、眩い光が爆発した。氷に閉ざされた光景を燦然たる煌めきに染めあげたあと、光は急速に薄れていった。光が消えたあとに残されたのは、背の高い人影と小柄で細やかな人影のふたつ。先に壇を下りて大地に降り立ったのは、背の高いほうだ。
「この世界には驚かされることばかりだな」
周囲を見回し、テロンは感嘆の溜息をついた。空気までもが凍てつくような外気の低さに、息が塊となって漂い消えてゆく。
「本当、とてもきれい」
ルシカが白い息を吐きながら、テロンの傍らに進み出る。彼と並んできらきらと輝く周囲の光景を眺め渡し、オレンジ色の瞳をゆっくりと微笑ませた。
「世界は――アーストリアは広いのね。別次元だから広いという感想は当てはまらないかもしれないけれど、こんなに圧倒的な広がりを見てしまったら、他にもまだまだ見てみたくなってしまうわ。こんなときだけれど、ドキドキと胸が落ち着かなくなってしまうの」
「ルシカらしい感想だな」
テロンは微笑み、手にしていた外套のひとつを彼女の肩にかけ、その体を包み込んだ。ここへ『転移』によって送られてくる別れ際に、銀紗と綿とを幾重にも重ねて圧縮したように不思議な光沢をもつ外套を、ルシカはエトワから与えられていた。みっしりと詰まった不思議な素材は風を通さず、たっぷりとしていて、とても軽い。
「寒くないか? ルシカ」
「充分暖かいわ、テロン。そうね、こうすればもっと大丈夫かな?」
ルシカは右腕をふわりと回し、宙に魔法陣を描き出した。青の光が奔り、ふたりの体を包み込む。光がふわりと溶け消えると、剥き出しの肌に当たっていたひりつくような寒さが和らいだ。魔導の技による、寒さから身を護る手段なのだろう。
「ありがたい。けどルシカ、あまり無理はしないで欲しい。本来ならばたっぷり休んでいなければならないはずなのだから」
「平気よ、テロン。こうして無事に生きていられるだけでも、感謝、感謝。それに、あの子を残してあたしは死なないから、だから大丈夫よ!」
ルシカは冗談めかした明るい口調で言い、次いで真顔に戻った。何か重要な事柄を語るときのように、息を細く吸い込み、唇に指の関節を押し当てるようにして。深く考え込むときの彼女の癖だ――少しでも自重してもらおうと口を開きかけていたテロンは、思わず言葉を飲み込んでしまう。
「それにしてもおかしいわ。幻精界って本来、あたしたちの現生界よりずっと自然の恵みに満ちあふれた場所であるはずなの。どこも精霊と呼ばれる活動的な魔力が多く存在していて、大きな変化もなく、いつまでも変わらぬ悠久の流れにある。……それなのにこの場所は、凄まじい変化を被っているわ。こんなに大きな滝が凍りついているし、樹までもが完全に……」
「確かに……そうだな。植物たちには生きている気配が感じられない。それどころか、冬の森とはいえ、普通なら冬眠中の獣や餌を求めて徘徊する魔獣なんかの気配が感じられるものだが……ここは静か過ぎる」
テロンは傍らに立つ樹に手で触れてみた。生まれ育ったソサリア王国は大森林地帯をふたつも有する大陸北方の緑豊かな土地なのだ。ここでは馴れ親しんでいるはずの森の匂いもせず、雪の感触も全く異なっている。
「エトワたちは、幻精界全体を巡っているはずの魔力が堰き止められていると言っていたな。その影響で草花や樹々たちも、枯れ果ててしまったのだろうか」
「おそらく……枯れるよりも早く、環境が変わったんだと思うわ」
テロンの言葉にルシカは首を振りながら答え、周囲に眼を向けつつ言葉を続けた。
「世界の中央にアウラセンタリアを配し、光の領域と闇の領域、そして四大元素と呼ばれる火、風、水、地の属性領域が織り成す豊かな大地。人智を超える恵みと脅威に満ちあふれた幻精界。けれどいま、光と闇の領域は遠く引き裂かれ、他の属性領域はあちこちに散ってしまった……」
ルシカは遠くに視線を投じながら、語り続けた。
