3章 幻精界の友 7-8
もう産まれただろうか。それともルシカの身に――いや、まさかそんなことはない。テロンは頭を振り、クリスタル然とした輝きを放つ建造物を見上げた。いまもルシカは頑張っているはずだ。
「ルシカ」
祈りを込めて幾度も、愛する者の名をつぶやく。
揺るぎない光を放つ堅固な扉の前で、テロンは行きつ戻りつ、空を向いては足もとに視線を落とし、腕を組んでは解き――始終そのような調子で待っていた。
「俺たちがここへ『転移』してから、いったいどれほどの時間が過ぎたのだろうか。王宮の皆は心配しているに違いないな」
太陽の存在せぬこの世界では、時間を知る手段がなかった。とはいえ、普段のテロンであったならば、体内の感覚にてほぼ正確な時間を推し測ることもできるのだが――いまの状態では無理からぬことであった。
「魔導の技を遣うルシカのことを、俺はいつも見守ることしかできない。いまもこうして、待っていることしかできないとは。……頼む、どうか無事に……!」
テロンは大きく息を吸い、顔を上げた。
無事に産まれてくれたならば、という考えがふいに浮かんだ。そうしたら、これからは護るべき者がふたりになる。男なのか、女なのか。テロンはどちらでも構わなかった。男ならば、いろいろ教えてやりたい体術や技もある。ルシカ似の女の子が産まれたならば――そんな日常を思い描き、思わず笑みがこぼれそうになってしまう。
慌てて顔を引き締めて周囲に視線を走らせたが、人影はない。嘆息すると同時に、少し気持ちが落ち着いた。改めて眼前に広がっている、驚嘆すべき世界を注意深く眺め渡してみる。
多結晶体のように複雑な輝きを放つ荘厳な建造物が幾つも、光を放つ霧の切れ目から聳え立っている。そのどれもが、テロンの生まれ育った『千年王宮』の建物ひとつに匹敵するほどの規模であることは、霧によって距離感が狂わされていなくとも瞭然であった。
「『光の都』トゥーリエ――エトワはそう呼んでいた。太陽の光のないこの幻精界で、太陽に代わって地表を照らしている存在なのだろうか」
現生界を移動していた『白き闇の都』が満月の光のごとく煌々と魔の海域を照らしていた光景が、脳裏にまざまざと思い出される。
「あれと同じで、幻精界のどこかを照らしているのかもしれないな……。そういえばエトワは、俺たちを『転移』させるための光の道を、この都市で造ったのだと言っていた」
意志をもった生身の存在が次元を渡ることのできる、光の道。そこに至る扉を具現化することは、たとえ『召喚』の名をもつ魔導士であっても不可能なのだとテロンは聞いている。いずれ現生界でも文明が進んでゆけば未来で可能となるのかも知れないが、現在は『召喚』と呼ばれる魔法で、精霊や幻獣や魔神を一方的に呼び出すのが精一杯だ。
召喚魔法で呼び出すことのできる幻獣や魔神と呼ばれる種族たちは皆、純然たる魔力そのもので構成された体躯をもっている。容れ物たる肉体をもたないがゆえに行き来は可能だが、逆に現生界では実体となることが難しいのであるが――。
テロンはそれらの知識を、ルシカを通して学んでいる。
彼女は王宮に仕える魔導士であり、テロンと揃って『ソサリアの護り手』と呼ばれている。身を飾ったり色恋沙汰のお喋りに興じるよりも、森羅万象や魔法の不思議、世界の成り立ちや冒険のほうに心躍らせる傾向があった。
天体観測ドームのテラスがお気に入りの場所であり、そこでテロンとともに星空を眺めていたときにあっても、ナウルの三連星の位置で方向を知る方法や星座の配置、流星雨の極大期には夜空がどんなふうに見えるのかについて嬉しそうに語ってくれた。並んで本を開けば、いにしえの魔法王国の成り立ちや栄えていた各種族の自治都市の歴史、神界に住まう神々の不思議な逸話について延々と話してくれたこともあった。
幼い頃から、特に勉学に励んでいたわけでもなかったテロンだが、嬉しそうに語るルシカを眺めているのはこの上もなく幸福な時間だった。彼女が愉しそうに笑うとき、煌めく澄んだオレンジ色の瞳や、揺れるやわらかそうな金の髪、何よりその裏表のない素直な笑顔そのものが、テロンの目にすこぶる嬉しいものであったという理由もある。
