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ソサリア魔導冒険譚  作者: 星乃紅茶
【第七部】 《双つの都 編》
177/223

プロローグ 魔導を継ぐものたち

 白く波打つ水面みなもさながらの雲海が、ふいに途切れた。


 染み渡るような青、そして銀に煌めく海岸線と恵みあふれる緑の領域――遥か遠くにあるはずの光景が、冷然たる雲の合間に色鮮やかに浮上する。


 そこだけがまるで切り取られたかのように目の前に差し出され、荒々しくも寒々しい光景を眺めなれた瞳を、片時なりとも、ほんわりといこわせたのであった。


「すっげぇ! おいトルテ、見てみろよ。ザウナバルクの港と森があんな遠くに見えるぜ」


 眉庇まびさしがわりに掲げた腕の下から、あおの瞳をきらきらと輝かせた青年が声をあげた。


「はい、とっても綺麗です! それにしても、リューナは目が良いんですね。ここから港まで見えるなんてすごいです!」


 青年の傍らに立ち、爪先立ちをして伸び上がるようにして同じ姿勢になったのは、すべらかな肌を寒さゆえに桜色に染め、さらりと流れる長い金の髪をツインテールに結った少女だ。太陽が地表から顔を出してすぐの色彩さながらの、澄んだ大きなオレンジ色の瞳をぱちぱちとまたたかせている。


「海岸の形から、あの辺りかなって。でっかい中央市場の建物が見つかりゃ、あとは港の位置は見当がつくさ」


「『遠視(マジックアイ)』は使っていないですよね。なのにそこまで見えるなんて。リューナと同じくらい、あたしにも見えたら――きゃっ」


「トルテ!」


 リューナは叫び、同時に腕を差し伸ばした。危なっかしい姿勢を崩して足もとを滑らせた少女の体は、もう少しで真っ逆さまに滑落するところであった。ふたりの立つ足場の下は、ほぼ垂直な絶壁と遥か下にこびりついた雪と氷、草木一本ない岩肌のみ。


「まぁ、ごめんなさい、リューナ。気をつけます」


 のんびりと穏やかな声で、トルテが謝った。


 リューナは止めていた息を吐き、ゆっくりと姿勢を戻した。腕のなかのトルテが彼を見上げてにっこりと微笑む。勢いそのままに抱きしめた彼女の腰は折れてしまいそうなほどに細く、笑うと幼さがのぞく可愛らしい容貌と衣服の下の肌の温もりに、甘く胸がうずく。丸みを帯びはじめた箇所は弾力を増してやわらかく、それでいて腕や脚はほっそりと伸びている。


 ふたりして過去の世界へ飛び、王の使命を果たしてあとから戻ったリューナのほうが二年の歳月を多く費やしたとはいえ、今はトルテも彼と同じように日々すこやかに成長しているのだ。リューナはそういったことを実感し、火照ほてった自身の頬に慌てたように口を開いた。


「いやごめん。その、いいんだ。足場が悪いから気をつけろよ」


 助けてくれたリューナが謝ったからだろう、トルテは不思議そうに長いまつげをぱちぱちとしばたたかせた。


 その少女の横で、敵意を剥きだしにして、ぱたぱたと二対のはねを打ち羽ばたかせながら空中に浮かんでいるものがいる。リューナは憮然として向き直ってから、その相手を負けじと睨みつけてやった。


「ピューリ、ピュルルピィィ!」


「うるせぇぞ。おまえより速かったんだから、くんじゃねぇったら」


「ピューリピピィリ」


「うるせ! おまえに馬鹿よばわりされるほど勉強サボっちゃいないぞ!」


「……するほど仲が良いっていいますけど、ふたりとも喧嘩しないでくださいね。ここは狭いんですもの」


 トルテが困ったように優しげな眉を寄せ、首をちょこんとかしげた。けれど口調はのんびりとしたままで、さっぱり緊張感のないものであったが。


「仲良くねぇったら!」


「ピピピイィィ!」


 同時に返事をした人間族と龍。その異種族のふたりは互いの目を見て、さも嫌そうな渋面になる。リューナは盛大な溜息をつき、龍のほうは憤然と鼻から蒸気を吐き出した。


「おまえはいいよなぁ。そうやって空を飛べるんだからさ。なんなら自分の荷物くらい運んでくれてもいいんだぜ?」


 リューナが睨みつけている相手は、ずんぐりとした胴と長いくびと尻尾、そして煌めくあかがね色の鱗に覆われた龍の子どもであった。左右に二枚ずつあるはねは昆虫さながらの美しいもので、いかなる魔法か、やたら頑丈そうな骨格と立派な腹を空中にふわふわと浮かべているのである。


