7章 夢幻都市と龍の居城 6-21
金属と石の質感が入り混じった壁はなめらかとはいえず、接合された箇所は尖った部分も多く危険であり、油断はできなかった。手足を使い、低くした姿勢のまま這い進みはじめて、どれほどの時間が経ったのだろう?
「んしょ、んしょ……ふう」
トルテは小休止として息をつき、腕と脚を僅かながら伸ばして強張った筋肉の痛みを和らげた。
指先にできた幾つもの切り傷に、そっと息を吹きかける。肘に巻いた保護パッドが視界に入り、トルテは思わずほんわりと微笑んだ。薄桃色の可愛らしい手織りの生地を使ってあるそれは、ルミララが手縫いで作ってくれた品だ。限られた時間のなかで、細かな手作業をする余裕など充分になかっただろうに――トルテの胸が温かくなる。
「ルミララさんに感謝しなくちゃ、ですね。これがなければ、腕も脚も血まみれになっていたかもしれませんから」
瞳を伏せ、自らを元気づける意味も込めて感謝の言葉をつぶやく。
とりあえず侵入してすぐの広い場所で、自分に向けて強化魔法を行使しておいたトルテであったが、疲労は避けられなかった。発見される危険を冒してまで、魔導の技を使って傷を治すわけにもいかない。無数の痛みと、緊張と警戒にドキドキと高鳴る鼓動とが、トルテの気力と体力を削ぎ取っているのだ。
加えて息が詰まりそうなほどに狭い空間――通風と換気のために造られた無骨な通路内である。トルテは脳裏に描いている立体地図と捕らえられているエオニアのことを想い、それらのことに意識を集中することで前へ、前へとひたすらに進み続けていた。
「ラハンさんとルミララさんが、そしてディアンが……あんなにも想っているんですもの。エオニアさんはきっと無事ですよね」
心配に逸る気持ちを静めつつ、道筋を決して間違えないよう確実に這い進む。
幸いにも通路自体は頑丈な造りで、隠密行動に慣れていない彼女が移動しようとも、へこんだり割れたりして音を立てる心配はなさそうだった。ただ所々に、何処かの広い廊下や部屋へと開いている場所があって、ひとの話し声が聞こえる箇所もある。そこを通過するときだけはできるだけ慎重に手足を進め、神経を使わなくてはならなかった。
「ルシカ……かあさま……テロンとうさま……」
どこまでも続く単調な通路と薄闇のなか、黙々と這い進むトルテの心は、いつしかぼんやりと記憶の糸をたどっているのだった。
古代龍シニスターのなかを流れる魔力の輝き、そのなかに見えた気配あるいは面影のようなもの。やわらかに渦巻く魔導の色彩や金色と青の脈動する渦。昨夜見た光景が今もずっと、瞬きをするたび閉じた目蓋の裏にちらちらと映りこんで消えなかった。
トルテが思い出す両親はいつも、優しい微笑みを浮かべてふたり仲良さそうに寄り添っていた。幼いトルテが振り返ると、いつもそこには見守ってくれている父と母の笑顔があった。その安心感、その温もり、愛され大切にされているという満ち足りた気持ち。それらがあったからこそ、トルテは前向きで探究心と冒険心に溢れる、芯の強い少女に成長したといえる。
ふたりはトルテに、大切なひとを護るための力や知識を教え伝えてくれ、この生命と惜しみない愛を与えてくれた――。
ポタリ、と微かな音を立てて落ちた水滴に気づき、トルテは睫毛をぱちぱちと瞬かせた。いつのまにか手の甲が、落ちた涙で濡れて冷たくなっている。
「とうさま……かあさま。どうか生きていて……」
心の祈りを言葉にしたことで、どうしようもなく涙が溢れた――そのとき。
トルテ……、と名を呼ばれた気がした。涙の落ちた手に、覆いかぶさるような温もりを感じた気がして、トルテは瞳を上げた。意識の片端に映像として結ばれたのは、いつも身近にいて自分を支えてくれている青年の、こちらを案じ元気づけてくれる笑顔。
「うん……だいじょうぶ」
眼を閉じて青年のことを想い、トルテは微笑んだ。手はもう冷たくない。トルテはひとつ頷き、きゅっとこぶしを握りしめた。体を伸ばすこともままならないほどに狭い通路を、再びゆっくりと、だが確実に前へ前へと這い進みはじめる。
「ありがとうリューナ。がんばるね」
それからかなり進んだ場所で、ふいにトルテは耳をそばだてた。聞き知った声が聞こえたからだ。
間違いない――トルテは確信した。目の前に見えている分岐の左方向から聞こえてくる。トルテの脳裏にくっきりと描かれている立体地図でも、目指す部屋が近いはずであった。
息を潜め、出来る限り自分の魔導の気配を隠しつつ慎重に進んでいく。ほの暗かった狭い通路に、光が差し込んでいる。トルテは埃っぽい穴から外を見た。自分の進んできた道が間違っていなければ、ここが目指している場所のはずだ。
そこは部屋になっていた。広さは予想より狭いながらも、飾り気のないテーブルと椅子があり、明るい空間が広がっている。窓はない。光は魔法によって灯されたもののようで、天井から降りそそいでいる。トルテが移動してきた換気孔も天井にあり、その部屋を見下ろすかたちとなっている。
「ディアン……おかあさん、おとうさん。もう一度会いたかった……」
その悲しげな声を耳にして、トルテは思わず声をあげかけた。危ういところで口を閉ざし、視線を巡らせる。部屋の隅がもぞりと動いた。膝を抱えるようにしてうずくまっている影――薄桃色の髪、背中をやわらかに覆っている純白の羽毛。
エオニアだ。間違いない、目指す場所にたどり着いたのだ!
