1章 ソサリアの護り手たち 7-2
広い岩棚の奥は、拒絶の意思を感じさせるほどに見事なまでの絶壁だ。
手がかりや足場も見られず、山頂まで延々と続くのであろう壁面は不自然なまでに垂直で、しかもその頂上をまるで生き物のように不気味な渦を巻く乳色の濃い雲が覆い隠している。たとえどんな高峰をも制覇してきた登山の達人であっても、このフルワムンデに挑もうとする者がただの一人もいないというのが頷ける。
異界への接点があるという噂や、この世の最果てへと続く穴が開いている等々、伝承や言い伝えには全て、背筋が寒くなるような逸話が添えられているのだ。リューナは大きく息を吸って吐いたあと、肩をそびやかしてみせた。
「すっかり見通しがよくなった。戦闘していた間に晴れたんだな。見ろよトルテ、絶壁の上のほう。霧だか雲だか、自然のものとは思えない大気が覆っているみたいだぞ」
「そうですね、あそこには意志ある魔法が働いています。外側から頂上へ到達する可能性を、すっぱりと断ち切っているみたい」
「あの壁の表面、普通に登ることはできそうにないな。飛翔族か、真なる姿に変化した竜人族なら、翼で上昇して頂上までたどり着けるんだろうか」
「無理だと思いますよ、リューナ。そのひとがきちんと対処法を知っている魔導士なら可能かもしれませんが、ここからでも見えている魔力の渦と力場の乱れの凄まじさ、生命あるものにとって脅威以外のなにものでもありません。魔導の防護で対抗しつつ渦を貫いて頂上まで行くのはきっと、ルシカおかあさまでも無理だと思います」
トルテが一番に尊敬している先達――万能魔導の遣い手である母の名を出した。それほどに不可能であることをリューナに伝えたかったのであろうが、母の名を口にしたことでトルテは表情を暗くしてしまう。そんな彼女を元気づけたくて、リューナは明るい声を出した。
「飛べて魔導士で強い奴か。なぁ、ダルバトリエのおっさんなら突っ込んでいきそうだと思わないか?」
リューナの軽口に、トルテの表情がふわりと緩んだ。
「そんな無謀なことをしたら、フェリアさんに怒られちゃいそうですけど。とりあえず、あたしたちは魔法なしには飛べない身なんですから、ハイラプラスさんから教えていただいた道のほうを進むことにしましょう。なんだかリューナ、いまにも突っ込んでいきそうで心配なんですもの」
「ピュイ、ピピピェ」
トルテの横でピュイが啼いた。その皮肉っぽい眼差しと小さな牙の並ぶ口もとの歪みっぷりを向けられ、リューナは子龍を睨んでやった。
「いちいち賛成するなっての! ――イッテぇ! なんだよっ、噛むなよ、ったく……」
そんな騒ぎを目の前で繰り広げられ、ポカンとしていたトルテが明るい笑い声をたてる。先ほどまでの重苦しい雰囲気が跡形もなく消えているのを見て取り、リューナは安堵した。ピュイも同じようにホッとしていたのかどうかは、断固として無視しておくことにする。
ふたりと一体は周囲の気配を探りつつ慎重に歩みを進め、山岳遺跡の入り口に立った。
頂上へと続く絶壁めいた斜面を穿つように掘られた、明らかにひとの手が建造した入り口である。そこはまるで自然の営みから切り離されたように、きっぱりと隔絶された場所であった。穴のように続く入り口は広く、二十リールはありそうだ。
奥へ十歩ほど進むと、白亜の帯石に縁取られた重厚そうな藍色の扉があった。その帯石にびっしりと施されている彫刻が何を表そうとしているのか、リューナの知識では推し量ることができなかった。
「すっげぇ……。これが絵なのか象形文字なのか、意味しているところはさっぱりわかんねぇけど、彫刻そのものの技術がとてつもなく優れているのは、俺にもわかるぜ」
生物らしきもの、樹木や岩ではないかと思えるものもある。うねるように続く優美な曲線の数々は、大河の流れか海の波間か……それとも時そのものの経過を表しているのか。そこに綴られている絵図は別世界に存在するもののようであり、『時の魔晶石』の力で目にしたことのある始源世界の光景のようでもあった。つまり、自分たちのいま住んでいる世界とはまるで違う光景だということだ。
