4章 過去の記憶、闇夜の襲撃 6-12
「あいつが『古代龍』なのか……!」
リューナは低く声を発し、長剣を構える腕に力を籠めた。
容赦なく迫ってくる巨大な影は、諸悪の根源であり、未来の世界においても敵とみなされている存在だ。夜闇のなかにあってなお炎でも浴びたかのような体表、人智を超越した骨格と動き、畏怖と禍々しさを同時に感じさせる瞳は尋常ならざる色彩の光を放っている。
ふと胸に寄りかかる重さを感じて視線を向けると、トルテがすがりつくように寄りかかっていた。怯えとも怒りともつかない表情で、涙の残る大きな瞳を真っ直ぐに古代龍に向けている。
「トルテ?」
いつもと違う少女の様子にぞくりとしたものを感じ、リューナは彼女の名を呼んだ。トルテの様子が、喪失感に打ちひしがれたようだったことを思い出す。まさか――リューナはここでようやく思い至った。
古代龍は過去にも現れており、ディアンとハイラプラスを襲っていた。そして現代にも現れ、リューナたちの世界に宣戦布告をしている。さらに未来の世界でもこうして目の前に現れたのだ――つまり、ずっと昔から存在し続けているということになる。
何故いままで思い至らなかったのだろう……リューナはこめかみのあたりが冷たくなるのを感じた。それはつまり、現代で敗北していたという事実を示唆することに――。
「リューナ……あたし、戦います」
囁きにも似た震える声を発し、トルテがこぶしを握りしめた。その自分の声に励まされたように、力強い声できっぱりと言葉を続ける。
「もし、とうさまとかあさまが討ち損なってしまったというのなら、あたしがやります!」
「……トルテ」
リューナはトルテの瞳を見てすぐに気持ちを切り替えた。眼を閉じ、開いて――ニッと口の端を引き上げてみせる。
「了解だ。でも、まだ負けたと判断するには早いぜ。あの国王たちや万能の魔導士がやられたはずがねェ! そうだろ?」
「リューナ……。はいっ、そうですよね……!」
「よっしゃ! そうと決まれば――ディアン!」
リューナは空を振り仰いだ。頭上でホバリングしている魔導航空機を操縦している友人に向け、威勢のよい声を張りあげた。
「あのでっかいやつがこの世界を脅かしているんだってんなら、俺たちで倒してやろうぜ!」
「そうか……できるかな?」
帰ってきた声は、否定でも怯えでもなく、可能性を問うような――僅かな光明を見い出そうと探るかのような響きがあった。リューナは頷き、友人に向けてさらに口を開きかけた。
「よせ、いかんッ!」
叩きつけるような否定がリューナたちの後方からあがった。ラハンだ。ルミララも娘の肩を抱き支えたまま、夫の言葉に同意するように頷きながらリューナたちを見ている。ラハンは必死に言い聞かせるような口調で、戦闘態勢に入ろうとしている若者たちに言葉を続けた。
「君たちにどんな戦略や秘策があろうとも、あやつに真っ向から挑んで敵うはずがない! この場は退くのだ、機会を待とう!」
「……でも、どこへ潜もうとも、隠れようとも、いつかは見つかってしまうわ」
そう指摘した声の主は、ルミララに支えられていたエオニアだ。蒼白になって唇を震わせながらも、彼女は言った。
「ウピ・ラスカ――ラスカ兄さんが言っていたわ。あの始原の龍は、もう間もなく自分の願いを叶えることになるのだと。そうなってしまったらもう、この世界は龍にとって要らないものになる。操られて生ける屍と化している現生界の住人たちに価値はない――滅びゆく定めにあるのだと。兄さんは、自分がその後を継いで支配し導いてゆく、それこそがこの世界を救う唯一の方法なのだと」
「ラスカがそんなことを……それではシニスターがやっていることと同じではないか。支配という名の蹂躙によって、ただ生き長らえさせてゆくだけの……」
ラハンの表情に、エオニアが辛そうに瞳を伏せて言葉を続けた。
「ごめんなさい。わたし、ラスカ兄さんを止めることができなかった。話す機会はいくらでもあったのに……父さんたちの気持ちを理解してもらえなかった。だから、ディアンに助けられたのは嬉しかったのに、自分だけが父さんと母さんのもとに帰るなんて、自分で自分を許せなくなって……!」
そうか――リューナはようやく理解した。追跡を振り切って安堵したとき、どうしてエオニアの様子が沈み込んだものになったのかを。リューナが口を開こうとしたとき、ディアンが先に言葉を発した。
