2章 ふたつの意思、翔ける翼 6-5
だが、ぱたぱたと軽い足音とともに駆けてきた彼の愛妻ルシカは、落ち着いた表情をしていた。
いつものような元気と明るい笑顔とはいえないが、少なくとも取り乱してはいない。それでも幾分か蒼い顔色をしていて、テロンと眼が合うとホッと安堵したように口元を緩めた。扉口で一度足を止め、部屋のなかの状況を見回す。
「ルシカ。いいのか、もう」
「ええ、もう平気よ、テロン。ごめんなさい」
相手に心配をかけたことで申し訳ない気持ちになってしまう、そんな彼女らしい心遣いはいまでも変わっていない。テロンが伸ばした腕に手を添えるようにして口元を微笑ませ、ルシカは夫である彼の傍に立った。
「ルシカ……」
あまりにも彼女をよく理解しているテロンは、その微笑の内に隠されている疲労に気づいた。思わず言葉を紡ぎかけるが、その瞳のなかにある輝きを見て口を閉ざしてしまう。
クルーガーとマイナの遣り取り、そして数歩離れた場所に佇んでいるルーファスの表情で、ルシカはすぐに事情を察したようだった。
彼女は口元を引き締め、王国の護り手である宮廷魔導士の顔になった。
「――待って、クルーガー。いま現地には行かないで欲しいの」
細いがしっかりとした声が部屋に響き、見つめ合っていたクルーガーとマイナが彼女に顔を向けた。テロンはルシカの声音に尋常ではない響きを感じ、怪訝に思った。周囲に視線を巡らせる。そういえば、母であるルシカの傍らについていてくれと頼んだはずの娘トルテの姿がない。
「何か――あったのか」
「ええ……テロン。あなたに……いえ、クルーガーにも話しておかなければならないことができたの」
「トルテがどうかしたのか?」
テロンの言葉に、ルシカが眼をあげた。ふたりの視線が交じり合う――互いの瞳には相手を案じている想いが透かし見えている。緊張に強張っていたルシカの表情が、ぐっと和らいだものになった。
「さっきトルテと話したの。リューナが戻り次第、あの子たちは、あの子たちの事情ですぐに出発すると思うわ。それでね、あたしがトルテに伝えられたことで気になることがあって……それらすべてを考慮して判断したのよ。塔のある場所まで今すぐ行く必要はない――塔も、あの魔導士の少女も、しばらくは心配ないわ」
「どういうことだ? 俺たちにもわかるように説明してくれ」
かがめていた上体を起こし、クルーガーが急いたように説明を促した。腕のなかのマイナも、身を乗り出すようにして話に聞き入っている。
「判断した理由はふたつあるの。まずひとつ――さっき『透視』でザルバーンに視線を飛ばしたとき、飛翔族の魔導士とあたしの意識が繋がったの。ほんの刹那の邂逅だったけれど、あたしたちが通じ合ったとき、気配減じのまじないを伝えておいたわ」
「通じ合った……だと?」
「ええ。互いが魔導士だからなのか、それとも別の理由があるのかはわからないけれど……いまでも微かにだけれど繋がっていて、彼女が無事なのはわかる。それから……古代龍には、彼女を捕らえるよりも先に手に入れなければならないものができたらしいから」
言葉の後半を口にするとき、ルシカの声が表情が厳しいものに変わっていた。
「先に手に入れなければならないもの……?」
マイナが反芻するようにつぶやいた。テロンはふいに思い当たった。さきほど錫杖の構成データが完全に消去されている件について論じていたとき、兄の言葉に引っ掛かったものがあったのだ。
「――ルシカ。それはまさか、俺たちが今朝ミディアルに届けた、あの魔晶石のことではないのか」
「そう、それがふたつめの理由なの」
ルシカはテロンの言葉に頷き、説明を続けた。
「古代龍がいま狙っているものは、過去の記憶を正確に再現できる『時』の力を持った魔晶石よ。生き物はもちろん、物質や空間が記憶している事象を寸分違う事なく再現できる結晶体。それはあたしが作れるような簡単なものではなく、おじいちゃん――『時空間』の力を持った魔導士が手間と時間をかけて作り出すような、確かな力を持った品。そう――あたしたちが今朝ミディアルに届けてきた、あの魔晶石なのよ」