「ハイラプラスのおっさんの話では、魔法王国の時代よりずっとずっと古いものだっていう話だろ。彫られたものが浸食されることもなくこうして完全に残っているなんて、普通じゃ考えられねぇぞ」
トルテは無言のまま立っていた。瞬きを止めて瞳を凝らし、しばしの間全体を眺め渡したあと、扉に近づいて紋様部分を仔細に調べはじめた。しばらくして満足したのか、姿勢を戻してリューナのもとに戻ってきた。
「そうですね。全体の構図、魔法陣のような配列……魔法王国最盛期の技術にも匹敵する強さの魔法が展開されているのを感じます」
「魔法って、魔法王国のものじゃなくてか」
「それよりもずぅっと古いものみたいですよ、リューナ」
「てことは――」
魔法王国の興りはおよそ五千二百年前だ。この世界に生きる五種族をはじめとした多種族同士が互いに争うこともなく高い文明と繁栄を謳歌し、三千年以上の間、栄え続けた。たとえその時代のものであったとしても充分驚異的だというのに、それよりさらに古い時代のものだということらしい。
リューナは畏敬の念に打たれながらも呆れたような眼差しで、目の前の巨大な扉を打ち眺めた。そんなリューナの心の内を正しく理解したのだろう、トルテも頷きながら彼と並んで扉を見上げた。
いつの間にか再び自然の雲が背後の広場を埋め隠していたが、この扉の周囲だけには陽光が届き、不思議なほどの静寂に包まれている。いかなる自然の営みであろうとも、この場所を侵すことができないのであろうと思われた。それがたとえ時間の経過であったとしても――魔法の守護の賜物だ。
「そっか。環境維持の魔法による力場が展開されているんですね。あたしたちの王宮ととても似ている技術みたいです」
「似ているってことは、ここも幻精界の住人たちが造ったってことなのか? 王宮も確かフラウア……なんとかっていう上位種族が造ったものだっただろ」
「そうかもしれません。でも、この場所に秘められた真実は、まだ誰にもわかっていないのです。古い古い書物にあった記述には扉の向こうに山岳遺跡と呼ばれるトンネルがあるとされていたらしいのですが、その書物すらハイラプラスさんが読んだあとに失われたとのことでしたから。おそらくミッドファルース大陸消失のときに、ミドガルズオルムの都市と運命をともにしたのでしょうね」
「なら、誰もここへは実際に入ったことがないってことなのか? 奥にはすっげぇ過去の仕掛けや謎、まだ知られてもいない伝説の宝なんかがそのまま眠ってんのかな」
リューナは目を輝かせた。未踏遺跡の存在――遺跡を狙う冒険者ならば、狂喜したことだろう。冒険者たちを惹きつけるのは宝物の存在だが、なにより心を打ち震わせるのは新たな謎と冒険そのものだからだ。
「可能性はあると思いますよ」
頷きながら、トルテが笑顔になる。ここに来た目的は切羽詰ったものであったが、冒険の旅そのものは昔から大好きなのだ。リューナもトルテも根っからの冒険者ではないが、それに負けぬほど強く純粋な好奇心の持ち主である。机で歴史書や地図を広げて調べものをするより、実際に出掛けていって探索してくるほうがしっくりくる。百聞は一見に如かず、いうやつだ。
「そうこなくっちゃ。それじゃさっそく入ってみよう」
右腕に収納された剣をいつでも取り出せるよう、リューナは精神を高めながら扉の傍まで歩み寄った。
ふと思いついて、振り返る。
「罠、なんかはないよな?」
「そういうことは近づく前に調べてください」
トルテは「めっ」と顔をしかめてみせながらも、大きなオレンジ色の瞳に無数の光芒を灯らせていた。
「……魔法的な罠は見えません。物理的な罠が仕掛けられている可能性は低いと思います。だってここは、この遺跡の玄関である『扉』なのですから」
