8章 運命の選択、時の翼 6-24
時は少し遡り――。
リューナとディアンを正面門に降ろした金色の魔導航空機は、大空に舞い上がっていた。ゆっくりと油断なく旋回しながら、子どもたちが戻ってきたときのために待機しておける場所を探していたのだ。
「ねぇ、あなた。あの子たちは、あんな警備の厳重な場所へ……。あまりにも無謀だったのではないかしら……」
ルミララが喉に絡まるような声でそう言った。見送ってからというもの、危ないからベルトを締めていろとラハンが言っても聞かず、立ったり座ったり、非常に落ち着かなげな様子が続いている。
「だが他に方法がないのだ……! 仕方ないだろう」
心配するあまり、ラハンは幾分きつい声で妻に応えてしまった。ハッと気づき、すぐに「すまん」と口を動かす。操縦席のすぐ後ろに座っているルミララから、ほんわりとした微笑みが返ってきたのがモニターに映る。
「いいのよ。あなたも心配で不安なんですものね……」
ルミララは優しげな声音で言い、シートの背もたれを掴みながらラハンの傍に歩み寄った。夫の肩にそっと手を添える。
「そう……ラスカも帰ってくると良いのですけれど」
ルミララが瞳を伏せて悲しげな声で囁いたとき、グラリと機体が揺れた。悲鳴をあげた妻を思い遣る余裕もない。ラハンは額に汗をにじませ、がたがたと均衡を崩し斜めになりかけた魔導航空機を必死で立て直そうとした。高度が急激に下がった時の、背筋がぞわりと撫でられるような感覚が数度あったのち、何とか機体を安定させ、ラハンは息をついた。
「城の外周辺の魔力の濃度が上昇しているようだ。それでこの機の増幅装置が影響を受けたらしい」
傍らで何とか転がらずに無事でいてくれた妻に視線を向け、ラハンは言った。正面モニターの片端に表示されているゲージがぐんぐんと上がり、もうほとんど振り切れてしまいそうになっている。どう考えてもただ事ではない。ふたりは蒼白になった顔を見合わせた。
「まさかあの子たちの身に……」
「それはまだわからないが……む!」
「どうしたのです?」
「上のほうで不思議な光が放出されている。やはり何かが起こったようだ。行って……みるか?」
「ええ!」
ルミララがすぐに頷く。その心配そうな表情を見たラハンは、すぐさま機体を上昇させた。
城の上層にまわると、ふわふわと白い光の粒のようなものが舞い踊っている光景が眼前に広がった。ちりちりと、ふわふわと、まるで光の洪水のように輝く大気が渦を成している。ラハンはまた落ち着かなくなりはじめた機体の操縦桿を細かく動かしながら姿勢を保ちつつ、モニターいっぱいに映し出されている状況を眺め渡した。
城の最上階はきれいな円のかたちに整えられており、平らな広場になっていた。ほぼ全面に赤く光る筋が引かれ、複雑な紋様が隙間なくびっしりと描かれている。どうやら魔法陣のようだ。その規模は凄まじく広大であり、城全体の大きさからみても相当に重要なものであることが窺える。
「あなた、これはもしかして……!」
「うむ……情報をくれたソナンの最後の報告にあった魔法陣かも知れん」
狼狽した妻の言葉に応えたあと、ラハンは厳しい面持ちで、モニターに映し出されたその光景を仔細に観察した。
魔導の技を実際に行使したり魔力の流れを視覚的に見ることができずとも、魔法に関する知識には自信があった。漠然とした情報ではなく実際に眼にしたことで、ひそやかに造られ管理されていたという魔法陣が何の魔法を具現化するものであるかを、ラハンははじめて知ることができた。
「間違いない。これは別次元に繋がる『道』を開くためのものだ。わたしたちはこの現生界そのものを破滅させるものだと予想していたが……すごい規模だな。まさか生身のまま別次元に抜けるつもりなのか、シニスターは」
「でも、これほどの規模の魔法陣を発動させるために必要な魔力を、いったいどこから調達するつもりなのでしょう。いかにあのシニスターといえども、自分の魔力だけでは足りそうにないけれど……」
「……まさか……いや、そんな」
