エピローグ1 幸せのかたち
ソサリア王国の南半分を占める広大な大森林アルベルト。
魔獣たちの跋扈する領域でありながらも、都市と隣接し多種多様な恵みを与えてくれた森。けれどいま、堂々たる古き大樹はことごとくへし折られて泥濘へ没しており、まだ燻ぶるように薄い煙をあげていた。鏡のような大河ラテーナも濁流となって散々たる有様となっている。
「すっかり変わり果ててしまったな。古代龍という、ただひとつの存在によって……」
森のなかに残る古代遺跡の階の上から、テロンは複雑な面持ちでソサリア王国南東部の光景を眺め渡していた。
「そうね……被害は計り知れないし、かつての姿を取り戻すには年月がかかるけれど」
ルシカがテロンの傍で囁くように言って、ことん、と腕に頭をもたせかけてきた。
「でも、みんなのいのちを護り、明日へとつなぐことができた。みんなの力があったから」
朝の光が地表に届き、さぁっと一気に広がった。森を照らし染めあげてゆくのは、あたたかな温もりのいろ。眼下の森全体に満ちあふれた光は、まるで再生の萌しのようだ。テロンは微笑むように表情をやわらげ、寄り添って立っている愛しい妻を見た。
ルシカもまたテロンを見ていた。彼女のやわらかな金の髪を梳くように風が吹き、すべらかな頬と瞳を夜明けの光が美しいオレンジ色に煌めかせている。ルシカはこの上もなく優しい微笑みを浮かべ、自分の肩を抱く夫の大きな手に自らの細やかな手を重ねた。
そうしてふたりは、目の前に生じている光に向き直った。あふれる朝日に負けないほどの眩い、さまざまな光を集めて重ね合わせたかのような生命そのものの白き輝きは、ゆっくりと静かに脈打つ光となって大きくなり、やがてみっつの人影になった。光が落ち着いてゆくにつれて色彩が戻り、青年ふたりと少女ひとりの姿が現れる。
「おかえりなさい、トルテ、リューナ」
ルシカがそっと声をかけると、長い髪を揺らしながら少女がおずおずと顔をあげた。声の方向を探るように瞳が動き、ようやく焦点が合ったのだろう。
「る、ルシカかあさま……テロンとうさまっ」
たちまちあふれた涙を振り払うほどの勢いで、トルテは両親の広げた腕のなかへ飛び込んでいった。あまり動じることのない快活な少女も、このときばかりは幼女のように母親の腕のなかで泣きじゃくり、父親に優しく背中を撫でられている。
抱きしめ、抱きしめられる少女を見つめて、心底安堵したように微笑むのはリューナだ。トルテの父親であるテロンと目が合うと、どちらも頷くように黙って頭を下げた。
テロンは青年たちに向けてゆっくりと歩み寄り、リューナの隣に立っているもうひとりの翼ある青年に向けて言った。
「君がグローヴァー魔法王国の飛翔族の王、ディアン殿だね。トルテから話を聞いていたよ。私が父のテロン・トル・ソサリアだ」
差し出された手を握り返しながら、ディアンがはにかむように微笑する。落ち着いた面差しの青年で、なるほど、王としての威厳と責任感を備えている立派な若者だな、とテロンは思った。背後で、ルシカがこちらの様子を見て微笑んでいるのが気配でわかる。
「王国はもう解体されております。光栄です、トルテ殿の父君とお逢いできるとは、夢にも思いませんでした。ここが僕たちの時代から数千年も経った未来だなんて――」
僅かに上気した顔で言葉を続いていたディアンを遮るように、明るい声が割って入った。兄クルーガーだ。
「まァ、互いに堅苦しいことは抜きでいこう。歓迎するよ、ディアン」
「と、国王が言っているのだから、そういう方向でいこうか」
テロンは冗談めかして片目を閉じ、親しげな微笑みを青年に向けた。「それがいいな」とリューナが同意しながら笑い、男たちの笑い声につられるように、トルテもいつの間にか笑顔になって近づいてきていた。その娘の後ろに立っている女性に気づいたディアンが、瞳を輝かせて緊張に頬を強張らせ、背筋を伸ばして腰を折る。
「あなたがルシカ殿ですか。話はハイラプラス殿から伺っています――現生界でも数えるほどしか現れていない、偉大なる万能魔導の遣い手『万色』の魔導士だと」
「偉大なるってところはあやしいけど。あぅ、どうしてあたしのときだけ緊張するのよ。それにしても、嬉しいなぁ。一気に魔導士の仲間が増えちゃうなんてね。――ねっ、ウルもそう思うでしょ? いろいろ愉しいお喋りができそうだもの」
ルシカが朗らかな笑い声をたてながら横を向き、ほっそりした腕を差し伸ばした。ディアンがつられるように横を向き……死角になっていたのだろう、その相手に気づいて「うわっ」と叫び声をあげた。階の上にある遺跡の高さをものともせず、『海蛇王』がもたげた巨大な頭を近づけていたのだ。
ウルルゥルルゥー!
