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ソサリア魔導冒険譚  作者: 星乃紅茶
【第七部】 《双つの都 編》
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2章 遺跡の迷い子 7-6

 大樹は、まるで王宮の揺るぎない塔のごとく悠然とそびえ立ち、夜闇に数多あまた輝く星々の光さながらに煌めく葉を茂らせていた。


 最奥の岩塊である果ての浮島には、他に緑というものがなかった。草一本、花一輪さえ育っていない。植生がどうとかいうより、濃密過ぎる魔力マナのせいなんじゃないかな――リューナは周囲の光景を眺め渡し、感想を洩らした。凄すぎるだろこれは、と。


 傍にいるトルテが、魔導の輝きを宿したオレンジ色の瞳をかばうように手のひらをかざし、まぶしそうに目を細めながらも大樹を懸命に見つめている。詳細な部分を見極めようとしているのだろう。けれど、あまりの光量に刺すような痛みを感じているのか、幾度も目蓋を震わせている。


「ん……。扉、なのですよね、きっと、あの樹が……。扉のようには見えませんけれど」


「無理するな、トルテ。瞳を焼くことになったら大変だろ、俺に任せておけよ。調べてくるから」


 リューナの魔導の瞳は、強大な力を秘めているトルテのものほど鋭敏なものではないのかもしれない。確かに、煌々と輝いている樹幹も枝葉もすべてが光そのものであるかのようにまぶしいものであったが、その色彩が見分けられなくなるほどには強く感じなかった。ふと思いついて外套マントを留めているボタンの表面に自身の瞳を映してみたが、リューナの深海色の瞳の虹彩にはトルテのような魔導の閃きが現れていない。


「どういう理屈でそうなるんだろ。……まぁいいか。とにかくトルテに無理はさせられない」


 腕の剣をいつでも取り出せるよう精神を集中させながら、慎重に歩みを進める。万一のための用心のつもりであったが、周囲も含め、大樹に危険な気配は感じられなかった。むしろ頬を撫でる濃密な魔力マナの大気の心地良さに癒されながら、リューナは大樹へと近づいていった。


 これが地上のものであったなら、どのくらいの年月を生きてきた植物なのだろう……リューナは知識として憶えている木々の種類を次々と思い浮かべてみたが、そのどれにもぴたりとくるものがない。


 にれとは違う葉のなめらかさ、くすとも違う枝の涼やかな広がりと規模、かしとも違う真っ直ぐな幹、太くうねり岩盤を貫いている根の強靭さ。そしてなにより、ふたりの立つ浮島すべてを覆い尽くし天蓋のごとく茂っている葉の豊かさは、地上に生息する植物とは遥かにかけ離れたものであった。


「扉……というからには、開くのだろうな」


 リューナは幹に腕を伸ばし、そっと指先で触れてみようとした。だが、驚いたことに指先は苦もなく表面を突き抜けてしまったのである。


「うわっ!」


 慌てて指を引っ込め、リューナはまじまじと幹の表面を見つめた。気のせいではない、今までの強い光が幾分か鎮まっている。軽い足音が背後に近づいてきたので振り返ると、案の定トルテが駆け寄ってきていた。


「リューナ! だいじょうぶですか?」


「あぁ。どこもなんともないけど、触れることができないぞ、この樹。まるで幻獣みたいだ」


「幻精界に属するものなのでしょうか……容れ物たる外殻がいかくがないなんて」


 トルテがリューナの傍に並び立った。樹の幹に、そっと指先を近づけようとしている。彼女の指も彼と同様に突き抜けるだろうと思っていたリューナは、予想とは違っていた光景に仰天した。


 細い指が触れた瞬間、凄まじい光が爆発した。だが、それは一瞬だった。光は幹を駆け下りて足下の地面を奔り、リューナたちの背後で巨大な魔法陣を成した。


「まぁ、これは――」


 トルテが何かを言いかけたとき、丁度この浮島までたどり着いたばかりの幼いふたりによる賑やかな声が響き渡った。


「うわぁっ。なにをしたの? きれいな魔導の魔法陣っ。すんごい複雑なやつだね!」


「ピュルティ、ピューイ、ピューイ!」


「ピュイ、ナルちゃん、気をつけてこっちへいらっしゃいな。それにしても、知りませんでしたわ、こんな仕掛けになっていたのですね。ハイラプラスさんのなさることには、いつもいつも驚かされてしまいます」


「え。トルテ、どういうことだ?」


 ふたりに呼びかけたあと、頬に人差し指を当てるようにしてのほほんとつぶやいたトルテの言葉に、リューナは驚いて顔を向けた。どうしていま、唐突にその名前が出てきたんだろう?