自分の恐ろしい推測に、ラハンが信じられないというように首を振る。だが、それがすぐに肯定されることとなった。彼は自身の体に起こっていた異変に気づいた。操縦に必死で頓着していなかったが、鼓動が乱れたまま戻らないのだ。意識までもが翳みはじめている。自分の内部を満たしていたものが奪い去られるような喪失感に、ラハンはぞっと身を震わせた。
「生き物を構成している魔力ごとすべてを吸いあげるつもりか……シニスター!」
魔法陣を取り巻く渦が光を強めた。ルミララがぐらりと倒れかける。ラハンは咄嗟に彼女の腕を掴み、支えるようにして倒れるのを防いだ。そのラハン自身も苦しさに耐え切れず肩で息をしている。
「あなた……あの魔法陣を破壊しましょう!」
ルミララが言った。呼吸を乱しつつも、モニターに映る魔法陣をひたと見つめ、決然とした口調で。同じようにふらつきはじめた夫の肩を支えるように腕を回して。
互いに支えあうふたりが見つめる魔法陣は、いまや完全に発動していた。その魔法陣と呼応するかのように、城の背後に屹立している紅玉のごとき結晶体が光り輝いている。見る者が魔導士なら、その巨大な結晶体こそが、増幅の魔石として機能していることに気づいたであろう。
離れているエターナルの都市から橋でも架かっているかのように白い光が連なって空を渡り、渦に巻かれて魔法陣に吸い込まれるように消えてゆく。その光が何であるのか、もうラハンとルミララにははっきりと理解できていたのである。
「ひとびとの生命そのものが……止めなくては、いますぐに!」
「よし……やってみよう! わたしたちは魔導士ではないが、できることはあるはずだ」
ふたりは力を合わせ、ぐらつく機体を立て直した。機首を魔法陣に向ける。ラハンは人造魔導による魔法攻撃を、巨大な魔法陣に撃ち込んだ。
炎の攻撃魔法が命中し、衝撃と爆風が吹きつける。あおりを受けた機体は上空に舞い上がり、ラハンとルミララは期待を込めて眼下の広場を見下ろした。
けれど魔法陣には傷ひとつついていない。ラハンは失意のあまり呻き声をあげ、握りしめたこぶしをモニターに叩きつけた。そのとき広場へと繋がる城の内部から、ひとつの人影がまろび出てきたのがモニターに捉えられたのである。
「何てことだ……」
ラスカは片手を顔に押し当て、もう一方の手を壁につきながら延々と階段を上り続けていた。悔恨にも似た想いが、彼の心に亀裂を生じている。さらに全身の力が奪い去られるような感覚が追い打ちをかけていた。
「指導者などと冠されていい気になっていた……だが、俺すらもシニスターにとっては意味のない傀儡らと同じほどの価値しかなかったいうことなのか。こんなことなら……こんなことなら!」
血の繋がらぬ妹に特別な想いを寄せていたのは事実であった。だが、両親の関心を集める彼女に次第に嫉妬するようになり、さらにあとから現れたディアンに妹が恋心を寄せていることを知って、凄まじい憎しみに駆られたのである。彼は家族のもとを去った。愛ゆえの憎悪で、彼はエオニアを古代龍に売ったのだ。
しかし彼には自ら拒絶した家族以外、拠所がなかった。保身と理想をすり替えるようにして、自分の気持ちを誤魔化してまでここまで進んできたというのに。
「その結果が……これかッ!」
吐き捨てるように叫び、自らを嘲笑するように口の端を歪めたとき、ラスカは爆発音と衝撃に気づいた。瞳をあげて階段の上に向けると、澱んだ視界に出口らしき光が見えた。もうすぐそこだ――ラスカは崩折れそうになる膝を励まし、何とか最上層の広場へ到達した。
そこで、ラスカは信じられない光景を目撃した。
「まさか……そんな! 我らは本当に捨て駒だったということなのか」
発動した魔法陣が、ラスカ自身の生命である魔力を容赦なく汲み上げているのを、いまやはっきりと理解したのである。失意に意識までもが翳み、もはや立っているのがやっとであった。
「何てことだ……このままではヤツ以外の生き物がすべて消滅するぞ。誰かが……あれを破壊せねば……!」
魔法陣はただ一箇所を断ち切られただけでも、その魔法効果を消失する。重要な部分を破壊することができれば、全体の構成要素を乱し発動を食い止めることができるのだ。