「どうぞヨロシク、ですって!」
自分の姿がまるまる映りこむほどに巨大な瞳と対面して、翼ある青年は眼を剥いて硬直してしまった。微笑ましい光景を見てテロンは安堵した。ウルも無事だ――なんといっても、頑丈で知られる魔の海域の魔獣なのだ。
「それで――ルシカかあさま、こちらの時代での古代龍はどうなったんですか?」
トルテが不安そうな面持ちで訊いた。周囲の変わり果てた森の様子を見回して、喜びに満ちていた瞳が翳っている。ルシカは笑っていた顔を真面目なものに変え、こくんとひとつ頷いたあと、ゆっくりと口を開いた。
「古代龍とは夜明け前に勝負がついたわ。それでこれから、すべてのことに決着をつけるため、ザルバーンの地に――」
そこまでルシカが言い掛けたときだった。ドダダダダダ、と凄まじい足音とともに突進してきた男が、言葉の続きも雰囲気も粉砕せんばかりの勢いで割って入ったのである。
「リューナッ! てンめえぇぇぇぇぇッ。何日も無断で家を飛び出したままシャールに心配かけやがって! 親に心配かけてただで済むと思うなよッ!!」
「うわッ、親父!」
階の下にいたメルゾーンが、最上階まで一気に駆け上がってきていたのであった。その背後で「あらあら」と言いながら、いつもと変わらぬほんわりとした笑顔のシャールが立っている。
リューナは慌てて身を翻し、ポカンと口を開けたまま硬直してしまったディアンとマイナまでをも巻き込んで追いかけっこを繰り広げたのであった。
「んもう、メルゾーンのせいで間に合わないかと思ったわよ」
「うるせぇ、魔力を賦活させる魔石をいくつか渡したんだ、それで勘弁しろっての!」
賑やかな遣り取りをさすがにそろそろ諌めなければ、とテロンは苦笑していた。だが、これほどに凄まじい光景を目の当たりにして、いつもの掛け合いが繰り広げられているのは、正直ありがたいのかもしれないな、とも思う。
テロンたちはルシカの魔導の力により、フェンリル山脈の秘境ザルバーンの地に移動したのだ。ティアヌとリーファも同行を希望したが、冒険者たちへの対応や都市周辺の片づけをディドルクに頼まれ、そちらのほうに尽力していた。周辺都市を含めた復旧や事態の収拾には、王宮やミディアルの都市管理庁が直接出て事に当たっている。
目の前に広がっているのは、見るも無残なほどに変わり果てた霊峰ザルバーンの麓の景色だ。巡る季節のほとんどを雪に覆われ、この夏の季節にだけ雪を消して不毛の大地をあらわにしていた場所ではあったが、それよりなお悄然たる荒地と化していた。
白雪を抱き天空へと突き出された剣のごとく堂々とした先鋒もすでに無く、山岳氷河に覆われた雄大な眺めも跡形なく失われている。そこに広がっていたのは、まさに天変地異の跡であり、冥界さながらの混沌たる有様だ。大地は穿たれ亀裂が走り、その隙間からは溶岩流が不気味な輝きをみせている。肌寒かった気温は、うっすらと汗を生じるほどに上がっていた。
「『打ち捨てられし知恵の塔』の前に設置された『転移』の魔法陣が無事だったのは、幸運だったというわけか」
テロンの何気ない言葉に、クルーガーが微かに顔をしかめて応えた。
「いや、わざとだろう」
「……わざと?」
「この周囲だけが無事なのは、古代龍の意図が絡んでいたに違いない。塔そのものを失いたくない理由もあったのだろうが、我々がここへ飛べる魔法陣まで無事残していたのは、おそらく待っていたからだろうな」
「あっ……そうですね。古代龍が言っていました。テロンとうさまとクルーガーおじさまがザルバーンの地に偵察にやってきて――」
トルテはそこまで語り、ハッと眼を見開いて言葉を切った。瞳いっぱいに涙を浮かべた少女の傍にリューナが駆け寄り、その肩を抱き支える。
「大丈夫だろ、トルテ。ほら、現実にはそうはならなかったんだから」
テロンは娘の蒼白になった表情と、自分とルシカをちらりと見たときの視線で、トルテたちがたどり着いていた未来で何が起こっていたのかを理解した。クルーガーも同じことに気づいたらしい。
