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ソサリア魔導冒険譚  作者: 星乃紅茶
【番外編2】 《白き闇からの誘い 編》
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4章 封印されし魔導 外2-8 

 白のなかにぽっかりと現れた闇の空間は、まるで冥界に在ると伝え聞く奈落タルタロスへと続いているかのようであった。


 意識を集中し、耳をそばだて、眼を凝らしてみても、深き暗闇の底を窺い知ることはできない。嫌な感じにドクドクと高鳴りだした心臓に、テロンは奥歯をグッと噛みしめた。


 眼前の床に開いた暗闇の内側、光が届いているはずの縁を注意深く見回してみる。降りる手掛かり足掛かりになりそうなものはない。まるで大広間の天井にぽっかりと開いた穴を上から眺めているかのように、下には壁らしきものが存在していない。


 思わず穴に飛び込みかけたテロンの腕を、クルーガーがつかんだ。


「待て、テロン! どうするつもりだ」


「ルシカを追う」


「おまえまで同じように落下してか? まァッたく、相も変わらずおまえは、ルシカが絡むと冷静ではいられなくなるらしいな」


 クルーガーは苦笑しながらも厳しくいさめる眼差しで、テロンを睨みつけた。テロンの頭に集まっていた血が戻っていく。落ち着いてみると、自分が考えもなく行動に走ろうとしていたことが恥ずかしくなる。


「――この穴はどこに通じているんだ!?」


 テロンは振り向きざまに声をあげ、きざはしの先に視線を向けた。だが、そこにいたはずのエトワ――白きものの姿は消えていた。テロンは問いたげな表情で兄のクルーガーを振り返ったが、彼もまた居なくなったものの姿を探して周囲に視線を走らせている。


 思わずエトワの名を呼ぼうと口を開きかけたとき、頭のなかにはっきりと響き伝わった声があった。音ではない声が、緊迫した様子で心に届く。


く、通廊を進まれよ。彼らの前で姿をさらせないのだ。下へ!」


 テロンとクルーガーは素早く眼を見交わし、緩やかに下る階段の先に向き直って躊躇ちゅうちょなく段を駆け下りはじめた。


「どういうことだろう」


「わからん」


 テロンの問いに、素早くクルーガーが答えた。だが言葉が足りなかったかと思い直したのか、走りながら言葉を続ける。


「全てひっくるめて、わからないと言いたいのだ。あのものが何故姿を現せないのかも、この先へ向かわせる意味も……ルシカが無事なのか、も」


 ルシカの安否を思い、テロンは押し黙った。穴の下は暗闇だった。底など見えはしない、どこまで続いているのやら、発した声すら反響しないような。彼女が爆発の真正面に立っていたこともまた確かである。無事なら――意識があり動ける状態ならば、何故『飛行フライ』ですぐに戻って来なかったのか。


 怖ろしい想像に思わず唇を噛んだテロンは、自分を見つめる眼差しに気づいて顔をあげた。思いつめたようなクルーガーと視線が合い、テロンは戸惑ったような表情を浮かべてしまう。


「――ルシカが好きか?」


 低い声で、クルーガーが問うた。いまさら何を、と言い掛けたテロンだが、兄貴のことだ、何か別の意味があるのかもしれないと思い直し、素直に自分の気持ちを喉から押し出す。


「好きだ。愛している。彼女なしでは生きられないほどに」


「そうか……そうだよな」


 クルーガーはつぶやくように言った。その瞳は揺れ、何か苦いものを呑み込んだかのように口の端が震える。だがすぐに力を込めた眼差しをテロンに向け、いつものように余裕然とした表情でニヤリと笑った。


「ならば、無事でいると信じろ。無事ならば必ず見つける、見つけてみせると!」


「……ああ」


 テロンの瞳にも力が戻る。


「もちろんだ」


 ふたりは各々の視線を前方に戻し、駆け続けた。一定間隔で設けられている燭台の灯りが延々と続き、幅の変わらないきざはしが下へ、下へと伸びている。だが、夢のなかのように終わりなく感じられたその光景は、かなり進んだ先で唐突に途切れていた。前方に壁があり、すっぱりと通廊を切り捨てたように無機質な表面で眼前を塞いでいるのである。