 『竜』ではない、『龍』だ。それもはるかいにしえ、太古の昔から生き続けていた古代龍の末裔である。ドラゴンと総称されてはいるが、竜と龍とではまったく異なる存在だ。魔獣である野生の竜と違い、古代龍は高い知能を持って人語を解し、音楽や芸術すら理解できるほどの感性をそなえている。


 もし成長した親龍であるならば、『大陸中央都市』ミディアルの都市管理庁の「どでっかい」建造物と並ぶほどに巨大な体躯なのだが、なにせ永劫ともいわれるほどに長い生涯を送る種族でもある。目の前で呑気に飛んでいる幼児ほどの背丈の龍は、一年ほど前に卵からかえったばかりの赤子同然なのであった。それでも、発声まで至らなくとも大陸語と魔法語ルーンをきっぱりと理解しており、魔導の言葉である『真言語トゥルーワーズ』までをも聴き取ることができるのであった。


 もっとも精神のほうは見かけ相応で、リューナに言わせれば「クソガキ」なのであるが。


「テテテッ、引っかくなよ! 毛布も水筒も携帯食も、ぜんぶ俺が持ってやってんだろうが」


「ピュイ、ピュリ!」


 子龍はリューナに向けて抗議の声をあげ、それから誇らしげに胸を張り、ななめ掛けにしている可愛らしいポシェットを鉤爪でぽんぽんと叩いてみせた。それらすべてを虚空に浮かびながらやってのけたのだから、龍というものはずいぶんと器用なものである。


「リューナ。ピュイも、ちゃんと自分のものを持っているんですって」


「そのカバンの中身って、ブラシひとつだけじゃんか」


 呆れたように言葉を吐き、リューナは肩を落とした――言い争うだけ疲れるし時間のムダだよな、というのが本音であった。


「この稜線を登りきったら平らな場所に着きますから。そこでごはんにしましょう」


 トルテが元気に声をあげて自分の荷物を揺すりあげ、足場を確認しながら再び歩きはじめた。彼女の頭の中には、この旅へ出発する前にハイラプラスから見せられた詳細な地図が、すべて完璧に余すところなく記憶されている。


 荷物の肩紐を掴み直し、ふぅ、とまた溜息をひとつ吐いて、リューナも登山を再開する。背中が重いが、それ以上の文句を言う気にはならなかった。


 リューナだけでなく、トルテも大きな荷物を背負っている。荷は、今回の冒険の為に特別に選りすぐられた魔法の品や王宮お抱えの発明家による便利な品々がほとんどであり、通常の冒険者たちが持ち運ぶ重量よりは遥かに軽いものであったが、それでも長旅ゆえにかなりのかさになっていた。


 前を進むトルテの小さな背は荷の向こうに隠され、全体がひょこひょこと危なっかしげに左右に揺れている。本人はこの上もなく真剣に足もとを確かめつつ、慎重神妙に歩を運んでいるのであろうが。だがもし崖下へ滑落するようなことがあっても、ここにいる全員が意識を失わない限り大丈夫なのはリューナにもわかっている。


 なんといっても、ここにつどっているのは『魔導士』たちなのだから。





 たどり着いた場所は、かなり広い岩棚になっていた。


 いや、広いなどというものではない。ゴツゴツとそこかしこに顔を突き出している無数の岩がなければ、王宮の東区域に広がっている草原くさはらくらいにだだっ広いものだと思われた。つまり、リューナの実家であるファンの町の屋敷、その魔術学園を含めた敷地全体の倍はあるということだ。


 奥のほうは白く濃い霧のような壁雲に閉ざされており、それ以上は見通せなかった。だが地図の通りであるならば、そこに隠された『道』が存在するに違いないのである。


「あ。あの辺りにしましょうか」


 適当な岩場を見つけて座り込み、トルテが荷の中からさまざまな道具を取り出しはじめた。


「ここから進む前に、きちんと休息を取っておいたほうが良いと思いますから。太陽はまだ高いですけれど、出発が午後遅くなっても構いませんし、ごはんを食べたあとに少しだけ寝ていきましょう」