「エオニア、あきらめちゃいけない! ラスカだって、君の気持ちを伝えれば必ずわかってくれるよ。あのひとは闇に沈むようなひとじゃない。だからこそ、僕たちはここで終わるわけにはいかないんだ!」
「倦まず弛まず話し合うこと――生命の在り様も生きるための考え方も、みんなそれぞれ違います。違って当たり前なんです」
トルテが言った。その言葉はどこかで聞いたことのあるもの……王の道を語るとき、彼女の伯父であるクルーガーが繰り返していたものだった。迷うことのない口調で、彼女は言葉を続けた。
「だからその溝を埋め、ともに歩むためには、しっかりと話し合うことが大事なんです」
エオニアはゆっくりと顔をあげ、トルテの顔を見つめた。その瞳にみるみる力が戻ってゆく。
「そうね。ラスカ兄さんもわかってくれるかもしれない」
「んじゃ、行動開始だぜ! あいつがあんたを狙ってるってんなら、それをまず挫くためにも避難しておいてくれ。あいつは必ず俺たちが倒す!」
リューナはトルテとともに身構え、ディアンも機首を真正面に向けた。ラハンは迷いながらも妻ルミララと娘エオニアを連れて後ろに下がり、古代龍の出かたを見定めようとしている。隙があれば行動し、もうひとつ隠してあるという移動手段でこの場から逃れてくれるはずだ。
古代龍はリューナたちの位置に到達する手前でとどまっていた。古代龍は静かに瞑目していたが、やがて片眼を開いた。続いて発せられた思念のような波動が、その場に存在する者すべてを地に叩きつけるほどの重圧をもって響き渡る。
――言うことは……茶番は、それで終いか。我を倒すなどと笑止なことを。死にゆく定めの生き物が!
古代龍シニスターは残る眼も開いた。白色矮星にも似た輝きを放つ、ぞくりとするような両の瞳。美しくもいびつな昆虫めいた八枚の翅がゆったりと大気を打ち、その下に広がる林を地べたに吹き這わせている。
――聴け、取るに足らぬ生き物どもよ! どこへ逃れようとしても無駄だ。我が万能なる魔導の瞳が現生界の全てを見通し、願いを完遂させるために手に入れた力がおまえたちを叩き潰すであろう……!
古代龍シニスターはニタリと嗤った。巨大な顎が僅かに開き、剣呑そうにずらりと並ぶ乳白色の牙が煌めく。彼我の距離は二百リール。なのにこの迫力……この圧力。宇宙のなかの光を呑みこむ穴のような――見つめ続ければ魂が引っくり返ってしまうほどに昏く邪悪に満ちた輝きを内包している。
目の前に浮かんでいる悪夢を前に、恐怖を感じないわけではない。けれどいま、リューナの背後には大切な少女がいる。だからこそ負けるわけにはいかない……!
「倒せるかどうかは、やってみなきゃわかんねぇだろ?」
リューナは不敵に笑ってみせ、愛用の剣を構えた。背の後ろで、呼吸を整え精神を高めていたトルテが動いた気配があった。すぐにリューナの体に白い光が纏わりつき、染みこむと、全身が軽くなり精神と筋力が強められた感じがした。視覚や聴覚もいつもより研ぎ澄まされている。複数の援護魔法が、互いに強めあうかたちに重なり合ってうまく作用しているのだ――トルテの複合魔導はすげぇよな、とリューナはいつものように感心した。
トルテの行使した魔導に気づいたのだろう、シニスターがからかうような思念を投げかけてきた。
――これはこれはよく見れば、おまえは『万色』の魔導士の忘れ形見、『虹』の魔導士の幼き少女だな。何故この時代にいるのか知らぬが……よかろう、そなたも喰らってやるとしよう。
「おまえの相手はこの俺だぞ!」
全身をバネのようにして大地を蹴り、リューナは放たれた矢のように突撃した。
振りかぶった剣を力いっぱい古代龍の腹に叩きつける。だが、鋼鉄をも切り裂く剣なのに、強固な皮膚に食い込んだのはほんの僅かだ。――硬ェッ! いったい何でできていやがるんだよ!
「リューナ!」
ディアンの声に、リューナが古代龍の腹を蹴るようにして地面に向かう。ひと呼吸後、ディアンが魔導航空機から放った幾本もの『氷剣』がシニスターに突き刺さった。けれどそれすら、分厚い体皮に僅かな穴を穿っただけに終わる。
「ちっ。でかい相手っていうのは厄介だな」
地面に降り立ち、移動しながら龍を見上げていたリューナが吐き捨てる。王宮の外壁に矢を射るようなものだ。手数を増やし、魔法を付与した剣で一気に相手の皮を切り裂いて魔法でトドメを刺すのがいいか――リューナがそう頭のなかで考えたとき。
――今度はこちらの番だ!