ラスカは慎重に魔法陣の要所を見極め、自らが携えていた銃火器を撃ち放った。結晶のような石床が爆ぜ、破片が飛び散る。だが――魔法陣そのものを断ち切ることはできなかった。穿たれた穴より深く、魔法陣は描かれていたのだ。
「クソッ! こんな小さな銃では駄目か――ぐあッ!」
もう一度銃口を魔法陣に向けたところでラスカの腕に衝撃が奔った。銃を取り落とし、彼はその場にうずくまった。撃たれたのだ――ラスカは呆然と周囲を眺め渡した。広場のあちこちに、ラスカより強力な銃火器を構えた兵たちがいる。その手にしている武器はすべて、彼のほうに向けられているのである。
「おまえたち……何をしている? 破壊すべきはここに描かれている魔法陣だろうッ! このままでは皆死ぬぞッ!!」
だが、ラスカの悲痛な叫びは兵たちには届いていなかった。すべての武器が、まるで示し合わせたように同時に、機械的な手つきで次弾を装填したのである。カチリ、という音が奇妙に揃ったこだまとなって城とその背後にある巨大な結晶体に反響する。
「――クソッ!」
もはや何もかも終わりか――ラスカは瞳を閉ざそうとした。一斉に発射された無骨な金属の弾は、けれど彼に届く手前で阻まれることになった。
「ラスカあぁぁぁっ」
自分の名を呼ぶ声が聞こえたような気がした。同時に、目の前に巨大なものが割り込んだ。金色の魔導航空機――見紛いようがなかった。父の所有している、型遅れの機体。咄嗟の無理な降下で浮力を確保できず、半ば墜落というかたちになりながらも、ラハンは息子の危機にしっかりと間に合ったのである。
「とうさん……かあさん?」
半ばへしゃげた機体の上部がひどく軋みながらも開かれた。互いを支えあうようにして出てくるふたりの姿を見極めて、ラスカが驚きと安堵に眼を見開く。相手のふたりもこちらを見つめていた。
「ラスカ……!」
つんのめるように父と母が息子に駆け寄る。飛びつかれるように抱きしめられ、その懐かしい感触に不本意にも涙が溢れそうになった。ラスカは驚いた――母はこんなにも小さく細かっただろうか、父はこれほどまでに皺深き面であっただろうか。
「ここに来たらあんたたちまで巻き添えになる。殺されるぞ! なのにどうして……俺を!」
「当たり前でしょう! わたしたちの大事な宝、わたしたちの息子――」
ルミララは頬を濡らしたままにっこりと微笑み、優しく彼の髪を撫でた。愛おしそうにもう一度息子を抱きしめる母を、その息子ごと父ラハンが大きな腕で抱きしめる。
だがそのときにはすでに、彼らの周囲は兵たちがすっかり包囲していたのである。
「すまない。おまえたちを護れないわたしを……どうか許してくれ。あの魔法陣が発動したいま、もはやわたしたちの生命は終わるだろう……この世界もろとも」
ラハンが噛みしめた歯の間から嗚咽交じりにそう言い、家族を抱きしめる腕に力を籠めた。
息子ラスカは驚愕と戸惑いに眼を見開いていたが、やがてゆっくりとその潤んだ瞳を微笑ませた。この上もなく安堵した幸せそうな表情で眼を閉じ、涙の粒をひとしずくだけ落とした。そうして彼は背筋を伸ばし、ゆっくりと眼を開いたのである。
「いや、とうさん。できることはあるだろ」
ラスカは迷いのない声音できっぱりと言った。息を呑む両親を自らの腕で抱きしめ返し、静かな口調で言葉を続ける。
「俺はただの贄になって終わるのはまっぴらごめんだ。このまま終わるくらいならば、この魔法陣を破壊してやろう」
「そうしたいが……さきほど攻撃を試みたが、駄目だったのだよ……ラスカ。もはやわたしたちに打つ手は残されていない」
「方法はある。諦めたらそこで終わりだ。前にそう教えてくれただろ、とうさん……!」
息子の言葉に励まされ、父の瞳にみるみる力が戻ってゆく。ラスカが何を考えてるのかも、ラハンはすぐに正しく理解した。
傍らには、増幅装置の欠陥ゆえに生産中止となった金色の魔導航空機、そしてその向こうには、シニスターの魔導によって収束されつつある膨大な魔力の渦――。
「俺とあなたなら、できる。そうだろ?」
「あぁ、おまえの言う通りだ。推進装置が一瞬でもいい、動けば、この広場ごと破壊するくらいの大爆発は起こせるはずだ」
「動けば、じゃない。動かすんだ。さあ……やろう!」