その甘く穏やかな時間とともにもたらされた知識の数々。テロンはいつの間にか、知識の幅と深さが王都の学者たちと比べても遜色のないレベルにまで到達していたのであった。
『万色』の名をもつ魔導士ルシカ。その名で呼ばれる魔導士は、過去五千年を越える魔法の歴史のなかでも、数えるほどしか存在していない。さまざまな魔導の理から解き放たれた、万能なる力の持ち主――その叡智は、先達である『時空間』の大魔導士ヴァンドーナに幼き頃より磨きあげられてきたものであった。
だが、万能なる魔導を行使できるとはいっても、彼女は神ではない。いかに強大な力をその身に秘めていようとも、死すべき運命に縛られた人間なのだ。
いにしえから伝えられる魔導の血を知識を受け継いでいることで、彼女の行使する魔法は、現世に数多く存在している魔術師とは比べ物にならぬほどの凄まじい威力と規模を誇る。けれど、体内に蓄えられている魔力の消費もまた凄まじい……。
魔法行使によって散じられた魔力も、充分に休養することで回復することができる。だが、生命を維持できるラインを越えて魔力を消費してしまえば――それはすなわち速やかな『死』に繋がる。命の根源たる魔力は血液と同じ、失われすぎれば生命の危機に瀕するのだ。
現に、先に栄えていた魔法文明の王国グローヴァーの遺した秘宝『破滅の剣』によって引き起こされた戦闘で、ルシカは一度、命を落としかけている。
そのときの衝撃は、テロンに忘れ去ることのできぬ深い、深い心の傷を残した。愛しい者を目の前で失うことは、自分の身を引き裂かれるよりも辛く悲しく……筆舌に尽くし難かった。あのような衝撃には、もう二度と耐えられそうにない。
「そう……だったな。あのとき『万色の杖』とヴァンドーナ殿の魔力がルシカを救ってくれたからこそ、こうしてルシカと結婚して子を授かることもできた、ということなんだよな」
だが――そのときのことが原因で、今回のルシカの生命の危機があるのではないだろうか。テロンは先ほどのエトワの言葉を思い出していた。
「出産というきっかけにより、彼女に属する本来のものではない魔力が分離しかかっている」
胎盤から赤子が離れることで、彼女は死んでしまうかもしれないのだ。出産は何が起こるかわからないものだ。もしかしたら、赤子も母体も、双方が失われてしまうかもしれない……。
テロンは震える眼差しで、もう一度、閉ざされたままのクリスタルの扉に向き直った。
そのとき、扉が震えた。重々しい音ともに、開かれてゆく。
「ルシカ!」
テロンは思わず声をあげた。
扉の向こうから現れたのは、エトワだ。テロンはごくりと唾を呑み、食い入るように『夢見る彷徨人』の特徴らしき水宝玉色に輝く瞳を見つめた。薄い彫りと整いすぎている容貌では、表情がまったく読み取れない。
エトワが微笑み、頷くように首を縦に動かした。
「心配なさらずとも良い。彼女は無事だ、もちろん赤子も。信じられぬことだが――いや、実際にその眼で見たほうが早かろう。内部の結界は解かれている。もう、そなたが入っても生命の危険はない」
思念の言葉でテロンに告げたエトワが、中へと誘うように一歩横へと移動する。
テロンは急ぎ、足を前へと進めた。エトワの立つ扉を抜け、短い廊下の向こうにあったもうひとつの扉を開き――内部へ入った瞬間、驚きのあまり足が止まったが、すぐにつんのめるようにして駆け出した。
「テロン」
室内中央に設えられた寝台の上で、ルシカが顔を上げ、穏やかな微笑みを浮かべる。
円形状をした広間のごとき高天井の室内には、床いっぱいに複雑な魔法陣がびっしりと描かれていた。内壁は見る角度によって様々に変化する虹色、天井には光り輝く紋様が帯を成して書き綴られ、何かの魔法陣を構成している。
中央に設置されているのは、結晶柱に支えられ、虹色の紗布を張り巡らせて仕切りをつけた空間だ。布は丁寧に巻き上げられ、四方が見通せるようになっており、そこに三人の女性が手指をきちんと揃えて背筋を伸ばし、無言で立ったまま控えている。