「ここから下へ降りるのだ」


 立ち止まったふたりの視線の先、壁の左端を背に、エトワが姿を現した。


 白きものが腕を動かすと、光に照らされた壁の表面に彼の瞳と同じ水色に輝く細やかな線が幾筋もはしった。魔法陣のような紋様を描いた壁の表面に光が収束し、真ん中から縦に割れて左右に開いた。エトワが手振りでふたりを中へといざなう。内部は白い空間になっている。一種の亜空間だろうか。


「デイアロスへ降りた時の昇降機みたいだな」


 クルーガーが言い、肩をすくめた。白い光景を映した瞳を好奇心に煌めかせながら、テロンに視線を向ける。


「行くか?」


「もちろん!」


 テロンは躊躇ちゅうちょなく白い亜空間に足を踏み入れた。クルーガーもそれに続く。最後に入ってきたエトワが腕先を下に向けて指を動かすと、扉が閉じた。


「怒らず聞いて欲しい。あの穴は、我らが仕掛けたもの。万一まんいち壁を崩されたときに侵入者たちを排除するためのトラップなのだ。この孤島はもともと、我らの祖先が到達する前から存在していた自然の産物、魔の海域に属する場所である」


 エトワが口を動かさず、話かけてきた。その間にも、亜空間はどこかへ向かい移動しているらしい。扉だった場所に現れた魔法陣と地図のような絵が、動いている体。


「落ちた先は、自然そのままの洞穴が迷路のように続く暗闇だ。油断のできぬ場所でもある。我らがこの島で管理している区域エリアはほんの一部である。――我らがあのような仕掛けを造ったばかりに。……すまぬ。どうか怒らないで欲しい」


 ルシカが危険に晒される可能性を示唆され、テロンはこぶしを握りしめた。うつむき、床に視線を落とす。


「怒りはしない。だが案じている。ルシカは無事なのか?」


 床を見つめるテロンの視界の外で、クルーガーの声が尋ねる。白きものの思念は僅かに震えながらも、答えを心に直接届けてくる。耳を塞ぐわけにもいかない。


「……わからぬ。床が崩壊した瞬間、魔導の光がひらめいたのは見えたが、それが何の効果をもたらすものだったかまでは理解できなかった」


 テロンは眼をあげた。では、ルシカは何らかの魔法を行使していたのだ。それが身の安全を確保するものであったことを願うばかりである。再び速くなってきた心臓の鼓動を深い呼吸で静めながら、テロンは祈るように目蓋を閉じた。





「やれやれ。振り返りもせず、行ってしもうたわい」


 ふたりの姿はあっという間に見えなくなった。ふたりの若者の駆ける速度は相当なもので、その場に残されたグリマイフロウ老はもちろん、兵たちの誰であってもついて行けるようなものではなかった。老人は舌を鳴らし、いかにも残念そうに長々と息を吐いた。


「わしも行きたかったが、この者たちを放っておくわけにもいかぬからのぉ。はてさて」


 ラムダーク王国の兵たちに向き直り、背筋をぴんとさせて重々しく口を開く。


「わしらはソサリア王国の者じゃ。そなたらラムダーク王国の船を救助するために派遣された。して、この場にいる者で全部か? 他にはあとどのくらい生存者がおるんじゃ?」


 兵たちはほとんど聞いていなかった。彼らの多くはおろおろと落ちつかなげな様子で床の穴を覗き込み、歩き回り、狼狽したようなうめき声をあげていた。


「どうも様子がおかしいの。これ、そこのデカいの! そう、おまえじゃ――何があった?」


「……イルドラーツェン様が……!」


 兵たちのなかでもひときわ立派な鎧を着込んだ男は、開口一番そう叫んだ。片眉をあげる老人に、尋常ではない慌てぶりで穴を指し示し、地面にぽっかりと口を開いた暗闇の傍に膝をついた。


