1章 ソサリアの護り手たち 7-3
「ルシカは直前まで、自分の役割をよくこなしてくれていた。臨月を迎えてもなお、身重の体で忙しく歩き回っていたな。国王としてはありがたいが、身内としては気が気でなかったぞ」
クルーガーが天井を眺めるように顔を上に向けた。
つられるようにテロンも視線を上げ、古いがなめらかな表面をもつ高い天井に目をやった。
蒼海のごとく濃い鉄紺色に塗られ金色に縁取られた五芒星、平面全体に散りばめられた金剛石さながらに輝く星々、吊り下げられているのは星界を巡る天体を模倣した立体モデルだ。それらは王宮東棟の屋上に設けられた天体観測ドームでルシカと眺めた星空の記憶を呼び起こし、同時に甘やかな時間をも思い出させた。
テロンがしみじみとルシカと過ごしてきた年月に思いを馳せる間にも、クルーガーの言葉は続いていた。
「……『約束の塔』へも赴いてくれて、装置の稼働状況をチェックしてくれていたものなァ。すまなかったな、テロン」
言葉を向けられたテロンは微かに首を振り、兄に応えた。
「それはマイナの為でもあっただろ。あのときはまだ『読解』の魔法もなかったから、ルシカにしか装置を扱うことができなかったからね」
グローヴァー魔法王国の遺した五つの宝物のひとつ『従僕の錫杖』は、王国中期に魔人族の王ラミルターの手によって作られたものだ。ひとの心と命の全てを支配し意のままとすることのできる凄まじい魔力をもった品であり、長きに渡って行方知れずとなっていた。真実は、当時王の養い児であった娘の体内に隠され、そのまま何世代にもわたって伝え残されてきたのである。
そのおそるべき品は子孫であるマイナへと継がれ、宝物を狙う悪しき者たちのせいで想像を超える多くの血が大地に流された。ようやく体内から宝物を分離する方法を見いだしたテロンやクルーガー、そしてルシカは仲間たちとともに、大陸最高峰ザルバーンに錫杖が生み出されし塔と装置を発見、十五年の歳月をかけてマイナを憎悪と破滅の連鎖から救ったのである。
発見当時は『約束の塔』ではなく『打ち捨てられし知恵の塔』と呼ばれ、その内部に在ったシステムのほとんどが魔法文字であり、要所には『真言語』の表記文字が使われていた。
魔導の力をもつものでなければ、読むことも綴ることも発音することさえも敵わぬ、神々より直に伝えられし古き言語。魔法王国の建国を担った五人の王が神界へ到達したとき、魔導の技とともに与えられた叡智なのだ。
数を減じている自分たち魔導士がこの世から永遠に失われることになるときがきたら、ひとびとは神より賜りし叡智を完全に失うことになる。それを懼れたルシカは、せめて表記された意味だけでも読み取れるようにと願い、『読解』なる新魔法を作り出したのである。
自分が失われたとき――彼女が口にしたその言葉を思い出し、テロンは眉を寄せて深く瞑目した。無意識のうちに眉間を指でほぐしながら、口を開く。
「……それにルシカは、言い出したら聞かないからな。だから俺は彼女を護り、支える。たとえ、どんなことがあろうとも。彼女がみなの為に挑もうとするならば、俺も全力で彼女とともに立ち向かってゆくだけだよ」
「強いなァ、おまえは」
クルーガーが顔を戻し、テロンを見つめた。自分と同じ母譲りの青い涼やかな瞳が、ほんの刹那、揺れたような気がして、テロンは僅かに息を呑んだ。いつも自信たっぷりにみえる兄の心の奥底にちらりと見えたのは、哀しみの入り混じった羨望の光ではなかったか。
王の重荷は、様々な選択を兄に強いる。国民のためならば、自身はもちろん身内までもを危険に晒すこともある。それはテロンも同じだろうが、程度が違う。兄を支える王妃のマイナも兄とともに、相当の覚悟を背負っているのだろう。
テロンの選んだ生き方は、王国を蔭で支えることだ。兄王を助け、宮廷魔導士であるルシカとともに平和と繁栄の為に尽力する――だが、その決意をするまでの彼は周囲の期待から遁れ、王位を継ぐことを兄へと無意識に押し付けてしまっていたという自覚もあった。
強い……? いや、俺は――。テロンは兄の視線から僅かに目を逸らし、口を開いた。
