プロローグ2 平和の王国
「テロンとうさま! ルシカかあさま!」
弾んだ声がバルコニーに響き渡った。発音の明瞭な、耳に心地よい華やかな声だ。
呼ばれたふたりが、王宮のほうに顔を向ける。声の主は、テロンに似た真っ直ぐでクセのない金色の髪、ルシカと同じオレンジ色の瞳をした十四歳の少女だ。細く小柄な外観だが、まさに成長期らしい健やかな肢体で、小気味良い足音をたてて駆け走ってくる。
あまりに元気いっぱい、宮廷に住まうレディーとは思えないほど伸びやかな行動に、バルコニーの入り口で静かに待機していたメルエッタが小声で鋭く彼女をたしなめた。が、その声はどうやら本人の耳までは届かなかったようだ。
「トルテ」
「何かあったのかしら?」
テロンとルシカの声が重なる。トルテというのは愛称であり、トゥルーテというのがふたりの娘である彼女の名だ。トルテには瞳の他に、もうひとつ母親に似ているところがあった――何もない場所であっても、非常に転びやすいのだ。
「――っと、あぶねぇ!」
つまずき転びかけたトルテの腕を掴んでかばったのは、その後ろに続いていた青年リューナだ。
彼らふたりはグローヴァー魔法王国の滅亡の真相である『失われた歴史の輪』を探るべく、幼いときからずっとその魔法王国が遺した秘宝『歴史の宝珠』を探し求めていた。発見し持ち帰ったあと、偶発的に『時間』を越えてしまい、先々週にようやく過去世界の冒険から無事戻ったばかりなのである。
別々に戻ってきたふたりだったが、リューナのほうだけが二年の年月を多く経ており、以前より落ち着いた印象を受けるほどに成長していた。本人の過ごした時間でいうと、現在は十八歳だ。
過去世界では、成り行きとはいえ五種族の王のひとりとして人間族の民を導いたのだという。同じく王として飛翔族を統べていた翼ある青年ディアンとともに、無理に背伸びしてでも成長せずにはいられなかったのだろう。
「ありがとう、リューナ」
「急がなくても大丈夫だろ。落ち着けよ、トルテ」
「はぁい」
額をコツンと小突かれ、トルテがちいさく舌を出した。すぅっと大きく息を吸い込んでからにっこりと笑い、バルコニーの大人たちに向き直った。膝を折るようにして、典雅な宮廷式のお辞儀をする。
「クルーガーおじさま、マイナさん、こんにちは」
そう言って、トルテがおしとやかに挨拶をしたのも刹那のこと。すぐに顔を輝かせて傍らのリューナの腕を引っ張るようにして、嬉しそうな声をあげる。
「あのねっ、とってもおもしろい手紙が届いたんです! ね、リューナ。おとうさまからなんでしょ? 凄いよね、メルゾーンおじさまって!」
もしもメルゾーンが耳にしたら狂喜乱舞しそうなことをあっさりと言って、トルテはオレンジ色の瞳を輝かせながらぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「えっ、うわっ! とと、トルテ。わかったよ、わかったから落ち着けって」
「ふむ……メルゾーンが一体どうしたって?」
クルーガーが、ちょっぴり不機嫌そうな声を出した。
メルゾーンというのはリューナの実の父親の名だ。ファンの町にある魔術学園の現学園長であり、テロンやルシカたちにとっては一緒に肩を並べて戦った仲間であり、優れた実力の魔術師でもある。だが――場合によっては心情的に、とてもとても迷惑で危険な人物にもなり得る相手なのだった。ある意味、敵よりも。
「メルゾーンがどうしたんだい?」
トルテの父テロンが重ねて訊いた。問われたトルテがリューナに視線を向け……向けられたリューナの瞳に、諦めと承諾の光が掠め過ぎる。彼はポケットに片手を突っ込み、中から手のひらに握りこめるほどの大きさの輝石を取り出してテーブルに置いた。キラリと輝いたそれは、多面体の魔石であった。