 リューナは登ってきた細い道と雲海を眺め渡し、頷いた。山の天候は変わりやすいが、しばらくは穏やかなままもちそうだ。


「そうするか。地の中を進むんなら、昼でも夜でも関係ないし。なにより腹減った」


 ふたりとも野営には慣れたもので、トルテが食事の用意をする間、リューナは周囲を歩き回って魔獣避けの結界を張った。


 複合魔導を得意とする『虹』の魔導士であるトルテの魔法より、かなり簡易で簡素な結界となってしまったが、あまり魔力マナと時間を消費してしまうのは惜しい気がした。これでよしとするか――そこそこの完成度で満足したリューナがトルテたちのところへ戻ったとき、香ばしい匂いが鼻腔を満たした。思わず空きっ腹がグゥと鳴ってしまう。


「リューナ! おかえりなさい。ごはんできてますよ。どうぞ召し上がれ」


 心得ているトルテが、焼きあがった炙り(グリル)肉を一番にリューナに差し出してくれた。リューナは喜んで受け取り、彼女の隣に腰を下ろした。皿にのせられた肉の良い香りに、思わず満面の笑みがこぼれる。


 焼けたばかりの肉にかじりつくと、ぱりっと焼けた表面の内側から肉汁があふれ出た。鼻に抜けるスパイスの香りはどこまでも爽やかで、時折弾ける胡椒こしょうの粒が、熱い肉のうまみをより刺激的に際立たせてくれる。


「旨い、旨いよ! トルテすっげぇ!」


 満足げに頬張りながら合間に叫ぶリューナの食べっぷりを、トルテがにこにこしながら見守っている。


 食べ終わったリューナの皿を受け取ったトルテは、代わりに香草で淹れた茶の温かいカップを差し出した。そうして自分の分を皿に取り分け、小さな口に運んだ。リューナほどに豪快ではないが、もぐもぐと嬉しそうに味わっている。


「王宮で食べるより、ずいぶんと美味しそうに食べるよな、トルテは」


 リューナがしみじみと言うと、トルテは「そう見えますか?」と意外そうな顔になった。


「メルエッタさんの前ではゼッテェそんなふうに見えないからな。そういえばこの肉って?」


「はい。ここの登山をはじめる直前、大砲山羊を捕まえたでしょう? ほとんどピュイがおいしく平らげてしまったのですけれど、あたしたちの分も取り分けておいたんです」


「そういえばそうだったな。それでピュイはもう腹パンパン、適度な運動したから満足して寝ちまったってわけか」


 リューナは視線を流し、ささやかな焚き火の向こうで寝そべり、でっかく突き出した腹を上に向けてグゥグゥとささやかならざる寝息を立てている龍――どうりでさっき浮いているとき腹が重たそうだった気がしたぜ、とリューナは平和そうに眠る古代龍の末裔を、あきれ顔で眺めた。


「手伝いくらいしてくれりゃいいのに」


 された火とフライパンなどの細々(こまごま)とした道具を眺めながら思わずつぶやくと、夢見心地のはずの龍の尖った牙口の隙間から「ピュイィ、リーユ」という微かな音が応えた。


「ふふ、そうなんです。あたしが発火石を使おうとしたとき、ピュイが火をいてくれてお手伝いしてくれたんですよ」


 トルテが笑いながら言った。


 発火石とは、煮炊きの火を熾すときに使われる魔法の品のことで、ふたりの故郷であるソサリア王国の主な特産品のひとつであった。主にミストーナとミディアルの二大都市のギルド工房で製造され、世界中に出回っている輸出品でもあった。


「へぇ。もう火も吐けるようになったのか。だったら戦力になってくれりゃいいのにな」


「まだ練習中なんですよ。きちんと噴けるようになってから、リューナに披露したいみたいでした」


「なんだよそれ。妙なプライド持ちやがって」


 リューナは半眼になり、龍の癖に呑気な寝顔をして眠りこけている生き物をジト目で見つめた。生まれたばかりのときからトルテが優しく世話を焼くものだから、いまではすっかり彼女になついていた。従者か騎士ナイトさながらに少女の守護役を自負してくれているものだから、リューナにとっては面白くない。


「――ったくよぉ。トルテとふたりきりとかいい雰囲気とか、コイツのせいでそんな暇もタイミングもねえし、スマイリーのときよか最悪だぜ」


 口の中で不満をこぼしたとき、トルテが立ち上がった。ほんの僅かだった距離を詰めるように一、二歩さらに近づいて、リューナの傍に寄り添うようにふわりと座り込んだ。


「あの……あたし、すてきなお嫁さんになれそうですか?」


 小さな顔とすべらかな頬を寄せられ、耳もとでそっと囁かれて、リューナは「ぶはっ!」と盛大にせ返った。


「な、な、なな、なんだよいきなりッ?」


 顔全体の血潮が沸騰したのではないかとリューナは焦った。


 相手に飛び退くように猛然とられ、笑顔だったトルテの表情が途端に曇ってしまう。いつものごとく他意がなかったのか、いつものように素直な想いを口にしただけなのか判然としなかったが、とにもかくにも慌ててリューナは口を開いた。


