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ソサリア魔導冒険譚  作者: 星乃紅茶
【第七部】 《双つの都 編》
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5章 暗躍する影 7-13

 通路は闇に沈んでいた。視界を確保できるほどの光はない――リューナたちは魔導の瞳を凝らさなくてはならなかった。


 『影の都』ランティエの内部には魔力が満ち溢れているため、魔導士である彼らにとってはが目視できるも同然だ。それでもトルテはつまづいて転びかけるので、彼女の手をしっかりと握りしめ、リューナは走った。


 嫌な雰囲気の通路だ。だが、美しくもある。天然の洞穴の壁を信じられないほどツルツルに磨けば、このような感じになるだろうか。手触りはどこまでもなめらかで、ぞっとするほどに不自然だ。


 暗闇に目が慣れてくると、周囲の様子が見て取れるようになった。人工のものとは思えぬ壁石は不思議な色模様を描き、そのどれもがひとつとして決まったパターンを持っていない。水に濡れてでもいるかのようになめらかな表面は強固で重苦しく、圧し掛かってくるかのような重圧感を放っている。


 不気味で湿っぽく感じられたが、カビの匂いはしない。空気そのものは清浄だ。


「すっげぇ奇妙なところだよな、どこもかしこも。――っと!」


 ふいに不自然な手の引かれ方をしたリューナは、咄嗟に彼女の手を引き寄せた。転びかけたトルテを、地面に激突する前にしっかりと胸に抱きとめる。


「あぶねぇ……こんなところで怪我すんなよ、トルテ」


「あ、ありがとうリューナ」


 トルテがリューナの腕から顔を上げた。ぱちぱちと大きな瞳を瞬かせた歳下の少女は彼を見上げ、くすぐったそうな顔で口を開いた。


「なんだかリューナ、テロンとうさまに似てきた気がします」


「へっ?」


 思いもよらなかった言葉に背筋が伸び、妙な姿勢になったリューナの体がぐらりとかしぐ。足もとが滑り、「のわっ」と素っ頓狂な声をあげて尻餅をつきかける。トルテが彼の手を引っ張ってくれたので、リューナはすぐに体勢を整えることができた。


「だ、だいじょうぶですか、リューナ」


「う、あぁ、ごめん」


 俺ってば、なにげに格好わりぃよなぁ――リューナは肩を落として苦笑した。なぜか、ものすごく焦ってしまった。トルテの父親の名に、照れくさくこそばゆいような、妙な気持ちを感じてしまったのだ。


「ピューリィ」


 傍でパタパタとはねを動かして浮いていたピュイが息を吐き、呆れたような音をたてる。リューナと目が合うと、古代龍の生き残りは大きな瞳をぐるっとさせたあと、ジト目で見据えてきた。


 リューナが子龍をグッと睨む。ピュイは先を促すように鼻先を進む先へと向けてみせた。


「わかってるさ、行こう」


 口を曲げて難しそうな表情を作りながら、トルテの手をとって再び走りはじめる。


「このまま進めば、きちんとナルちゃんのところにたどり着けるのでしょうか。地図もなにもありませんし……間違っていたらどうしましょう」


 リューナの背に、決断を迷ったときのように心細げなトルテの声が届いた。


「わかんねぇけど、ここまで真っ直ぐだったよな。脇道とか分かれ道とか、あったっけ?」


「いいえ。なかったと思います」


「なら、このまま進むしかないよな」


 ラウミエールが開いた通路の入り口は、鉄格子のかかった扉の手前に生じていたのだ。鉄格子の向こうは広い空間になっており、自分たちの入り込んだ通路よりは明るくて心地良さそうで――つまり、本来のルートで進んできたならば鉄格子に阻まれていたであろう先の先まで、彼のおかげで一気に進んできたような印象だった。


「いざとなったら、壁とか全部ぶち壊して探すから。トルテは心配すんなって」


 リューナは気軽な調子で口に出した。内心の迷いは、幼い頃から一緒に過ごしてきたトルテにはお見通しなのかもしれないが、彼女の心を少しでも軽くしたかったのだ。それに、いざとなれば言葉通り、剣にありったけの付与魔法エンチャントをかけて岩壁を叩き壊すくらいやってやろうと考えてもいた。


 愛用の長剣は、連行されるときに回収し、魔導の技で腕に同化させてある。都に到着したときにも没収されることはなかった。ラムダとかいう大男は、戦いの技に長けてはいても魔導の技にはうといのだろう。