「別に隠すことでもないし、ここで開いても構わないけど……どうせ親父からの言葉なんてロクでもないぞ? 恥ずかしいからあまり披露したくないんだけど。トルテが見たいってんなら、仕方ねえか」
「魔石? 手紙と言っていなかったか?」
好奇心旺盛なクルーガーがさっそく覗き込み、マイナも真紅の瞳を輝かせた。ルシカはその正体をひと目で見抜いたらしく、何ともいえない表情になり、すでに魔石から眼を逸らしている。マイナはルシカと同じ魔導士だが、それほどに知識が広くないので、むしろ興味を惹かれたようであった。
「魔石の内部に、魔法語の羅列が刻みつけられているみたいです……けど、彫ったりしたものではないみたいですね。不思議です。光を屈折させて、直接文字として綴っているみたいにも見えますね」
「親父からの伝言、最近はこういうかたちで届くんだ。魔法の仕掛けやら新しいものが大好きな親父だからな。便利なのかもしれないが、周囲が迷惑に思っていてもお構いなしだから困る……」
ぶつぶつと愚痴めいたことをつぶやきながらリューナが腕を伸ばし、魔石の表面を叩いた。
弾けるような音と光とともに、実物大の男の顔が現れた。ぎょっとしたマイナが仰け反ってしまい、椅子から落っこちかけた。吊りあがり気味の眼、多少はっきりし過ぎている鼻と顎のライン、赤っぽい金髪、そして男にしては甲高い声。メルゾーン・トルエランだ。
立体映像として組みあがった顔は、カッと眼を見開き、喉の奥まで見えそうな勢いで一気にメッセージをまくしたてた。
『――こッんの、放蕩息子がああッ!! いつまでもそっちで遊んでないでさっさと戻って来いッ! 過去世界で遊び呆けていた二年間分、みっちり勉強してもらうぞ、覚悟しておけ。教育課程がすべて終わるまでシャールの作るポテトサラダのサンドイッチはおあずけだからなッ!!』
映像は、現れたときと同じようにポンと音を立てて弾け消えた。
まるで嵐が過ぎ去ったあとのような雰囲気に、トルテがぷっと吹き出し、リューナが頭を抱え、マイナはポカンと呆けたように動きを止めていた。他のものは「やれやれ」とでも言いたげな表情でカップを傾け、紅茶の残りを口に含んだ。
「……いつまでも子どもじゃないっつーの、親父め。それに俺、過去で遊び呆けていたわけじゃないんだけどなぁ……」
顔を手のひらで覆うようにして、リューナがぼやく。
「いろいろ大変だったんだぜ。人口増加の食糧問題や、魔導の技に頼りっぱなしだったライフラインの見直しやら、魔法王国の体制の解体やら。遊んでいるヒマも寝るヒマもない二年間だったのにさ」
「リューナはずっと頑張っていました。信じています。あたしが保証します!」
ぶつぶつつぶやくリューナの横で、トルテが力いっぱい頷いている。その様子を眺めていたクルーガーが、ニヤリと意地の悪そうな笑みを口の端に浮かべ、年下の青年に視線を向けた。
「ほほぅ、浮気をする暇もなかったというのかァ」
「ばッ……!!」
からかうような口調に、リューナの顔がカァッと赤くなる。
「俺はそんな器用じゃねぇよ! フン、そーいう国王はどうなんだよ! 十五年間も独身で、うわついた噂ひとつなかったなんて言わせねぇぞ!!」
「お生憎さまだな。俺はマイナひとすじなんでね。結婚の約束をしておいて、自分から裏切ることをする気はぜんぜんなかったさ」
「まあ、確かに――」
「――噂ひとつなかったわね」
テロンとルシカが互いの顔を見合わせながら言った。