「出発する前に、あたしの部屋で荷物のチェックをしていたときのこと憶えていますか? リューナってば忘れ物をしてしまって、一旦おうちに戻るために『転移の間』へ駆けていってしまったでしょう? そのときハイラプラスさんが入れ違いに部屋に入っていらっしゃって、道中は気をつけて行くようにおっしゃってくださったのです」


 そういえば回廊ですれ違ったっけな、とリューナは思い出した。ハイラプラスのおっさん、意味ありげにウインクなんか寄越してきやがったけど、また何か仕込んでたということか――。グローヴァーアカデミー時代から天才と称されてきたらしい『時間』の魔導士のことだ、深遠なる意図か確固たる予見に備えてのことに違いないだろうけど。


 納得したように頷きかけたリューナだったが、次のトルテの言葉で思わず「んなっ?」と声をあげてしまった。


「それからあたしの腕をとって、こう、指先にキスなさったんですわ。安全祈願か、挨拶のようなものなのかなと思っていましたけれど、こんな仕掛けがあったのですね」


 心から感心しているらしいトルテが何度も深く頷きながら、背後の空間で具現化した魔法陣に向き直っている。リューナは心中穏やかではない。――俺の居ないときを狙ってトルテに何やってんだよ、おっさん!


「まさか歳下が好みだとかそういうんじゃないだろうなっ」


 無害そうな、いかにも温和そうな、人好きのする笑顔が脳裏に浮かぶ。けれど見掛けに騙されてはいけない。相手は凄まじい魔力マナと計り知れない魔導の知識を持った、古代魔法王国末期の政治と数百万もの民の動向を掌握していた最高実力者のひとりなのだ。魔法使いのくせに間合いの取り方も熟知していて、剣の扱いも飛翔族の戦闘兵より上手うわてであった。そういった意味では、煮ても焼いても食えない相手である。


 トルテの動きにつられるように、リューナも後方を振り返っていた。魔法陣は地面に固定されていたが、さらに光は止まることなく、空中にまで展開されつつある。立体魔法陣なのだ。その周囲で、子龍と幼女が無邪気な様子ではしゃぎまわっている。


「まさかここに『転移テレポート』してくる、とかいうんじゃないだろうな。いくらなんでも、そこまで常識外れな魔法が可能だとかいうんじゃあ――」


「無理ですよ。こちらも何かと忙しいので」


 ふいにどこからともなく響いたすずやかな声に、リューナは心底驚いた。文字通り手のひら一枚分ほど跳び上がってしまう。


「なッ!? その声は、ハイラプラスのおっさん!」


「相変わらず、おっさん、は余計なのですが」


 笑いを含んだような言葉とともに、展開を完了させた魔法陣が掻き消え、その空間に滲み出るように声の主の姿が現れた。


 背の高い、白い長衣をまとった人間族の男だ。整った面差しは中性的で、さらりと流れる銀の長髪が少しも嫌味になっていない。背筋を伸ばして立つ姿勢や、片手を挙げて挨拶を寄越してきた仕草はあくまでも典雅かつ優美であり、眼差しはどこまでも穏やかで優しげであったが、その瞳の奥には只ならぬ知性の煌めきがある。出逢った頃からそれほど歳を取っていないように思えるが、そもそもの年齢をリューナは知らなかった。


「リューナ、トルテちゃん。こうして繋がったということは、扉たる場所へきちんと到着したのですね。ご無事で何よりですよ」


「まぁ、ハイラプラスさん、いつのまに」


 トルテが声をあげ、口を丸く開いたまま、目の前に現れたハイラプラスを見ていた。もちろんその表情はどこかゆったりと平和そうであって、心底驚いているのかどうか突っ込みたくなるものであったが。


