8章 運命の選択、時の翼 6-23
合流を果たしたリューナたちは、魔法陣の描かれた円形の大広間まで戻った。そこから古代龍の居る最奥まで一気に進むつもりだった。
青年ふたりが先に通路から飛び出し、身構えて油断なく周囲に視線を走らせる。待ち伏せを警戒していたのだが――奇妙なことに人影ひとつ、罠の気配ひとつ見受けられない。
「どういうことだ……?」
リューナは訝しげにつぶやき、長剣をぐるりと回すようにして手もとに引き寄せた。通常の剣の倍近くある長さと重さをもつ剣だが、使い慣れているので取り回しに不都合を感じることはない。だが、いま重く感じたのは気のせいか――いや違う、この空間を満たしている空気こそが重く息苦しいのだ、とリューナは気づいた。まるで嵐が来る前の濃密な湿気の渦中に封じ込められたかのように。
「あら、静かですね。みなさん揃って何処かへ行かれたのでしょうか」
トルテが緊張感の欠片もない口調で言い、ちょこんと小首を傾げた。
ディアンとエオニアは釈然としないらしく、互いの眼と眼を見交わしている。不安げな面持ちでエオニアが口を開いた。
「おかしいわ。すんなり通されるとは思えない。兄さんの姿も見えないし……」
「奇妙だね。さっき押し通ったときにも、すごい数の兵たちがいたのだけれど。ここは放棄されたのかな? 待っててくれれば僕が偵察してくるよ」
そう言ったディアンが、背中の翼を広げようとした。
「いや、待て!」
リューナは鋭く叫んだ。首筋がチリチリと痛むような感覚に気づいたのだ。肌に突き刺さるような殺気と凄まじい魔導の気配が近づいてくる。それはまるで昨夜の奇襲のときに生じたものと同じ感覚――。
「古代龍だ……シニスターが来る!」
再び油断なく剣を構え、リューナが入り口から真っ直ぐ奥へと続く通路のほうに視線を向ける。仲間たちもあえて問うことはしない――自分たちもはっきりとした敵意を感じ取ったからだ。
「来るなら来い、みんなのカタキだ。ぶっ潰してやるぜ!」
リューナの低い声に、トルテが、そしてディアンとエオニアがしっかりと頷いた。
しゅおぉう……、しゅおぉう……、という生き物が発する呼吸のくり返しが近づいてくる。この大広間を目指して進んでいるのだ。それに伴い周囲の温度も上昇している気がする。だが、背に感じるのはぞくりとするほどの悪寒だ。勝てるのか、という懸念が脳裏をよぎる。昨夜には凄まじいまでの力の差を見せつけられたのだ。
トルテが素早く空中に腕先を滑らせた。瞬時に組みあがった立体魔法陣が仲間たちを包み込む。幾つもの強化魔法を複合的に具現化したのだ。
体を包み込むあたたかい光に、リューナは励まされたような想いがした。乱れかけていた気持ちが静まり、体の奥底から力が湧きあがる。
ふいに凄まじいほどの魔力の光が放たれ、四人の網膜を焼いた。通路の闇のなかから古代龍の巨体が現れたのである。その全身に流れる魔力の総量と強さは尋常ではない。こちらの頭蓋をビリビリと震撼させるほどに圧倒的な思念が轟き渡る。
――その『従僕の錫杖』は我の物だ!! 力弱き者どもよ、持ち去れるとは思うなよ……!