テロンはごくりと唾を呑み込んだ。
「では――古代龍は次にあの都市を襲うというのか」
また、あの都市で未曾有の犠牲者が出るというのか――十五年前と同じように。テロンはこぶしを握り、奥歯を噛みしめた。同じ想いを抱えているのだろう、ルシカも苦しそうに顔を伏せている。だが、彼女はすぐに顎をあげ、はっきりとした口調で言葉を続けた。
「その可能性が高いわ。古代龍は、今この瞬間にも動き出そうとしているかもしれない。だから――塔やザルバーンに向かうより先に、ミディアルに急がなくちゃ!」
「だが……どうしてそんなことがわかったんだ?」
その怖ろしい可能性に、国王であるクルーガーが半ば呆然となりながら問うた。
『大陸中央都市』の異名を持つミディアルは、陸上交易の拠点として凄まじいまでの人口を抱えている大都市である。もともと都市に住んでいる者はもちろんだが、ひっきりなしに訪れる隊商の数も半端ではないのだ。そのすべての民の避難や防衛のための時間が確保できるとは、到底考えられなかったからである。
「トルテとリューナが偶然に、ある文献に書き残されていたメッセージを受け取ったの――」
ルシカが説明する時間も惜しいといわんばかりに淀みなく語りはじめる。その隣に立っているテロンは、夏の午後だというのにその部屋の温度が真冬のそれにまで下がったかような、強烈な寒気を感じていた。
「トルテ!」
背後からかけられた声に、トルテは弾かれたように勢いよく振り返った。高い位置で結い上げられた金色のツインテールがさらりと揺れて広がり、中央広間を満たしていた明るい光のなかで煌めいた。
「リューナ、おかえりなさいっ」
実家であるファンの町の魔術学園から戻ってきたリューナの手には、しっかりと『歴史の宝珠』が握られていた。古代に栄えし魔法王国の後期に生きた『時間』の魔導士ハイラプラスが造り遺した『時間移動装置』である。
トルテがリューナのもとに駆け走ってくる。
「――っと、あぶねぇって!」
リューナは、目の前でつんのめった彼女の体を踏み込むようにして胸に抱きとめ、ホッと息をついた。トルテのきれいな髪が目の前で揺れ、甘やかな香りに鼻をくすぐられて思わず頬が熱くなる。
だが、そんな場合じゃないとすぐに思い直し、リューナは幼なじみの細い体を自分の胸から支え起こした。
「大丈夫か?」
「うん。ありがとう、リューナ。『歴史の宝珠』はすぐに見つかったのですね」
「ああ。親父に姿を見られるといろいろ面倒だったから、おかげでちょっと手間取ったけど、結果オーライだ」
手元を覗き込むトルテに見えるよう握りこんでいた手のひらを開きながら、リューナは周囲に視線を向けた。大臣たちをはじめ、兵や文官たちが忙しそうに走り回っている。
「何かあったのか? やけに騒々しいみたいだけど」
「うん……あたしも詳しくは聞かされていないんですけど、さきほどルシカかあさまが魔力を使い過ぎて休んでいましたから、何かあったのは確実だと思います」
「何だかよくわからないけど、そんな状況で俺たち出発していいんだろうか――」
「ルシカかあさまは、こちらのことは心配しないでいい、と言っていましたけれど……あっ、待ってください、リューナ――何処へ行くんですか?」
「国王はこの上の執務室なんだろ? きちんとこちらの事情を説明してから、宝珠を発動させたいんだ」
リューナは急ぎ足で歩き出したが、トルテがついてくるのに気づいてすぐに立ち止まり、彼女の手を握って再び歩き出した。
周囲の状況は尋常ではない。でっかく肥えた腹を揺すっていつも大儀そうに歩いているニルアード大臣までもが、血相を変えて走っていったのを目撃したのである。
リューナは深海の色をした眼を鋭く狭めた。――ゼッテー普通じゃねぇぞ、これ。俺がちょっと居なかった間に、いったいぜんたい何が起こったんだ?