トルテは細やかな腕を宙に跳ね上げ、ふわりと双つの円を描くように宙を滑らせながら腕先で様々な印を結んでいった。
「我らは故郷へと還らん。我らが往く手を断ち塞ぐことなかれ、導き通し給え――」
小さな喉から朗々と力ある音が生まれ、虚空を震わせて周囲に響き渡る。それは『真言語』と称される魔導の言葉だ。文言そのものは、歴史家であり魔導研究者でもある『時間』の魔導士ハイラプラスから伝えられたものである。
藍色の扉は薄く青い清浄な水を透かしたような色に染まり、やがて急速に薄らいでいった。ふっと周囲の気圧が変化する。いつの間にか、目の前を阻んでいた藍色の扉は跡形もなく消え失せていた。
「扉板の属する次元が変わったんです。厳密には移動していませんが、移動したともいえるかもしれませんね」
「ピュルティ、ピューリ、リリュティ!」
「あぁ、道は開かれたんだ。こうなったら休んでなんかいられないな。さっそく進もうぜ!」
王族の住まう居室のひとつ、現国王クルーガーのプライベートな部屋は『千年王宮』の東側にあり、広い国土の大半を占めるふたつの緑の領域のひとつ、カクストア大森林を見渡せるちょうど良い位置にあった。
クルーガーと出逢ったときに運び込まれた客間の景色に感動していたマイナのために、クルーガー自身が用意した部屋だ。遠く眺め渡せるのは、異境に属しひとの領域にあらざるゾムターク山脈の連なりと濃い緑に覆われた国土、その手前に広がる王都の平和にあふれた活気のある街並みと、白亜の外壁まで広々とたゆたう穏やかな橄欖石の草の絨毯だ。さらに、重厚な『図書館棟』と外壁向こうに建つ荘厳華麗な『光の主神』ラートゥルの大聖堂までもが眺められるのであった。
「マイナ、かげんはどうだ。何か口にできたか?」
忙しい公務の合間を縫って、国王クルーガーは身重の妻の様子を確かめに足を運んでいた。
「はい、えっと……なんとか。さきほどクルーガーが持ってきてくださったレモンとトマトをサラダに仕立ててもらったんです。体を温めるための香草茶も、一緒に淹れてもらいましたので」
王妃であるマイナはゆったりとしたガウンを纏い、ソファーに座って時々窓の外を眺めながらせっせと針を動かしていた。
手もとを覗き込んだクルーガーは、穏やかな微笑を浮かべた。可愛らしいレース仕立ての小さな靴下らしき品を、マイナは縫っていたのである。
「細かな手作業をしていて、大丈夫なのか? 少しでも疲れたら――」
「はい、すぐに休みます」
マイナが微笑みながら頷き、傍に歩み寄ってきた夫を見上げた。クルーガーは長身を折って膝をつくように身をかがめ、マイナと視線を合わせて、幾分か蒼ざめている頬に手を伸ばした。やわらかな肌に沿わせるように長い指を滑らせ、その頬にキスをした。
「無理はするなよ、マイナ。……それにしてもめぐり合わせというものは不思議なものだ。命というものも。幸せになるにつれ護らねばならぬものは増えてゆくが、それらが重荷だと感じることはなさそうだ。むしろ喜ばしいことであると、しみじみ感じている」
「それはわたしも感じています。ねぇ、クルーガー。まだ時間が許されているのなら、ひとつお話してくださいませんか」
「ん?」
「わたしがまだ『従僕の錫杖』との分離装置に入っていたとき、話してくださいましたよね? ルシカさんの出産のとき、大変な騒ぎがあったって」
「確かにそうだったな。……もしかして心配しているのか?」
クルーガーは妻を抱き寄せ、彼女の手の中にあった裁縫の道具をサイドテーブルに置き、その体に負担をかけぬよう腕にゆっくりと力を入れながら抱きしめた。
マイナは安堵したように頬を染めながらも、紅玉髄色の瞳に拭えぬ不安のいろを僅かににじませ、小さな声で囁くように言った。
「……うん、やっぱり気になってしまって。実力も力の『名』もまったく違いますけど、わたしもルシカさんと同じ魔導士ですから……」