「まるで配色を間違ってしまったパッチワークのように、混沌としたでたらめな色模様に仕立て上げられてしまったのね。ここも緑豊かな――おそらくは水の属性領域であったはず。雪に埋もれて見えないけれど、あちこちに凍りついた泉や小川、もっと遠くには大きな湖の存在を感じるから」
魔導の力というものは、研ぎ澄ませた感覚と同じものらしい。自らの魔力を開放して意識を広げることで、地形くらいは感じ取れるのだ。テロンは心配になってしまう。ルシカがまたもや魔導の力を遣っているらしいからだ――たぶん無意識のことだろうとはわかっているが、テロンは気が気ではない。
「とにかく時間がないんだ。移動しよう、ルシカ」
「あ、うん、そうね」
彼女の魔導を中断させようと声をかけたつもりだったのだが、慌てたように一歩を踏み出したルシカは足もとを滑らせた。「きゃっ」と微かな声があがると同時にテロンは動き、彼女が雪のなかに突っ伏す前にその体をすくい上げた。
「ごめんね、ありがとうテロン」
ルシカのすべらかな頬が赤く染まっているのが、寒さのせいなのか、それとも彼に抱き上げられたからかは定かではなかったが、テロンは自らの頬が熱くなるのを感じながらも彼女を降ろそうとはしなかった。
それに気づいたルシカが、腕のなかから戸惑ったように彼を見上げてくる。
「テロン……?」
「戦闘以外はこうして、休んでいて欲しい。魔力も体力も、温存しておくのが最善だろ?」
「やだ、気を遣わないで。あたしは平気だから」
微かにもがいた彼女の唇に口付けると、抵抗が止んだ。顔を離すと、すべらかな頬を膨らませて上目遣いに彼を見つめるオレンジ色の瞳があった。
テロンの意思を覆せぬことがわかっているルシカは、可愛らしい膨れっ面をすぐに和らげた。観念したようにそっとテロンの胸に寄り添うようにもたれかかり、小さな息を吐いた。
「……そうだね」
テロンは歩き出した。雪は深く、膝まで簡単に埋まってしまう。本人の足で歩かせたならば、小柄なルシカにとっては辛い強行軍になっていただろう。体術で戦う者の常として筋肉を鍛え上げているテロンにしてみれば、彼女を抱いたままの移動であっても苦にもならなかったのだ。
「あちこち乱れているのね、精霊たちも居ないみたいだし……手遅れにならないといいけれど」
「ティアヌならば、精霊たちがどうなっているのか詳しいことがわかったかもしれないな」
テロンはエルフ族の友人の名を口にした。ふたりにとって、一緒に戦った戦友である。彼は魔術師であり、自然魔法に長けたエルフ族であるために、精霊という存在がはっきりと知覚できるのだ。のほほんとして物柔らかな言動の若者だが、彼と一緒に旅をしているフェルマの少女リーファとコンビを組んだときの強さは頼りになるものだ。
彼らとの出逢いは、魔法王国の遺産『破滅の剣』を巡る騒動の折――。
「生きて、あなただけでも……か」
単調な雪上の移動で、様々なことを思い出していたからだろう。つぶやいてしまったテロンの独白に、ルシカが顔を上げた。
「その言葉って……。あのとき、あたしがあなたに向けた……?」
しまった、と思ったが遅い。テロンは観念したように頷いた。
「すまない。当時のことをいろいろ思い出していたんだ。あのときほど俺は、自分の力の至らなさを思い知ったことはない。だからこそ俺は、これからはルシカを必ず護り抜く、そう自分に誓ったんだ」
「テロン……ごめんなさい、あれはあたしの勝手過ぎる判断だったもの。謝らなければならないのはあたしのほう」
「いや。あのときルシカが結界を張って外と切り離してくれなかったら、ハーデロスは王宮ごと王都を消滅させていた。みなが必死で為すべきことをしていたんだ。ルシカの選択は間違っていなかった」
『無の女神』ハーデロスの破壊の力から王都に残る大切なひとびとを護るため、ルシカは生命そのものを魔力に変えて魔導に注ぎ込んだ。倒れる直前、ルシカが声なき声でテロンに向けて伝えた、彼女の最期になるはずの言葉だったのだ。
