1章 歴史の宝珠、投じられた一石 6-1
透明度の高い硝子が半円を描くように外へ広がる大きな出窓は、あふれる太陽の光と温もりをいっぱいに取り込んでいた。
思わず飛び込みたくなるほどに気持ちの良さそうなクッションが敷き詰められ、天井からは透けるほどに薄く繊細なレースが垂れ下がっている。周囲の棚には、ふわふわのドラゴンドールやひらひらした服を着せられた人形、どこが可愛いのか何を模しているのか正体の知れないモコモコしたぬいぐるみなどが並べられていた。
「うーん。ハイラプラスさんの本、どこに置いたんでしたっけ」
ここはトルテの私室だ。午後の光がレースを透かし、やわらかな色模様を描く部屋のなかを、トルテが軽やかな足取りで歩き回っている。せわしなく顔をあちこちに向け、困ったように首を傾げながら。
「人の名前や顔、いろんな知識はすっげぇ記憶しているくせに……。方向とか道とか物とかはす~ぐ忘れちまうのな、トルテ」
リューナは腰に手を当てて部屋を見回し、無遠慮な口調で幼なじみにツッコミを入れてはいたが――実は部屋に入ったときから、どきどきと胸の鼓動が高鳴りっぱなしなのであった。
可愛らしい細工の施されたテーブルの上にちょこんと座らされているのは、彼女の手縫いのぬいぐるみだ。瓶や羽ペン、便箋やノートの類はきちんと揃えられている。淡い色合いの花は部屋中あふれるほどに飾ってあった。
アクセサリーが入った宝石箱のなかに魔石がいくつも交じっていたり、きれいな装丁の詩集と一緒に古びた魔導書や歴史書が並んでいるさまは、彼女らしいインテリアのアクセントになっている。部屋を満たしているのは、鼻腔をくすぐる甘やかな香りだ。
トルテは、リューナにとって物心つく前からずっと一緒に過ごしてきた幼なじみである。今まではトルテの部屋に入って緊張することなどなかったはずだ。だが、過去世界で過ごした時間と様々な経験を経て、トルテに向けている気持ちが幼なじみ以上のものであると認識したときから……彼女に対するリューナの意識は変わっていた。
なのに彼女はリューナのことを異性として意識してくれているのかいないのか、あまり態度が変化しているようには思えなかった。リューナ自身は苦しいほどに気を使っているというのに。それというのも、いまは滅びてしまった魔法王国の王都メロニアの隣接していた庭園で、はじめて触れた彼女の唇が――。
「ありました!」
突然部屋に響き渡った彼女の声に、リューナは文字通り跳び上がった。ぎくしゃくと彼女のほうに向き直り、「そ、そうか」と上擦った声で何とかかんとか返事をする。
「良かったぁ、見つかって! あたしったらベッドの上に置いていて、寝ているうちに反対側に落っことしてしまったんですね」
よく知っている人物が書いたものだからいまいち認識が甘くなっているのかもしれないけど……一応いにしえの魔法王国期から遺された貴重な文献なんだぞ。リューナはトルテの無邪気な笑顔を眺めながら、心の内でため息をついた。ハイラプラスのおっさんが聞いたら嘆くんじゃないか?
脳裏に浮かんだなつかしい顔に、思わず口元が緩んでしまう。ともに世界の存亡をかけた戦いを乗り切り、そのあとで遠く隔たってしまった大切な友人たち。距離ではない――隔てているのは『時間』なのである。二度と会えないことはわかっている。わかってはいるが……。
「ディアンのやつ……あれから元気でやってたのかな」
うっかり洩れた淋しげなつぶやきに、トルテが長いまつげを瞬かせた。本を抱えたまま、リューナの傍まで静かに歩み寄ってくる。腕を引っ張られたリューナは、思わず身をかがめた。
トルテは眼を伏せてつま先立ちになり、リューナの頬に唇を当てた。軽やかな音と、やわらかな衝撃。
「……元気出してください、リューナ。みんな元気で、幸せに暮らしています。間違いありません」
トルテは優しく囁いた。光のあふれる部屋のなかでゆっくりと微笑み、真っ直ぐな眼差しを向けてくる彼女は、とても大人びて見えた。リューナのほうが四つも年上だというのに。
「――ああ、そうだな」
トルテはこちらの気持ちを正しく理解してくれている。リューナは安堵にも似た温もりが胸を満たすのを感じた。こみあげてくる想いのままに微笑みを返し、腕を伸ばして目の前の細い肩を引き寄せる。目元を染めて俯きかける彼女の頬に、自分の手のひらを添えて仰向かせた。ふっくらとみずみずしい唇に、首を傾けるようにして自分のそれをゆっくりと近づけ――。
ガツッ!
