5章 相容れぬ存在 6-13
リューナとトルテの存在する本来の時代、すなわち千三百年を遡った現代――。
王国の南部に位置する街ハイベルアでは、いまも必死の救援活動が行われていた。古代龍が目覚めとともに引き起こした天変地異の影響は計り知れない。隣国タリスティアルともようやく連絡が取れ、テロンは連携の取れた救援体制を整えることができた。
「いま、ひとつ懸念があるのは、膨れあがった地下水の影響だわ」
救援と避難と、古代龍が襲ってきたときの為の作戦を構築したルシカが、厳しい面持ちのまま口を開いた。ふたりが居るのは、各都市へ連絡の取れる王の執務室である。
「ザルバーンの山岳氷河が消失し、周辺の氷河湖が決壊洪水を起こすかもしれない。地形も地質も情報がなさすぎて予測がうまくいかないけれど、ディーダ湖までの住民を避難させるべきだわ」
「ザナスとハイベルアに、その為の人員がすでに向かっている。西の国境であるラテーナの源流にも。あとは……ミディアルの住民と下流域の都市だな。この王都も含めて」
「下流域に関しては、おそらく持ちこたえられると思う。もちろん楽観することはできないけれど、いまはちょうど河の流量が少ない時期だから。おととしまでに完成した堤防と側流溝もあるし……工事が終わっていて良かった。グリマイフロウ老に感謝しなきゃ」
ルシカはそこまで語ったあと、立ち上がって長い髪を片手で背に放った。
「あたしは例のものを用意するわね、テロン。図書館棟に寄ってから『転移』で飛ぶわ」
「俺も、こちらの指揮をルーファスに引き継いでから向かうよ」
主不在の執務机をちらりと見てから、テロンも部屋をあとにした。――兄貴のほうも、うまく行っているといいが。
『大陸中央都市』ミディアル。名称通り大陸街道の中心に位置し、交易の豊かなソサリアの地にあり、もうひとつの交易都市テミリアやその先の王都ミストーナへ向かう際の重要な拠点として発展した歴史を持つ。
大陸でも有数の貿易都市であり、また世界の主要種族である人間族、飛翔族、竜人族、魔人族、エルフ族以外にも、珍しいとされる少数種族も多く住んでいる。毎日大小さまざまな規模の隊商も訪れることから、滞在している人口は王都に勝るとも劣らないほどだ。
けれど歴史上輝かしい時代ばかりではなく、先々王の時代には東のラシエト聖王国との戦乱のなかにあり、交易盛んな利便性が災いして、激戦区のひとつに挙げられていた都市でもあった。
「十五年前の襲撃のとき、わたしのなかに封印されていた『従僕の錫杖』によって、多くの犠牲者を出した街でもあるんですよね……」
「君のせいではない。俺が襲撃の可能性を考慮できていれば、あれほどの被害を出さずに済んでいたかも知れないのだ」
行政区域の中央にある都市管理庁のなかで、都市を見渡せる窓に歩み寄っていた黒髪の少女が真紅の瞳を濡らし、隣に立った金髪長身の男がその肩を抱いて、さまざまな想いを映した瞳で都市を見下ろしていた。
マイナとクルーガーである。クルーガーは王衣ではなく、軽鎧を着込んで愛用の長剣を腰に帯び、マイナはドレスではなく動きやすく丈の短い衣服に身を包んでいた。ふたりが居るのは部屋ではなく、王宮からの『転移』の魔法陣が描かれた最上階のホールの一角だ。
「我らは神ではありません。事が起こる前にすべてを察知し、完璧に対処しておくなどということは不可能です。それができなかったと嘆くのは、ひとの思いあがりではありませんか」
声をかけて近づいてきたのは、『光の主神』ラートゥルのミディアル神殿の司祭であった。齢七十を数える人生経験豊富な賢人である。飾るところのないストレートな物言いが、法と正義を司るラートゥルの司祭に相応しいともいえた。
「相変わらず手厳しい、マリウス老」
「ヤンチャ坊主の頃と、国王になって落ち着いた今と、正義感の強いところは変わりないようですな」
「おかげさまで真っ直ぐに育ったと言うべきかな。それにしても市長の姿が見えないようだが――お、来たか」
「申しわけございません、国王陛下。件の品の結界を解くのに手間取っておりましたので」