「あらでも、本物じゃないんですね。びっくりしてしまいました」


 すぐに得心したような微笑になり、トルテが首をちょこんと傾げる。そのオレンジ色の瞳の端に、魔導の輝きではないあたたかな光がともったように見えた。悠然と広がっている雲海の彼方から、夜明けの太陽が昇りつつあるのだ。最初に放たれた力強い火箭ひやに貫かれ、東の空に低く垂れ込めている雲がトルテの瞳と同じ色彩に染まりはじめている。


 リューナの頬にも、じんわりと温もりが広がっていく。一日のはじまりを象徴するあたたかなオレンジの光が、遠く地表から隔たった遥かな高みにあるこの場所にも、しっかりと届いたのだ。


「さすがトルテちゃん。察しが良いですね」


 リューナは片方の眉を上げ、ハイラプラスの姿に眼を向けた。


 そういえば、血縁であるゆえにトルテと同じ稀有なる色彩の瞳をもつハイラプラスだが、いまのトルテとは色味に違和感があった。夜明けの太陽に照らされているはずなのに、いまなお蒼白い闇のなかに沈み込んでいるかのような印象があるのだ。本物じゃない、というさきほどのトルテの言葉が脳に染み込んでくる。


「わたしの実体はいまもファンの魔術学園に滞在中ですよ。ちなみに時差があるので、こちらはまだ夜明けまで少し時間がありますけれど」


 どこから見ても本物としか思えなかった銀髪の魔導士が、トルテと同じような緊張感のまるでない笑みを浮かべつつ言った。


 その言葉にリューナは唖然とした。けれど、なんとなく理解できた。リューナも、隣に立つトルテも、互いにふざけあいながら立っているナルニエとピュイも、浮島のすべてがゆっくりと温もりに満ちた色彩に染め上げられていくのに、実際に目の前に立っているかのように投影されたハイラプラスの姿には、まるで朝日が当たっていないからだ。


「こちらと話をするために、遠くから飛ばされている映像だっていうのか。どんだけ人間離れした魔法を使うんだよ……ったく。凄すぎるぜ」


 きれ半分、素直に発せられたリューナの賞賛の言葉に、ハイラプラスがたのしそうに笑った。傍らのトルテがリューナのほうへ身を乗り出すようにして小声で囁く。


「立体的に、どこまでも正確に、実体を空間投射しているみたいですね、リューナ。会話が成り立っていますから、記憶された映像ではないみたいですし。さすがハイラプラスさんだなぁって思いますけれど、なんだかさきほどの魔法陣の綴り方、以前にメルゾーンおじさまが使っていた魔術にも似ていませんか?」


「そのとおりなんですよ、実は」


 にこにこと完璧な笑顔を崩さないまま、ハイラプラスが言った。聞こえていたらしい。


「いやあ、彼はすごいですねぇ。魔術師というものは、魔導の力を失った後世の民たちのたゆまぬ努力と研究の成果なんでしょうけれど、過去の叡智を取り戻すだけではなく、自分たち独自に発展させた創意工夫を添加することで、新しい可能性を見出しているのですから。そのひたむきな努力こそが、現代魔術を発展させているんですねぇ~」


 しみじみと頷きながら、全世界を統べていた古代魔法王国の魔導士ハイラプラスがにこにこと笑っている。


 リューナは呻き声をあげた。いろいろ突っ込みどころはあったのだが、ハイラプラスの横に忽然と、見慣れすぎているほどに見慣れた姿が現れたのだ。


 派手な装飾の赤い衣服に、ジャラジャラと提げた魔石や魔道具の宝飾品、後頭部でまとめた赤っぽい金髪、逆立っている前髪、整ってはいるが目鼻立ちのはっきりしすぎている顔立ち、いつも不機嫌そうにゆがめられた表情――のはずであるが、今日はニヤニヤとすこぶる上機嫌に緩みまくった顔をしていた。


 ゾッと嫌な予感がリューナの背筋を駆け抜ける。


 無視するべきか逃げるべきか見なかったことにするべきか――という息子の葛藤をよそに、魔術師メルゾーンは目を輝かせて開口一番、こう言った。


「おいリューナ! すごいと思わないか。魔導士のなかにも、話のわかるやつがいるんだな。生まれながらの実力を鼻にかけた奴ばかりかと思っていたが、見直したぞッ!」


「そう言って頂けるとは光栄です。わたしも、わたしと同じように知的好奇心いっぱいで恐れ知らずの活動的な研究者に出逢えて、大変に嬉しいのですよ。叡智を追求しようとする同志は、みな親しき友人です。ともに、さらなる真理の高みへと昇り続けようではありませんか!」