「心配しなくてもいい、マイナ。あのときのルシカの状態は特殊だったんだ。……確かに魔導士であるがゆえにその状態に至ったといえばそうだが。事の発端は俺たちとルシカと魔法王国の秘宝、様々なさだめの延長であったのだから……」
言葉の最後の部分を口にしたとき、クルーガーの胸に鋭い痛みが突き刺さった。
無意識のうちに瞳と腕に力が篭められたせいだろう、マイナがびくりと身じろぎし、心配そうに彼を見上げるのがわかった。
それに気づいたクルーガーはすぐに意識して力を抜き、ゆっくりと長く息を吐いた。身重の妻に、亜空間の内部で彼が感じた喪失の衝撃と深い悔恨の記憶のすべてを伝えることはできない。
「とにかくマイナ、君は何も心配しなくていい。そういえば、ラートゥル神殿のクラウス殿が来てくれるそうだ。何しろ高齢であるからな、体調の良いときに、ということだ」
「まぁ、わたしのほうから伺いますとお伝えしなくては」
「そういうと思った。では、いまの大変な時期が落ち着いたら、一緒に行こう」
マイナは顔を輝かせた。最高位の司祭といえど国王自らが訪問することにルーファスあたりは眉を寄せるかもしれないが、クラウスはマイナにとって父をよく知る人物であり恩師でもある。
妻の頬に健康そうな色が戻ってきたことを見てクルーガーは微笑し、安堵したように肩を下ろしたあと、窓から見える図書館棟のほうへ青い瞳を向けたのであった。
『図書館棟』は五階建ての円筒形の建造物で、古代魔法王国期から伝わる貴重な文献や魔法書の数々が集められ厳重に保管されている。中には取り扱いに危険を伴う物騒な書物や、常人には開くことのできぬいわくつきの巻物など、そして何より貴重なのが、『真言語』と呼ばれる、一字一句が魔法陣にも値する力場を展開している魔文字で綴られた魔導書であった。
それら全ての管理を任され、日々分類と手入れや解読を行う文官たちを直轄しているのが宮廷魔導士だ。かつてはこの建物に、彼の大魔導士ヴァンドーナも頻繁に出入りしていた。どの国家にも属さぬ彼であったが、この場所は彼にとって特別な場所であったらしい。
王子ふたりは幼い頃から教育係のルーファスに追われたときの隠れ場所にしていたため、ルシカが宮廷魔導士に就任する以前からテロンとクルーガーにとっても心休まる場所であり、大魔導士から魔法をはじめとした知識を教わった場所でもあった。
それから年月が幾つも巡ったが、テロンにとってくつろげる場所に変わりはなかった。たとえ文官たちが忙しそうに駆け回り、次々と古い書物が運び込まれている混乱にあっても。
何といっても、いま現在この図書館棟を管理する宮廷魔導士が、他でもないルシカなのだから。
広いはずの図書館棟の閲覧室は相変わらず、遺跡から発見された古代の書物の詰められた箱に半分ほどの場所が占領されていた。幾分か埃っぽくはあったが、分厚く貴重な書物を閲覧するには最適の場所である。
「テロン」
自分を呼ぶ声を聞き、テロンは読んでいた書物から顔をあげ、室内に並ぶ重厚な机と椅子の列の向こうに、よく馴染んでいる姿を見た。流れるクセのない金髪が長く伸ばされ、白と青を基調とした王位を纏っていることを除けば、彼自身とあまり変わりのない顔かたちをした双子の兄の長身を。
「珍しいなァ、図書館棟で読書とは」
「ルシカを探しているのか? 地下の魔導書保管庫にいるよ。分類作業で忙しいんだが、俺では手伝うこともできない。ならばせめて通常書の調べものくらいやっておこうかと思ったんだ」
「いや、ルシカに用というわけではないんだ。……双子の弟とたまにはゆっくり話がしたくてな」
クルーガーは悪戯っぽくニヤリと笑い、テロンの席の隣の椅子に腰を下ろした。
テロンと同じ長身なので、王都の王立図書館に使われている椅子よりはどっしりと大きなものだが、それでもやはり窮屈な感はある。なのに、双子の兄は実に優雅な身のこなしで座し、ゆったりとくつろいでいるかのような印象を受ける。