「痛ってぇ!」
「――あっ、ご、ごめんなさいっ」
足先に突き刺さるように感じた、鋭く重い痛み。トルテの腕の力が緩んだことで抱えられていた分厚い古代の文献が滑り落ち、リューナの足を直撃したのである。ちなみに、遺跡探索のときに履いているような硬い革ブーツではない。かなり痛かった。脳天にまで響いたくらいだ。
トルテが慌てて『治癒』を行使しようとするのを制し、リューナは何とか立ち直った。
「ッテテテ……俺は大丈夫だ。それより文献、平気かな。頑丈なのが特徴の古代魔法王国の本だけど――」
かがみこみ、手を伸ばしかけたリューナは動きを止めた。
落ちた衝撃で、文献が開かれている。表紙の次にある白紙のページに、文字が綴られているのに気づいたのだ。
「これは……手書きのメッセージ?」
リューナが言い、トルテが覗き込んだ。この文献が書かれた時代と同じ魔法王国末期に使われていた表記文字だ。美しくキレのある、流れるような筆跡で書かれ、数行に渡り綴られているメッセージ。その最後にあったサインは――。
「ハイラプラスのおっさんッ!?」
リューナが叫ぶ。それは間違いなく、この文献を書いた本人『時間』の魔導士ハイラプラスの書き残したメッセージだった。「おっさんではないのですが……」という声までもが聞こえてきそうなほど、擦れもしていないあざやかなサイン。すなわち、ハイラプラス・エイ・ドリアヌスシード、と。
「驚きましたわ。ハイラプラスさんの名前って、綴るとものすごく長いのですね」
「突っ込むべきところはそこじゃないぞ、トルテ。にしても……こんな走り書き、あったっけ?」
怪訝そうに首を捻り、リューナは綴られた文章を読んでみた。文字を追っていた瞳が震え、見開かれる。リューナは首筋の毛がぞわりと逆立つのを感じた。
「これって――!」
リューナは眼を見開いたままトルテを見た。彼女も緊張に表情を強張らせたままリューナを見ていた。その顔がみるみるうちに蒼ざめていく。
「リューナ。これがもし本当なのだとしたら、大変なことですよね……あぁ、どうしましょう!」
走り書きを読んだリューナ自身も激しく戸惑っていたが、何も言わずトルテを抱きしめた。彼は自分の唇を噛んだ。どうすればいいのか……? そんなのは決まっている。放っておけないのだ――俺もトルテも。だが……しかし。
混乱する頭のなかで、リューナは必死に考えを巡らせた。あの銀髪の研究者は比類なき天才であり、決して判断を誤ることはなかった。言葉を受け取ったリューナとトルテがどうするのか、それを見抜いたうえでハイラプラスはメッセージを残したに違いない。
リューナはトルテの肩を掴み、そっと体を離した。彼女のオレンジ色の瞳を覗き込み、決然と言葉を発する。
「俺たちは、行かなければならない。そうだろ? トルテ」
揺れていた瞳が落ち着き、トルテは頷いた。眼の端に残っていた涙を指先で払い、心の底から安堵したような笑顔になった。
「はい! 行きましょう、リューナ!」
陸の孤島とも称される、絶壁に囲まれた不毛の大地。
そこは大陸の中心にあり、地続きであるにも係わらず周囲からきっぱりと隔絶された場所であった。
理由は、その大地が存在している標高にある。三千リールを超えているのだ。しかも、その標高に至るまでに障害となるのが、山脈の麓から登ろうとするものを拒絶する断崖絶壁『ソルナーンの壁』、そして周囲にいくつもある四千リール級の高峰だ。自在に空を飛べる飛翔族の冒険者であっても、容易に到達することができない場所である。
その大地の只中に、『打ち捨てられし知恵の塔』と呼ばれていた魔法王国中期の建造物が聳えている。いにしえの宝物『従僕の錫杖』が造られ、また、葬り去られた場所であった。秘宝と繋がっていたマイナはその連鎖から解き放たれ、塔はその役目を終えていた。現在は、忘れ去れられた石碑さながらに沈黙している。
そこより南へ寄った場所、『ソルナーンの壁』として大地がすっぱりと断たれて絶壁となる際に、雄大な光景と比べると粒のようにちいさく儚げな白い影がひとつ、降り立った。
パサリ、と微かな羽ばたき音を最後に動きを止めた人物は、そっと息を潜めるように身をかがめた。小柄で華奢な姿をしている。周囲に気配や物音ひとつないことを確認して、その人物は大きく息を吸い、大仰な動作で腰の後ろを叩いた。
「あぁ、疲れたぁ」
どこか幼さを感じさせる、明るい声と砕けた口調。
その人物は顔をあげた。纏っている外套の頭巾がするりと背に落ちる。現れたのはまだあどけなさを残す顔立ち。十四歳ほどの少女だ。薄桃色の髪がさらりと揺れ、赤く透き通る瞳が陽光に煌めいた。色の薄い空高く、キラキラと渡ってゆく輝きに惹かれたように視線を上に向けている。高峰のどこやらから氷粒のような雪が吹き運ばれてくるらしい。
「きれい」
素直につぶやいた途端、ハックシュン、と盛大なくしゃみをした。