ふたりが合流したのは、王宮の正面門にほど近い中央広間だ。吹き抜けの広い空間には、荘厳な規模の螺旋階段がある。バルコニーはその二階にあり、さらに上へと進むと王族の私室や執務室などがある最上階まで到達することができるのだ。
階は低く広く取ってあり、リューナが駆け上ろうとするとかえってつま先を引っ掛けてしまうことになるので、トルテの手を引いているくらいが一番速く進むことができるのであった――歩幅の違いを気にしている彼女には内緒だが。
「……ディアル……迎撃の……ようを組むにしても、魔導と魔術で結界を張るにしても、満足のいくものにはならないと思うの。それだけの時間は確保できないはずよ」
執務室の手前で、そんな会話がリューナの耳に入ってきた。続く言葉も聞こえてくる。リューナは足を速めた。
「だから都市の防衛のためには、危険かも知れないけれど、都市とは離れた場所に誘導できればと思うの」
「ヤツの狙いである魔晶石をみせつけて、真っ向から戦いを挑むということだな。それなら手はある」
そこで声がぴたりと止まった。リューナとトルテの足音に気づいた部屋のなかの者たちが、自分たちが入ってくるのを待っているのだ。入り口の扉まで進みながらリューナは大きく息を吸い、そのままの歩調で部屋に入った。
「トルテ、リューナ」
驚いて眼をまるくしたのはふたりの魔導士、ルシカとマイナだけだ。クルーガー国王も王弟テロンも、入り口の横に立っている騎士隊長ルーファスも動じていない。ふたりの気配を、おそらくはリューナよりも先に感じ取っていたのだろう。
「国王陛下。どうしてもお話したいことがあって――邪魔をして申し訳ありません」
リューナは一礼し、よく通る声で話しはじめた。このあたりの態度は気後れもなく自然そのものである。トルテと離れたあとの過去での二年間、王として古代魔法王国の避難民たちを導いた経験があったからだ。とりあえずいつもの生意気な物言いと遠慮の無さは引っ込めておき、おとなのような口調を心掛ける――もちろん、完璧ではないが。
「俺たち、友人を救うためにすぐに出発しなければならないのです。ですがその前に――この騒ぎは何があったんですか?」
リューナの問いには、トルテの母であるルシカが簡潔に答えてくれた。
古代龍のことを聞き、リューナの一歩後ろで息を呑む気配があった――トルテは本当に何も知らなかったようだ。リューナも自分の顔から血の気が引くのを感じていた。
「そんな――そんな最悪な状況で出掛けるわけにはいかない。俺もそいつと戦います!」
そう声をあげたリューナを制したのは、国王クルーガーであった。
「ルシカから話は聞いている。リューナ、おまえたちの受け取ったメッセージを考慮してみても、ふたりは自分たちの為すべきことを完遂するほうを優先するのが良さそうなのだ」
リューナは手にしていた『歴史の宝珠』を見つめた。『小型化』の魔導の技が施されている秘宝『歴史の宝珠』は、大きな窓からの光を受けて美しいオレンジ色に輝いている。
複合魔法である、物質を縮小させる魔導の技がかかっていなければ、実は『歴史の宝珠』はとても大きなものなのだ。
しばし逡巡したあと、リューナはもう一方のこぶしを握りしめ、口を開いた。
「わかりました。古代龍が襲撃してくるかもしれないっていうのに……このような非常事態に俺たちだけ外すことになって……本当に申し訳ありません」
いつもの反抗的な態度を吹き飛ばし、リューナは国王であるクルーガーに頭を下げた。
「――トルテ。もう一度、メッセージが残された文献を見せてくれる?」
「あ、はいっ」
ルシカの視線と言葉を受けたトルテが一歩下がり、流れるような動きで左腕を掲げるように眼前に持ち上げる。魔導行使のための準備動作だ。成長期にあるほっそりとした腕の表面を、もう一方の手で撫でるようにして魔法陣を紡ぎだす。