「昔は、ずいぶんと悩んでいたよ。自分の生きる道にすら迷い、判断することを恐れていた。そんな俺の背を押してくれたのが、ルシカだった。ともに生きることを選んでくれた彼女にも負担を強いて命の危険に晒し、忘れもしないあの瞬間……『生きて』と伝えられたときには心が張り裂けた気がした。彼女を知ったあとにはもう、俺は独りでは生きられないと感じたよ。だからルシカは元気なほうがいい。知識やみなの幸福を追い求めて多少無茶をしたとしても、俺は彼女の傍に居て全力で護ってゆこう。魔の海域で彼女が穴に落ちて離れてしまったとき、そう心に誓ったんだ」
「言ってくれるね」
双子の兄は苦笑しながらも満足げに頷き、付け加えるように言った。
「あいつは確かに無茶ばかりだ。仲間のみならず他人の為に、そしてこのソサリア王国の為に……。まァ、だからこそ目が離せないんだろうな。魔力を限界突破するまで使っちまうし、それに何より、何もないところでもよく転ぶし、な」
最後の言葉で、ふたりは目を合わせて笑った。苦笑とも痛みともつかぬ笑いだったが、どこか安堵のため息にも似た笑いであった。それで重苦しくなっていた雰囲気が和んだ。
「そう、ルシカの出産のときのことは、よく憶えている」
意を決したように、テロンはゆっくりと語りはじめた。
「あのときは、何もかもがはじめてのことばかりで、俺にはルシカの手を握っていてやることしかできなかった――」
「とってもすてきね!」
両手のひらをパチンと合わせるようにしてルシカが細やかな体を弾ませ、嬉しそうに笑った。すぐに「おっとと」と言わんばかりにおなかに手を添え、ふぅとため息をつく。産み月を迎え、小柄なルシカの体で一番目立っている箇所だ。
テロンは一歩を踏み出して腕を伸ばし、妻が転んでしまわぬよう抱き支えた。ごめん、とルシカの唇が動く。テロンは微笑んだ。
「じゃあ、ラムダーク王国も平和になっていくのね。イルドが王として認められる日がきて。国内の権力者や軍との軋轢にも負けず、立ち向かうよりみんなを結ぶ絆になろうと話し合いを繰り返し、争う互いを諭し続けてずぅっと頑張っていたもの」
「ああ。兄貴も喜んでいたよ。媚びることも折れることもなく大胆であり続けたイルドラーツェン殿が、臣民の信頼を勝ち取った結果だな」
海向こうの隣国である海洋軍事国家が、変わろうとしているのだ。クルーガーやテロン、そしてルシカの友人である王太子イルドラーツェンが、疑心ばかりが渦を巻いていた父王の統治を終わらせ、いよいよ即位するのだ。だが、テロンは懸念に眉を曇らせた。
「まだ諸手を挙げて喜ぶというわけにもいかないんだ。いまもなお反乱分子は力を削がれることなく隠れ潜んでいるという。暗殺の危険もあるから、油断はできないと聞いている。我が国との連携体制、新たな和平条約、国が落ち着くまでの間の援助もまだまだ必要だ。当面のやることは山積みだが、彼の戴冠は平和への大きな一歩だな」
ルシカは大きく頷いた。やわらかそうな金色の長い髪が揺れ、彼女の瞳と同じ色味を帯びてきた太陽の光に煌めき流れる。
王宮の東棟の天体観測ドームの環状テラスから見える西の方角の空が、帯状の灰色雲を筋と成した赤の色に染まりつつあった。
「それで、戴冠の儀にはあたしたちも行くんでしょう?」
「兄貴は五神殿の祭事があるから王都を離れられない。俺たちのソサリア王国は、光の神々の各神殿の影響力が王都も含め、各都市で強いだろう。『主神』であるラートゥル神殿は特にね」
法と正義、婚姻を司る主神ラートゥルの最高司祭クラウスは高齢であるが、いまなお国政への発言力をもつ。世襲君主制であり国王が頂点に立つ王政に近いソサリア王国だが、大国と呼べるほどの規模であること、絶対王政の危険な面を知っているがために、王の下に外交や財政などそれぞれの分野のエキスパートたちが配されているのだ。
もちろん最高権力者は王であり、王弟であるテロンはそれに次ぎ、大いなる魔導の技をもつ魔法使いルシカとともにソサリアの護り手として国の内外に知れ渡っている。先王とその側近であった類稀なる才を持つ臣下が失われ、あるいは引退してしまったがゆえに新たに敷かれた体制だ。そんななかで各神殿、各都市との連携を整えるために司祭たちの立場が国の体制に組み込まれたため、全体的に結びつきは強まり整えられたが、気を使わなければならぬことも多少増えてしまった、というわけだ。