三人に護られるように囲われ、祭壇めいた寝台の上でルシカが体を起こしていた。やわらかそうなクッションに上体を支えられ、優しく微笑みながら、白い布にくるまれたものを腕にしっかり抱いている。
「テロン。――あなたの子よ」
ルシカが姿勢を傾げ、布包みが見えるようにテロンへ向けながら言った。憔悴した様子ながらも、あふれる喜びに顔を輝かせながら、ほんの僅かな緊張と期待を込めた眼差しを彼に向けて。
彼女の抱いている布の内を、テロンはおそるおそる覗き込んだ。吐く息も止め、万一にも脅かすことのないよう、ゆっくりと。ルシカの腕と布に包まれた、小さないのち。父の気配に気づいたのか、僅かに身じろぎし、泳ぐように手を動かした。
ふわふわと揺れる金色の髪、薄い産毛に護られた白い肌、金のまつげが縁取っている閉じられた目蓋。小さな手が握ったり開いたり、その細い指先の一本一本に可愛らしい爪がある。
信じられぬほどに小さな、小さな体でありながら、大人と同じように全ての部位が揃っている。動いている。なんという素晴らしい奇跡なのだろう――テロンは泣き笑いに顔を歪ませ、青い瞳を潤ませた。
「さっきまで、すごく泣いていたのよ。産声なんだけど。……あ、ごめん。あたし涙が出てきちゃって。……こんなにちっちゃいのに、懸命に生きようとしているんだなって、感動しちゃったの。それから、あのね、女の子なんだよ」
「ああ、すごく可愛い……ルシカそっくりじゃないか。ちっちゃくて、ふわふわしていて……なんだか疲れた顔してる?」
「あたし? ああ、赤ちゃんね。そりゃそうよ。産まれてくるときが、人間、いっちばん大変なんだから。でも頑張ってくれたの。こうして無事に、外へ出てきてくれた」
「赤ちゃんもだけれど、ルシカ――おつかれさま。よく頑張ったね。それから、本当にありがとう……」
テロンはルシカの頬に手を伸ばした。頬にも額にも首筋にも、汗で金の髪が張り付いている。ルシカは嬉しそうに、ちょっぴり照れくさそうに頬を染めて夫の手を受け止めた。微笑を浮かべたままのすべらかな頬に、一粒の涙が伝い落ちる。
「可愛いなぁ。おじいちゃんにも、見せたかったな」
「そうだな」
ふたりの新米両親は、相手を元気づけるための明るい表情を浮かべようとして、眉根を寄せ、口もとに力を籠めた。奇妙に歪んでしまった顔を見合わせ、互いに笑ってしまう。テロンはようやく安堵の息を吐き、顔を上げた。
「ありがとう。あなたがたにも、心から礼を――」
周囲に控えている女性たちに向けて、テロンが立ち上がりかけたときだ。
言葉が途切れる。赤子が、両の目を開いたのだ。
テロンは息を呑んだ。澄んだ大きなオレンジ色の瞳。類稀なる魔導の力の証――その血統を示す稀有な色彩。母親であるルシカと同じ、魔導の瞳だ。
「この子は、まさか――」
「おそらく暁の魔導士さまと同じ、もしくは、それを超える力の持ち主となりましょう」
それまでふたりを黙したまま優しげな表情で見守っていたイシェルドゥが、穏やかな表情を変えないまま伝えてきた。エトワと同じく思念の言葉ではあるが、畏れと驚きで震えているようにテロンには感じられた。
「私たちは魔力そのものの存在。ゆえに相手の身の内に宿した魔導までがはっきりと見えまする。これほどの力を内に秘めたものは、現生界でも極めて稀なはずです。これほどまでに力ある赤子だからこそ、母体の魔力の分離が引き起こされたのでしょう」
「そうだったのか……。だがもう大丈夫なのか、ルシカ」
「ええ。たぶん平気だと思うわ。いままでずぅっと、みんなが必死であたしのいのちを繋ぎとめてくれたのよ。おかげでちゃんと頑張れた。ものすごぉぉぉぉっく痛かったけれど」
ルシカは微笑みながら答え、最後の言葉でペロリと舌を出した。
「でも、本当に凄かったんだよ。世の中のお母さんたちって、みんな凄いよね。あたしを産んでくれたお母さんにも感謝しているわ」