「もう無理はしない。あたしはあなたに約束したんだもの。それに……いまはもう帰らないわけにはいかないから」
ルシカが言い、テロンも力強く頷いた。ふたりの声が重なる。
「必ず無事に、あの子のもとに」
静寂に包まれた巨樹の森では風がそよぐこともなく、凍りついた枝葉からは落ちてくる雪もない。
水の通り道であった雪下の地面は氷となってもろくなり、起伏の激しい斜面に不用意に足を乗せれば滑落することにもなりかねないので、樹々の根元や岩の埋まった箇所を進まねばならなかった。
テロンは慎重に足もとを探りながら、出来得る限りの速度で進んでいた。フェリエトーラたちの魔法は、彼らを『源』の地たるアウラセンタリアにほど近い場所まで運んでくれたらしい。魔法の気配には疎いテロンであっても、方向を感じ取ることができるほどの距離に迫っていたのだ。
「不気味な胎動めいた脅威を肌でも感じるな……膨れ上がっているものが今にも破裂して全てを吹き飛ばしてしまう、そんな予感がする。これをルシカたちは感じ取っていたわけか」
腕のなかに視線を落とすと、ルシカはとろとろと微睡んでいた。やはり、相当に疲れているのだろう。
「無理もないな……」
テロンは思う。彼女は出産という大役を終えたばかりなのだから。本来ならば、このような凍てつく空間を駆け進む途上ではなく、温かな寝台の上でゆっくりと休んでいるべきであったのに。
「本当によく頑張ってくれている。ルシカには苦労をかけてばかりだ。いまも恐るべき脅威に、ともに立ち向かおうとしている」
出逢ったときの彼女は、メルゾーン配下のごろつきに追われて森のなかを逃げていた。双子の兄クルーガーとともに彼女を助けようとして、追っ手から彼女の姿を隠すために抱き上げたとき、その軽さとあまりの腰の細さに内心驚いた。テロンは兄とは違い、女の子と密接に係わったことがなかった。そのとき初めて出逢ったのがルシカだった。
――そのとき初めて? いや、そういえばルシカとは、もっと昔に出逢っていた。実は、森の中での出逢いが初めてではなかったのだ。彼女は王宮で生まれ、三歳まで王宮内で育った。書記官長であった父ファルメスと副書記官長であったフィーナのひとり娘として、当時七歳だった双子の王子と過ごした時間もあったのだ。
本来ならば、四つも歳下の幼女とやんちゃ盛りの双子が一緒に遊ぶことはなかっただろう。けれどルシカの父ファルメスは、双子のよき理解者であり、相談役でもあったのだ。温厚な人柄と、幼い者の話にも真剣に耳を傾けてくれて、厳しいお目付け役であったルーファスのお仕置きから何度もかばってくれた。自然と、その娘であるルシカと遊ぶ時間もできるというものだ。
幼すぎたルシカはほとんど憶えてはいないらしいが――幸いなことに。
そういえば、生まれてきた赤子の輪郭と目もとは、当時のあどけないルシカを思い出させるものだ。受け継いだ魔導の力といい、将来が楽しみでもある。
これからあの子が歩む人生が、幸せなものであって欲しい。そのためにも、両親である自分たちが失われるわけにはいかないのだ。特に……母親は。自らの幼少の頃の想いを重ね、テロンは唇を噛んだ。
気は遣うが単調な道中、ルシカと過ごしてきた時間を振り返っていたテロンは、ハッと我に返った。
全身を緊張させ、テロンは立ち止まった。いつの間にか、彼らを取り巻いている空気が変わっていたのだ。
ピリッ、とした琴の糸が断ち切れそうな気配は、まるで捕食者の飽く事のない凝視である。ぞわぞわと首筋を這いのぼってくる冷気が肌を騒がせる。昏い影から異様なほどの眼差しで、じっとりと注視されているのを感じる――。
「ルシカ」
小声で伝えると、彼女はすぐに反応した。薄曇さながらの暗い空の下でも明るい光を失わぬオレンジ色の瞳を開き、テロンを見上げて頷く。腕から滑り降りるようにして大地に立ち、すぐに魔導行使の為の精神集中を整える。