ホールへ続く階段を駆け上がってきた若者が、そのままの勢いで足早に歩み寄ってきた。リヒャルディアのあとに就任したというヴァルス市長である。ひょろりとした外見であるが利発そうな眼をしていて、交渉術や頭脳が勝負となる交易都市の代表としては優秀な人物であった。手に布包みを大事そうに抱えている。
「気にするな、急だったからな。むしろ結界解除までしておいてくれたこと、助かる。魔導士の魔力は極力温存しておきたいのでな」
クルーガーたちは儀礼的な挨拶を交わし、すぐに本題に入った。
「ルシカさまより、この品に関する説明は受けております。それで――これがその魔晶石でして」
ヴァルス市長が手に持っていた布包みを慎重に開いた。ほどける布の隙間からも眼を射るほどに強い脈動する光を放つ、手のひらほどの大きさの美しい石が出てきた。あらわになった石の光に照らされて、陽光あふれているホールであってもなお、それぞれの後ろに影ができたほどだ。
「すごい……瞳が焼けてしまいそうなほど強い魔力ですね、純粋なる結晶といわれるだけあって。これが『時』の力を持つ魔晶石ですか……」
自身も魔導士であるマイナが、魔力の流れを見ることのできる瞳を保護するために手を眼前にかざしながら言った。
「『時空間』の大魔導士の遺した魔晶石。これを包んでいた幾重にもあった封印を、ルシカひとりで今朝がた解いたというのだから、あの疲れも無理はなかったのだな」
狭めた眼で魔晶石を見つめながら、クルーガーがつぶやく。保存用に残された只一枚の結界を解除するだけでも優秀な魔術師たちが手間取ったというのに、『万色』の魔導士はこの石の存在を完全に封じていた幾つもの魔法結界をひとりで一気に解放したのだから。相も変わらず無茶をしている、とクルーガーは友人の身を案じて瞳を伏せた。
「陛下――くれぐれもお気をつけて。古代龍とやらの報告は受けております。それに、これほどの魔力なのです。夜闇に輝く灯台さながら、周辺の魔獣たちの注意も惹きつけましょう。狙われる可能性があります」
さしものヴァルス市長もクルーガーの内なる想いまでは理解しきれなかったらしい。見当違いの懸念ではあったが、クルーガーはニヤリと笑ってみせた。
「魔獣に関しては問題ないぞ。こちらには優れた『使魔』の魔導士がついているからな」
クルーガーがちらりと眼をやると、マイナはハッと眼を開いて頬を染めた。その瞳が一瞬輝きを増したのを見て、彼は微笑んで彼女に応えた。そしておもむろに手を伸ばし、ヴァルス市長の手から魔晶石を受け取った。見かけに反して重量は軽い。ルシカが以前手にしていた『万色の杖』の先端に嵌まっていた魔晶石も、重量に関しては薄いガラス細工のようだと思った覚えがあった。
考えてみれば、魔力というものに質量があるのなら、魔導士として体の内に相当な濃さの魔力を内包している者たちは相応に重くなるはずなのだ。
「そうなるといろいろ困ることになるなァ」
――などと益体もないことをつい考えてしまうクルーガーであった。義妹と婚約者が魔導士なのだから、ひとごとではないので無理もないが。
クルーガーは魔晶石を普通の絹布で丁寧に包み込み、懐に入れた。大きさがあるものなので、鎧の上に着ているサーコートの内側に収めた、というほうが正しいのかもしれない。
「俺たちはこのまま布陣してある場所へ向かう。マリウス老、各神殿の状況は?」
「ラートゥル神殿の守護騎士たちは、すでに向かわせました。ファシエル神殿からも神官たちによる救護班と守護騎士たちが出ております。他の神殿は街や周辺の町村へと派遣され、王宮よりの兵たちとともに避難のための準備をはじめています」
司祭が報告し、あとを継ぐようにヴァルス市長が口を開いた。
「ミディアルの各ギルドもすでに動きはじめています。冒険者ギルドからは、ディドルク殿とリンダ殿がそれぞれ都市の外と中に冒険者の各パーティを配置したと報告を受けておりますから、都市の自治防衛隊とあわせて守りの態勢は整いつつあります」
「そうか――迅速な対応だな。先の悪夢は繰り返さぬ。そして勝利した先にもひとびとの生活はあるのだからな。被害を最小限に食い止め、犠牲者を出さずにいこう。それがたとえ理想論であってもそれに向けて尽力することはできる」