太陽の光は強いが、気温はすこぶる低い。加えていうなら空気も薄かった。体の周囲に幾重にも張り巡らせてある魔導の技の保護がなければ、他種族よりも骨格の細く贅肉の薄い種族である彼女は、歯の根も合わないほどに震えていたであろう。
彼女は飛翔族なのである。大陸の中央から南に位置している王国タリスティアルに住まう魔導士。使い手としては大陸に両手の指の数ほども残っていない、古き血とともに受け継がれる強大な魔法の力――魔導の技を自在に操れる存在のひとりなのだ。見かけは何とも頼りなげな、無邪気な顔立ちのあどけない少女であったが。
「あぁ、寒いなぁ……」
言わずもがなな言葉をつぶやき、背中にある純白の羽毛で体を包み込むようにして歩き出す。その足元で、草ひとつ育たない大地の礫岩がザリザリと音を立てた。雪はとりあえず消え失せているとはいえ、顔を上げれば山岳氷河と呼ばれる白の光景が遠く見渡せた。
彼女の故郷――夏を迎えたタリスティアルでは、濃い緑の生い茂った森が黄色の花のいろに染まり、黒い縞模様の緑瓜がごろごろと畑に転がり育っているというのに。水を多く含んだその実を割れば、中は吃驚するほどにあざやかな赤の色彩が詰まっているのだ。シャクシャクとかじりつくときの食感と甘く爽やかな味とを思い出したのか、少女はさも残念そうな様子でため息をついた。
なおもぶつぶつと言いかけた少女は、ふいに表情を引きしめた。
「ザルバーンの東斜面が崩れてる……」
魔導の技『遠見』によって注視していた光景のなかに、異常を捉えたのだ。氷河の一部がぽっかりと蒸発でもしたかのようになくなっている。それは、さほど過去のことではないらしい。雲のように白く凝った水蒸気が周囲を漂い、いまも岩のようなかたまりが雪崩れるように転がり落ちているさなかにあった。
事実を目の当たりにして、彼女は驚きに眼を見開いた。天空に突き上げられた大地の剣先のような最高峰ザルバーン――悠久の時を越えてきた姿が、もろくも崩れ去りつつあるのだ。
実は彼女は、今朝から言い知れぬ強い不安を感じていた。彼女が持っている魔導の力ゆえなのかもしれないが、何かが起こる兆しを感じ、行かねばならない気がしていたのである。屈強な冒険者であっても飛び越えるのは不可能とされる『ソルナーンの壁』も、魔導士である彼女にとっては越えられぬものでもなかった。
「どういうことなのかなぁ……特に異常な温度上昇もなかったし、地震も発生していなかったはず。山岳氷河が消失する原因なんて、どこに」
言いかけた彼女は、ギクリと身を竦ませた。――足元に影が落ちている。それはみるみる広がり、濃くなっていく。
周囲を圧倒するような重圧感。肌を突き刺すような嫌悪感、そして畏怖。震える瞳を励ましながら、彼女はのろのろと顔をあげた。
薄水色の空は見えなかった。視界いっぱいに広がり頭上を覆い尽くしていたのは、ただ一面の影。
彼女は見た。創世の時代より現生界の頂点に君臨し、天空を蹂躙する王者の真なる姿を。
「こだい……りゅう……?」
かすれた声が喉から押し出される。羽ばたきが巻き起こす風がかなり離れた地面を叩き、小石や砂を巻き上げている。圧倒的な体躯、その巨大さ。もはや逃げることも隠れることも叶わない。
少女が立つ場所は、古代龍の真下であった。地面に沿って首をちょいと振り抜かれれば、ばらばらに砕かれてしまうほどの至近距離だ。
魔導士という古き血を継ぐ彼女であっても、神と並び称されるものを相手にして、他に何ができただろうか。恐怖のあまり蒼白になった顔のまま立ち尽くし、掠れた悲鳴をあげることの他に……。
ミディアルからもたらされた報せは、不穏と破滅をはらんだ先触れであった。王宮を――王国とその周辺すべてを震撼させることになる事件の幕開きとして。
「国王陛下、大変ですッ!」
そろそろ公務に戻らねば、とクルーガーが立ち上がり、それならばルシカを部屋で休ませてやろうと考えたテロンも続けて立ち上がったタイミングだった。
静かであった王宮のバルコニーに、バタバタと騒々しい足音が響き渡る。まろぶような足取りで急ぎ駆け走ってくるのは、情報収集を任されている大臣のひとりニルアードだ。近年さらに腹のあたりに肉がついて動きが緩慢なものとなっているが、その形相はこの上もなく真剣で必死であった。
「どうした――何事だ?」
クルーガーが表情を引き締めて背筋を伸ばし、よく通る声で尋ねた。只ならぬ気配を察したマイナが、傍らの椅子から蒼白になって立ち上がっている。
「ミディアルの図書館を管理している観測官リオナルディから連絡が入りました。フェンリル山脈の最高峰ザルバーンが崩れかけているとのこと……!」
「ザルバーンが……?」
「あそこには、古代龍が眠っているという噂があるわ」
間髪を容れずに応えたのは、宮廷魔導士でもあるルシカだった。昇りたての太陽さながらの明るいオレンジ色の瞳が、凶兆を感じたときのように見開かれ、白き魔導の光を宿して揺れている。
すべらかな頬を強張らせ、彼女は椅子から立ち上がった。