女性好きだと噂が絶えなかった青年が打って変わったように真面目になり、本気で唯ひとりの少女を愛したのだ。幼い頃からのお目付け役でありお節介焼きのルーファスまでもが、そのひたむきな姿勢を目にして、嫁だの世継ぎだのと言い続けていた口を閉ざしたくらいなのだ。
「そ、そうだったんですか」
テロンとルシカの言葉に、テーブルの上のカップに伸ばしかけた手を止めたマイナが頬を染めた。真っ赤になってうつむき、熱くなった頬を自分の手のひらで包み込んでいる。クルーガーが腕を伸ばし、その手を優しく握りしめた。青い瞳に想いを込めて微笑む国王に、少女が幸せいっぱいの笑顔で応える。
「チッ、やってらんねぇぜ。――トルテ、行こうぜ。ほったらかしの『歴史の宝珠』の封印もしなきゃならないし、図書館棟から借りっぱなしのハイラプラスのおっさんの本も、いい加減、返却しなきゃなんねぇし」
あまりの溺愛ぶり相思相愛ぶりを見せつけられて、リューナが舌打ちする。照れているのか怒っているのか判然としない口調でぶっきらぼうに言い残し、くるりとテーブルに背を向けた。耳まで真っ赤になっている。
「あ、待ってください。リューナ」
トルテが慌てて声をあげ、肩を怒らせて歩み去る青年を追いかけていった。
「若いなァ」
ふたりの背を見送り、クルーガーが妙に嬉しそうな笑顔になって言った。そして、ふと思い出したようにルシカに顔を向け、真顔になって問いかける。
「そういえば、『歴史の宝珠』のほうの扱いはどうするつもりなのだ。さきほどリューナは封印するとか言っていたが、魔力を充填すればまだまだ使える状態にあるんだろう? 『時間』を越えることが可能だというのならば――もし誰かが過去に行って歴史を変えてしまったら、どうなる。もし世界の在りようが変わってしまったら?」
クルーガーはそこまで言って首を振った。椅子に背を預け、長く息を吐くように言葉を続ける。
「すでに我々の理解の範疇を超えている……結果はまったく見当もつかんよ」
「そうね……『時間』の魔導士であったハイラプラスの文献には、パラドックスという問題は回避されるものだという見解が記されていたけれど……あたしとしても過ぎ去ったはずの歴史にあれこれ介入するのは危険だと思うの」
「ヴァンドーナ殿のこともあるもんな」
ルシカの言葉にテロンが補足しようとした。彼の『時空間』の大魔導士であっても、都合よく過去を変えたりはせず、あるがままの時間のなかで生きていたことを。
「……うん」
オレンジ色の瞳がうるみ、亡くしてしまった祖父を偲んで揺れた。重苦しくなってきた雰囲気を変えようとしたのか、クルーガーがことさらに明るい声を張り上げた。
「そういやさ。ここへ来る直前、ルシカが屋敷からミディアルへと届けた品というのは『魔晶石』だったんだろう? 『時空間』の大魔導士ヴァンドーナ殿の魔導の技と知恵を結集させて作った石というのならば、何やら凄まじい力でも秘めていそうだよな」
『魔晶石』というのは、この世界の森羅万象を満たしている魔力の純然たる結晶体だ。輝石を磨いて魔力を付与している魔石と違い、遥かに強力なものであり、また遥かに価値の高いものであった。自然にできる代物ではない。類稀なる力を持つ魔導士や錬金術師の手によって、人工的に生み出される石である。
顔をあげたルシカは唇に指を当てるような姿勢で考え込んでから、おもむろに口を開いた。
「そうね。秘めている魔力の強さは、肌に感じられるくらいに凄まじいものだったわ。過去の記憶を細かなところまで完璧に再現するための魔晶石よ。だから今回、ミディアルのみんなが借りたいと言ったのは――」
「ルシカ」
テロンが小声ながらも、ルシカに鋭く注意を促した。慌てて言葉を切ったルシカが、「あわわ」とばかりに自分の口を手で塞ぐ。内緒だったことを思い出したかのように。