眼と眼とを見交わし、男ふたりはニヤリと微笑んだ。腕と腕をがっしりと組み合わせ、健闘を誓い合う――まるで家族揃って暮らしていた頃を彷彿とさせるように。
ふたりの腕に、たおやかな手が添えられる。ルミララだ。
「あなたたちとわたしは一緒ですよ。だって……」
夫と息子――彼女が愛おしく想っているふたりに向けて、妻であり母である女性はこの上もなく優しい顔でにっこりと微笑んだ。
「わたしたちは、家族ですもの」
「リューナ」
呼びかけられたリューナが眼を開けると、すぐ目の前にやわらかな光に満たされたオレンジ色の瞳があった。現生界に存在するもののなかでもっとも暖かな色彩のひとつ、昇りたての太陽がはじめに照らす地表の温もりのいろ――。
さらさらと輝き流れる金色の髪をもつ少女は、匂いたつように華やかな笑顔をそっと咲かせ、彼の首に腕をまわしていた。周囲では白き魔導の残滓がゆるやかな風のように取り巻いており、まるで春の雪のごとく煌めきながら静かに消えゆくところであった。
トルテの無事な姿に心底から安堵し、リューナはトルテを力いっぱい抱きしめた。
「トルテ! もうダメかと思った……ほんとに、無事で良かっ……」
嗚咽を堪えて少女の細い肩に顔をうずめるリューナの耳もとで、トルテが広い背を優しく叩きながらゆっくりと囁く。
「あたし、大丈夫です。リューナの癒しの力が、みんなを助けてくれたの」
「どこも何ともないのか? 傷は?」
体を離したリューナは、彼女の身体を確かめて呆然となった。衣服は焦げ裂かれてひどく破れていたが、きめ細かな白い肌には何の跡もない。ハッと我に返ったリューナが慌てて自分の上着を脱ぎ、トルテに着せかける。
「リューナ……すごいよ、君は」
驚きと賞賛が入り混じったような声が耳に届き、リューナは顔をあげた。ディアンとエオニアが寄り添うように立っている。ふたりとも痛むところなどひとつもないようになめらかな動作で、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「君の魔導の名は、『生命』だったんだね」
「俺の、魔導……?」
「『完全治癒』――最上位魔法のひとつで『生命』の魔導士の専用なんです。おそらくシャールおかあさまの血脈に、その力をもつ魔導士がいらっしゃったのだと思いますわ」
トルテの言葉で、リューナはようやく理解した。いましがた致命傷を負っていたトルテの傷を塞ぎ、魔導の技である通常の『治癒』では賦活できぬはずのディアンたちの気力や体力、失った血までも元通りにした圧倒的な力が、リューナ自身の魔導によるものであったのだと。
思い返せば文字通り過去にも同じことがあった。メロニア王宮に隣接している庭園で倒れていたトルテの命を繋いだのは、そのときには秘められたままであったリューナの力が、彼女を救いたいという必死の想いに応え、無自覚のうちに発動していたのだろう。
「そうだったのか……。いや、力がどうとかより、俺はトルテが――ディアンたちが助かっただけで満足だよ」
リューナは己が内に流れる血に感謝の言葉をつぶやき、自分を見つめる視線を感じてトルテを見た。その瞳に映る自分の顔に決意をしっかりと見定め――リューナはゆっくりと立ち上がった。
「あとは、決着をつけるだけだ。運命が選択するのはどちらのほうなのか――俺たちと古代龍の」
トルテが心得顔に頷き、胸に併せた両手を祈りのかたちに組んでリューナと真っ直ぐに視線を合わせる。
「リューナは決して負けません。あたし、リューナを信じています」
「ああ。俺はおまえの信頼に応えてみせる」
リューナは自信たっぷりの口調で請け合い、表情を引き締めた。傍らの床に転がっていた長剣の柄を握り、ひゅんと回すように軽やかな動きで手もとに引き寄せ、ゆっくりと眼前に構える。
リューナの視線の先で立ち上がるのは、揺らめく炎さながらに燃え立つオーラを纏った巨体。絶望に打ちひしがれて床に突っ伏していたはずの古代龍だ。ぎりぎりと噛み合わせる顎からは藍色の血が滴り落ちている。
――我が望みは潰えた……。無力で愚かな捨て駒に神界へ至る『門』を破壊され、道を完全に断たれるとは。何たる侮辱、何たる屈辱……何たる絶望ッ!!