「エオニアは誰の所有物でもない!」
ディアンが彼女を背にかばい、雄々しく叫ぶ。
リューナは隣に立つトルテの震えに気づいた。揺れる瞳が、シニスターの巨大な体躯を見つめている。理由はすぐに思い当たった。その巨躯に流れている魔力の輝きだ。父や母たちの光――。彼は剣を構えたまま前に進み出た。自分の姿が彼女の視界に入るように。
「トルテ、俺を信じろ。あれは現実じゃない。間違った未来なんだ」
静かな、だが戸惑いなど微塵もない声音でリューナは言った。背筋を伸ばし、古代龍に真っ向から対峙する。
「俺たちで正してやろうぜ!」
「リューナ……。はいっ、そうでしたね!」
トルテの声が応えた。彼女がしっかりと頷いたのがわかる。微笑んだのがわかる。リューナは息を吸い、眼前の仇を睨めつけた。
「行くぞッ!!」
リューナは床を思い切り蹴った。龍に真っ直ぐに剣を向け、突っ込んでゆく。剣を大きく振りかぶって龍の真正面に跳んだ。その背後でトルテとディアンが魔導の準備動作を開始する。
古代龍シニスターが城全体を揺るがせるほどの凄まじい咆哮をあげ、ドンと尾を振るって床を叩きつけた。ニタリと嗤い、ずらりと並ぶ牙口で舌なめずりをする。その前脚である腕がピクリと動き、自らも魔導の技を行使するべく仁王立ちになる――。
運命を決する、この時代での最終決戦がはじまった。
リューナの眼前で、古代龍はかっぱりと牙の並ぶ顎を開いた。
血色の口蓋、濡れ濡れと光る乳白色の牙が隙間なく並び、硬い表皮と鱗が軋る音がする。常闇に続いているのではないかと思われた虚ろな喉の奥に、駆け上がってくる紅蓮の炎が見えた。空中にあるリューナの体は格好の的となる――はずであった。
リューナはさらに上へと跳び上がっていたのだ。龍の巨大な鼻先を蹴り、さらに跳躍する。龍は驚き、その動きを追おうとした。
その瞬間、古代龍の巨躯が複数の魔法陣に囲まれた。足もとはトルテの放った『足止め』、そこからさらに魔力の鎖が延びるようにぐるぐると全身を絡め捕らえたのである。そしてディアンの放った魔法は『魔法封印』、これで古代龍の攻撃は封じられたも同然であった。
「ヘッ! 舐めんなよ。俺たちが何の手も打たずに挑んでくると思ったか!!」
リューナが叫び、剣を下へ向けて構え直す。そのまま落下の勢いで、古代龍の首の付け根にある龍の心臓を刺し貫いた。
――ぐはぁおおおおおッ!!
古代龍は咆哮を発した。その牙口からゴポリと藍色の血が溢れてくる。リューナは床に無事降り立ち、どうだと言わんばかりに頭上の龍を見上げた。
だが、そのまま倒れるかと思われた龍はぐらりともせず、あろうことか落ち着いた仕草で腕先を宙に滑らせたのである。魔法陣が描かれ、どくどくと流れていた首からの血が止まる。貫かれて裂け割れた鱗が、元通りの鏡めいた表面となって煌めいた。
――ふっ。ふはははは! これは愉快だ! 我にそのような考えが読めぬと思うたか。いま貫かれたのは我が心臓ではない。隣の臓器だ。目くらましに惑わされおって。
悔しそうなリューナたちに向け、古代龍は嘲笑するような思念を叩きつけた。さも可笑しそうに、牙の並ぶ口を器用にニヤニヤと嗤わせて。
――小童どもの賢しらな思いつきなぞ、我にはすべてお見通しだ。ククク……。
「リューナ! 上を見て。天井の魔法陣と床の魔法陣、赤く輝いている!」
ディアンが叫んだ。リューナが天井を見上げ、トルテは床を見た。どちらも描かれた文字や引かれた線の全てが光っている。正体不明の魔法陣が、いつの間にか発動していたのだ!
「これは……どこかに増幅の魔石があります! すごい力だわ。外から、膨大な魔力がシニスターにどんどん流れ込んでいる」
トルテが珍しくも震える声で言った。
「だから封印術がすぐに破られてしまったのですね。しかもこの魔力は……ああ、何てことなの!」
――そこの『虹』の力もつ魔導士、甘しそうな娘よ。そう……おまえは気づいたか。我は魔導を統べるもの、魔力とはすなわちこの時空を満たし、さまざまなカタチとして創造されたすべての存在の根源。そして生命そのもの。我はここで願いを完遂させるため、この仕掛けを組み上げたのだ。この現生界の生命がすべて我が物となるとき、我が願いは果たされる!