腕先からきらきらと零れるように白いやわらかな光があふれ、一冊の古代文献が空中に滲み出るように現れた。すぐに実体を取り戻して落ちかかる重厚な本を、リューナが素早く片腕で受けとめる――もう一方の手のなかには宝珠が握られていたので。
どうにか落とさないで済んだリューナはふぅと安堵の息を吐き、腕のなかの本を見つめた。それは確かにハイラプラスの書き残した文献であった。トルテの魔導の技で、腕の何処やらに仕舞われていたらしい。
「すっげぇ! トルテ、こんな魔法をいつの間に……」
「リューナの使う『物質生成』の応用です」
トルテが微笑みながら言った。彼女は一度見た魔法を完璧に再現できるという特技があるが、応用までできるとは――リューナは無邪気な幼なじみの笑顔を眺めて嘆息した。
「複合魔法というのは、『失われた歴史の鎖の輪』と同時に潰えた素晴らしい技術なのよね。すごいわ、トルテ。今度詳しく教えてね」
「は、はい。えと、ルシカかあさまのように、いくつもの異なる魔法を同時に展開させることはできませんけれど……」
こんなときにも変わらない笑顔のルシカが片方の目蓋を閉じてみせると、トルテがはにかみながらも嬉しそうに頬を染める。
リューナには彼女の気持ちが理解できた。母親であるルシカを、魔導士の先達として大変に尊敬しているのだ。素直に誉められれば嬉しくもなるであろう。――もっとも、おっちょこちょいで方向音痴の母親の特性に関しては、自分のほうがしっかりしているとトルテは思っているようだが……リューナはそっと苦笑いを洩らした。
ふと視線を感じたリューナが顔をあげると、トルテの父であるテロンと眼が合った。思わず背筋が伸びる。
「そういえば、リューナ。君も魔導の技を扱えるんだよな。幼い頃から魔術使いだと思っていたが、もしかして魔導の血を引いているということなのか」
「ああ……えぇと、そのことなんですが、親父には内緒にしておいてほしいです」
「わかっているよ。そんなことが知れたら、きっと地団駄踏んで悔しがるだろうから」
テロンが苦笑交じりに応えた。負けず嫌い、目立ちたがり屋のメルゾーンなのだ。息子が魔導の技を行使できるなどと知ったら、せっかく和解した父と息子の関係がまた微妙なものになってしまうかもしれない。
「それで、本には何と?」
咳払いをしたクルーガーが、完全に逸れていた話題を戻した。
「あ、はっ、はい。そうでした。……これなんです」
リューナの腕が支える文献に、トルテが手を伸ばした。表紙が捲られ、件のページが開かれる。
覗き込んだ一同は食い入るようにそこに綴られていた文字を読んだ。クルーガーもテロンもそれぞれのパートナーが魔導士であるため、王国末期の表記文字くらいは読める。
張り詰めた緊張と、激しく揺さぶられ戸惑っているような微妙な空気が沈黙となってその場を圧した。……しばらくは誰も口を開かず、それぞれの思考の内を彷徨っているかのようであった。
「……ハイラプラスは、魔法王国後期に名を遺している、とても優れた『時間』の魔導士だわ」
『万色』の魔導士であるルシカがつぶやくように言った。本人直筆の文字に指を差し伸ばし、見えない魔導の気配でも探るように眼を伏せている。
「ヴァンドーナ殿の遣り方に慣れていれば、おのずとその先も見えてくる……か」
「ええ……意味なくメッセージを残すとは思えないもの」
テロンとルシカの会話を聞きながらも、リューナは自分の鼓動が激しくなるのを感じていた。
メッセージをもう一度目にしたことで、この上もなく気持ちが急いているのだ。早く……一刻でも早く親友を救いに出発したい、と。
そこに綴られていた文字はこうであった。
古代の 邪悪が 動き出すとき
野望 荒ぶる水と炎となりて 襲いくる
打ち砕かれん 心せよ
未来に 飛ばされし 翼ある友の救出を
時の力もつ魔晶石 ふたつの波紋 ふたつの干渉
携え 発動させよ 時の翼 青の標の導きのままに
忘るるなかれ 儚き願い 我はかなわず
――どうかディアンのこと、頼みます。
ハイラプラス・エイ・ドリアヌスシード