クルーガーは振り返り、窓の外を見た。すでに太陽は天頂を過ぎ、西へ西へと傾ている。
ルシカによると、おそらく古代龍はこの遣り取りをもすべて見ることになるだろうということだった。だが、相手は神ではない――たとえ並び称されようとも、決して同じではないのだ。このように主要な遣り取りをすべて目撃していても、同時に展開されている多数エリアの動向まで――ソサリア王国全土の様子までは完璧に把握できていないはずであった。
「俺たちはそこに勝機を見い出す」
ソサリアの国王は心の内で決然と囁き、傍らの婚約者であり心強い仲間である少女とともに、仲間たちと合流するために歩きはじめた。
「ルシカ」
呼ばれたルシカは『転移の間』の巨大魔法陣へ至る階の前で立ち止まり、くるりと振り返った。やわらかな金の髪が踊り、オレンジ色の瞳が曇りひとつない陽光のように煌めく。すべらかな頬には健康そうな色が戻り、いつものような元気さと快活さを感じさせた。
「テロン」
図書館棟の文官たちがかき集めてきてくれた魔晶石――ただしこちらは魔力を蓄えただけのもの――の数々のおかげで、ルシカはすっかり魔力と元気を取り戻していた。
宮廷魔導士に任命されたばかりの少女の頃より責任者を任されていた図書館棟の部下たちからも、自分が倒れてしまうまで魔導を使い続ける魔導士はよほど心配されていたらしい。集められた魔晶石はかなりの数だったということだ。目の前の愛しい相手は他のみなにも好かれているのだな、とテロンは改めて思い、胸が熱くなった。
「大丈夫よ、心配しないで。みんなの気持ちを裏切るような無茶はしないから」
テロンの想いを正しく理解しているのだろう、ルシカが首を傾げるようにしてとびきりの笑顔をみせる。テロンは頷きながらも心配そうな表情を隠せなかった。
「いいかルシカ。例の箱を見つけたら、すぐに俺たちのほうに合流してくるんだ。それ以上は何があっても、決してひとりでは行動するなよ」
「大丈夫よ、テロン。自分だけで困難を抱えこむことはしないわ。特攻もしない。ね、あたしが嘘を言ったことがあったかしら?」
「平気よ、というのはいつでも嘘っぽいんだけどな」
テロンは彼女までの一歩を詰めて妻の肩を抱き寄せ、そっと自分の胸に引き寄せた。
「……テロン」
ルシカが腕の中であたたかい息を吐き、そっと眼を閉じる。テロンはしなやかなルシカの体の感触を感じながら、慈しむようにゆっくりと抱きしめた。静かな口調で言う。
「今度の相手は今までのような敵とは違う。純然たる現生界の存在だ。魔法だけで勝てる相手ではないし、剣や拳だけで勝てる相手でもない」
「うん。みんなで協力しないと勝てない。そして同じ世界の生き物同士、互いの存続を賭けた戦いになるでしょうね……。でもまあ、邪神を相手にして戦うほうがよほど手強いと思うわよ」
ルシカが微笑み、パートナーであるテロンを見上げる。テロンは自分の顔が映りこんでいる瞳を覗きこむようにしてかがみこみ、妻の額をコツンと優しく小突いた。
「そのときの経験があるから、心穏やかではいられないんじゃないか」
「そうね、ごめんなさい」
ルシカは途端にしょんぼりしてしまった。やれやれ、とテロンが嘆息し、通常の口調に戻して口を開く。
「ところで――ティアヌとリーファには、連絡取れそうなのか?」
「ええ、おそらくは。王宮からミディアルへ向かったのは一週間前のことだもの。いまは冒険者ギルドのミディアル支部に滞在しているはずだし、こちらの連絡は伝わっていると思う。ディドルクさんやマウたちもすでに動いている頃だと思うわ」
ルシカは考えを巡らせつつ答えた。
「すぐに動かせる人材を余すことなく配備して、何とか戦力的に足りるかなというのが本音ね。『転移』できる者たちも限られているし。――でも、もし戦闘になっても、あたしたちは必ず勝たなくてはならないわ」
テロンは頷いた。
「そうだな。俺たちは民を守らなくてはならないのだから」
「そう、たとえこの命に代えても――」