にっこり微笑んだままのルシカの瞳は、あふれる涙で揺れていた。
「うん。ありがとう、ルシカ。君にも感謝しているよ」
テロンはルシカの頬に優しく口づけし、改めて背筋を伸ばした。周囲に向けて口を開く。
「本当にありがとう。あなたがたが俺たちをここへ呼んでくれたことで、俺にとって大切ないのちがふたつとも無事に助かったのだから」
テロンの言葉に応えたのは、あとから部屋へ入ってきたエトワだった。
「とはいえ、『転移』の際に位置が特定できなかったことで手間と心労をかけて、すまなかった。我らのほうで問題があり、我らの都が成す魔法のすべてが正確に具現化されなくなりつつあったのだ。そなたらの生命を護る手段であったのと同時に、危険な賭けでもあったことを詫びねばならぬ」
「ううん。どうか気にしないで、無事だったんですもの。あたし、あのままでは本当に危なかったんだし」
ルシカが言って、腕のなかのあどけない我が子を見る。生涯で最初の試練を乗り越え、疲れたのであろう、赤子は母親の腕のなかで安心したように眠りかけている。
「エトワ。その問題というのは何なんだ? 困っているならば、俺でよければ解決のために尽力させてもらうよ。こんなに世話になったのだから」
テロンの申し出に、エトワはすぐに首を横に振りかけたが、黙したまま考え込むように目を伏せた。端正な顔に翳りが生じている。
「……確かに、そうかもしれぬ。だが、関係のないそなたらを我ら幻精界の事情に巻き込むわけにもゆかぬ」
「困っているときはお互いさまではないのか。あなたがたはこうして、俺たちを助けてくれたのだから」
テロンの言葉に、エトワは再び逡巡をみせた。ルシカが言葉を重ねる。
「ええ。あたしも同じ気持ちよ。もし力になれるのなら役に立ちたい。あたしもこの子も、おかげでいのちが助かったんだもの。それに――」
ルシカは腕のなかの温もりをそっと抱きしめ、迷いのない口調で言葉を続けた。
「あたしにも、今ならわかるわ。この『光の都』を維持している魔法に、何らかの大きな力の干渉を感じる。それを無理に捩じ伏せてまで、あたしのために、みんな懸命に魔法を遣ってくれたんだもの」
その言葉に、三人の女性たちの表情も動いた。エトワはそれらの微細な変化を感じ取ったのだろう、意を決したように顔を上げ、腕を広げた。
「では、ありのままを話すことにしよう。知恵を借りられれば、それだけでも助かる。万策すでに尽き、講じるべき手段も殆ど残されてはおらぬ。我らには、もはやどうしてよいかわからなくなっていたのだから」
テロンはルシカを見た。ルシカも同時に、彼を見上げていた。交わった視線で、言葉がなくとも互いに同じことを思っていることが理解できる。
ふたりは幻精界の友人に向き直り、話を聞くために耳を傾けた。
ガァッ! 耳元をかすめ過ぎた唸り声、抜き身の刃のように鋭い気配。それは決して、比喩的な表現ではない。
「くそッ! こう暗くっちゃかなわねェぜ!」
頬に熱いものがかかり、同時に焼けつくような痛みが生じる。ぬるりとした感覚は、彼自身の血だ。
「リューナっ!」
こちらの身を案ずる声が掛かる。だが、『治癒』の魔法は飛んでこない。当たり前だ――トルテは自分の身と、その背後にかばっている幼いナルニエとピュイの身を護るため、『力の壁』の魔法陣を展開中なのだ。
複合魔導の担い手である『虹』の魔導士トルテは、彼女の母ルシカのように複数の魔法陣を同時展開することができない。最初から組み合わせて発動させたもの以外の魔法を、あとで重ねて具現化することができないのである。
「無理もないか。着いた先ですぐに襲われるとか、俺だって思ってもみなかったもんな」
まったく、ハイラプラスのおっさんが導いてくれる先にはロクなことが待ってないぜ――剣を構えつつ、リューナは盛大に嘆息した。すっげぇ高度に放り出されちまって自由落下した前回と、いきなりこんなでっかい狼の幻獣たちの群れの真っ只中に出ちまった今回と、果たしてどちらのほうがマシだったのかな、などと考えながら。
真横から押し寄せる圧迫感……来るか!