「な……どういうことなんだ?」
リューナは問うた。返される答えが怖ろしいものだという予感はあったが、確認せずにはいられない気がした。その問いを耳にしたディアンが口を開く。
「つまり……生きとし生けるものすべての魔力を効率よく集め、自分のなかに送り込むためにこの魔法陣を用意していたということらしい。けれど生き物のもつ魔力を吸い上げようなどと……できるわけがない。生き物はそれぞれ生存する本能を持っている。その本能より強く、完全に操られでもしない限りは……」
そこで言葉を切り、ディアンが後ろを振り返った。完全に操るための方法――その手段が、たったひとつだけあることに思い至って。その手段を体の内に持ち、自分がいま最も大切だと思っている娘の無事を確かめようとしたのだ。
「エ、エオニアッ? まさかそんな!」
「う……く……でぃ、ディアン……」
エオニアは彼に向けて、震える腕を差し伸ばしていた。呼吸もままならぬほど苦しそうに胸もとを掴み、膝はいまにも頽れてしまいそうだ。その胸の奥で赤く血潮のようにどくどくと脈動している眩い輝きは――。
「『従僕の錫杖』!」
「そんな……いつから発動を!」
倒れかけるエオニアを支えるため、ディアンが彼女に駆け寄ろうとする。
だが、ディアンの伸ばした腕は虚空で弾き返されてしまった。凄まじい魔導の力の放出が、近寄るもの一切を圧倒しているのだ。まるで見えない壁が張り巡らされているかのように。
いにしえの魔法王国、魔人族の王ラミルターが造り出した『従僕の錫杖』。その強大な力は『完全なる支配』と『蹂躙』だ。
――その翼ある娘は『万色』の力と同じ希有なる存在、『解放』の名をもつ魔導士だ。古来より、『封印』の力を持つ者が多く生まれる飛翔族のなかに、ごく稀に相対する力として生まれる者がいる。我は待った、待ち続けた。すべての条件が揃うとき、悠久の時を経て、ようやっと叶えることができる。
古代龍は虚空を見つめ、陶然と言葉を続けた。
――我は神々の世界へと生身のまま到達するのだ。失われた生命を冥界より呼び戻せるほどの力を得るのが我の望み。世界ひとつぶんの魔力をもって我も神となる。並び称されるだけの存在ではなく、全き神の一員としてな……!
「神になる……だって?」
リューナは笑おうとした。莫迦げた思いあがりだと、笑ってやろうとした。けれど繋がったままのトルテの意識を通して、リューナも理解してしまったのだ。
古代龍の語ったことが、夢物語ではないことを。
『次元』を開く魔法陣、近くにあるはずの増幅の魔石、そして途方もない量の魔力があれば――。魔力は『従僕の錫杖』によって全世界の生命の源を肉体から解放して集めることができる魔導士、エオニアがもたらしてくれる。
――そして想定外の余禄も我が目の前に差し出された。生まれながらに次元転換の力をもつおまえを得れば、我が計画はより完全なものとなろう。
古代龍が、ねっとりとトルテを眺め回した。ずらりと牙が並ぶ巨大な口もとを舐め、顎の骨を軋らせている。あろうことかトルテまで喰らい、取り込むつもりなのだ!
トルテはぐっと顎を引き、腕を開いたまま、見上げるほどに巨大な相手をせいいっぱい睨みつけていた。オレンジ色の瞳のなかに白き魔導の輝きが現れている。
いまさらながらにリューナは気づいた。トルテが魔導の力を行使していることに。錫杖の影響が自分たちまで及んでいないことに。トルテが眼に見えぬ障壁を張って、リューナとディアンをしっかりと護ってくれていたのである。
だが今、魔導の力を行使しているトルテは、完全に無防備なのだ。
「ふざけんなッ!!」
リューナは激昂した。剣を真っ直ぐに構え、突っ込んでゆく。だが、圧倒的な魔力を体内に蓄えつつある古代龍の魔法障壁の堅牢さは、予想を遥かに凌駕していた。
リューナは声をあげる暇もなく、固い床に叩きつけられていた。強かに背中を打ち、肺から空気がすべて押し出される。
「ならば僕だッ! エオニアを好きにはさせない!!」
ディアンが床を蹴った。その腕に魔導の輝きが生じ、冴え冴えとした青に輝く剣が具現化される。他の魔導の技と交換にリューナから伝授されていた『物質生成』だ。魔導の剣が光の尾を引きながら障壁を切り裂き、真っ直ぐに古代龍の体躯に迫った。
だが、その攻撃は届かなかった。
「グッ……!」
ディアンの呼吸が停止する。
リューナとトルテがその光景に眼を見開いた。古代龍の鋭く尖った爪が、翼ある友人の体を完全に貫いていたのだ。
「ディアンッ!!」
エオニアが悲鳴をあげた。そして次に響き渡ったのは拒絶の叫びだった。
「い、やああああぁぁぁッ!!」
エオニアは声を限りに叫び、気力を振り絞った。脈々と発せられていた血色の光が乱れ、不規則な明滅をはじめる。次第、次第に『従僕の錫杖』の輝きが弱まっていく。彼女の意志の力が、宝物の力を押さえ込みつつあるのだ!
古代龍の体内に流れ込んでゆく魔力が途切れつつあるのをリューナは見た。彼はその隙を逃がさなかった。剣を片腕で構え、空中高く跳躍したのだ――友人を救うべく。
――ぐあッ、ああおおおお!! おのれえぇぇぇッ!!