「おうよ!」


 ハイラプラスはいつもと変わらぬ人好きのする笑顔で、隣に立っている傲岸不遜な魔術師とガッシリしっかり、手と手を握り合っている。


「うあ……最強と最凶の、最悪のコンビが誕生しちまったかもしれないぜ……」


 思わず額を手で覆い、がっくりと首をうなだれてしまうリューナであった。


 人間離れした知識と魔導の実力とを兼ね備えた天才魔導士と、正気離れした発想と常軌を逸した魔道具愛好家の天災魔術師が、タッグを組んだのだ。これが良い兆候であるはずがない。


「まあ! とっても素敵ですわ。ねっ、リューナ!」


 トルテは心から嬉しそうに手のひらを打ち合わせ、ぴょこんと跳ねた。高く結い上げてもなおサラリと腰まで伸びている金の髪が踊るように弾んでいる。この様子を目にして、リューナはさらなる呻き声を洩らした。


 俺の周囲ってば、どうしてまともじゃない思考の奴ばかりなんだよ――と、つい恨めしげな視線で幼なじみを見つめてしまう。そんな彼の視線に気づいたトルテは、きょとんとオレンジ色の大きな瞳を見開き、首を傾げるようにして「はい?」とばかりにリューナを無邪気に見つめ返している。非常に可愛らしい――いや、実にのんきで能天気な様子に、大きなため息まで出てしまう。


「なぁトルテ。どんな状況でもゼッテー、自分は幸せだなぁって思っているだろ」


「はい! もちろんですよ。あたしはリューナと一緒に冒険の旅に出ることができて、とってもとっても幸せなんです。だって、大好きですから!」


 白い頬をほんわりと桜色に染めて、トルテがとびきりの笑顔をみせる。リューナの鼓動がひときわ大きく跳ね上がった。耳の奥に響くほどにバクバクと落ち着かない不安定なリズムを刻みはじめる。


 でも、い、いや、大好きっていったって、もしかして俺じゃなく冒険の旅のことかも知れないだろ。いやでも待て、もし大好きというのが俺のことだったら――リューナはごくりと喉を鳴らし、首を横にぶるっと打ち振るった。気を取り直して顔を上げ、おもむろに口を開く。


「あ、あのさトルテ。それってもしかして――」


「あ、そういえば、メンバーが増えているはずですが」


 何事もないかのような、ハイラプラスの声が割って入った。トルテの注意が逸れ、リューナの言葉は宙に取り残されてしまう。


 ハイラプラスの姿は投影されている映像のはずなのに、ふざけあいながらもその場から動かず待機していたナルニエのほうへ、揺るぎのない視線を向けている。


「改めてお尋ねしますが、あなたは幻精界のかたですね」


 訊くというよりは、確認するような口調でハイラプラスが言った。


「うん! ナルニエっていいまち――いいます!」


 しゅたっと片手を挙げ、元気な声でナルニエが返事をする。そのいらえを聞いたハイラプラスはにっこりと微笑んで頷き、それからトルテに視線を向けた。


「さっそくですが、トルテちゃん、次元を渡る扉を開く方法について説明します。まず、目指す世界に属する者との繋がりを維持してください。その上で『開門ゲート』の魔法陣と『増幅』の魔法文言を帯状に書き綴り、その中心部分のみ位相転換を示す『真言語トゥルーワーズ』に書き換えるのです。要はあれです、複合魔導の一種ですが、トルテちゃんのもつ次元転換の力を限定的に解放し、扉たる役割のある空間にぶつけるんですよ」


「ちょっ、そんな抽象的な表現で大丈夫なのかよ」


 思わず口を挟んだリューナだったが、ハイラプラスは涼しい顔で言葉を続けた。


「わたしの書き綴った文献の五百七十ページに図解がありましたよ。そこに、具体的な構成について余すところなく書き伝えられていたはずです」


「あ、わかりました。あの魔法陣のことなのですね、ハイラプラスさん。魔法陣の中央に手書きの注釈が加えられていましたから、なんだろうとずっと疑問に思っていました」


 リューナは思わず、傍らに立っている幼なじみの顔を凝視してしまった。あの分厚い文献を、まるまる一冊記憶しているということなのか……天才天災魔導士がもうひとり身近に居るのでは、という複雑な思いが生じ、胃がシュクシュクと痛みはじめる。