リューナは右手に握った長剣の柄をくるりと回し、手元に引き寄せたと同時に虚空を真一文字に薙いだ。剣にかけられた『武器魔法強化』の淡い輝きが一瞬だけ照らしたのは、ずらりと並んだ歯と鋭い牙だ。
ガヅン! という凄まじい手応えと衝撃音が闇に響き渡る。うぉんうぉんと響き渡る様子からして、ここは谷間のように大地に刻まれた亀裂の底らしい。
反動で宙を飛んだリューナは、硬い大岩に衝突した。岩の背後、うまい具合に隙間がある。感覚の導くままに身を翻し、リューナは岩の背後に飛び込んだ。
それまでリューナが立っていた場所に巨大なものが激突し、音と振動が岩裏まで響くほどに周囲を揺るがす。
「こうも暗いと不利だもんな」
リューナは刹那、両の眼を閉ざし、精神を集中させた。左の腕を突き出し、手首を回し動かすように手のひらを僅かに突き上げる。何もなかった空中に光の球が生じた。初歩魔法のひとつ、『光球』だ。
放り投げるように腕を振り上げ、魔法の光を遥か頭上へ移動させる。魔法の輝きが、冴え冴えと輝く月光のごとく周囲を照らし、リューナたちの置かれた状況をくっきりと陰影で描き出した。
「……うわ、最悪じゃんか」
剣の柄を握りなおして飛び出すと同時に光景を目に焼き付けながら、リューナは奥歯を噛みしめた。
これほどに多いとは――闇に属する幻獣『月狼』だろうと思われる巨大な狼が、見える範囲だけでも十五体は居るのだ。魔獣たちと同じく、幻獣も魔導の技に引き寄せられる習性を持っている。彼ら自身が純然たる魔力で構成された体躯をもっている体ろう。
おかげで、幻精界の住人であるナルニエの存在、そして魔導の血を濃く受け継いでいるトルテの両方が、狼たちを多いに惹きつけ刺激しているのであった。
リューナが囮になって敵を散らし、その隙にここから移動できればと思っていたのだが、どうやら失敗のようだ。リューナが魔導の技を行使したにもかかわらず、狼たちの視線はトルテたちに釘付けである。
「どうしましょう、リューナ。展開している魔導の障壁も目立つのでしょうけど、これがなくては一撃でやられてしまいます。それに、ナルちゃんの気配は隠せそうにありませんし。――あッ!」
話している間にも凄まじい体当たりを食らい、トルテの眼前に展開されている障壁がズシリと揺らぐ。
『力の壁』の魔法効果は、衝撃を受けるごとに減じられてゆく。許容を過ぎれば障壁ごと掻き消えてしまうのだ。
リューナはトルテたちの真正面に身を躍らせた。
襲い掛かってきた狼の牙を長剣で受け止め、気合一閃、弾き飛ばす。その一瞬を有効に使い、トルテは魔導を遣って障壁を張りなおした。
背後に展開された魔法の気配を肌で確認し、リューナが剣を構えて一歩前に出る。
背後は崖だ。リューナはともかく、トルテやナルニエをかかえてとなると……とてもではないが、登りきれない。王都を囲う城壁ほどの高さがあるのだ。荷物は地面に放りっぱなしだ。だがどうせ、ロープを取り出して登る余裕などありはしない。
古代龍の生き残りであるピュイは役に立ちそうもなかった。狼のほうが遥かに素早く、遥かに強靭な鉤爪をもっている。それでもふたりの少女をかばおうと牙を剥き出して唸り声をあげ、彗星の輝きでも宿したかのような瞳を油断なく光らせてはいるが。
「わたし、おとりになるよ」
決然とした小さな声に、リューナは耳を疑った。彼が反応するより早く、トルテの凛とした声が応えた。
「いけません! ナルちゃんひとりが出て行っても、状況は変わりませんよ」
「そうだぞ、ナル。足手まといにしかならねぇぞ。いまはとにかく、みんなで無事この場を離れることを考え――そうか! ナル、やっぱり頼めるか?」
「リューナ?」
トルテが戸惑ったような声をあげる。けれど彼女にはわかっているはずだ。リューナが子どもを犠牲にするような真似をするはずがない、と。
「任せろ。俺に考えがあるんだ」
リューナはニヤリと笑い、横目で背後を窺った。ナルニエは怖気づいてはいない。リューナの言葉に何かを感じたのだろう、しっかりした表情で頷いている。散開していた狼たちはじりじりと脚を前へ進め、確実に包囲を狭めつつある。急がなければならない。
「俺の背に乗れ、ナル!」
リューナは叫び、膝をバネにして沈みこませるように身をかがめた。トスン、と軽い体重が背にぶつかり、首に小さな手のひらが当たる。リューナは片腕を背後に回し、もう一方の手に長く重い長剣を握りしめた。




