1章 歴史の宝珠、投じられた一石 6-3
ルシカは見たのだ。
重く堆積した雪と氷、長い年月を語る礫岩による静寂の世界。けれど悠久の時の流れにおいては、見落としようがないほどにはっきりと息づいているその白の底闇と深淵を。
霊峰の中心を満たしていたのは、何処までも堕ちこむほどに昏く途方もない闇だ。魔導という、魔力そのものの流れを見通すことのできる彼女の瞳に映ったのは、凄まじいまでの力の本流――そして疼くような不安と胸を締めつける懼れとが凝り固まったかのごとき常闇の影であった。
恒星でも生まれたかのような閃きがあり、影が浮上をはじめ、闇が裂けた。ぱりぱりと音を立てながら煌めき落ちるのは、表面を覆っていた氷の砕片か降り積もった時間の鱗か。
ルシカは信じられない思いだった。眺め渡したその光景が現実のものであると。
空の果てに届くのではと思わせるほどに雄大だった霊峰ザルバーン。その堂々とした白い先鋒は、すでになかった。内部から突き破られたために、天空を貫くかのごとく輝いていた大地の剣先は見る影もなく、もうもうと巻き起こる粉塵のなかに崩れ去ろうとしている。
「あの影はまさか……それにしてもこの様相は、まるで天変地異でも起こったみたいだわ」
心のうちで呆然とつぶやいたあと、ルシカはさらに意識を集中させた。視界から消えた影を追って魔導の眼は進み、粉塵の渦巻く領域を抜け出る。山脈の反対側に落ち込んでいる断崖のはじまる際――遥か眼下に隣国タリスティアルの緑と水と彩りにあふれる国土を望む場所に到達した。
さきほどの影は、その上空に浮かんでいた。濃厚な闇の気配を纏った巨躯。少なくともそれは、龍と呼ばれる外観をしていた。
ルシカの背筋にぞくりと冷たいものが走った。行使していた『透視』に対する集中が乱れそうになり、瞳に力を込めるようにしてからくも制御を取り戻す。その姿は悪夢さながら見る者の心を打ちのめし、絶望と死とを連想させるものであったのだ。
これが、伝承として聞いた古代龍の真の姿……。ルシカは逸らしたくなる魔導の瞳に渾身の力を込め、視線を繋ぎとめた。あまりに異質、あまりに邪悪、そして遥かに想像を超える畏怖と圧倒的な存在感に、意識そのものが打ち砕かれそうになる。
そのとき、ルシカの頭の芯にズキリと鋭い痛みが走った。魔導を行使している両の瞳が、白熱するように熱を帯びはじめていたのだ。
無理もない。古代龍の内包する輝き――凄まじく膨大な魔力の凝縮された力の本流を、瞳という感覚器を素通しにして眺めているのだ。それはさながら、遮るもののない大地から真昼の太陽そのものを直視するも同然であった。
古代龍は悠然と止まっていた。大きすぎる体躯ゆえに数多いのだろうか――薄く無機質な昆虫めいた翅が八つ、極めて特異ながらもある種の美しさをもって大気を孕んでいる。
その古代龍の体躯の下、礫岩ばかりの赤茶けた不毛の大地のいろのなかに、小さくも眩いまでの白き魔導の輝きがあった。生命の輝き――そして薄桃色の髪、純白の翼、異国の衣装、恐怖に見開かれている赤く澄んだ両眼。
「まさか……ひと……魔導士?」
ルシカは驚き、困惑した。トルテと同じほどの歳の飛翔族の少女だ。体に脈々と流れている魔力の濃さと気配は、間違いなくルシカ自身と同じ、古き血を受け継いだ魔導士のもの。
「背中の白い翼……おそらくは、隣国タリスティアルの民だわ。でも何故あんな場所に――」
古代龍は彼女の真上に浮かんでいる。彼女をどうしようというのか。ルシカには予想もつかなかったが、放っては置けない状況だというのはわかった。少女は脅え、いまにも卒倒してしまいそうだ。
「濃い魔導の気配は魔獣の注意を惹きつけるというけれど……」
果たして古代龍にとってもそうなのだろうか。しかし、単に興味本位で眺めているというわけではなさそうだ。まるで確固たる目的があって動いているような、油断のならない眼光。
巨大な顎の周囲がめくれるように割れ開き、鋼色に輝く鋭い牙がずらりと見えた――ニタリと笑ったのだ。鉤爪のある前脚が動き、少女の体に差し伸ばされる。無造作にではない。傷ひとつなく捕らえようとするかのように、ひどく気を遣いながら。
『万色』の魔導士であるルシカは、半ば本能的に悟った。
「――いけないッ! 捕らわれては取り返しのつかないことになる!」
ルシカの声ならぬ意識の叫びが空間を震わせた。祈りにも似た必死の想いが届いたのだろうか、恐怖のあまり硬直していた少女が、弾かれたようにハッと振り向く。ルシカのオレンジ色の瞳と、飛翔族の少女の赤色の瞳が刹那、合わさった。
ふたりの力ある魔導士の繋がりが空間を震撼させた。古代龍のニヤニヤ笑いが消える。恒星のような輝きを帯びた巨大な眼球がギョロリと動いた。その眼が狭められ、剣呑な光を宿す。相手がルシカを『見た』のである。
――おのれ……邪魔をするなッ!!