 それにしても気になるのは、奴がトルテを見ていた目つきだ――リューナは男の顔を思い出し、走りながら顔をしかめた。


 熾火おきびのような赤い瞳を爛々と光らせていた。舌なめずりでもするかのような、捜し求めていた獲物に挑みかかるかのような、飢えと渇きに満ちた眼差し。


 怨恨か因縁でもあるのかと一瞬は考えたが、トルテを個人として知っているわけではなさそうだった。


「わっかんねぇな。ただのエロじじいかとも思ったが、にしては魔導士であることに興味を示していたようでもあるし……」


「どうかしましたか? リューナ」


 つぶやきが聞こえたのか、トルテが訊いてくる。慌てて「なんでもない」と答え、足を速める。背後から聞こえるパタパタという羽ばたき音が少々遅れ気味になり、抗議するような甲高い鳴き声が響いてきた。


「ちょっと待てよ、ピュイ! 静かにしてろ」


 リューナは立ち止まり、子龍を振り返って唇に立てた人差し指を当ててみせた。そして五感を研ぎ澄ませ、微かに感じられる気配の正確な位置を探りはじめる。


 トルテもそれに気づいたようだ。リューナに身を寄せ、不安そうな眼差しを進行方向へ投げかける。


「――誰か居るみたいですね、この先。まだ距離がありますけれど、言葉のようなものが頭の中に響いてきます」


「あぁ、だな」


 リューナはトルテと視線を合わせ、頷いた。できるだけ足音を立てないようにして、通路の先へと進んでいく。


 声のように発せられた音ではなかったが、言語であることは理解できる。まだ詳しい内容までは聞き取ることができなかったが、凄まじい敵意と疑心が感じられた。


 もうひとつ確実なのは、思念の波動のひとつがナルニエのものだということだ。


 リューナはトルテの手を握っている彼自身の手に力を篭めた。応えるようにトルテが彼の手をきゅっと握り返し、するりと離れる。


 リューナは息を吸い込んだ。吐くと同時に、床を蹴った。足音を立てることなく疾風のように駆け走る。


「……たしがなにしたっていうのよっ。おじさんたちのヘンタイ! いじわるこんこんちきのボウリャ――暴力ボウリョクおやじいぃぃっ!」


 わめくような啖呵がはっきりと聞き取れた。暗く狭かった通路が、唐突に終わりを告げる。幅と奥行きのある大部屋のような空間に出たのだ。


「そのような姿に俺たちが惑わされると思っているのか! 俺たちを皆殺しにしようと狙っているんだろう!」


「言え、世界を引き裂いただけで飽き足らず、おまえたちが何をしでかそうとしているのか!」


 殷々(いんいん)と響いてくる負の波動のような疑惑の針が、リューナの胸に突き刺さる。それを放っている複数の気配を奥にはっきりと感じ取り、リューナは駆けてきた勢いのまま部屋に飛び込んだ。


 右腕に沿わせるように左腕を動かし、愛用の長剣を生じさせる。


 次いで、左腕で宙に魔法陣を描き出す。稲妻のような閃光が右腕の剣の刀身にまとわりつき、周囲の闇を押しのけるようにギラリと光った。一瞬でその場の人数を確認し、リューナは後方のトルテにも聞こえるよう声を張りあげた。


「三人!」


 利き腕を突き出し、手前に立ち尽くしていた男の鳩尾に剣のつかを埋め込む。剣にかけられた属性魔法の衝撃は鎧で止まらなかったらしく、相手はギャッと思念の悲鳴をあげて体をふたつに折った。


 幻獣と同じ魔力そのもので構成された幻精界の住人であっても、案外俺たちと急所なんかは同じなのかな――同じ形状の体を持っているのだから当然なのか、と妙に納得してしまう。


 床に崩折れてゆく兵士を目の端で捉えながらも、リューナは次の相手に注意を向けていた。


「なんだ貴様!」


 鎧を着込んで強力そうな武器を持っているだけはある。続くふたり目と三人目の行動は素早かった。腰の後ろに吊るしてた刀を抜き放ち、リューナの剣を振り払う。短い曲刀――フルワムンデへ向かう前に立ち寄ったザウナバルクの港で冒険者たちが手にしていたような、南国特有の武器だ。室内のように狭く閉鎖された空間では、リューナの手にしている長剣よりずっと扱いやすそうだ。