古代龍が手のように器用に動く前足を、不可思議な動きとともに宙へすべらせた。リューナは己が眼を疑った。魔導の輝きが空中に奔り、見事に輝く魔法陣を具現化させたのである。
ゴガァァァァンッ!! ガコン、ゴン!
トルテたちの立っている大地が悶え震えるように揺れたかと思うと、次々に大きく爆ぜ割れて突き上げられた。行使されたのは『地形変化』――『地』の属性の最上位魔法だったのだ。
「トルテ!!」
リューナは叫んだ。トルテやエオニア、そしてラハンたちの体が空中へと弾き飛ばされている……!
空中で何とか体勢を整えたトルテはすぐに新たな魔導を行使し、自分を含める四人を空中に浮かせて地面の亀裂に咥え込まれるのを防いだ。よろめきながらも空中を移動し、爆ぜ割れた地面から離れた場所に降り立つ。
それを見届けて安堵し、リューナは再び古代龍に注意を戻した。ディアンの声がリューナの耳に届く。
「シニスター自身は、『火』と『地』の力の名を持つ魔導を行使できるんです!」
「何だよそれ――こいつは魔導士なのかよ!」
リューナが舌打ちする。確かに知能の高いものは、魔獣や幻獣であっても魔導を行使できるものがいる。珍しい存在ではあるが、いないわけではない。だが、さらに続けてシニスターから放たれた魔法の種類は、驚愕するに値するものであった。
闇空を背後に輝いたのは、白の魔法陣。空間を切り裂くような音を立て、生じた光が瞬時に収束する。
「うわっ!!」
リューナを怖ろしい勢いで光球が襲った。身を転がすようにして危ういところで直撃を避けたが、その爆風に吹き飛ばされてしまう。
リューナはそのまま神殿跡の柱のひとつに突っ込んだ。呼吸が詰まり息が肺から押し出され、一瞬目の前が真っ暗になる。
「リューナ!」
地面に落ちたところに駆けつけたトルテに助け起こされ、魔導による『治癒』を受けて何とか立ち上がる。鼻と口から流れた血の跡を腕で乱暴にこするようにして拭い、リューナは首を振った。
「うぐ……。いまのは『衝撃光』だったよな。けど何故、『光』の最上位魔法まで行使できるんだッ? 魔導の常識では、多くてもふたつまでしか最上位魔法を使えないはず」
「その通りです、リューナ。普通、魔導の力の名は誰であっても、生まれながらにしてひとつかふたつしか持つことができないはずなんです。その制限を受けないのは、あたし以外には他ならないルシカかあさまだけのはずなのに……!」
――そうとも、賢しい娘よ。我であってもその制限からは逃れられぬ。だがしかし、いまの我が力に限界はない。そのためにも苦労して『万色』の力を手に入れたのだからな。フフフ……。
リューナが耳を疑い、トルテが蒼白になった。
「何ですって……?」
「どういうことだッ! 『万色』の力は極めて稀な存在のはずだ。生まれながらに持ち得る力だと聞いているぞ。だからたとえ『万色の杖』があったとしても、それで『万色』という万能の魔導の力が手に入るわけでもない」
そこまで言ってリューナは気づき、息を呑んだ。
「……な、まさか、おまえ……」
――正解だぞ、おまえがいま考えた通りだ。フフフ……怖ろしい考えか? だが真実なのだ。我は『万色』の魔導士を喰らって体内に取り込んだのだよ。千三百年前に、力と記憶と知識その全てをな……フフ。
「……う、嘘だ!!」
龍は嗤った。
――この偉大なる我が、おまえらごとき虫ケラに嘘をついて何になる。そこな魔導の娘よ。見てわかるだろう? さぁ、おまえはもう気づいているはずだ、母の魔力の気配に。そして父の……伯父の気配にも。
トルテはへなへなと地面に崩折れるように座り込んだ。魔導の流れを見定めることのできるオレンジ色の瞳にだけ、異常なまでの力を込めて。認めたくない事実を否定したくて、必死に眼を凝らしているのだ。
「……あ……あぁ……そん、な」
「トルテ……トルテ!?」
――わかったら、絶望のまま逝くが良い!!
