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ソサリア魔導冒険譚  作者: 星乃紅茶
【第六部】 《古代龍と時の翼 編》
149/223

プロローグ1 平和の王国

 彼は、ながらく待っていた。


 永遠とも呼べる寿命を持つ身には、数千年の時間の経過など、ほんの刹那に過ぎないともいえる。


 神と並び称される存在ではある。だが、決して同じではない……彼とて死すべき定めに縛られた生き物なのだ。


 現生げんしょう界に生きる他種族――たとえば人間族、飛翔族、竜人族、エルフ族、魔人族などのように生きる時間が短いものには、彼の生きる時間は果てのない永遠と然程さほど変わらないのであろう。


 重いまぶたがゆっくりと持ち上がり、数多あまたの星雲を封じ込めたかのような濁りのなか白色矮星にも似た輝きを放つ瞳が現れた。瞳は動き、閉ざされているはずの空間から遥か下に広がる地表をめ付けるようにじっくりと眺め渡した。


 ――まだだ。いまはその『時』ではない。


 彼はゆっくりと眼を閉じ、再びまどろみの常闇とこやみへと沈み戻っていった……。





 現生界において、一番の面積と人口を有している大陸トリストラーニャ。主要な五種族が統治する大小十五もの独立国が存在し、いくつもの山脈や平原、草原、そして森林地帯や砂漠地帯など、ひとの住まう領域と自然、そして魔の領域が隣合う大地であった。


 その大陸の北部に、比較的大きな国がある。冬の寒さは厳しいけれど実り豊かな緑の領域が広がり、そのすみずみまでを潤おしている大河の流域が国土のほとんどを占めている。魔の海域と呼ばれるグリエフ海に開けた三角江エスチュアリーに王都を構え、陸路や海路のかなめとして発展した四つの大都市を有している。


 人間族の王が統治するその国の名は、ソサリア王国。


 現在は歳若くして王位を継いだ兄クルーガー・ナル・ソサリアが平和のままに治めており、彼の双子の弟であるテロン・トル・ソサリアが『万色』の魔導士ルシカとともに王国の陰の護り手となってその統治を助ける良きパートナーとなっている。


 王都であるミストーナの大都市は、大河ラテーナの河口付近にある。その名物ともいえるのが奇跡の建造物であり、王国の中心となる『千年王宮』だ。


 揺るぎなく建てられた白亜の壁や柱のひとつひとつは、その全てが互いに干渉しあって強大な守りの魔法陣を展開しており、戦乱や邪神襲撃をくぐり抜け、すでに文字通り千年を越える月日を経ているのであった。


 抜けるような青空の下、そのソサリアの『千年王宮』では――。





 白いバルコニーの一角に日よけの薄布が張られていた。海から吹く風に揺れ、さらりさらりとすずやかな音をたてている。そのバルコニーへ続く王宮内の空中回廊から、ふたつの人影が歩み出てきた。


 人影のひとつは歳若い、少女とも呼べる外見の可愛らしい女性だ。動きやすく上質な素材で仕立てられた、甘やかな色彩のドレスに身を包んでいる。もうひとつは毅然と背筋を伸ばし、落ち着いた色合いの制服を着込んだ老女のものだ。


 銀の盆をことさらに注意深く運んで先行しているのは少女のほうだ。夏の陽光のもとに晒されてきらきらと輝く紅玉髄カーネリアン色の瞳が印象的であり、つややかな長い黒髪をふたつに分けて結い上げていた。


 盆の上に並んでいるのは、繊細な装飾を施されたカップやソーサーだ。おぼつかない足取りに、カチャカチャと鳴っている。後ろに続いている老女も、はらはらと気が気ではないらしい様子で少女の小さな背中を見守りつつ歩いていた。


 向かう先は、王都の街並みと大陸有数の規模を誇る港、そして広大な三角江エスチュアリーを見渡せるバルコニーの端に並べられているテーブルだ。


 そのテーブルに着いていた男がひとり、顔をあげた。威風堂々とした物腰でありながら、快活そのものの眼差し、白を基調にした王衣と流れる金色の髪をして、顔立ちは歳を感じさせないほどに端正なものである。