 闇間に閃いた、殺意と閃光。


 目の前に迫っていた白刃を避け、リューナは上体を仰け反らせた。断ち斬られた前髪が数本、宙に舞う。


 振り払われた刀身を一旦真横に流し、そのまま後方へ一回転、剣の重心のあるほうへさらに一回転して位置を変える。姿勢を低めた動きで剣を振り上げ、改めて力任せに相手へ叩きつける。


 耳障りな音と火花が生じ、一瞬、暗い空間が激しい雷光に照らし出されて浮かびあがった。室内の光景がはっきりとリューナの網膜に焼きつく。


 大きな瞳を見開いてこちらを見つめる幼女と、その手首の鎖。リューナに対峙して剣を受け止めた相手の顔が驚愕に歪み、次の瞬間、敵の刃がバキリと折れた。リューナの腕にも凄まじい衝撃が伝わってくる。


 相手の鎧に喰い込んだ己の刀身を引き戻すと同時に、リューナは相手の腹を真上に蹴りあげた。重そうな鎧が天井まで吹き飛んで叩きつけられ、ズシャリと固い床に落ちる。相手は弛緩し、動かなくなった。


「し、しんだの?」


 ナルニエの震える声が訊いてきたので、リューナは答えた。


「いや、気絶しただけだ、心配すんな。さぁて、力の差ははっきりしただろ! そっちのあんたも無駄な抵抗は――」


 そこまで言ったとき、殺気と金属の軋る音がリューナの眼前に迫っていた。


 リューナは自身の剣を素早く移動させ、相手の剣を受け流すべく構える。烈風のように空気を裂いてくる気配に向け、闘い慣れた本能で腕が動いた。


 ギイィンッ! 刃と刃がぶつかった瞬間、付与された雷撃が相手の顔をくっきりと照らし出した。凄まじい形相ながらも、幻精界の上位種族によくある整った端正な男の顔。相手の紫色の瞳に映っていたのは、リューナ自身の顔と――おびえの感情、だろうか?


 リューナが目をすがめたとき、まるで真昼にでもなったかのような光が後方で爆発した。


 魔導特有の輝きが奔り、眼前の男の足下に光の魔法陣が結ばれる。相手の足が床に縫われでもしたかのようにあがらなくなり、踏み変えようとしてバランスを崩したところに魔法陣から伸び上がった光の鎖が絡み上がっていく。


 背後を振り返って確認するまでもない。トルテの複合魔法だ。リューナが先ほど叫んだ人数を聞き、行使する魔導の精神集中を整えていたのだ。地面に倒れ伏していたふたりの兵士も同じ魔法で縛られ、地面に縫い付けられている。


「『持続コンテニュアル』の効果も合わせておきましたから、しばらくはこのままです」


 トルテが軽い足音とともに駆けてきた。『光球ライトボール』で作り出した魔法の光を頭上に浮かべる。周囲が一気に明るくなった。


 彼女は壁に繋がれていた幼女に駆け寄り、膝をついた。


「ナルちゃん! お待たせしました。遅くなってしまってごめんね」


「ううん。来てくれて嬉しい、おねえちゃんっ! おにいちゃんもありがとね」


 にぱっと嬉しそうな可愛い笑顔を向けられれば、リューナだって悪い気はしない。


「大変だったな、ナル。こいつら幼児虐待で訴えてやってもいいと思うぜ。……にしても、この手枷はひどいな。ちょっと待ってろ、すぐに外してやるから」


 ナルニエの小さな手首には、不恰好なほどに大きな手枷が幾重にもつけられ、重そうな鎖で壁に繋ぎとめられていた。ただの金属のようだが、相当な重量がありそうだ。


 暗かった室内は、トルテの魔法の光で隅々まで照らし出されていた。牢獄か拷問部屋か……それに準じるほどに嫌な雰囲気を漂わせている空間であるのは間違いない。


「ナル、ぜってぇに動くなよ。トルテ、どいてろ」


 リューナは剣を振り上げた。ナルニエの手首に向けて振り下ろす。もちろん、幼女の細い手首そのものからは外した位置を狙って。


 ヒッ、とばかりに硬直したナルニエだったが、言われたとおり微動だにせずリューナの剣を受け止めた。だが――。


「なッ……なんで壊れないんだよ!」


 リューナは信じられない思いで手枷を睨みつけた。鋼であろうと、このくらいの金属ならば一太刀で断ち切る自信があった。けれど手枷には傷ひとつ刻まれていない。魔法の光に照らされ、不思議な光沢にぎらぎらと輝いている。