始原の龍は、狂気めいた輝きを瞳に宿し、ずん、と床を踏み拉いた。その全身全霊から凄まじい殺気を放っている。まるで世界もろとも道連れにしようと意を決したかのように。
――儚き願いの片割れ、魔法王国の愚かな忘れ形見よッ。さぁ、最後の勝負といこう……!
「望むところだ!」
リューナが剣を手に突っ込む。跳び、斬りかかり、鞭のごとく叩きつけられる尾をかわし、長く鋭い剣を振りかざす。龍は魔法陣を次々と展開させつつ、周囲もろとも吹き飛べといわんばかりに破壊魔法を踊り狂わせた。床に亀裂が走り、弾かれた魔法が天井まで駆けのぼり穴を穿つ。
トルテが魔導の技を行使し、エオニアと自身を魔法障壁で包み込む。ディアンは空中から龍の急所を狙うが、リューナと龍の激しい戦闘ぶりに追いつけず、手が出せないでいた。そのうち天井から次々と梁や砕け割れた結晶が落ちてくるようになり、ディアンは仲間たちを護るために落下物を魔法で打ち砕くことに専念しはじめた。
古代龍の打ち振るった尾の一撃がついにリューナの体を捉え、床に叩きつける。砕け割れた床石の欠片に赤いものが散り、龍が凄まじい形相で嗤う。
ディアンとエオニアが悲鳴をあげて彼の名を叫んだ。
けれどトルテだけは何も叫ばなかった。ほんの一瞬、痛みを感じたかのように息を止めただけ。澄んだ瞳を信頼の光で満たしたまま、起き上がる青年の背をただ静かに見守っていた。
「俺は、負けるわけにはいかない」
リューナは立ち上がっていた。世界で一番好きな女の子の前で、カッコ悪いところは見せらんねぇぜ――口もとを手の甲で無造作に拭う。深海の色彩をもつ瞳が焔さながらに燃えあがり、魔法陣もなしに駆け奔った白き光が、全身の傷を瞬く間に癒し塞いでゆく。
「俺の望みはただひとつ」
熱いものが胸を満たし、腹の底から途方もない力が湧きあがってくるのを感じる――トルテが健やかで笑顔でいてくれるなら、それを護るために俺は生きる!
――滅されるのはキサマらのほうだあぁぁぁッ!!
古代龍が片腕を虚空に滑らせる。その動きに合わせて魔法陣が次々と展開される。だがリューナはそれよりも早く床を蹴り、龍に向けて跳躍していた。
「てやぁあああぁぁぁぁッ!!」
古代龍は巨大な眼を見開いた。魔法陣を織り成す魔導の光が宙に閃くよりも先に、リューナの剣は古代龍の首の付け根――心臓に迫っていたのである。
大量の魔力を内に収束し溜め込んだ龍の心臓は、もはや目くらましなどに惑わされないほどに強く光り輝いていた。リューナの剣が狙いを外すことなく正確に、脈動する龍の中心を刺し貫く。
龍の視線が一瞬、剣を突き立てた青年の視線と交わった。
リューナは見た。凄まじいほどの怒り、驚愕、そして悲哀――手にすることを許されなかった憧れへと向かう切望の入り混じった闇が、シニスターの瞳の奥でいまなお燃え盛っているのを。
「……観念しろ、古代龍。あんたの野望は、この時代よりずっと過去に断たれているはずだ」
――グボッ。認め……んぞ、われは……死す……けに……は。
血泡を吐きながらつぶやいて、古代龍はついに事切れた。巨躯がぐらりと傾ぎ、そのまま倒れて盛大に床を砕き割る。
リューナは剣を引き抜き、仲間たちの傍に戻った。涙を浮かべて駆け寄ってきたトルテを抱きしめ、リューナはようやく息を吐いた。
「終わったんですね、リューナ。きっとあたしたちの時代でも――あっ。見てください、リューナ。古代龍のなかに巡っていた魔力が溶け消えるように……とうさまたちの光もいつの間にか見えなくなっています」
トルテの声に導かれるように、リューナは古代龍を見た。天井や床の建材である砕け散った紅石色の結晶に半ば埋もれるようにその巨体が横たえられている。見つめている間に古代龍は光の泡となり、あるはずのない風にそっと吹き払われるように舞い散り、煌めきながら消滅してゆく……。
「……きっと、時の流れが変わったんだ。うまくいったんだと俺は信じてる」