「奇妙な魔力の流れが見えるわ……それもひとつやふたつじゃない。あちこちの影から次々と這い出てくるみたい。まるでしなる鞭か蠢く無数の蔓のように、油断ならない器官を周囲に伸ばしている。幻獣と同じ存在だわ、気をつけて」
ルシカの警告にテロンは頷いた。相手が幻獣だということは、通常攻撃が効かないということだ。全身に神経を行き渡らせ、おのれの内部に流れる魔力を活性化させる。テロンは『聖光気』に身を包んだ。
テロンの操る『気』も、万物を構成している魔力が形を変えたものだ。体術の師バルバから伝授されたその技によって『気』を外側に纏うことで、魔法を付与された武器と同様、テロンの拳や体術、蹴撃が通用するということだ。
それに加え、ルシカひとりに魔力に餓えた幻獣たちの狙いを集中させずに済む――新たな魔導の技が行使されれば瞬間的に敵意が彼女に向いてしまうが、それでもテロンはルシカを護るつもりでいる。
テロンの気合が周囲の雪を巻き上げる。
時を同じくして、ふたりを狙う敵の姿が眼前に現れた。ぞわぞわと這い回る触手が乾いた雪の表面を掻き乱す。
ずるりとあちこちの巨樹の根元から現れたのは、自らの意思で動き回ることのできる植物の球根ような影だ。一体が馬車ほどの大きさがあり、触手そのものは本体の倍以上もありそうなほど異様に長い。触手の赤黒い色が這い回るさまは、白い雪の上に撒き散らされた鮮血が蠢いているかのようにみえる。本体の数は八体。
ずんぐりとした土か根の塊のような胴体には、眼球めいたゼリー状の球体がいくつも飛び出していた。餌を前にしたときのように熱狂的な視線を、テロンとルシカのふたりにひたと向けている。
「『召喚』の魔法にある『触手』と同じものみたいだけど、魔法陣から出現するのは一部なの。全体像を見たのはあたしも初めてよ……」
ルシカが吐き気を堪えるように口もとに手を当てながら言った。けれど、視線は逸らしてはいない。口もとの手をすぐに離し、両腕を前へと差し伸べるように動かした。次いで、くるりと多重の輪を描くように複数の魔法陣を同時に描き出す。『倍速』や『防護』等の援護魔法だ。
ルシカの魔法陣から放たれた魔導の光が、テロンの肉体に降りかかり、ふわりと溶け消えた。感覚が研ぎ澄まされ、肉体が躍動するような爽快感が全身に奔る。続けて行使された魔法を受けると、感じていた寒さもほとんど感じられなくなった。氷属性の敵に対する防御魔法だろう。
テロンは敵を注視し、すぐに納得した。相手の放つ冷気によって周囲に立つ樹々の表面に霜めいた氷の層が生じ、全体がびっしりと覆い尽されはじめていたのだ。芯まで凍てついた樹のいくつかがバリバリと嫌な音を立て、内部から張り裂けてゆく。
テロンは構えながら周囲に視線を走らせた。敵は八体、じりじりと……だが着実に距離を詰めてくる。触手の間合いは素手で戦うテロンよりも相当に広い。ルシカの魔法の範囲はさらに広いが、後方に立つルシカまで到達される訳にはいかなかった。
テロンは『衝撃波』を放った。
ドゥン! くぐもった轟音とともに雪が吹き払われ、本体のふたつを後方へ吹き飛ばす。残る六体はびくりと震え、次いで猛然と突撃を開始した。
すぐにもう一体を後方へ押しやったが、相手の数があまりにも多い。本体には複数の触手が生えていて、ひどく強靭にできているようだ。本体の一部を吹き飛ばされようとも、這い寄ってくる速度は変わらない。
「テロン」
背中にルシカの声がかかる。強い意思を含んだその声音に、テロンは顔を引き締めた。言葉はなくとも彼にはルシカの意図が伝わった。いまのルシカにそれほどの負荷をかけたくはなかったが、この戦闘は長引くほうが遥かにリスクを伴いそうだ――テロンは覚悟を決めた。
「任せろ」
テロンは短くルシカに応え、全身に力を籠めた。拳を握り、体勢を低める。雪深くに隠された足場を探り、固い地盤を踏みしめる。全身を覆う『聖光気』が輝きを増し、太陽フレアのごとく燃えあがる。後方では、ルシカが深い精神集中に入る気配があった。