「どうかしたんですか、リューナ。だいじょうぶです?」


 トルテが心配そうな表情でリューナの顔を覗き込む。


「い、いや、なんでもないさ。だよな、トルテは普通に周囲への気遣いができるから、間違っても親父たちのようには――」


「おい、リューナ! シャールからの伝言だぞ。トルテちゃんを泣かすんじゃありませんよ、だとよ。ポテトサラダのサンドイッチとタマゴサラダのサンドイッチの両方をたくさん用意しておくから、ふたりとも道に迷わず無事に帰ってこいとさ」


 父から伝えられた母の言葉に、リューナは地面にへたりこみたくなった。十九にもなって、これだよ……。慰めるように背中に当たる太陽の温もりに、涙したい気分だ。


「そういうわけですから、トルテちゃん、扉を開いてくださいね。なるべくなら、急いだほうがいいです」


 いつになく真剣なハイラプラスの言葉に、トルテがしっかりと頷く。


「わかりました。ではナルちゃん、手を貸してくださいますか?」


 呼びかけに応じて駆け寄ってきたナルニエが小さな手を差し出し、トルテの手に繋がれる。まるで歳の離れた姉妹のように思える光景だった。


「心を澄ませて、故郷である幻精界のことを想ってください。リューナ、ピュイ、あたしが扉を開いたら遅れずについてきてくださいね。他のことは考えず、あたしたちと同じ場所に行き着くように、とだけ心に念じてください。もしはぐれてしまったら、取り返しのつかないことになりますから」


 その言葉に、リューナは慌てて気を引き締めた。幻精界というものがもし、この現生界と同じほどの規模があるのだとすれば、非常に困ったことになるだろう。世界は広いのだ。


「では、いきますね」


 トルテがおごそかに告げ、ナルニエと繋いでいないほうの手を空中高く跳ね上げた。その腕先で紋様を描くようにして徐々に目線の高さまで下げ、胸の前で魔導の印を切る。そしておもむろに腕を大樹に向けて差し伸ばした。


 大樹の幹から濃厚な魔力マナの風が吹き出し、トルテやリューナたちの髪をなびかせる。トルテの腕先から生じた魔導の虹に導かれ、風は一方向へ流れはじめた。流れは徐々につどって大樹の太い幹を中心とした帯状の渦巻きとなり、虹の輝きが複雑な紋様を織り成してゆく。ふいにまばゆい光が視界を圧した。絢爛けんらんに咲き開いた花火のごとく、巨大な魔法陣となって一気に展開したのだ。


 背後で、安堵したような気配を残し、ハイラプラスの魔法が消失した。最後に、いってらっしゃい、という穏やかな声が耳に届いたような気がする。


「なんだ……この音色は」


 代わって聞こえてきたのは、森羅万象を奏でたように滔々(とうとう)と流れる荘厳な音楽だった。甘美でありすずやかでもある不思議な旋律。早春の草原くさはらを吹き渡る風がたてるかそけき音のたばのようであり、氷の湖上を吹き抜ける凛とした音の集大成のようでもある。


 魔法陣の中心でまばゆく光り輝いていた樹幹は透けるようにその輪郭をなくし、内部にかくまわれていた空間が花弁のように咲き開いていった。不思議な音はますます高まり、リューナたちの体と心を包み込んでゆく。


「……次元の扉が開かれるとき、ありとあらゆる音が鳴り響くといいます。ちょうど可聴領域の音が、そのように感じられる音域と音階をもっているのでしょうね。魔法王国の頃より伝わっている魔導の歌も、そのようなものなのかもしれません。リューナ、心の準備はいいですか?」


 扉を開き終わったトルテが、彼のほうへ手を伸ばしていた。もう片方の手にはナルニエがすがりつき、さらに幼女の腰にはピュイが抱きついている。


 リューナは、歳のわりに細く小さな手を握り、彼女に向けて大きくひとつ頷いてみせた。


「よっしゃ、行こうトルテ!」


「はい、リューナ!」


 別次元と繋がれた扉の存在する空間は、降り注ぎはじめた陽光を凌駕し、一瞬、強く光り輝いた。そしてほどけるように光が消え失せたあと、そこにはふわふわと虚空へ消えゆく光の残滓のみが漂っていた。