シニスターの腕先から雷撃の魔法が放たれた。リューナは反射的にトルテを抱え、かばおうとした。
「させないぞ!!」
古代龍とリューナたちの間に、大きなものが割って入った。ディアンの乗る魔導航空機だ。雷撃は銀色の機体に直撃して爆ぜ、その勢いのまま散じた。周囲に硫黄のような臭いが立ち込め、大地の上を小さな雷が蛇のようにのたうちまわる。
幾つもの悲鳴が交錯した。リューナは苦痛に顔を歪め、トルテは必死に自分のなかの魔力を集めた。雷撃は周囲にいたエオニアやラハン、ルミララをも打ち据えていた。魔導航空機の後方が弾けとび、機体が空高く舞い上がる。そしてきりきりと舞いながら離れた地面に落ち、爆発炎上したのである。
「ディアン!? いやあぁぁぁぁあ!」
エオニアの悲鳴があがる。そのエオニアを、続けて放たれた次の電撃が襲った。傍にいたルミララとラハンが衝撃に弾き飛ばされる。
シニスターは煙を上げる機体をつまらなさそうに一瞥してから、好奇そのものの瞳になって倒れ伏すエオニアに向いた。うっそりと笑うように顎を開き、唄うように邪悪な思念を響かせる。
――『五宝物』のなかで最も強力な品、『従僕の錫杖』。その復活の引き金は宿主の『生命の危機』。封印は心に受けた衝撃と絶望によって解き放たれ、錫杖は血潮と魔力の収束器官と結びついて具現化される。
リューナはしびれる腕のまま剣を握り、何とか立ち上がって眼前に構えた。だが、背にした後方から凄まじいほど急速に濃くなっていく魔導の気配と突然放出されはじめた光に、思わず振り返る。
エオニアの全身が赤い輝きに包まれていた。脈打つような光の根源はその体内にあった――胸の心臓と同じ位置に、光が反転したような影が現れたのである。影なのに、魔導の瞳を焼くほどに眩い輝きを発しているのだ。
「な……あれはまさか!?」
リューナは眼をすがめた。その光景は、かつてミディアルを襲った『従僕の錫杖』の降臨のときの昔語りと同じであったのだ。だが――その古代の宝物は十五年の年月をかけ、地上から完全に消去されたはずだった。
次々と受ける精神的なダメージが大きすぎるのだろう。トルテはがくがくと震え慄くばかりで、座り込んだまま立ち上がることができなくなっている。
――ザルバーンの地の奥深くで再び我が目覚めたあと、ソサリアの地を治めていた王とその片割れがのこのこと偵察として乗り込んできたのだ。我はそやつらを捕らえ、喰った。そののちの王都での決戦で魔導士どもをも喰らい、力を取り込んだ。知識も記憶も、その全てが我のなかに流れ込んでおる。
古代龍は語った。口調には得意げな響きを滲ませ、どうだといわんばかりに打ちひしがれている少女を見下ろしている。リューナの内に、ふつふつと沸いてくる猛烈な怒りがあった。
「……てめェ……!」
激情のままに剣を構えて飛び出そうとしたとき、背後に走りこんできた影があった。リューナがハッとして振り返る。エオニアが倒れ伏しているはずの場所だ。
そいつはすぐに大きく跳び退って背後の廃墟の上に降り立ち、リューナたちに向けて顔をあげた。
その腕には抱きかかえられているエオニアの体があった。完全に意識を失っているのか細い体はぐったりとして生気がなく、腕と首がだらりと垂れ下がっている。地面に倒れ伏したままのラハンが腕を突っ張り、起き上がろうとしているのが、リューナの視界の端に映った。その苦悶の表情に、エオニアを抱えている相手が誰なのかをリューナは悟った。
ラハンが叫ぶ。
「ラスカ! 莫迦な……莫迦な真似はやめるんだ!!」
親であるはずのラハンの言葉を薄い微笑で聞き流し、男は古代龍を見上げた。ラハンとよく似た声が張り詰めた空気のなかに響き渡る。
「……シニスター! この女はおまえに引き渡す。が、俺との約束は忘れていないだろうな?」
――愛すべき駒よ、忘れてはおらぬぞ。よくやった。では我が都エターナルの城にて交渉しよう。先に戻っておるが良い。
「ならば」
ラスカと呼ばれた男はニヤリと微笑み、一礼して柱の背後に消えた。
「待ちやがれ!」
リューナは追おうとして気づいた。神殿跡の背後から現れた別の魔導航空機の存在に。はなから拉致だけに目的を置き、逃亡の手立てを整えていたのだろう。その手際は鮮やかで、リューナが柱に向けて跳躍したときにはすでに機体は手の届かない高さに舞い上がっていた。遠く……遠く、離れていく。
「くそぉっ!」
「何てことだッ!」
少し離れた場所にガクリと膝をつくように降り立った人影に首を巡らせ、リューナは驚いた。背中に翼を持つ友人は、肩を震わせてみるみる遠ざかっていく機影を見つめている。
「ディアン! ――無事だったのか」
「僕は飛翔族だよ。墜落死なんてあるものか……。けれど彼女を助けることができなかった……ううぅ」
――力なき者よ。我は興ざめた……その命尽きるまで己が非力さを呪い、絶望とともに朽ち果てるが良い……!