敵意を剥き出しにした思念と同時に、衝撃の嵐が叩きつけられた。ルシカの全身の骨がギシリと音を立てる。
「……う……!」
自身のなかの魔力を総動員して何とか持ちこたえたが、危うく打ち倒されるところであった。古代龍の視線が鉄槌のような凄まじい重みを伴って、遠く離れて魔導を行使しているルシカ本体の体を襲ったのである。
だが、表面上は静かに動くことなく保っていたからだの表情までもが、この攻撃で堪えようもなく苦痛のままに歪められてしまった。……ちらりと頭を掠めたのは、周囲で見守っているだろう夫や仲間たちのこと。心配させてしまったに違いない。
「いけない、気を抜けばこのまま……殺される!」
ルシカは、すぐに意識の外に自分の感情を振り払った。
だが古代龍は奇妙に歪んだ笑い声を残し、距離を隔てている魔導士から意識を逸らした。これ見よがしにゆっくりと腕を伸ばす。眼前の、すぐ傍にあるもうひとりの魔導士に向けて。
飛翔族の少女が、鉤爪の間隙に挟まれるようにして捕らえられた。少女は悲鳴をあげ、身を捩って体を抜き放とうとした。だが、大地そのものであるかのように揺るぎない拘束には僅かの隙もない。
古代龍は翅を打ち羽ばたかせ、大地に沿うようにして移動をはじめた。人間たちには広大であった不毛の大地も、あっけなく後方に流れ去ってゆく。捕らわれた少女は為すすべもなく運ばれるしかなかった。
口惜しくもそれらの光景を見つめたまま、ルシカは急ぎ思考を巡らせた。どこに向かおうというのか……その先にあるのは、古代魔法王国の中期に造られたあの『打ち捨てられし知恵の塔』しかないのに。
「まさか……あの塔が目的だというの?」
ルシカの懸念は当たっていた。古代龍は『打ち捨てられし知恵の塔』の前で止まったのである。
ちっぽけな少女の体を掴んだまま、龍が牙を剥き出した。かっぱりと開いた顎の奥に、蒼く輝く眩い光があった。みるみる膨れあがるそれは、間違いなく破壊のための光球――!
「……いけない……させない……ッ!」
ルシカは『透視』を行使するための魔法陣を維持しつつ、さらにもうひとつの魔導の技を使った。ルシカの魔法陣が具現化したのは、塔を守るための三種の魔法陣の制御だ。塔が起動していたとき、有事の際には離れた王宮からでも瞬時に再起動できるよう、ルシカが新構築していた魔法であった。
ヴンッ!! 空間を切り裂くような音を発し、塔の周囲を取り囲むようにして魔法陣が展開された。赤、青、緑の魔導の輝きが周囲を圧するように空間を駆け奔り、塔を守護するように回りはじめたのである。
古代龍は驚き、至近距離で展開された濃い魔導の輝きに眼が眩んだらしい。翅の動きが乱れ、打ち羽ばたいた翅に生えている棘のひとつが塔に掠りそうになった。
龍は咄嗟に長い尾を振りあげて軌道をずらし、ぐらりと巨躯を傾かせた。前脚が大地を掠り、少女を掴んでいた鉤爪の力が緩んだ。
「――いまだわ、逃げてッ!」
ルシカの心の声が聞こえたのか、あるいは好機を窺っていたのか。少女が腕を突っ張り、体を引き上げるようにして鉤爪の束縛から逃れる。もんどりうって地面を転がり、すぐに立ち上がった。
少女は慄き折れそうになる膝に力を籠めた。自分の足が恐怖で粘液状生物になっていないことを再確認したのだろう、意を決したように顔をあげ、大地に手指の爪を引っ掛けながらも、這うようにして必死に走り出したのである。
その光景はルシカには見えていたが、古代龍には見えなかったようだ。巨大な眼球のすぐ傍に、魔導の技による魔法陣が展開されていたので、小さな動きまで追いきれなかったのだろう。
獲物を逃したことを知った古代龍は凄まじい唸り声をあげた。大地の砂石がびりびりと振動するほどに。
龍は恒星さながらの瞳にはっきりと憤怒のいろを浮かべ、真っ向から邪魔をした術者に恐るべき視線を向けた。その一瞥は圧縮された空気の塊のようにルシカの意識を――体を激しく打ち据えた。