「マイナ」


 男はこの上なく嬉しそうな笑顔になり、少女の名を呼んだ。


「クルーガー、待っててくださったのですね!」


 少女も花が咲き染まるようににっこりと微笑み、ほっと息をついたのも束の間……「わわわっ」とばかりに体勢を崩してしまう。手にしていた盆が傾き、薄い陶器の茶器が宙を舞う。少女自身の体も白石を敷き詰めた床に向けて倒れかかった。


 男がひと息に立ち上がり、風のように動いた。まだ数歩あった距離を一瞬で詰め、小さな手から離れていた盆を空中でつかみ、衝撃を与えぬよう流れるように優雅な動きで紅茶セットをひとつ残らず盆の上に受けとめてみせたのである。


「……あ……あれ?」


 少女はぱちぱちとまばたきをした。床に衝突しかけていたからだは力強い腕にしっかりと抱きとめられており、砕いてしまったはずの陶器のカップなどは全てきちんと目の前の盆の上に並んでいる。


 ようやく状況を理解し、吃驚びっくりしたように見開かれた紅玉髄カーネリアン色の瞳のすぐ傍に、にっこりと優しく微笑んでいる瞳があった。まるでいま頭上に広がっている夏空のような色をした、男の青い瞳が。


「あ、ありがとうございます、クルーガー」


「怪我はないか? マイナ」


 クルーガーと呼ばれた男は、口の端を引き上げるようにしてニッと笑った。マイナが真っ直ぐに立てるよう手を貸し、背筋を伸ばして銀の盆をテーブルに置く。そして何事もなかったかのように席に戻った。ゆったりと椅子に背を預けながら、婚約者である少女に声をかける。


「メルエッタのマナー教室はどうだ? ……窮屈な思いをさせてすまないな、マイナ。大臣どもが礼儀作法にうるさくてな。マイナは微笑んで立っているだけで周囲の雰囲気を明るくするのだから、それだけで良いと俺は思っているのだが」


「そういうわけにも参りませんよ、クルーガー国王陛下。マイナ様は陛下の花嫁となられ、同時に王妃としてこの王国を支え立つことになるのです。覚えることは山ほどあるのですから」


 湯を入れたポットをテーブルの上に置きながら、メルエッタがはしばみ色の瞳を光らせながら教師然とした声で言った。


「手厳しいなァ。マイナが俺との結婚を考え直しでもしたら、どうしてくれる」


「そっ、そんなことはゼッタイにありません! わたし頑張りますから!」


 クルーガーの軽口に、真面目な顔をしたマイナが首を横に振りながら声をあげた。長い黒髪が元気に揺れている。そのあまりの真剣な表情にクルーガーは口元をほころばせ、愛おしそうに少女を見つめる。


「冗談だよ。俺の気持ちと同じく、君の気持ちが変わらないことは知っている。マイナが充分に頑張っていることも。……俺が一緒にいるのだからサポートできるところは任せてくれ。無理はするな」


「あ、はいっ」


 頬を染めたマイナが背筋を伸ばして返事をし、そのあまりの緊張ぶりにクルーガーが笑い出した。


「しかし、王妃となる君の習得マナーに、紅茶の淹れかたも必要なのか?」


「あ、いえ、違うんです。休憩も兼ねてお茶にしましょうとメルエッタさんが言ってくださって、せっかくなのでクルーガーと――みんなと一緒に飲みたいなぁって、わたしが言ったんです」