「つまり――いや、最後まで言わないほうがいいか。そういうことだったのだな。あのときルシカが俺たちを止めてくれたことで、俺たちは命拾いをしていたわけか」
「魔法王国末期の『時間』の魔導士ハイラプラスがトルテたちに残したメッセージがなかったら、あたしだって止めていたかどうかわからないわ。彼は古代龍の考えを見抜き、打開するためのきっかけや方法をいくつも用意していた、としか考えられない……」
「大魔導士ヴァンドーナ殿のような力を持っていた人物が、過去にもうひとりいたということか」
「そうね。もうひとりいる、ということになると思うけれど」
ルシカは人さし指の関節を唇に押し当てながら瞑目した。深く考えを巡らせるときの彼女の癖なのだ。そんな一行の様子を眺めていたメルゾーンは、腕を組み、片足の先で地面を叩きながら不機嫌そうな声をあげた。
「どうでもいいが、さっさと動かねぇと足に根が生えちまいそうだ。その何とかってぇ魔導士も助けに行ってやらねぇとなんだろうが」
「隣国タリスティアルの飛翔族の魔導士、よ」
ルシカが言葉を補完した。
「魔導士……? 飛翔族の、ですか?」
それまで足もとばかりを見つめて瞳を伏せていたディアンの顔があがる。彼はどこか別の場所――あるいは時間――に心を飛ばしているかのように無言のまま一同に付き従っているのみであった。だがメルゾーンの言葉を耳にして、瞳に年齢相応の輝きが戻りかけている。
「大事な相手を探しているのかい?」
テロンが青年に声をかけると、薄赤い瞳が驚いたように彼を見あげた。
「何故わかるのです?」
「同じ想いを、知っているからだよ」
テロンは微笑しながらそう言った。焦燥の思いに落ち着かなくなっていた青年の眼が、落ち着きを取り戻したかのように穏やかに細められる。
「はい。でも僕、彼女は……きっとどこかで無事でいると信じています。もしかしたら僕との想い出も記憶も残っていないのかも知れませんが……いつか、いつか巡り逢ったのならば――」
デイアンが言い掛けたとき、ルシカが声をあげた。
「感じたわ! まだうっすらとだけど意識がつながっているから。こっちのほうから感じる。無事でいるけれど、不安と疲れで憔悴しているみたい。すぐに向かいましょう!」
テロンがディアンと会話をしている間に、古代龍から逃れて身を隠していた魔導士の行方を探っていたらしい。クルーガーが頷き、その方向へと進んでいける安全な足場を探るべく、さっそく先頭に立って進みはじめる。ルシカが続いたので、テロンもすぐに歩き出した。その後ろにマイナ、ディアン、シャールとメルゾーン、トルテとリューナが続く。
朝日があまり上へと進まないうちに出立してきた一行であったが、進むにつれて足もとの影が短くなっていた。見上げると、太陽の位置から昼が近いことがわかる。
足場を探るのはテロンのほうが心得ているので、兄と先頭を代わっていた。クルーガーは後方に遅れはじめたマイナに手を貸してやっている。
思えば昨夜の戦いからずっと動きっぱなしで、みな休む暇さえなかったのだ。とはいえ、助けを求めている少女が待っている以上、一番疲れきっているはずのルシカですら立ち止まろうとは言わないであろうことはテロンにもわかっていた。
「ルシカ、あまり無理はするなよ。いざとなれば俺の背に乗ってくれ」
「うん。ありがとうテロン。でも平気よ」
予想通りの答えに、テロンは思わず微笑した。さりげなく彼女の腰に腕を回し、足もとの危険な場所を越えさせてやる。
「それに、目指す場所はもうすぐだわ」
ルシカが言葉と同時に指を上げ、前方の岩塊を差し示した。頭上から降りそそぐ陽光の強さにテロンは眼をすがめるようにして、岩がいくつも積み重なっているかのような箇所を見つめた。
「不思議な岩だな。自然に形成されたものではないようだ。しかし、ひとの手で為しうる光景とも思えないが」
「魔力が濃くなっている場所ですね。奥にとてつもなく古い何かがあるみたいです」
クルーガーに手を支えられながら亀裂を跳び越えたマイナが、テロンとルシカに追いついて言った。ルシカも乱れた呼吸を整えつつ頷いている。