 だがそれもすぐに薄れてゆき――静寂が戻ったあと、何事もなかったかのように大樹だけが静かに佇んでいた。





 手の施しようがない――。


 『千年王宮』の一室で、『癒しの神』ファシエルの最高司祭が憔悴した面持ちで告げ、医療術師たちがうなだれながらその部屋を辞した。痛ましそうに振り返りながら扉を閉める彼らが見たのは、寝台の傍から離れようとせず、愛する妻の手を握ったまま見守り続ける王弟の背中であった。


「ルシカ」


 テロンは腕を伸ばし、血の気の失せた頬を両手で包み込んだ。耳元で呼びかけても、ぐったりと伏せられたままのまぶたが開くことはなかった。地表を照らし温もりを与える陽光のような色彩をもつ瞳を飾っていた金色のまつげは、ぴくりとも動かなかった。


 図書館棟の地下保管庫でルシカが倒れてから、すでに日は暮れ、夜半を過ぎている。外は間もなく、黎明れいめいの空と太陽を迎えるであろう。新たな日のはじまりを告げる陽の光が差し込むのだろう……。


 だがルシカは――ルシカの命は、終わりを迎えようとしている。愛する者のために為すすべもなく、テロンは腕のなかに抱いて温もりを失わぬように、精一杯の祈りを籠めることしかできなかった。


「護り続けると……そう誓った、誓ったのに……ルシカ」


 目を覚ましてくれ。いつものように笑って俺を見つめて欲しい……俺を照らしてくれる太陽のように輝く瞳で。あたたかな想い出ばかりが腕のなかの顔に重なり、テロンは愛しさに胸を突かれて顔を下ろした。すべらかな頬に、額に、そっと唇をつけると、ほのかな体温が伝わってくる。だが、それもいつまでもつのだろうか。


 意識を失っていてもなお、ルシカはテロンの瞳に好ましく映っていた。かけがえのない、何よりも大切な、ただひとりしか存在していない、心から愛している女性。テロンは泣き笑いに顔を歪め、ルシカの小さな顔にそっと覆い被さり……やわらかな唇に、自分のそれをゆっくりと重ね合わせた。


 そのとき、触れ合っていたまつげが微かに震えた。テロンははっと顔を起こし、願いと期待を込めた眼差しで腕のなかの妻を見つめた。


 ルシカが目を開いていた。微笑みのかたちを成した唇がそっと動き、ささやかな音を紡ごうとしている。


 テロンは急ぎ、耳を寄せた。


「……テロ……。どうし……も、伝え……いことが……るの。あの、ね……げん……精界……の時間……は、こち……とは違っ……る……から」


「げん……幻精界?」


 テロンは思わず訊き返した。そうよ、と頷くように、ルシカの瞳が優しく揺れる。


「しん……じて、待っ……い……欲……いの。きっ……と、だい……ぶ……から」


 言葉が途切れかかる。かすかだった声はますます細くなり、小さくなってゆく。


 意味までは聞き取れなかったルシカの声を心に刻みつけながら、テロンはこみ上げてくる涙に喉を詰まらせ……それでも何とか微笑んでみせた。細めた目の端から、熱い雫がとめどなく零れ落ちる。


「待て、ルシカ、目を閉じないでくれ。ルシカ……ルシカ」


「……愛……して……る……テロ……ン」


 ルシカの喉から言葉がこぼれ、瞳が力を失ったように光を失い、ゆっくりとまぶたが閉ざされた。抱きしめた腕に、トクン、とひとつの鼓動が伝わって――。ただ静かな、怖ろしいほどに静かな空間が、テロンを包み込んだ。


 ようやく、何が起きたのか、何が終わったのかを理解して、彼は喉から声を絞り出すようにして吼えた。


「うぅぅ……うわあああぁぁぁぁぁぁぁッ!!」


 テロンはルシカの体を抱きしめた。いのちの欠片を掻き集め、もう一度取り戻そうというかのように。幾度も幾度も、愛する者の名を呼び続けた。



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