「兄貴も難儀だよな。けれど俺たちでは、祭事のほうは代われないから」
「そっか、そうよね。あらら……残念。イルドも楽しみだったでしょうに」
「イルドラーツェン殿はむしろ喜んでいたぞ。世話になったソサリアの国王に会うことを理由に、訪れることができると言っていた。もちろん国内が落ち着いてからだけどね。それで戴冠の儀には、王の代理として俺が赴くことにしたよ」
「やったぁ! あたしまだ、ラムダークの島々に行ったことがなかったんだもの!」
「とはいえ、君も連れてゆけるかどうかはわからないぞ、ルシカ。だってもう間もなくだろ?」
「あう……そうでした。ウルの頭に乗せてもらえば一日で着けると思うんだけど」
ウルは『海蛇王』、海の魔獣の最上位種だ。とてつもなく長大かつ巨大な体躯と醜悪なる外観をもつが、高い知性を備えており、テロンとルシカふたりの友人だ。
冗談とも本気ともつかぬルシカの答えに、テロンはため息をつき、腕の中に抱いた彼女のすべらかな頬をそっと撫でさすった。
「君は自覚がないのか。無茶ばかりして、ルシカひとりの体じゃないとあれほど――」
う、とルシカが呻いた。テロンの言葉半ばに苦しげな息を吐き、体をふたつに折ったのである。喘ぐように繰り返される呼吸、痛みのうねりに耐えようとしているのか幾度も口を開き、額には玉のような汗が浮きはじめている。
「る、ルシカ……ルシカ!」
「あ、はじ……まった、いよいよ、みた……い、う! ごめん、話のとちゅ……で」
テロンはようやく何がはじまったかを理解し、混乱する思考をまずは脇に押しやって妻の体を抱き上げ、テラスからドーム内に駆け入った。
腕の中のルシカの体が燃えるように熱い。早鐘のような鼓動が、浅く繰り返される苦しげな呼吸が、彼を急かした。
医療術者や侍女頭の名を呼ばわりながら階段を駆け下り、きたるべき時の為に設えてあった部屋を目指す。そのときのテロンはあまりにも必死で、どこをどう走ったのか定かではない。
ルシカが然るべき者たちの手に委ねられ、ようやく落ち着きを取り戻したときには、せわしなく駆け回る侍女や女官たち、助産師、『癒しの神』の司祭や王都から呼ばれた医療術者たちが歩き回っているさなかに立ち尽くしていた。
王宮の西棟の最上階、ルシカのために整えられた医療設備の揃う室内だ。天井が高く、清潔で広さも充分にあり、両手の指を超える人数が駆け回っていても充分な空間が確保されていた。さきほど最奥の寝台にルシカを運び、駆けつけたメルエッタに腕を引かれ、手前の部屋まで戻って待機させられていた、というわけだ。
「順調とのことです。いまはまだ陣痛の間隔が長く、生まれるまでには時間がかかりそうですよ」
年老いてもなお背筋を真っ直ぐに伸ばしているメルエッタが、はしばみ色の瞳に浮かんでいた厳しい光を緩め、口もとを優しくほころばせて言った。
「さぁ、テロンさま。これからがルシカさまにとっても、生まれてくる赤ちゃんにとっても最初の試練、ひどく苦しくつらい時間になりましょう。それさえ乗り越えれば、喜びに満ちた新しい時間がはじまります。今はただ、ルシカさまの傍に居てあげてくださいませ」
テロンは頷き、導かれるままルシカの横たわる寝台の傍まで進んだ。メルエッタが静かに後方へと引き下がる。
気配と足音を感じたのだろう。ルシカが目を開き、弱々しげな眼差しでテロンを見上げた。
「ありがとう、ごめん……こんなに痛いものだと思わなかった。これからもっともっと痛いんだろうね……怖いくらい」
どんなに強大な敵と対峙しても怯えることなどなかったルシカが、迫りくる時を感じて恐怖に顔色をなくし、涙すら浮かべている。
余程の痛みであったに違いない。
「俺が代わってやれるなら、そうしたいよ」
思わずテロンがそう言うと、ルシカは一瞬だけ呆気にとられたような表情になり、テロンの眼をじっと見つめた。と思うとすぐに笑いはじめたのである。
次いで呆気にとられたのは、テロンのほうだった。