トルテの瞳に、彼女の体の内の魔導士特有の魔力の流れが見える。それとともに胸に光が反転したような影が見えていた。だがその他に、損なわれたり失われている箇所はない――トルテは安堵した。エオニアに怪我はないようだ。
そっと身を乗り出し、トルテは穴を塞いでいる格子に指をかけた。力を籠めてみるが、ガタリとも動かない。どうやら容易には外れてくれそうにないらしい。
「エオニアさん!」
トルテが小声で呼びかけたそのとき、丁度のタイミングで部屋の扉が開かれた。トルテの声は扉の軋む音で掻き消されてしまう。
エオニアは顔を上げ、涙に濡れた瞳に警戒のいろを込めて立ち上がった。扉から部屋に入ってきた相手を見て、叫ぶようにその名を呼んだ。
「ラスカ兄さん……!」
トルテが息を呑み、自分の口を手で押さえつつ気配を押し殺そうとする――いまはマズい、気取られる訳にはいかない!
「兄さん、どうかお願い……シニスターの言うことを聞くのはやめて! あいつはこの世界の全てに何の感情も抱いていない。ラスカ兄さんもおとうさんたちも、みんな殺されてしまうわ!」
「父も母も、もはや関係ない。俺は俺の遣り方でこの世界を救ってみせる」
エオニアは自分より背の高い人間族の兄の腕を掴むようにして詰め寄っていた。けれど兄であるラスカは動じていない。エオニアが必死の表情で言葉を続ける。
「わたしを差し出しても、あいつに約束なんて守るつもりはないのよ。古代龍に惑わされないで! あいつは敵なのに。おとうさんもディアンも、あたしのなかに封じられていたこの力が――」
「黙れエオニア!! 俺から何もかも奪ったくせにッ」
そこではじめてラスカの表情が変わった。あまりの激昂ぶりに、エオニアの言葉が途中でぷつりと途切れる。
「にい、さん? 何のことを言っているの……奪うなんて、わたしは何も」
飛翔族の娘は呆然とつぶやいた。兄を見つめたままゆるゆると首を振り、言葉を続けようとする――。だがその瞬間、激痛に襲われたように胸を押さえ、息を詰まらせてしまう。
『従僕の錫杖』に繋がれた心臓が、彼女の鼓動を乱したのだ。トルテにはその魔力の流れの異常が見えた。一時的な乱れだろうが、エオニアは呼吸すらままならなくなっている。あれでは声が出せない……!