「嬉しいことを言ってくれる」


 その仲睦まじい様子を微笑ましげに見守っていたメルエッタが、ふと背後の王宮のほうを振り返り、彼女にしては朗らかな口調でふたりに声をかけた。


「クルーガー国王陛下、マイナ様、良いタイミングです。おふたりがお戻りになられたようですよ」


「おお、間に合ったか。――やあ、おかえり。丁度のタイミングだな、テロン」


 声をかけたクルーガー自身とよく似た顔立ちの背の高い男がひとり、やわらかそうな金の髪とオレンジ色の瞳をした女性を伴って歩み寄ってくるところだった。身に纏っている衣服は上質だが飾り気の少ない胴着であり、鎧は身に着けていない。腰にも武器らしいものはなかった。それもそのはず、彼は格闘の技で闘う体術家だからだ。


 女性のほうも武器らしいものは一切なく、魔法使いであれば携えているはずの杖も持ってはいなかった。彼女の魔導の力の『名』を体現していた古代王国の秘宝『万色の杖』はすでにその体内に取り込まれており、自在に魔導の力を操ることができるので、他の杖を持つ必要がないのである。


 クルーガーの双子の弟であるテロンと、宮廷魔導士ルシカのふたりだ。


「マイナの淹れてくれる美味しい紅茶を逃す手はないからね。――ただいま、兄貴」


 気の利いた台詞せりふを言いながらも、多少なりともぎこちないのを払拭しきれていないのがテロンらしいといえば、らしい。


「ルシカさん、おかえりなさい!」


 同じ魔導士として仲の良いマイナが、嬉しそうな声をあげてルシカを出迎えた。けれどルシカは微笑むのが精一杯らしく、傍らに立つ彼女の夫であるテロンも気遣わしげに揺れる瞳を愛妻に向けているのであった。


 ルシカはふらつく頭を片手で押さえつつ、唇を何とか微笑みのかたちにして友人に向けた。


「ただいま、ちょっといろいろ疲れて……ごめんね」


「おおかた『封印解除』と『転移』の魔法を連続して使ったんだろう。大変だったな、ルシカ。ミディアルから依頼された急ぎの用事のほうは、もう終わったのか?」


 心配そうに眉を寄せ、クルーガーが訊いた。ぐったりとした愛妻を抱き支えながら、テロンが口を開いた。


「ああ、問題はない。すべて終わった。しかし急な話だったな、ミディアルのほうも。おっと……ルシカ、大丈夫か?」


「あ……うん。ごめんね、平気よ。ちょっぴり目眩がしているだけ。魔力マナを一気に使い過ぎただけだから」


「ルシカの平気という言葉が、本当ならいいんだけどな」


 困ったように眉をあげながらも、テロンは微笑んだ。ルシカが約束してくれたことを信じているからだ――自分の生命を脅かすほどに無理はしないと。


「平気っていったら、そのとおりなんだもん。――あ、どうもありがとう、マイナ」


 強がりながらもテロンの手を借り、ルシカはようやく椅子に落ち着いた。マイナが淹れた紅茶を受け取り、嬉しそうに礼を言う。温かい飲み物に口をつけ、ようやくひと息ついたのだろう、蒼ざめていた頬に赤みが戻りつつあった。


 テロンはそれでもまだ心配そうな顔でルシカの頬にそっと触れ、彼女の体調を確かめていた。オレンジ色の瞳を微笑ませ、ルシカはすべらかな頬を染めて夫の心配に応えている。


 クルーガーは自分の顎に片手を当てるようにして、そんな弟夫婦の様子を眺めた。ふたりが結婚してからずっと、目の前で展開されている遣り取りだ。


 そういえば――、とクルーガーが口を開く。


「ルシカ、君はあまり外見は変わらないよな。この十五年間、時を重ねていないマイナを待つ間、どんなに羨ましかったことか」


「そうなの?」


 ルシカがぱちぱちと瞬きをして、意外そうな眼をクルーガーに向けた。


「そうねぇ……おじいちゃんもそうだったけど、記録を見ていると確かに、魔導の血を継いだひとって老齢でも元気なひとが多かった気がするかも」


「ルシカもまさか、時をさかのぼる魔法を使ってたりなんかして……」


「んんんっ? なんですって、クルーガー!」


 ルシカが持っていたカップを音高くソーサーに戻し、とんがった声をあげた。ニヤリと微笑する端正な顔を睨みつける。ただし、どちらも本気ではない。むしろそんな掛け合いを愉しんでいるようでもある。