「はい。それにしても……古代龍、何だかとても哀しそうでした」
「そうだな。アイツももしかしたら、世界の何より大切だと思う願いがあったのかもしれないな……」
リューナはトルテを抱きしめる腕に力を込めた。
古代龍の消滅とともに、周囲の光景が変化しつつあった。色粉を水に溶かしたときのように世界の色彩が混じりはじめ、上下の感覚が消え失せる。耳には低く高く多様な音や騒めきが聞こえ、熱く冷たくさまざまに温度の変わる風が肌を掠めるように吹き抜けていった。
ディアンは背中の翼を半端に開いたまま、妙に厳粛な面持ちで自分たちを取り巻く光景を見回している。腕にはエオニアを抱き支えていた。
「ディアン……ごめんね」
腕のなかからの幽き声に、ディアンが驚いて視線を向け、悲痛な叫びを発した。リューナとトルテが弾かれたように視線を向けると、ディアンが抱き支えていたエオニアが霞むように消えゆくところであった。まるで周囲の光景と同じように――元に戻ろうとする時間と事象に引きずられるように、体が輪郭を失っていく。
「でも……これだけはきっと変わらない。あなたのことを、愛しているわ」
エオニアははっきりと言い切った。ディアンは必死の形相で首を振り、もはやどうしようもなく透き通っていく彼女の頬に手を伸ばす。
「エオニ……」
ディアンの両手は、ただ静かに虚空を包み込んだ。声なき声をあげてディアンが涙を流す。
かける言葉もなくリューナとトルテが宙を泳ぐように彼に近づき、三人は互いの腕や肩を抱きしめ合った。周囲の光景は、もはや色の変化を見極めることも難しいほどに目まぐるしく変化し、渦のように彼らを取り囲んでいる。狭まってくる光の奔流に彼らが互いを護るように身を寄せ合ったとき――。
「憂えることはありませんよ、ディアン」
虚空に響き渡った声に、弾かれるように三人ともが一斉に瞳をあげた。それは懐かしい声だった。
「ハイラプラス殿ッ? 無事だったんですね! でも、どういうことです?」
「彼女は無事です。ここで過ごした時間が消滅したことで未来が修正されただけ。それから……トルテちゃん、リューナ。ここまでよくたどり着いてくれました」
「その声……ハイラプラスのおっさんか!」
リューナは周囲に視線を走らせたが、人影などはまったく見えなかった。渦巻く色彩は三人に触れそうなほどに近づいており、すぐにも自分たちを呑み込んでしまいそうだ。
だが声は落ち着いたままで、ほんの僅かに不本意そうな気配を伴って先を続けた。
「おっさんではないのですが、まぁいいでしょう。トルテちゃん、時の魔晶石を持って来てくれましたね?」
「あ。はい!」
トルテの元気の良い返事に、まるで微笑みかけるようにゆったりとした雰囲気が広がる。
トルテは魔晶石を衣服の隠しから取り出した。彼女の小さな手のひらに乗るほどの大きさだが、とてつもない魔力が蓄えられていることが見て取れる。
「この未来は虚構、実現されなかった泡沫の夢――この時間軸に繋ぎとめていた古代龍の意志が断ち切られたことで、すべての事象が正しき方向へと修正されます。あなたたちは、それを造った魔導士の存在する次元へと飛ぶことができますよ」
「待ってください! ハイラプラス殿、いったいどこに――」
声はそれ以上応えなかった。代わりに魔導の光が駆け奔り、トルテの手のなかにあった魔晶石がするすると解けるように白い帯状の光となって、繭のごとく彼らをしっかりと包みこんだ。
光はさらに膨れあがって左右に伸び、かたちを成すと、まるで翼のように羽ばたいた。水鳥が飛び立った湖面さながらに波紋となって広がった魔導の残滓が薄れると、あとには何も残らなかった。
「わたしが託した『時の翼』はひとつではありません。あなたたちはすべて、しっかりと受け取っていてくれたようですね」
『時間』の魔導士がそっと微笑んだ気配がして、混沌と光が渦巻いていた次元はふわっと溶けるようにすべてが消滅した。小さな、小さな囁きを残して。
「ではまた、後ほどに――」