まるで幼い子どもが平べったい石を積み重ねて作った塚か崩れかけた遺跡のようにみえる岩塊は、近づくにつれてかなりの大きさであることがわかった。
「中央に大きな空間がある。何かの気配があるようだ」
テロンは仲間たちに告げ、慎重に足場を探りながらその場所に降りていった。クルーガーが腰に提げた魔法剣をすぐに抜き放てるよう気を張りつつ、それに続く。足場の悪さに煩く騒いでいたメルゾーンも、その場の雰囲気に押されて黙った。
どこかでしゅうしゅうと鋭い音が上がり、空気は高温で揺らめいている。魔法の遣い手たちは濃い魔力の流れを感じ、戦いに慣れた者たちははっきりと『死』の気配を嗅ぎ取った。
赤い炎と黒き影に揺らめく広く平らな洞穴は、浅くはないが深くもない位置に広がっていた。入り口が広かったので、天空からの光も底まで充分に届いている。
なので、そこにあった光景を、誰もがしっかりと見極めることができた。一行は息を呑んだ。
「な……古代龍ッ!!」
「ここまでもうたどり着いていたというのかッ?」
ディアンが、マイナが、シャールとメルゾーンが口々に叫び、ゾッと身を震わせた。
「いえ、違うわ。あたしたちが対峙していた相手とは、違う」
ルシカが静かな声で言いながら、そっと首を横に振った。テロンはつまずきかけた彼女に手を貸し、ルシカとともに目の前の龍に歩み寄った。――正確にいえば、『龍であったもの』に。
落ち着いてよく見れば、それはすっかり骨になっていた。巨大な頭部、虚ろにぽっかりと開いた眼窩、並び立つ白い鍵盤のような肋骨、そして半ば埋もれている尾や脚の連なり――。差し込む光の筋に埃が舞い、礫岩の積もった床のひび割れた箇所から吹き上がる蒸気以外には、何ひとつ動くもののない空間。ただそこに、白骨化した巨大な龍の屍が横たわるのみ。
「どういうことだ……同じような龍がもう一体居たってことなのか?」
「確かに違う個体みたいですね、リューナ。ほら、全体的にちいさいですし」
「すでに骨になってから、相当な年月が経過しているみたいだね……」
未来世界にて古代龍との戦闘を経験しているリューナ、トルテ、ディアンの三人は、白骨化しているその龍を並ぶように立って見上げている。クルーガーは注意深く骨の周囲を歩き回ったあと、仲間たちに向けて口を開いた。
「確かに、俺たちが戦った古代龍とは別の個体だ。だが、もう一体居たとは驚きだな。それにこの龍は性別が異なっている」
「クルーガーの指摘の通りね。この龍はあの古代龍と同じ種だけれど、太古の昔にすでに死んでしまって、この通り骨になってしまったんだわ。始原の存在、神と並び称される種族のひとつ……人里を遠く離れた秘境の地で化石や形跡が発見されることはあるけれど、そもそも今回の古代龍のように活動していること自体が極めて珍しいことなの」
ルシカが語りながら、ゆっくりと骨の連なりに沿って歩く。頭蓋だけでも彼女の背よりは高さがあるが、確かにその顎は古代龍のものよりちいさいようだ。もしこの龍が生きていたとしても、ルシカを丸呑みになどできはしないだろう――心に浮かんだ光景を打ち消すようにテロンは眼を閉じ、こぶしを握り締めた。
そして眼を再び開いたとき、それが視界に入った。頚骨の傍で差し込む光を浴びて目を惹いている、半ば床の礫岩に埋もれた球状の物体だ。
「何かあるな。――不思議だ。人工物とは思えないのに、きれいな形状をしている」
テロンは歩み寄り、かがみ込んだ。彼の行動に気づいたルシカが傍にきて、同じように覗き込む。ルシカが手を伸ばして触れようとしたので、テロンは同じように手を伸ばして先に触れ、危険がないかを確認しながら積もっていた砂埃を払った。
心遣いに気づいたルシカはテロンと視線を合わせて微笑し、それから詳細にその球を調べはじめた。すべらかな表面であるが冷たくはなく、持ち上げようとすると重くはなかったが均衡が悪い。中身というものがあるのならば、片寄りがあるようだ――そこまで考えて、テロンはハッとした。ルシカも同時にその考えに至ったのであろう。オレンジ色の瞳を見開いている。
「ルシカ。これはおそらく――」