次の瞬間、放たれた矢のようにテロンは飛び出した。宙に踊るように触手の束全てが跳ねるように反応する。彼の動きを追い、ぐるりと触手が滑るように動いた。
ビュッ! という鋭い音とともに複数の触手がしなり、瞬時で距離を詰めてきたテロンを狙う。串刺そうと尖った先端を突き出してきた。
戦い慣れたからだが反応し、虚空を切り裂いてくる触手の動きを次々と避けてゆく。避けきれぬ軌道で襲ってきたものは手刀で叩き落した。『聖光気』に焼かれ、ジュワッと嫌な音をあげて触手が震える。鼻を突く異臭。
地面に落ちた触手が雪を掻き乱し、もうもうと巻き上がって視界を塞ぐ。テロンは触手が空気を割いて迫る音を聞き分け、或いは肌にびりびりと感じた感覚を頼りに、叩きつけ、蹴り、本体そのものを蹴撃でその場に潰し留める。
離れたところに立っているルシカの呼吸が変わり、タイミングを彼に告げる。魔導を行使する直前だ。
「テロン!」
彼女の呼び声を聞いたときにはすでに、テロンは空中にあった。まだ無事に立っている巨樹の幹を足場に、さらに大きく跳躍する。
戦闘によって巻き上げられていた雪煙が、眼前から拭い去られる。触手が絡み合うように暴れている範囲を抜けたのだ。眼下にルシカの姿がみえた。雪煙の中心を見据え、両腕を真上に伸ばしている。
「紅蓮の業火よ、再臨せよ!」
ルシカの『真言語』とともに、彼女の体の周囲を魔導の光が竜巻となって吹き上がる。
白い雪煙をも透かして見極められるほどに鮮やかな真紅の魔法陣が瞬時に組み上げられ、触手の蠢き絡み合う真ん中から周囲を赤一色に染めあげる。次いで周囲の空間が闇に沈んだように黒に没し、空間が歪んでキィンという高い音が鼓膜を打つ。
次の瞬間、空間が真っ赤に染まった――。
ドウウゥゥゥゥンッ!!! 轟音とともに触手の本体をも巻き込み、触手の蠢く空間が灼熱の炉に変わった。火属性の魔法のなかでも最高位魔法のひとつである『破壊炎』だ。
雪に覆われていた大地は焦土と化し、隠れ潜んでいた触手体もろとも敵のほとんどが真っ黒に焼け焦げ、転がった。凍てついた泉や小川の類も、全て蒸発して黒い窪地となっている。
本来ならば『火』の名を持つ魔導士でなければ行使することは不可能だが、『万色』の名を持つルシカは魔法の制限に縛られることはないのだ。凄まじいまでの威力だ――テロンは空中にあってこれらの光景を打ち眺め、妻であるルシカに一瞬、畏敬の眼差しを向けた。
大陸に並ぶものがないと言われた彼女の、万能魔導の遣い手としての実力。けれどその反動もまた、凄まじいものがある。
テロンは空中で体勢を変え、地面に着地した。すぐに駆け出し、ふらりとよろめき倒れかけたルシカの体を抱きとめる。いかに類稀な魔導の力を行使しても、彼女は神ではない。瞬時に魔力を消耗する最上位魔法を躊躇いもなく行使できるのは、テロンを信頼しているからに他ならないのだ。
魔法の準備にかかる隙も、行使するタイミングも、テロンとともに幾度も死線をくぐり抜けてきた『ソサリアの護り手』としての経験が積まれているからこそ――。
「ごめ、ん……ちょ、と無茶だった……ね」
ルシカがテロンの腕のなかで薄く目を開き、微笑んだ。テロンは首を振り、彼女の汗ばんだ額にかかっていた髪をそっと手で除けてやった。乱れていた呼吸を整え、ルシカが言葉を続ける。
「たぶん、幻獣たちも本能的にアウラセンタリアを目指しているんだわ。自分たちの生命の存続がかかっているんだものね……そこへあたしたちは飛び込んでいく」
「魔力に餓え、渇いているところへ差し出されたかのように現れた杯ということか、ルシカ。……冗談なら笑えるが、これが冗談ごとではないとは」
つまりこれより先には、魔力に餓えた幻獣たちがひしめいているという訳か――テロンは奥歯をギリリと噛んだ。それはすなわち他でもないルシカが、凄まじい数の幻獣たちに狙われるということなのだ。