「そういう遣り取りは、何年経っても変わらないよな」


 テロンが微笑む。そうやってふたりの様子をのんびり眺めている彼も含めて、昔から変わらない日常の光景なのだ。これからはクルーガーの傍らで明るい笑い声をたてているマイナが加わった光景が、ずっと続いてゆくのであろう……。


 海から届く穏やかな風が、双子の金色の髪を揺らし、やわらかな金の髪と艶やかな黒髪をさらさらといて通りすぎてゆく。あまりに気持ちの良い風に、バルコニーにつどっている四人は、王都の街並みと港の向こうに広がる三角江エスチュアリーに視線を向けた。


 大河ラテーナの河口である三角江は広大であり、きらきらと輝く水面が眩しいほどにきらめいていた。大陸でも有数の港であるために深く掘り下げてある水底は深い蒼のいろを内包している。大河ラテーナの広大な河口のさらに向こうには、萌黄色に輝くソーニャの草原と白く輝く『果て無き砂漠』が遠く見渡せた。


 左方向に眼を向ければ、大河ラテーナの雄大な流れと、大森林に覆われた国土、そして緑と翠の織り成す絨毯の遥か南をすっぱりと断ち切るようにして、『大陸中央』フェンリル山脈の北壁が屏風びょうぶのように屹立きつりつしている。山岳氷河を抱く高峰が天空に向かっていくつも聳えるその先は、南の隣国――飛翔族の治める国タリスティアルの領域となるのだ。


 今日はその山脈の最高峰であるザルバーンのいただきまでもが見渡せた。この日は何とも珍しく整った気象状況にあるらしく、青い空にくっきりと人外未踏の領域が浮かび上がっているさまは、思わず見惚みとれてしまうほどに美しく壮大な眺めであった。


「いい天気ですね」


「そうだな。平和で穏やかで……ずっとこんな日が続くといい」


 しみじみとしたマイナの言葉に、その横に座っているクルーガーがカップを口元に運びながら眼を細めて同意している。


「結婚式の準備は、とどこおりなく着々と進んでいるみたいね。グリマイスクス老が、どでっかい花火を打ち上げるんじゃあぁ、とか言いながらすんごく張り切っていたわよ」


 王国の誇る天才天災コンビ『ソサリアのグリマイ兄弟』は今なお変わらず健在だ。化学好きが高じて花火師めいたことに熱中している弟グリマイスクスのほうの口真似を交えながら、ルシカが言った。


「それは楽しみだな。だが、王宮までも吹き飛ばさないようにしてくれよ」


 クルーガーは口の端に笑みを浮かべ、片方の眉をあげた。マイナが話の内容に惹かれて身を乗り出している。


 無理もない。彼女は十五年前の建国祭で打ち上げられたときにも王都に居たはずだが、異形の男に追われていてそれどころではなかったし、ターミルラ公国の港から逃げる際に打ち込んだ花火は昼日中のものだったので、夜闇のなか絢爛けんらんに咲き誇る色彩を堪能したことがないのだ。


「王妃となられるマイナ公女殿下のために、瞳の色にちなんで真紅の花火を作ったんだって、自信たっぷりに言っていたわよ――マイナ、楽しみだね!」


「はい!」


 マイナは元気いっぱい、この上なく幸せそうに返事をした。その輝くような笑顔はおそらく、自分の為に用意されたという花火を想ってのことだけではないのだろう。クルーガーとマイナ、ふたりは一緒になるために長い年月……十五年間も待ったのだ。いよいよ結婚し、生涯の伴侶として万人の前で誓いを立てることができるのだから。


 幸せいっぱいのふたりの様子を見て、テロンはルシカと互いの瞳を見合わせて微笑みあった。ルシカの体調――というより、急激に魔力を消費したことで失われた気力がようやく落ち着いたのだろう、テロンはホッと安堵していた。



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