古代龍シニスターは嗤い、そのまま悠然と背を向けた。その巨大な翅が打ち付ける風は嘲るようにリューナの髪をなぶった。巨大な影が離れていく……。後に残されたのは敗北に打ちひしがれたいくつもの影と、爆ぜ割られて黒く焦がされた大地、そして圧倒的な絶望感だった。
トルテの体がふらりと揺れた。座った姿勢のままぱたりと地面に倒れる。長い髪が地面に流れるように広がった。
「トルテッ……!」
リューナは少女の細く小さな体を抱き起こし、全身を震わせた。ディアンが歩み寄る気配があり、つぶやくような声が背中に触れる。
「……トルテは?」
「ああ。ショックを受けて……気を失っている」
「……無理もないよね。それにしても、何てことだ。……ハイラプラス殿も取り込まれてしまったのだろうか」
リューナは腕のなかの小さな体を抱きしめた。その温かさに涙があふれそうになる。リューナは囁くように繰り返した。
「わからない。だが……こんな現実があっていいはずがない。あるはずがないんだ……」
「リューナ……」
リューナの傍の地面に寝かされていたトルテが上体を起こし、体に掛けられていた毛布に気づいて首を周囲に巡らせた。森のなかにある天然の洞穴を利用した空間で、頭上にはくすんだ黄金色に輝く金属の機体がある。
ラハンが言っていたもうひとつの移動手段とは、ひとつ型の古い魔導航空機だった。リューナとディアンの行使した『治癒』で動けるほどに回復し、その隠し場所まで移動したのである。
「ディアンやラハン、ルミララさんはいま起動のためのチェックをしている。この機体が飛べるように整備しているんだ。エオニアは……拉致された。古代龍は俺たちを放って引き揚げてしまった」
「そんな……」
トルテは涙をあふれさせ、傍に寄ったリューナの首にすがりついてきた。
激しくしゃくりあげながら腕に力を込めてくる。やわらかくしなやかな体が押し付けられ、リューナは自分が熱くなるのを感じた。だが、それどころではないのを知っている。トルテをやんわりと抱きしめ、その背中を何度も撫でさすった。
「リューナ、あたし、あたしどうしたらいいのでしょう……。テロンとうさまもルシカかあさまも殺されて……信じられない、信じたくはなかった。でも見えたんです、なつかしい輝きが……」
リューナは唇を噛みしめ顎を震わせたあと、何とか落ち着きを取り戻した声で言った。
「国王たちは俺たちが出発したあと、ミディアルに向かったはずなんだ。もしいますぐ戻って警告できたのなら……。ん? 待てよ、おかしいぞ、トルテ」
「え?」
リューナの言葉に、トルテが体を離した。
至近距離で揺れるオレンジ色の瞳がリューナを見つめる。自分の考えをまとめる暇もないまま、リューナは言葉を続けた。
「俺が『歴史の宝珠』を探しに行って戻ってきて、みんなが集まっている執務室に行ったよな。当初は確かに、ザルバーンへ偵察に行くとかいう話になっていたと言っていた。けど結局、俺たちの話を聞いたトルテのかあさんが、ザルバーンへ行かずにミディアルに向かうべきだって、言ったんだったよな……? そうだ! 俺、確かに聞いたぞ。国王が同意して、ミディアルに布陣することについて話していたことを!」
「それって、つまり――」
「つまりさ、古代龍が話していた歴史は、その通りにならなかったはずなんだ!」
「じゃあ……」
「そうさ、トルテ! 歴史は俺たちがハイラプラスのおっさんのメッセージを受け取ったことで、不確かなものになっているのかも知れない。まだいろいろよくわかんねぇけど、きっと何とかなる。そんな気がしてきた……!」
「あぁ、リューナ。それってもしかして、もしかしなくても希望ですよね!?」
「ああ、トルテ! きっと……!」
苦く昏く長い夜が過ぎ去り、森の隙間から見える東の空が白みはじめている。闇夜に沈んでいた空に、ゆっくりと、だが確実に、あたたかなオレンジ色の光が満ちはじめていた。