「テロン……ふふっ、あ、イタタタ……あ、ううん。だいじょうぶ。おなかに力が入っちゃっただけ。ごめんね、つい笑っちゃったりして。あなたに元気と勇気をもらったっていうか……安心したっていうか。ふふ、代わってやりたいだなんて、本当にあなたらしい」
ルシカはオレンジ色の瞳に力を取り戻していた。汗ばんだ額に金色の髪を一筋張りつけて、優しげなカーブを描く眉をきりりと上げて。
「うん、あたし、頑張るね! お母さんがこんなんじゃ、おなかのなかにいるこの子も不安になっちゃう。だからあなたも、あたしのことを考え続けていて。ふたりの祈りが、この子の力になりますように。無事に生まれてきますように。あなたの想いが、あたしに勇気をくれるように」
「愛している、ルシカ。きっと大丈夫だ。君ならできる」
テロンは力強く頷き、自身の瞳に不安など映さぬよう力を篭めて、ゆっくりと微笑んでみせた。ルシカのちいさく細やかな手をしっかりと握り、祈るように深く瞑目する。
ビクリ、とルシカの手が震えた。テロンは驚き、すぐに眼を開いた。
「ルシカ……どうしたっ」
テロンの声に驚いたのか、周囲で続いていた物音がぴたりと止んだ。
「……あぅっ!」
ルシカのあげた声は、明らかにさきほどまでの陣痛によるものとは明らかに異なっていた。テロンの手の中で震えるルシカの手、横たわっていた身体、それら全てから感じられていたルシカの生命が――魔力という生命の気配そのものが、ぶれるように不確かなものへと変化としたのだ。
テロンは物も言わずルシカの肩を掴んだ。まぶたをぐったりと閉じたルシカの体温が、急速に失われてゆく……。なにか重要なものがふたつに引き裂かれ、ルシカの体を離れていく感覚がテロンの腕に伝わってきた。
「はやく、はやく来て! ルシカさまがっ」
異常に気づき、背後で誰かが叫ぶ声が聞こえた。それら全てが、テロンにとって遠い世界の出来事のように感じられた。
ルシカが――テロンは信じられない想いで腕の中の愛妻を見つめた。どうしてこんなに唐突に、一体何が起こりつつあるというんだ!
引き裂かれているのは生命なのか、魔導士ゆえに常人より濃く体内に抱えている魔力のせいなのか。こんなときに、何が……。テロンはルシカの腹に手を置いた。背後から突進してきた誰かがテロンの肩を掴み、別の誰かが寝台の反対側から彼女の上にかがみこんだ。容態を診ようとしているのだ、と遅れて気づいたその瞬間。
凄まじい光量が眼前で弾けた。
あまりの光の強さに、視界が真っ白に染め上げられる。感じているのは咄嗟に抱きしめたルシカの細い体とやわらかな肌――そして、一瞬にして大気に満たされた爽やかな香りだった。テロン自身やルシカのものではない、まるで薬草や青々とした草原を思い起こせる透明感を伴った香りであった。
周囲にあった様々なひとびとの気配が消え失せている。ひとつの物音もなく、しんと静まり返っている。そこに、風が吹いた。涼やかに吹いた自然の風――窓のない室内であったはずなのに。
無意識のうちに閉じていたまぶたを、ゆっくりと押し上げる。テロンは膝をつく姿勢で、腕の中にルシカをしっかりと抱きかかえていた。さきほどまでの苦悶がまるで嘘のように、穏やかな表情で呼吸している。鼓動が、彼女の膨らみの内でしっかりと繰り返されているのが伝わってくる。
「ルシカ……生きている、良かった。だがここは……いつの間にかどこかに『転移』したのか? ここは一体……」
つぶやく声が果たして自分のものなのか確信がなかった。それほどまでに現実離れした光景が彼らの周囲を取り巻いていたのである。
そこまで語り、テロンは長く息を吐いた。
当時の記憶がまざまざと脳裏によみがえり、心に感じていた圧し掛かってくるような感情と懸念、そしてこれから語ることになるであろう物語を脳裏に描くだけでも相当な労力が要るに違いないことに思い至ったからだ。
「長くなるぞ、兄貴」
「ゆっくりでいい。だがこの際だ、しっかりと聞かせてくれ、テロン。あるがままを語ってくれて構わないから」
兄の瞳の奥にあるのは、好奇心だけではない。弟テロンやルシカのことを心配する気持ち、そしてこれから出産を迎えるであろう妻マイナのことを想って、どうしても自分の耳で聞きたいのだろう。今まで深く聞いてこなかったことのほうが、むしろ信じられないほどであった。兄の性分を知っているがゆえに、なおさらに。