 言われたとおりに後方へ下がっていたトルテが戻ってきて膝をつき、覗き込むようにしてナルニエの手枷を見つめる。彼女はすぐに顔をあげ、リューナに向けて口を開いた。


「リューナ、剣の『付与エンチャント』を消して、もう一度試してみてくれませんか」


「あ? あぁ、わかった」


 リューナは長剣の刃に意識を集中させ、空いているほうの手を刃の表面に沿わせてするりと動かした。彼女の言葉どおり、剣を覆っていた魔法効果を消失させる。


 ナルニエの傍からトルテが離れ、彼に向けて頷く。リューナは剣を振り上げ、もう一度ナルニエの手枷に向けて振り下ろした。


 まるで硝子ガラス細工でも落としたときのような甲高い音を立て、手枷は粉々に砕け散った。ナルニエが口を丸く開いて歓声を発し、リューナの顔を嬉しそうに見上げる。トルテが安堵の息を吐き、離れた位置から手をぱちぱちと打ち鳴らした。


「良かった。ここは魔力マナそのもので構成された世界ですから、逆にあたしたちの世界の金属がこんなふうに使われることがあるのですね。魔法では壊せないように加工すれば、この世界の者には揺るぎない戒めの道具となる――」


「そのとおりだ。さすがは魔導士だな。あらゆる観点から物事を見極め、魔法行使のみならず優れた洞察力を発揮するとは」


 淡々とした声に、リューナは弾かれたように振り返った。トルテが立っていたはずの場所を。


 腹の底が凍りついたかのごとくヒヤリと冷え、首筋の毛がぞわりと逆立つ。次いで、火でもついたかのように頬が熱くなる。


「おまえ……いつの間に!」


 重厚な鎧に身を包んだ男は、竜人族もかくやと思わせるほど丈高く、屈強なものだった。その太い腕に首を締めつけられたトルテの足が、床からかなりの高さに吊られてしまうほどに。


 黒鎧の男ラムダだ。トルテの首を片腕で締めるように背後から抱きすくめ、こちらを脅すように彼女がもがき苦しむさまを見せつけている。


「一度ならず、二度までも」


 悔しさと腹立たしさのあまり、リューナは唇を血が滲むほどに噛みしめた。接近されても気配に気づかなかったとは――自分を殴りつけてやりたいくらいだ。


「――トルテを放せッ!」


 リューナは叫んだ。体を低く沈みこませ、力任せに床を蹴る。けれど相手は二度も同じようにリューナを簡単に近づけさせてはくれなかった。


「動くな!」


 鋭い恫喝の声と同時に、トルテの表情がはっきりと苦痛のそれに変わる。息が継げないのだろう、すべらかな頬がみるみるうちに血色に染まっていく。


「ぁ…………!」


「お、おねえちゃんっ!」


 ナルニエの引き攣ったような悲鳴が響き渡った。


「くそぉっ」


 何もできず、リューナは奥歯を噛みしめるしかなかった。もっと悪いことに、このタイミングで床に倒れ伏していた兵士たちを縛っていた魔法陣が消失した。効果時間が切れたのだ。三人のうちふたりが頭を振って腕を突っ張り、起き上がろうとしている。


 そんな醜態を晒している部下たちを睨みつけ、ラムダが忌々しげに舌打ちした。野太い声で恫喝する。


「魔導の心得があるとはいえ、こんなガキ共に簡単にやられおって。無能もここまでくればゴミ同然だ。……さっさと立たんか! 光の領域の間者を捕らえよッ!」


「ナル逃げろ!」


 リューナはそう叫んだが、ナルニエが彼らを置いて逃げることができないのは痛いほどに理解していた。この場をのがれてひとり脱出できても、その先どうするというのか。


 リューナは周囲に視線を走らせた。目の前にラムダと名乗る敵、その腕に囚われたトルテ。相手から真横に見た位置に、ナルニエと兵士ら三人。リューナはじりじりと足を動かし、男から見てナルニエとは反対の位置へゆっくりと移動しはじめた。


「動くな、と言ったぞ」


 黒鎧の男が腕にさらなる力を籠める。苦しげなトルテの腕があがり、むなしく男の篭手を引っ掻いている。男はリューナの動きに合わせて油断なく体の向きを変え、隙を作ることなく彼の動きを追っていた。


 回り込んだことで、ナルニエの小さな姿が男の背後に移動した。


「……俺たちは、あきらめないぜ!」


 リューナのニヤリと不敵な笑みとともに威勢よく発せられた言葉。男の向こうに見えるナルニエの表情が変わった。小さな唇がキッと引き結ばれ、空色の瞳にはっきりと力が籠もる。