書類に目を通すだけでも忙しいはずの国王が、わざわざ自分と話すために王宮の建物から離れたこの図書館棟までやってきた意味を考え、テロンは内心首を捻った。外交や、先の古代龍による破壊の復興状況については報告済みであったし、会議や食事の席で顔を合わせることはいくらでもあるのだ。ただし、それらの際にはふたりきりではない。それぞれの妻や大臣たち、王宮で召抱えている世話人たちが居る状況であった。
そのことに思い至り、テロンは読んでいた本を完全に閉じた。閲覧室に出入りしていたはずの文官たちの気配が、周辺から消えていることにも気づく。国王と王弟に対する無言の配慮なのだろう。
「何かあったのか、兄貴」
重要な話でもあるのか――テロンは真剣な面持ちで訊いた。
「いや、特にない」
いつものごとく、本気とも冗談ともつかぬニコニコ顔で切り返され、がっくりと肩を落としそうになってしまう。
だが、双子であるテロンは兄の瞳の奥にさまざまな懸念の渦が隠されていたのを見て取った。クルーガーは幼い頃から強がりで、弟であるテロンにも自分の弱さを曝け出そうとはしない。だが自分の過ちを認めるときには認めるし、責任を取るべき状況からは逃げも隠れもしない。言うべき言葉なら、自分の意思で語ってくれるはずだ。それに、無理に聞き出すのはテロンの性分ではない。
テロンは口を閉じたまま待った。遠くのほうで、バサバサドサドサと派手な音が響いている。ルシカがまた下敷きになっていなきゃいいけど――と、少し落ち着かない気分になってしまう。
「テロン、ハイベルアの復興状況は書面の報告で全てか。タリスティアルへ赴いたディアン殿の話では、ハイベルアより高い位置にあった町や村の復興について、国は実質放棄したようなものだと聞いていたが」
クルーガーが口を開いたが、その内容はテロンの予想と外れたものであった。居住まいを正し、国王を支える立場としての面差しになって答える。
「それは事実といえる。タリスティアルには魔材石を産業にする技術そのものがないので、俺たちのようにそこにあった建物を再建する考えはないらしい。もともと少数種族の集落ばかりで、もっと住みやすい場所への移動を望んでいたということだ。産業的な役割はほとんど有していなかったんだ。それで生き残った者たちの意見を受け入れるまま、六つの集落全てフェンリル山脈の南側に移すそうだ。故郷を離れたくない者たちはおそらく残るだろうが、生活物資や食物の調達について他者を頼ることのない暮らしをしてきた種族らしい。それでも必要になればハイベルアまで下りて物々交換というかたちで調達するのだろうと。昔からそうしていたらしくてな」
「そうか」
クルーガーは真剣な顔で頷いたが、やはりどこか違和感がある。
「ハイベルアの鉱山の復旧には、やはりあと数ヶ月はかかりそうだ。場所が厳しいからな。魔材石の供給までとなると、崩された街道の工事も急がねばならないから」
「財政面についてはファリムの管轄だが、王宮の宝物庫に蓄えてあった魔材石の量で当分の輸出量は確保できるとのことだし、心配はないだろう」
ファリムとは財政を任されている大臣の名だ。魔材石は、精錬加工して様々な魔法の道具になる様々な鉱石や原石のことだ。宝飾に使われるものとは異なり、特別な技術がなければ掘り出すことの叶わぬ資源である。王国の主な貿易品として世界中に名が知れ渡るソサリア製の魔道具、その優れた加工技術の数々は子々孫々伝えられるものばかりであり、それが他国の侵略を防いでいる理由のひとつでもあった。
「備えあれば憂いなし、だな」
「父上が貯め込んでいた魔材石、加工まで終えなければ価値のないただの石ころなのに。父上にも先を見通す能力でもあったというのかな」
冗談めかしたクルーガーの言葉に、テロンは真面目な顔で応えた。