息が詰まり、一瞬鼓動が停止する。
「……いけ、な、い……」
全魔力を総動員させて自身の生命を護りつつ、ルシカは悔しくも悟っていた。あまりにも知識と魔力が違いすぎることを。神と並び称される古代龍の恐るべき能力を。
塔とルシカとを繋げていた魔力の糸のようなもの――『万色』の魔導士が試行錯誤のすえに編み出した遠隔操作の術の魔法構成すべてを、古代龍に一瞬で見抜かれたのである。
――焦らずともその肉は我のもの。魔導士の娘……邪魔は許さぬ!!
ズンッ!!
ルシカが展開していたふたつの魔導の技が一瞬で破壊された。それはルシカ自身の内なる魔力までも散り散りにされるかと思うほどに容赦ない力であった。
魔導が破壊された反動で、術者の体の周囲の空間で凄まじい衝撃が炸裂し、轟音とともに吹き荒れる。
ルシカは声なき悲鳴をあげた。両の瞳が爆発したかのような痛みと熱とが体を貫き、視界が真っ白な闇に閉ざされる。魔力も気力もすでに限界を超えていた。
抗うも虚しく、ルシカは空中でそのまま意識を失った……。
「……そんなことが……。古代龍が、あの塔を狙っているというのか」
ルシカの話を聞き終わったテロンが彼女を抱きしめ、怒りを湛えた眼をザルバーンがあった場所に向けていた。いまや霞んで見通すことすらできなくなっている、『打ち捨てられし知恵の塔』が残されている方向を。
「すべての生き物の意識を支配し、従わせることのできる古代の宝物『従僕の錫杖』……その構成データはまだそこに残っていたか? まさかとは思うが、塔が狙われる理由といえば、そのくらいしか思いつかん」
クルーガーが、厳しい表情で唸るように言葉を発した。片腕にマイナの肩をしっかりと抱き支えている。マイナは、『従僕の錫杖』が封じられていた自分の胸を掴むようにして、真紅の瞳を震わせていた。
ルシカはテロンの腕にぐったりと体を預けたまま、それでもきっぱりと首を横に振った。
「いいえ。同じ悲劇を繰り返さないためにも、造られたときの記録も分離されたときの記録もすべて、ひとつ残らず消去しておいたわ。でも……龍がそれでもなお塔を狙っているということが……う」
苦しげに息を乱し、深い呼吸をひとつして落ち着いたあと、ルシカは言葉を続けた。
「……錫杖が分離され、関連データがすべて消去されたいま、塔を狙う理由がわからないの。破壊の力を向けてはいたけれど、塔そのものを破壊するものではなかった。古代龍は、外殻部分のみを排除しようとしていた。そんなふうに見受けられたの」
「あの塔の外殻部分には、ルシカが侵入者除けの呪いと、護りのための結界を幾重にも張っていたからな」
そう言ったあと、テロンは妻の体を横抱きにしてゆっくりと立ち上がり、兄であるクルーガーに静かな声音を向けた。
「すまない、兄貴。……ルシカを休ませてやりたい。古代龍のこと、塔のこと、そしてルシカの見たという隣国の魔導士の救助のことは、別室で話し合おう」
腕のなかのルシカは、すでにぐったりとまぶたを閉じていた。話したことで、残っていた体力のほとんどを使い切ってしまったのだ。
クルーガーが頷き、マイナを伴って王宮のなかへと続くバルコニーの出入り口に歩み向かった。ルシカを抱えて歩く弟にちらりと眼をやり、心配そうな表情でふたりの様子を確認している。双子の弟であるテロンの静かな口調が、強い怒りの為であることに気づいていたからだ。古代龍に対する怒りもあるだろうが、魔法に関する脅威からルシカを護ってやることができない自分の無力さにも怒りを感じているのだろうと。
そのとき、バルコニーに歩み出てきた人影がいた。
「ルシカかあさま! テロンとうさま……何があったの、大丈夫?」
意識を失って父に抱きかかえられた母の姿を目にして、心配に顔を曇らせて駆け寄ってきたのは、トルテだった。