 リューナは頷き、次の瞬間、下げていた剣を撥ね上げつつ床を蹴った。瞬時に男との距離を詰める。


「動くなと――ウワッ!」


 黒鎧は奇妙な声をあげて重心を崩した。ナルニエが突進し、男の膝裏に体当たりを食らわせたのだ。男が虚を突かれたのは、ほんの一瞬。


 だが、リューナにはその一瞬で充分だった。


 踏みこむと同時に、長さのある剣を力いっぱいに突き出す。狙ったのは相手の肩口、重厚な黒鎧の僅かな隙間だ。狙い過たず、剣先が鎧の隙間から内側へ滑り込む。いかに鍛え上げられた戦士といえど、肉体の痛みには反応する。力が緩む反射行動は抑えられない。


 リューナはそのまま男に飛びかかった。黒い篭手を掴んで力任せに引き下ろし、トルテの体を開放する。滑り落ちた失神寸前の少女を片腕で受け止め、相手の鎧から剣を引き抜く。


「ナル、みんな。逃げるぞッ!」


 威勢の良い声をかけると同時に、リューナは男の足首を蹴り払った。


「ぬおッ!」


 黒鎧が完全に均衡を失い、後方へ倒れこむ。その足の隙間を抜けるようにして兵士たちの腕から逃れたナルニエが、リューナたちへと駆け寄った。体勢を立て直そうとした男は腕を振り回し、それに当たった兵士のふたりが完全に昏倒する。


「逃すかッ!」


 逆上した男が大声で叫び、鎧の背に留め付けてあった漆黒の大弓に手を伸ばす。


「ピッピューイ!!」


 甲高く鳴いたピュイが飛び上がり、炎を吐いた。顔面に食らった男は仰天したように腕を振り回し、その動きでさらに残っていたひとりの兵士も吹き飛んだ。


「おのれええぇぇぇぇッ!」


 火傷を負った男は凄まじい形相で吼え、巨大な弓を構えて矢をつがえた。通路奥へと消えかけるリューナたちの背に向け、引き絞り、放つ。


 黒い雷撃が狭い空間を震撼させ、リューナたちは衝撃で前方に吹き飛ばされた。視界が激しく明滅し、髪が逆立つ。その衝撃で、トルテがうっすらと目を開いた。


「くそぉっ、なんてメチャメチャな野郎だ!」


 リューナは激しい怒りのあまり、両の瞳が熱くなるのを感じた。涙ではない。魔導の輝きが自分の内側から溢れるのを感じ、魔導の力に導かれるままに腕を跳ね上げ、素早く魔法陣を描き出す。白い輝きが生じ、リューナたちを優しく包み込んだ。


 完全ではなかったが、腕に、足に、再び力が戻ってきた。リューナは立ち上がり、トルテとナルニエに手を貸した。目を回していたピュイも立ち直り、リューナたちはすぐに駆け出した。進む通路は戻る方向しかない。


「おにいちゃん! ここから出る道を知ってるの?」


「いや、わかんねぇ! けど道はひとつしかないんだ。突っ切っていこう!」


 きっぱりとしたリューナの答えに、ナルニエは呆れたように瞬きをしたが、すぐにニッと笑った。なんとも嬉しそうに。その笑顔は、リューナの浮かべるいつもの笑顔と似ていた。


 それに気づいたトルテが笑顔になり、次いでその瞳に決意の輝きを生じさせた。駆け走っていた足を緩める。背筋を伸ばして後方へと向き直り、完全に立ち止まった。


 彼女の突然の行動に戸惑い、リューナも急制動をかけて振り返った。


「トルテッ?」


 背後から迫り来る殺意に満ちた気配と足音。焦ったリューナは彼女の腕を掴もうとした。けれどすぐに彼女の意図を感じとり、伸ばしかけていた腕を自ら制する。


 トルテは深い呼吸をひとつしてオレンジ色の瞳に力を篭め、腕を素早く振り上げた。複雑な動きを交えつつ振り下ろし、追っ手が迫っているほうへ突き出す。


 通路を塞ぐように光が駆け走り、幾重にも重ねられた魔法陣が現れた。まるで蜘蛛の巣のように折り重なって通路を完全に封鎖する。足止めとしては充分すぎるほどの壁であった。