苛立ったラスカが血の繋がらない妹の細い手首を乱暴に掴みあげ、力任せにグイと引いた。自分の胸に倒れこんできた飛翔族の娘の細い腰に腕を回し、その背にある美しい翼に指を沿わせ……次いでエオニアの顎に手をかけた。
「おまえが現れてから……父も母もおまえに夢中だ。俺もおまえのことが大切だった……なのに俺の居場所をおまえが奪ったんだ!」
エオニアの視線を力尽くで自分に向けながら、ラスカは大声でさらに言い募った。
「どうしてなんだ! 何が狙いなんだッ? おまえが俺の前に現れ、そしてアイツが現れて、すべてを滅茶苦茶にしたんだ! 俺は、俺は――」
「兄さん待って!」
エオニアは必死で叫び、掴まれた手首と顎を兄の手からもぎ離そうと激しく身悶えた。だが、人間族の青年のほうが遙かに筋力が強い。痩身で小柄である飛翔族のエオニアがどんなに暴れてもどうにもならない。
しかしラスカは、抗うエオニアの態度にショックを受けた表情になり……次いで憤怒に駆られたような面持ちになった。力任せに彼女の体をドンと背後の壁に叩きつける。
「俺を拒絶するのか――エオニア。そんなにアイツがいいのか……俺から何もかも奪っておいてッ!」
吐息がかかるほどに顔を寄せ、ラスカが押し殺した声のまま激しい口調で叫んだ。彼の父ラハンによく似たその瞳の奥に、孤独の影と寂しさの光が揺らめいている。エオニアの震える瞳の表面には、打ちひしがれた男の姿が映っていた――優しさも気遣いもすべてをかなぐり捨てた、手負いの獣のような瞳をした男の顔が。
「おまえのことをあんなにも大切にしていたのに! それなのに……あとから現れたアイツに取られるとはなッ!」
「兄さん、まさか……」
「俺はおまえを――!」
ゴツンッ!
鈍い衝突音がした。顔を触れそうなほどに接近させていたラスカの動きが止まり、エオニアは反射的に兄の胸を突き放した。
「にゅふぅ~……」
換気孔の内部で呻き声を堪え、トルテが涙目で頭を押さえていた。ふたりの遣り取りを目撃した彼女は驚愕と焦りのあまり腕を突っ張り、狭い通路の天井に思いっきり頭をぶつけたのである。
「いまのは何だ!?」
下では、エオニアに突き飛ばされたラスカがショックを受けた表情でよろよろと後退り、凄まじい表情で周囲に視線を巡らせていた。
彷徨っていた視線が、すぐに換気孔に向けられる。ラハンは腰に吊っていた小型の銃火器を外し、手のなかでカチリと音を立てた。戸惑い怯えるように身を震わせて衣服の前をかきあわせるエオニアの目の前を通り過ぎる。
自分のほうに容赦なく近づいてくる足音に、トルテは薄闇のなかで息を止め、蒼白になった。
ラスカの腕が換気孔の格子に伸ばされる。覚悟を決めたトルテの指先が、魔導の準備動作のためにぴくりと動きかけた。そのとき――。
ゴオオウゥゥゥゥウン!! 大地と大空が落っこちてきたような轟音が響き渡るとともに、突き上げるような衝撃が足もとから建物全体を震撼させた。
「うわッ! な、何が起こったのだ!」
廊下か通路になっているのだろう扉の外から、バタバタと大勢の駆け抜ける音が聞こえてきた。ラスカはくるりと踵を返し、扉を開けて大声で呼ばわった。
「おい、どうしたッ? 何事だ!」
「ウピ・ラスカさま。――敵襲です。二名の反乱者が城門を破壊して侵入、中央フロアに到達しましたので、管轄としている我々が攻撃に向かっているところです」
走っていた兵士のひとりが足を止め、律儀に敬礼の仕草をしながら事務的な口調でラスカに応える。トルテの位置から見えたその兵士の瞳の輝きは、まるで硝子玉のように冷ややかであった。紡いだ声には感情というものがまるでなく、体を流れる魔力の流れもどこかおかしい――全体に巡りが遅いのである。
「二名……? 他にも居るはずだろうがッ。答えろ、傀儡め……! えぇい、おまえらでは話にならん。俺が直接行って確かめるッ!」
ラスカは苛立たしげに言い捨てると、開いた扉の先から部屋のなかを振り返った。呆然と自分を見つめ返しているエオニアに苦しげな眼を向け、逸らすと、殊更に乱暴な手つきで扉を閉めた。
ガチャリ、と錠を下ろす重たげな音が響き渡り、腹立たしげな様子の足音が遠ざかっていった。
エオニアが床に泣き崩れる。
「エオニアさん、エオニアさんっ!」
トルテは今度こそ、彼女の名を呼んだ。彼女の肩がびくりと撥ね、顔が上がる。涙に濡れた瞳が彷徨い、ほどなくして換気孔のなかから手を振っている存在に気づく。トルテはにこやかな笑顔で格子の向こうから声をかけた。