「次元の門を開き、俺たちを『転移』させたのは、ルシカの命を救うためだったんだ。こちらの世界から俺たちが消えたことで、みなに心配させてしまったことを気にしていたが、どうしようもなかったらしい。俺たちが到着した場所は『光の都』トゥーリエ、あの世界に存在している双つの都の片割れだ。そこに程近い風と光の領域の草原に、俺たちは現れた。なかば強引な方法だったというけれど、彼らにとってはそれが精一杯だったんだよ」
「彼ら……? それはまさか」
「ああ。次元を渡る光の道を開き、ルシカと俺を呼んだのは――」
テロンがそこまで言ったとき、必死に駆け走るように騒々しい足音が聞こえ、次いで入り口の扉が凄まじい勢いで開かれた。閲覧室の分厚い扉が常日頃ではありえない音を立て、壁に当たって跳ね返った。
扉が閉じようとするのを必死で腕を突っ張って堪えながら立っていたのは、ルシカとともに居た文官たちのひとりだ。壮年で落ち着いた物静かな人柄の男は、息を乱しながら部屋を見回し、すぐに王弟と国王を見つけた。
その表情にただならぬものを感じ、テロンとクルーガーは同時に椅子から立ち上がった。ぞわりと背筋を這い登ってきた怖ろしい予感に、テロンは目を見開いて一歩前に踏み出した。
「大変です! ルシカさまが、ルシカさまがっ! 急に倒れて意識を失ってしまい――」
彼女の名が出たときには、テロンはすでに駆け出していた。疾風のごとき勢いで知らせに来た文官の横をすり抜ける。慌てた文官が飛び退き、尻餅をついた。
閲覧室を出てすぐの廊下を奥へ進み、扉を開くのももどかしく突き抜けるような勢いのまま押し開いて、関係者以外立ち入り禁止である禁断部屋に駆け込む。床に開いた穴は、地下の魔導書保管庫へ通じる唯一の出入り口だ。
下からは、彼らを統括する宮廷魔導士であるルシカの名を呼ぶ幾つもの叫び声が聞こえている。
「ルシカ!」
テロンは梯子を使うのももどかしく、一気に下まで飛び降りた。階下にいた文官たちが驚き、降ってきた彼を驚き顔で振り返る。
その文官たちの向こうに、倒れたルシカの姿がみえた。
テロンは集まっていた他の者たちを掻き分けるようにして彼女の傍に駆け寄り、膝をついた。外傷はない。立っていた姿勢から膝をつき、横倒しに倒れたのだろう。苦しかったのだろうか、胸元の着衣が乱れ、自分できつく握りしめたのだとわかる。眉は寄せられ、唇は僅かに開いていた。
「突然だったのです。本日は特に転んだ様子も見られず、魔導書の分類作業で幾分か魔力を使っていたとは思われますが……魔石も握っておられて、その石をまだ使いきってはおられませんでした」
横から報告してくる文官に応えたのは、いつの間にかテロンの背後に続いていたクルーガーだった。
「魔力の使いすぎではないというのか。だが、意識を失っている者にこの場所は危険だ。頭を打った様子がないのならば、すぐに上へと連れ出したほうがいいぞ、テロン。ここは立っているだけでも、僅かずつだが確実に魔力が消費される。魔導書を保管するために展開されている魔法の影響なのだ」
自身も魔術使いの剣士であるゆえに、クルーガーが告げた。テロンはルシカの首に細心の注意を払いつつ急いで抱き上げ、梯子をかけられた出入り口の穴へ向けてひと息に跳躍し、外に出た。
禁断部屋の内部に並べられていた休憩用の長椅子に彼女を下ろし、気道を確保しつつ顔を仰向かせた。
「ルシカ! ルシカ!」
呼びかけてみるが、意識が戻る気配がない。頬に手のひらをあてがい、再度呼びかけたが、反応はなかった。
何故だ――つい半刻ほど前にも話をして、「すぐに済ませるから、お昼ご飯は一緒に食べましょう」と笑っていたじゃないか……今朝も起きて、笑って、唇を重ね……そして……。
テロンはぎくりと身を打ち震わせた。以前にも感じた、あの感覚が再びルシカから感じられたのである。
彼女の命を構成していた魔力そのものが、バラバラに引き裂かれるように散じて……消えてゆく。
「そんなまさか……安定したはずじゃないか! ルシカ、目を覚ましてくれッ! 俺を置いて逝くな……!」
ルシカの体を抱きしめ、テロンは祈るように叫んだ。