「い、いや、ちょっと待て! え、えっとだな、トルテは十分に素敵なお、お、おおお嫁さんになれると思うぞ! だから大丈夫だ!」


「まぁ、良かった。安心しました」


 トルテは胸の前で小さな手のひらをポンと打ち鳴らし、嬉しそうにニッコリした。本当に無邪気な笑顔である。


「この冒険に出る前からもずぅっと、リューナの元気がなかったので心配していたんです。えっと、ほら、アルベルトの森を元通りの姿にするのに忙しかったですし、そのあとはクルーガーおじさまとマイナさんの結婚式やらお祭りやら、グリマイフロウさんとハイラプラスさんの起こした爆発騒動とかいろいろあって、約束していた冒険に、ちっとも出られませんでしたもの」


「なぁ、トルテ」


「はい?」


 少女が細い首を傾げると、ツインテールに結い上げてもなお長く肩へかかる髪がさらりと揺れた。流れ落ちる滝のような金糸が幾筋も煌めき、澄んだ大きな両の瞳には、鏡のごとく彼の顔が鮮明に映りこんでいる。咲きめのやわらかな花のひとひらを思わせる可憐な唇、うっすらと赤く染まる頬からほっそりとした鎖骨へと続く優美な曲線。


「おまえのこと……俺……」


 リューナは伸ばした指先を少女の肌に沿わせながら、そっと自分の顔を寄せていった。黄金色のまつげと闇色のまつげが触れあい、温かい互いの息が交わるのを感じ――。


「ピュリピュイイイィィィッ!!」


 おとなしく寝ていたはずの龍が、耳をつんざくような鋭い声をあげた。がばと起き上がり、鉤爪を地面に喰い込ませるようにして牙を剥き出し、前傾姿勢のまま首をもたげて空を見上げる。


「くそぉッ、敵襲かよ!」


 突き刺さるような空気。ほんの僅かに遅れて気づいたリューナも急いで立ち上がった。


 右腕に意識を集中させて左手を添え、びゅんと振り下ろすように虚空を鋭くいだ。その右手には、いつの間にかひと振りの長剣が具現化され、握られている。


 魔力マナがかりそめの形を与えられたものではない。魔導特有の青と緑の光がリューナの腕より取り出したその長剣は、通常のものより長く重量のある、本物の抜き身のやいばであった。トルテの父テロンより贈られた、リューナの為だけに鍛えられた業物である。


 高く低く渦巻くように鳴り響き、空を覆い尽くさんと荒々しく広がった音は、幾つもの不気味な羽ばたきと腹を空かせた捕食者たちのときの声であった。


 リューナの腕に、尋常ならざる力が籠もる。意識せずとも喉奥から紡がれてゆく魔術の言葉がふたつ立て続けに唱えられ、魔法語ルーンとして具現化されてその効力を現した。


 魔導の力を得てなお魔術として発動させることを好んでいる、幼少の頃より慣れ親しんだ、自身の力と速さを倍増させる魔法だ。


 リューナは長剣を握る右手を回し、ひゅんと鳴らして位置を変え、眼前から頭上へ向けて構えた。


 すがめた視界の端にきらめいたのは、美しく花開くような魔導特有の光の魔法陣。同時に、力と勇気を鼓舞して気力を奮い立たせる温かな光が体を包み込むのを感じた。あえて振り向かなくてもわかっている。瞬時に具現化された強化魔法、トルテの複合魔導の技だ。


「リューナ、いつものようにですね」


「だな、トルテ」


 リューナとトルテは幼なじみだ。物心ついた頃よりそれぞれの家である屋敷と王宮を抜け出し、数々の古代遺跡に乗り込んで宝物の番人やこの世のものならざる幻獣、手強い魔獣たちの群れと渡り合ってきた。互いにとってこの上もない最良のパートナーであり、どんなに手強い敵と対峙たいじしようとも、ふたり揃っている限り負ける気がしなかった。


 リューナは周囲の雲海を霧散させるかのごとく堂々と剣を振り上げ、敵を圧倒させる声音を豪然ととどろかせた。


「さぁ来い! 返り討ちにしてやるぜ!」



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