 トルテは止めていた息を吐き、長い髪が揺れるほどの勢いでリューナを振り返った。


「さぁ、いきましょ! これで時間稼ぎになるはずです。物理的な障壁と魔法障壁を重ねて固定したの」


「すっげぇ、やるじゃんトルテ!」


 思わず発したリューナの賛辞に、彼女はホッとしたような表情で応え、すぐに駆け出した。


 ふたりがナルニエとピュイに追いついたところで、後方から通路全体を揺さぶるほどに凄まじい衝撃と轟音が響いてきた。


「あの弓と矢は、なにでできてやがるんだ。すっげぇ嫌な力を感じるんだけど」


「そうですね。憎悪と怒り、不信と傲慢……あらゆる負の感情がかたちを与えられたような、凄まじい破壊の力を使っているみたいです。あんなものを生きている相手に向けて撃つなんて、信じられません。――あ、リューナ、どうしましょう、行き止まりです!」


 トルテに言われるまでもなかった。おそらくここが、ラウミエールが開いてくれた通路の入り口が現れた場所なのだろう。頑丈そうな鉄格子によって閉ざされた扉が、きっぱりと進むべき道を閉ざしている。憶えのある光景だ。


「どうしよう、ぜったいアイツ、ここまで来るよ!」


 ナルニエが言った。その言葉を裏付けるように、背後から凄まじい音と衝撃が連続的に伝わってくる。


 おそらくあの弓矢か、他の剣呑そうな武器を、トルテの複合魔導の障壁へ向けて叩き込んでいるのだろう。破壊されるのも時間の問題だ。


「トルテ、俺に任せろ」


 扉を調べようと魔導の瞳を凝らしていたトルテを制し、リューナは剣を構えた。


 裂ぱくの気合とともに叩きつけると、鉄格子はすっぱりと断ち切られた。もう一度剣を閃かせ、リューナたちが充分に通れるほどの隙間を作る。


「さすがです、リューナ。先ほどの手枷と同じだったんですね」


 感心しながら隙間を潜り抜けたトルテの後を追い、リューナはナルニエを連れて扉の向こうへと進んだ。ピュイが張り出した腹を少々つかえさせながらも後に続く。


 その先もまた通路だったが、今度はとても複雑な構造になっていた。まるで巨大な空間に幾つもの階段と渡り廊下を張り巡らせ、立体迷路でもこしらえたかのようだ。


「おそらくこちらですわ――イタっ!」


 率先して駆け出したトルテが、勢いよく壁のひとつに衝突した。かなり痛そうな音が響く。


「無理すんなよ、トルテ。地図を覚えているときには頼もしいけど、おまえすっげぇ方向音痴なんだからさ」


「ふ、ふぁい」


 打ってしまったらしい鼻と額を押さえ、トルテがくぐもった声で返事をした。


「牢ってたいてい、地下にあったりするよな。ここもそうなら、上に登っていけばいいんだろ。これだけスッカスカに通路と階段の隙間が開いているんだ。『飛行フライ』の魔法で飛べばすぐだぜ!」


 自信たっぷりに発したリューナの言葉に、トルテが首を振った。


「いえ、リューナ。魔導の技で空中を……というわけにはいかないみたいです。ほら、あそこ、見えますか? 飛び出している不自然なでっぱりと、描かれた紋様――おそらく空間属性の魔法を封じるための仕掛けだと思います」


 彼女の瞳の虹彩に白い魔導の煌めきが現れているのに気づき、リューナはすぐに頷いた。


「なら、徒歩で登るだけだな! トルテ、平気か? ナルはまた俺の背に乗っかってろ。それからピュイ、おまえの翅は魔法じゃなくても、飛ぶこと自体が危険かも知れねぇから、とりあえずは飛ぶなよ。俺たちのあとに続いて移動しろ」


 ピュイは、リューナの言葉にいつものごとく反射的に抗議の声をあげかけた。けれどすぐに態度を改め、おとなしく床に降り立つ。


「ドテッ腹が引っ込んで丁度いいだろ」


 余計な軽口を叩いてやったら、噛み付いてきた。危ういところで子龍の牙から自分のかかとを避難させ、リューナはナルニエを背負った。


 走ってきた通路から響いていた轟音が止んでいる。ラムダとかいう危険な黒鎧の巨漢は、すぐに追ってくるに違いない――リューナは奥歯に力を入れ、目の前に待ち受けている立体迷宮に揺るぎない視線を向けた。片腕でナルニエの小さな尻を支え、もう一方の手でトルテの温かい手をしっかりと握る。


 遺跡巡りをしていた頃の勘を呼び覚まそうと精神を集中させながら、リューナは急ぎ足で階段を駆け上っていった。



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