内密に願います、と頼み込まれたのは事実である。ミディアルの自治を任されている市長が、図書館を預かる文官たちとともに、クルーガーとマイナの結婚の祝いにサプライズとして贈り物をこっそり用意しているのだ。
今回、ルシカが幾重にも結界を張り封印していたヴァンドーナの屋敷内からその魔晶石を運び出し、急いでミディアルに届けたのはそんな理由があったからだ。クルーガーとマイナの恋物語や新王の戴冠を含めた物語を、ステンドグラスで綴り残そうという計画らしい。
まったくもってミディアルという貿易拠点都市は商魂たくましい。魔晶石を届け、市長に話を聞いたテロンとルシカはしみじみ思ったものだ。ステンドグラスを展示保存するその建物を、ゆくゆくは記念館として観光客向けに公開し、入場料をとろうというのだから。
「おかげでこちらはルシカに魔導の力を立て続けに使わせることになり、消耗させてしまうことになったわけだが……」
テロンは心の内でつぶやいた。魔法に関する制約に縛られることのない万能の力、『万色』の魔導士とはいえ、ルシカは死すべき定めに縛られている人間に変わりはないのだ。無理を続ければ当然、体調を崩すこともあるし倒れることもある。ただ本人が周囲に心配をかけまいとして、平気そうに振舞っているだけなのだ。
いまも隣で微笑みながら紅茶のおかわりを淹れてもらい、ふたりと楽しそうに談笑しているルシカだが、その目元が少し落ち窪んでいることにテロンは気づいていた。細い肩は熱い夏の日差しの下にあってもなお、微かに震えているようにもみえた。
「いますぐにでも抱きあげてベッドに運び、寝かせてやりたいくらいなのだが」
テロンはそっとため息をついた。
疲れているはずなのに、誘われたお茶のテーブルに喜んで同席しているルシカの姿が、いじらしくも愛おしい。ここを退席したあとには、ゆっくりと眠って回復してほしい――テロンはそう願いながら愛妻の様子を見守り続けている。
件の魔晶石は、ミディアルの都市の中枢部まで無事に届け終わった。王宮に戻る前、つい先ほどのことである。ミディアルと王宮の『転移の間』が繋がっているからこそ早くもあり、またルシカが開門のために魔力を行使した結果となった。気力は戻っても、失った魔力まですぐに回復できるものではない。
魔晶石を取り扱うために綴られた『真言語』の文献も、魔導士ではない者がその文字を読むことができる『読解』の魔法記述とともに残してきた。今回の依頼は果たしたのだ。
そう、ゆっくりと心ゆくまで休んでも良いはずであった……。
――時は来た!
永劫に閉ざされていた凍てる闇のなかで、一対の瞳がカッと開かれる。
数多の星雲を封じ込めたかのような濁りを宿す眼球が白熱して闇を焼き、舌なめずりをする顎が開かれたことで長い年月動くことのなかった高峰の斜面がひとつ、脆くも崩れ去った。地上のどのような岩石をも溶かす灼熱の吐息は、山岳氷河を蒸発させ天空に雲を成すのであった。
――我が願望を成就させるため、いまこそが動きはじめる好機。
のっそりと立ち上がった影は、凄まじいまでの威容さと邪悪さを併せ持っており、この世界の何よりも危険な気配を纏っている。
鋼めいた強固な口の皮膚をめくりあげるようにして、彼はニヤニヤと嗤った。眼下に広がる、大森林に覆われた緑の大地と、横たわる大河の煌めきを瞳に映しながら、真に狙うものすべてを同時に見据えているのであった。
彼は目覚めた。霊峰ザルバーンの深奥にて。
――待っておれ、ソサリアの国王ども。そして魔導士の娘たちよ。我が礎となり、我が願いの贄となれ……!