「昔ヴァンドーナ殿に助言を受けたことがあった、と親父は言っていた。掘り出すものはいつも安定して産出され続けるとは限らない。相場を安定させるためにも余剰分は国が買い取り、もしものために管理しておくようにとのことだった。どうせ豊富に魔材石が採れすぎても値崩れを起こすだけで、加工するほうが追いつかない。加工技術は職人の技によるものだ。少々学んだくらいでは粗悪品を生み出すことなるだけだと。もし生産を増やすならば、質を落とさぬよう後継者たちをしっかり育てるところからはじめよ、ともね」
「なるほどな。『時空間』の大魔導士の先見の明にまたも助けられた、というわけかァ。だがこれからも、それをあてにすることはできないな。これからは俺たちで対処しなければ。ヴァンドーナ殿の後継者であるルシカにそんな重荷を担わせたくないしな」
「……ルシカは彼の師の代わりにはなれないさ。させようとも思わない。未来を見通す能力は、そもそも魔導の力だけでは説明がつかないとのことだとルシカも言っていた。高司祭たちの奇跡の業のひとつである、『啓示』に近いものがあるとのことだ。つまり神々の領域に属する力、ということだな。どうしてヴァンドーナ殿がそのような力を持っていたのかは、もはや知る由もないが」
『時空間』の大魔導士ヴァンドーナは、すでにこの現生界のひとではない。仲間たちや孫娘の命を救うために自分の魔力の全てを使い、亡くなったのだ。
「それにしても、父上は欲がないなァ。あれだけの魔材石、もし魔石にしていたら、物凄い財産だったろうに。惜しげもなく民に差し出すんだからな」
目の前に立つ兄王は、そう言いながらも同じ状況ならば躊躇なくそうしていたであろうことを、テロンは知っている。
「戦乱と貧困のなかで育ったのだ、贅沢三昧しようとは思わん――そう言っていたものな。父上も、そして母上も。祖父の時代、どこもかしこもひどい有様で、国民たちはみな日々食べることも困難だったという。生き延びることで精一杯だったと。そんな時代を生き抜いてきたからこそ、父上の治世は良き御世であった、ということだろう。俺もいまの平和や繁栄に慢心することなく、日々堅実に過ごさねばならないな」
「俺もルシカも旅が多いし、贅沢とは無縁だけどな」
テロンは微笑みながら言った。
「マイナも厳しい冬を知る港町の出身だ。ニルアードの大臣ならば高価な食事に糸目はつけなさそうだが」
クルーガーはそう言ってニヤリと笑った。
「まあ、そういった話はともかく、蓄えが役に立ったのだから喜ぶべきことだ」
「だが少しでも早く復興を果たさないと、ハイベルアやルアノの街がもたない。けれど心配はないさ。鉱山のほうも都市設備の再建もめどは立っているし。報告書のとおりだよ」
テロンの言葉に、クルーガーは重々しく頷いた。
「それだけではないんだろう、話は」
頃合とばかりにテロンが静かに問い掛けると、見透かされていると承知であったらしいクルーガーは苦笑し、ようやく本題を切り出した。
「おまえに思い出させていいものか、迷ったんでな」
「――ルシカのことか」
自分のことで心痛があるとすれば、それは彼女に関することしかない。自身のことや国交のことで思い煩う性分ではないことを、兄はよく知っているはずだからだ。
「ああ。丁度十五年前の今頃のことだ」
「トルテが生まれたときのことかい? でも今になって、どうしてそのときのことを?」
「気になったんだ。特にマイナが気にしている。魔法王国では魔導士の出産など当たり前だっただろうが、今の時代、魔導士は少ないのだから不安にもなるだろう。ルシカもおまえも、そのときの事実についてはあまり語らなかったからな」
「話せなかったんだ。たぶん今でも、俺ではうまく説明がつかないと思う。俺たちがこの世界から消えた時間は、兄貴たちは一昼夜だといっていたが、俺たちにとってはもっと長かったんだ。時間の流れが、この現生界とは全く違った場所にいたせいでね」