古代龍が苦悶の叫び声をあげた。思念だけではない、この広大な城全体を揺さぶるほどに凄まじい咆哮だ。リューナがディアンを救うため、龍の腕先を力任せに切断したのである。
彼はその腕に友人の体を抱え、床に降り立った。すぐに幼なじみの魔導士のもとに走り寄る。
「トルテ、頼む!」
「はい!」
リューナからディアンを託され、トルテは『治癒』の魔導の技を行使した。複数の魔法陣を同時展開できないため、錫杖からの影響を減じるための障壁を消したのだが、いまはエオニアが錫杖の力を封じてくれている。
ディアンの傷が癒され、どくどくと流れていた大量の出血が止まった。けれど意識は戻らない。『癒しの神』の司祭が使う神聖魔法くらいに高位なものでないと、失った血や体力まで賦活することはできないのだ。
リューナによって次々と穿たれた傷に、古代龍はぐらりと姿勢を崩した。ずん、と壁に手をつく。宝石めいた美しい内壁にビシリと醜い亀裂が生じる。藍色の血が流れ、その高熱にしゅうしゅうと音を立てながら、しとど床を濡らしてゆく。
――グウゥゥッ、こんなところで終わりにしてたまるか! 我には為さねばならぬことがあるのだ。おまえらなんぞに邪魔はさせん。そうだ……その娘が瀕死であろうが、生きていさえすれば錫杖の魔力は失われぬッ!
古代龍の残った片腕から雷撃が飛んだ。エオニア目がけて虚空を引き裂き、真っ直ぐに――凄まじいほどに高められた魔導の力に束ねられ、鋭いひと振りの槍のように。
リューナは剣を構えて再び龍へ突撃するタイミングだった。後ろへ戻り、彼女を救うには距離がありすぎた。間に合わない。
だがその瞬間、エオニアの前にすべりこんだ小柄な影があった。振り返ったリューナは己が眼を疑った。そして叫んだ。
「――トルテェェェッ!」
文字通りの盾となり、トルテはその体で古代龍の放った一撃を受け止めたのだ。
胸に突き立った紫色の雷撃は、トルテの胸を大きく穿っていた。だが後方のエオニアまでは届いていない。自分の体と意志の力で、全てのエネルギーを完璧に遮ったのだ。
トルテが僅かに瞳を動かした。苦痛というよりむしろ悲しみの表情に凍りついたままに。
リューナと眼が合うと、彼女の小さな唇が震えるように動いた。だが、一言も発せられることなく――トルテの体は力を失って床に倒れ伏した。
そのときちょうど遥か頭上から轟音が響き渡った。
ズズウウゥゥゥンン……!
くぐもったような爆音とともに城がズサズサと揺れ、天蓋から細かな埃が降り落ちてきた。天上を振り仰いだ古代龍が、断末魔の悲鳴とも聞き紛うような凄まじい怒声を発する。
エオニアが力尽きたように床に崩折れた。彼女に外傷はない。息もしているようだ。
だが、トルテは――トルテは?
リューナはつんのめるようにしてトルテの傍まで駆け寄った。
背後では、あまりの喪失感に打ちひしがれているような面持ちで、古代龍がうずくまるように床に伏していた。低く低く、唸るような軋るような声をあげ続けている。それが嘲笑なのか苦悶なのか――だがリューナは龍のことなど見てはいなかった。
変わり果てた少女の体を抱き上げると、我知らず大粒の涙が零れた。護ると誓った、世界の何よりも大切な存在。リューナは生まれて初めて、喪失というものに直面したのであった。
「トルテ――逝くな。俺はおまえが隣に居ねぇ世界なんて考えらんねぇんだぞ……」
俺のなかにある魔力も生命そのものだというのならば――リューナは細やかな体を抱きしめたまま、祈るように想いを強めた。どうかトルテを救って欲しい。もう一度この娘とともに歩きたい、ともに話したい、ともに泣いて、笑っていたい……!
ぎゅっと閉じた目蓋、闇に沈んだ意識の片隅で、ふと、白い光が閃いた。深く深く瞑目していた真っ暗な視界が、爆発したように真っ白な世界に染め上げられる。
「トルテ――?」
誰かに抱きしめられているような感覚に打たれたかのように、リューナの意識が体に戻った。頬に、唇に、やわらかな温もりがあった。優しげな微笑とともに、夜明けとともに地表に溢れるあたたかな色合いが自分の瞳を見つめている気がした。リューナはゆっくりと目蓋をあげた。
そしてそれは、決して夢ではなかったのである。