「もうだいじょうぶですよ、ご安心くださいね。それから、この音と振動はふたりが暴れているからなんです。ディアンが、エオニアさんを迎えに来ているんですよ!」
「ディアンが――」
暗く沈んでいたエオニアの瞳に力が戻っていくのをトルテは見て、ホッと息をついた。そしてすぐに表情を引き締め、エオニアに告げる。
「危ないですから、少しだけ下がっていてください」
狭い換気孔内で慎重に腕を動かし、素早く印を結ぶ。行使する魔法は、オリジナルで調節して組み上げておいた『静寂』と『開門』の複合魔法だ。
トルテの行使した魔法を向けられ、換気孔からの出口を塞いでいた格子がぼうっと輝き、まるで紅葉した木の葉が自然に枝から離れるように、床に落ちた。落下の衝撃は床を伝わったが、音はしない。『静寂』の効果である。
「すごい……やっぱりあなたたちって、すごいのね」
エオニアの素直な感想に、トルテはにっこりと笑って応え、天井に開いていた換気孔から床にシュタッと降り立った――その途端、勢い余って前につんのめった。とても痛そうな音がして、トルテがおでこを押さえる。
エオニアは慌てて年下の少女を助け起こし――次いで吹き出すように笑いはじめた。大声を出すわけにはいかなかったので、口もとを押さえて必死に声を押し殺しながら。
トルテはほんの刹那だけ吃驚した表情をしたが、エオニアにつられるように笑い出した。ふたりの娘は床にぺたんと座り込み、低めた声のまま思う存分に笑った。
「ふふっ……ありがとう、トルテちゃん。あたしもう、何が何だかわからなくて、どうしたらいいのかもわからなくて……」
エオニアが目の端に浮かんでいた涙を指で拭いながら言った。笑い過ぎとは別の涙のようだったが、彼女もあえてそれ以上は言葉を続けなかった。
「良かったです、エオニアさんが無事で。もうすぐここにディアンが迎えに来ますから。あたしはそのことを告げに来たんです。それまでの間、エオニアさんを護るためにも!」
トルテはトンと自分の胸を叩いた。ケホン、と噎せ返った少女にエオニアが微笑み――だがすぐに表情を曇らせる。
「でもディアンが迎えにって……怖ろしいほど警備が厳重なのに。それにこの振動――」
ふたりが話している間にも爆音めいた轟音が幾つも聞こえ、床からはびりびりと尋常ならざる衝撃が伝わってくる。あえてその振動の正体を分析しなくても、大砲や破壊魔法が飛び交うさまや、柱や壁が崩れる様子など、凄まじい光景が展開されているだろうことが想像できる。
だがトルテは、ほんわりとした笑顔を崩さないまま請け合った。
「リューナが一緒にいます。だからディアンもだいじょうぶです、心配はしないでくださいね」
「トルテちゃん……」
エオニアは、僅かの揺るぎもないトルテの表情を見つめた。
「あなたはリューナくんのことを、そんなにも信じているのね」
「はい!」
「わたしは駄目……ラスカ兄さん。信じていたのに……」
エオニアは再び悲痛な面持ちで瞳を伏せ、肩を震わせた。きつく握られる彼女のこぶしに、トルテがそっと自分の手を重ねる。トルテはエオニアの両手を揺らしながら、やわらかな声で言った。
「エオニアさんは、こんなにも素直で優しいひとなんですもの。誰だって好きになっちゃいます。きっとラスカさんもエオニアさんが好きで、とっても好きだからこそ、その気持ちがこんがらがっちゃっているんです。自分でもどうしようもなくて、苦しくて……。だから――どうか許してあげてください」
オレンジ色の瞳を微笑ませ、「ね?」と首を傾げるようにしてエオニアを見つめた。
エオニアが瞳に新たな涙をいっぱいに浮かべ、ゆっくりと頷いた。
トルテは衣服のポケットから刺繍のされたハンカチを取り出し、彼女の頬に流れた涙をそっと押さえながら、心のなかでリューナに語りかけていた。
「エオニアさんはもうだいじょうぶです。リューナ、約束通りきちんと待っていますから、気をつけて来てくださいね」
おまえは動いたほうが危ないからな――ゼッタイ動くんじゃねぇぞ、迎え行くからなッ!
遺跡で罠にかかってはぐれたときに、いつも言われる台詞が耳もとで聞こえた気がして、トルテは口もとだけを微笑ませた。
けれどね――リューナには伝える事なくトルテはそっと囁いた。相手の無事を祈りながら待つほうも、本当はものすごく勇気がいることなのです。それが大切な相手なら、なおのこと……。