「ええテロン。おそらくこれは、『卵』なんだわ」
その声が聞こえたのであろう、仲間たちがふたりの傍に集まってきた。
「卵? まさか古代龍のですか。生きて……いるんですか?」
ディアンに問われたルシカは、魔導の宿る瞳を慎重に凝らした。
「そうね……何とも言えないわ。この洞穴内はさまざまな濃さの魔力が入り混じった場所だから、ちょっと言明できない」
ルシカの言葉に、魔導士である者たちは周囲を見渡して頷いた。魔導士ではないテロンには魔力の流れを視覚で感じることはできないが、不可思議な空気のようなものが満ちているのは何となく理解できた。感じる気配が卵のものなのか、周囲からの影響に過ぎないのか――確かにそのような状況では、はっきりと答えることができないのも無理はないと思われた。
「持ち帰り、調べてみる必要があるかも知れな――」
テロンはふいに言葉を切った。背筋を駆けのぼる冷たい感覚があったのだ。敵意と殺気が入り混じったようなもの――その気配と息遣いを感じたのである。
「気をつけろ、みんな!」
叫ぶと同時に、テロンは頭上を振り仰いだ。頭上の入り口から見えていたはずの空は巨大なものに塞がれ、光が遮られて洞穴の床が暗く陰る。テロンはクルーガーとともに仲間たちの前に素早く進み出て、『聖光気』を、魔法剣を構えた。彼らの横に、リューナも腕先に愛用の長剣を生じさせて駆けつけている。
だが、魔導士であるルシカは動じていない。テロンも気づいた。
「古代龍は……死に掛けている」
発せられたクルーガーの言葉通り、巨大な体躯はすでに正視に耐え難いほどに深く無数に傷ついていた。その魔力と体力が生命を維持できるほどに残っていないだろうことは、説明されなくても瞭然であったのだ。
テロンは思い出した。瀕死の状態であるにも係わらず、古代龍はほとんど残っていない翅を打ち羽ばたかせ、この大陸一広大かつ高峰揃いのフェンリル山脈を越えてきたことを。
戸惑うテロンの横を、やわらかな金色の髪が通り過ぎた。
「ルシカ」
いまにも止まりそうな呼吸を続けている龍の真下まで、ルシカは落ち着いた足取りで歩み進んだ。テロンが妻を案じて腕を伸ばしかけるが、ルシカは肩越しに振り返り、穏やかな微笑を夫に向けた。まかせて、危険はないから――彼女の瞳はそう言っている。テロンは頷き、構えを解いた。
グウゥゥ、グルウゥゥゥ……!!
古代龍は虚ろな瞳のまま、穴に巨大な頭部を差し入れた。隣で兄クルーガーや他の仲間たちが踏み出そうとするのを、テロンが腕を掲げて制する。仲間たちはテロンの表情とルシカの後ろ姿に視線を往復させ、ゆっくりと武器を引いた。だが、テロン自身はルシカの後ろ姿から視線を外さずにいた――何が起こってもすぐに駆けつけられるように。
ルシカ――『万色』の魔導士は恐れ気もなく背筋を伸ばし、その無防備な姿を古代龍の眼前に晒したまま、ゆっくりと左腕を天へと伸ばした。
その手には箱があった。ルシカは右腕で宙に円を描き、ゆるやかな動きでさまざまな色合いの光を生じさせていった。光は駆け奔り、ほっそりとしたからだを囲むように美しい立体魔法陣として組みあがってゆく。魔導によって具現化された魔力の風が函を取り巻くにつれ、函は外側に開かれて一枚の平らかな存在になり、消え失せた。内部に納められていた美しい石が現れる。
「あれは……『時』の魔晶石か!」
『時空間』の大魔導士ヴァンドーナの手に成る比類なき魔法の品、純然たる魔力の結晶。脈動するように凄まじいほどの光を発し、周囲を明々と照らし出す。魔導の瞳をもつ者は殊更に、持たぬ者もその光量に耐えかねて、各々の腕をあげて瞳をかばった。ルシカから目を離さなかったのはテロンだけだ。
「復活を望まれし刻、儚くも過ぎ去った遠き記憶を――ここへ再現せよ!」
ルシカの発した『真言語』が空間に響き渡り、『時』の魔晶石は光そのものへと変化した。光は集い、ふわりと解け広がって、周囲のすべてを呑み込んでいく。眩くも慈愛と温かさに満たされた光のなか、テロンはその光景を自分の瞳ではっきりと視たのである。
――始原の世界を。