テロンはぎくりとした。鼓動が乱れ、不安に瞳が揺れる。「ルシ――」と思わず呼びかけようとすると、ルシカは首を振り、瞳に力を篭めてテロンを真っ直ぐに見つめたのである。
「と、言うのは簡単だけれど……あたしは命と引き換えにする気はないわ」
濁りのない清らかなオレンジ色の瞳は、傍に安置されて輝く『転移』の宝玉の光を映しこみ、微笑むようにやわらかな光に満ちていた。
「残されるほうのことを考えると、そんな安易な方法は選べない。必ずどちらも無事で勝利すること。護るものも、そして自分も。たとえそれがどんなに困難なことであっても――決して、決してあきらめないんだって。そう教えてくれたのは他でもない、テロン、あなたなのだから」
ルシカの揺るぎない信頼を感じ、テロンのなかで不安や懸念が静まった。まるで澄み渡った湖底深くの泉のように。底深いところから温かく途方もない力が湧いてくる気がした。
「ああ。それに俺は、護りたいものがたくさんある。ルシカも、家族も、兄貴も仲間たちも、国のみんなも。すべてだ。どれひとつとして失いたくない」
「同じ気持ちよ、あなたと」
ルシカは明るい表情で言った。力強い眼差しになり、はきはきと言葉を続ける。
「そのためにも、いまは行動すること。迅速に、そして大胆に。――じゃあ、あたしももう行くね。テロン、また後で」
「こっちは任せろ。あいつは、ルシカか俺でないと話ができないからな。解除の為に無理はするなよ。また後で必ず――」
王国の護り手であるテロンとルシカ――夫婦は少しの間見つめ合い、互いに相手を元気づけるための微笑を浮かべ……その微笑の形のまま唇を重ねあった。
それからすぐに踵をかえし、それぞれの役割を果たすため――ルシカは『転移』の魔法陣へ、テロンは友人に説明するため、王都の港へと向かったのである。
古代龍は久しぶりに昂ぶる感情を感じていた。落ち着けようと努力してはいるが、逸る気持ちのためにかえって苛立ちを強めてしまう。
――まったく、あの『万色』の魔導士めが。人間族の分際で……。鉤爪のひと弾きで引き裂かれるほどやわらかな身であるくせに。
静まることのない心のせめてもの慰めにと無意識のうちに前脚で掻き抉った大地は、すでに見る影もなく爆ぜ割れており、あまりの手応えのなさにかえって憤りを煽るのであった。
――乗り込んでくると思うたソサリアの王どもが来る気配もなく、魔導士どもも国土のあちこちに散って何やら不可解な動きを……ぬううぅぅぅッ!
鼻から噴出された灼熱する息が礫岩を溶かしている間にも、古代龍は白色矮星にも似た瞳を下界に向け続けている。体の内に取り込んだはずの『時間』の魔導の力が、何故かまったく役に立たなくなっていることも解せなかった。
加えていえば、願いを叶えるための柱たる娘を取り逃がしてしまったことも相当な誤算であった。腹立たしいことに、それも『万色』の魔導士が要らぬ入れ知恵をしたからに違いないのである。
いまや、すべての歯車が狂いはじめていると認めざるをえない。
――我の眼を誤魔化すことができると思っているわけではあるまいな。あの石の行方を暗まそうとでもいうのか?
そう吐き捨てた途端、古代龍は唸り声をあげて眼を狭めた。ふいに、無視できぬほどに強い輝きが閃き、彼の瞳を突き刺したのである。どうしても手に入れなければならない品を見出し、そこに否応なく心が吸い寄せられていく。
――ほほぉ、その石を持って何処へ行くというのだ、ソサリアの王よ。我に差し出すというのか、それを餌に我をおびき出そうとでもいうのか、はてさて。
ズン、と大地が震撼した。古代龍が立ち上がったのである。ただひとつの願いは事象の涯にて叶うはずなのだと信じ、永劫にも等しい年月を生きてきた始原の龍が。
――すべてを焼き払い、地の淵に呑み込ませてでも、我は必要なものを手に入れる。真なる意味での『神』となり、我は到達するのだ、次元の極みに。
龍は瞑目し、次いでカッと双眼を開いた。おもむろに八枚の翅を開き、フェンリル山脈を下るべく空へと舞い上がる。あとに残されたもうひとつの影に、願いの完遂の誓いを立てて。