「かあさんは大丈夫だ。これから部屋で休ませようと思っている。とうさんは話し合うことがあるから、しばらくかあさんの傍についていてくれないか? トルテ」
「え、あ、はい! わかりました、テロンとうさま」
父テロンの言葉に素直に頷きながら、トルテは握りこんでいた魔晶石の表面を指でなぞっていた。その明るいオレンジ色の瞳には、僅かな陰りと迷いが現れている。
バルコニーから回廊へ、そして階上の部屋へと進むおとなたちのあとについて歩きながら、トルテは祈るように手を胸に当てていた。
夏の午後の強い日差しも、窓を覆うように展開されている魔法陣の薄いヴェールのおかげで、やわらかな光となって部屋を満たしている。窓からは心地よい風が吹き通され、魔法の導きに従ってゆるやかに部屋を巡り、快適な室温を保っているのだった。
部屋には、ふたりの魔導士が座っている。彼女たちの瞳には、この複雑かつ大規模な魔法干渉の庇護の下にある『千年王宮』の内部が、いつもそのように映っているのであった。
けれどいま、天蓋つきの大きな寝台でクッションを背に上体を起こしていたルシカが見つめているのは、必死の想いを内包している娘トルテの瞳だった。
「……重なることは、重なるものなのね」
ルシカはため息まじりに言い、優しげな弧を描く眉を下げた。やわらかな、落ち着いた微笑みになる。部屋を満たしていた緊張はいつの間にか欠片も残さず消え失せていた。
「いいわ。協力する――為さねばならないことなんでしょ? リューナもあなたも、言い出したら聞かないだろうし」
そんな母の言葉を聞き、トルテが安心した表情になった。次いで、楽しげな笑いを洩らしてしまう。
「何か言いたそうね? トルテってば」
「あ――いえ、ううん。えっとね」
トルテがぴょこんと跳ねるようにして椅子から立ち上がり、歩いていって母の傍にポスンと座った。少しだけ遠い眼をして、ゆっくりと懐かしむように言葉を続ける。
「……さっきの台詞、テロンとうさまがよく言っていたのとそっくり同じだったから。ルシカは言い出したら聞かないって」
ルシカは眼を見開き、同時に噎せた。そうして眼が合ったトルテと一緒に、弾けるように笑い出した。どちらの表情にも曇ったところはなかった。穏やかな時間を象徴するかのような、心の底からの愉しげな笑いであった。
ひとしきり笑ったあと、ルシカは優しげな母の顔になって腕を伸ばし、想いをこめてしっかりと娘の背を抱きしめた。
「行ってらっしゃい……トルテ」
「ありがとう……ルシカかあさま」
「いいのよ。そのかわり、ふたりとも無事に帰ってくるのよ?」
ルシカは娘の体を離し、その瞳を覗き込むようにして念を押すように言った。そっくり同じ、朝に昇る太陽のようなオレンジ色の瞳が見つめ合う。そのどちらもが相手の心配を払拭するようにやんわりと細められ、あたたかい微笑みのかたちを成した。
「はい。約束します――無事に帰ってくると」
その言葉に深く頷いたルシカは、娘の手のひらに自分の魔力を注ぎ込んだ魔晶石を握らせた。
その魔晶石を胸に押し抱いたトルテは顔を輝かせ、すぐに立ち上がった。
「ありがとう、ルシカかあさま。行ってきまぁす!」
「気をつけてね――トルテ」
跳ねるような足取りで部屋を出て行った娘の背を見送り、ルシカは全身の力を抜いた。力を使い果たしたように後方にそのまま倒れ込む。あてがわれていたクッションに体が沈み、やわらかな金の髪は裳裾のようにふわりと広がった。
ルシカは小さな吐息をついた。
「歴史の宝珠……投じられた一石。それがこれからの形勢をどう決するのか……ね」
そうつぶやいたあと、ルシカはゆっくりと瞳を閉じた。いまの彼女に残された余剰の力はなかった。これからのことを考えても、いまは少しでも魔力を回復しておかなければならないのだ……。