「落ちてしまわれたのだ、この穴に! あぁ、我らも急ぎ後を追わねば……!」


「これッ! 莫迦ばか者が、ちょっと待たんか!!」


 穴に飛び込もうとするその兵を、グリマイフロウ老が叱り飛ばした。老人とは思えない大声量の叱責に、思わず皆の動きが止まる。


「おぬしが穴に飛び込んでどうするつもりじゃ! どこまで通じておるのかもわからんのに、みすみす死に急ぐことはなかろうに!」


 かみなりのように響くその声に、「しかし!」と兵たちから声があがる。自分より遥かに体躯の大きい屈強そうな兵たちを前に、ひとりきりであるグリマイフロウの老人は腰に手を当てて胸を反らし、一歩も引かなかった。


「まずは落ち着くのじゃ」


 グリマイフロウ老が低く声を響かせると、ざわめいていた兵たちは互いの顔を見回しながらもひとり、またひとりと静かになった。


「そなたたちの中から、ひとりがこの穴に落ちたのは理解した。安否も気になるところじゃろう。だが、一緒に落ちたのはソサリア王国の宮廷魔導士ルシカ様じゃ。そして救いに向かったのは、国王陛下であるクルーガー様自らと、その弟君であるテロン様じゃ」


 真剣な面持ちで告げられた老人の言葉に、兵たちは驚き、まだうろうろと歩き回っていた者も動きを止めた。思わず互いの瞳を見交わし、体を揺らしたが、結局そのなかからさきほどの隊長らしき男が進み出た。


「……老人。そなたの言葉はまことであるのか」


「当然じゃ。なんなら証明してみせようぞ。我らの乗ってきた船――ソサリアの軍用船が二隻、この入り江に停泊しておる。まずはそこへ合流しよう。そこで待つのじゃよ」


「待つ、とは……?」


「決まっておろうが」


 老人は歯を剥き出し、ふしゃふしゃと嗤った。


「そなたらの待ち人を、じゃよ。大丈夫じゃ。心配はいらん。ルシカ殿なら一緒に落ちた者にも魔法をかけ、命を護っておることは確実じゃ。類稀なる魔導の力を持つお方なのじゃからな」





 闇のなかで、ルシカは眼を開いた。おずおずとあげたまぶたの内側で閃光がはしり、痺れるような痛みが全身を駆け抜ける。


「……う……!」


 思わずうなり、身をくの字に折るようにしてこらえ、痛みが薄れるのを待つ。


 気を失っていたのはほんの刹那のことだったらしい。落下にともなう感覚で肌は粟立ち、目眩めまいがして頭が重く、力を込めた手足はズキズキとうずくように痛んだ。目の端に涙の粒を浮かべながらゆっくりと動かしてみると、痛みは消えないが手足は問題なく反応してくれた。


 良かった、失ったり欠けたりはしていない……。ルシカは安堵し、同時にひどく不安になった。


 痛みに目蓋を閉じていたおかげで、幾分か闇に眼が慣れている。床に倒れたまま、首を捻るようにして天井を見上げた。視線の先は闇に沈んで、天井があるのかすらわからない状況だった。


 横向きに伏せたままの体の周囲は、ぼうっと発光しているようだ。ルシカは目の前に広がる床に指をすべらせ、その指を瞳の前に持ってきた。うっすらとした青緑の光を発する粉のようなものが、指先に付着している。その正体にはすぐに思い当たった。


「ヒカリゴケだわ……ここは自然の洞窟なのかしら……?」


 膝を胸に引き寄せるようにしてから、ゆっくりと両腕を突っ張り、体を起こした。立ち上がるとふらついたが、足と腕に感じた痛みが意識をはっきりとさせる。見ると、打ったのかあちこちが赤黒くなっている。落下による衝撃で内出血を起こしたのだろうと思った。


「変ね。『浮遊レビテーション』の魔法を使っていたはずなのに」


 ルシカは怪訝そうにつぶやいて、また頭上を振り仰いだ。どこまであるのか窺い知れないほどの高さである。魔導の技は、落下の途中までは効果を発揮していたに違いない。でなければ今頃死んでいただろうと思われる。しかし、全身の打撲を考えてみると、魔法の効果も着地の瞬間までは続かなかったようだ。


 ルシカはため息をつき、腕が失われていなかったことに感謝しながら、左手を微かに動かした。


 何も起こらなかった。


 事態に気づき、ルシカは冷水を浴びせられたようにゾッと身を竦ませた。もう一度、その動作を繰り返す。やはり駄目だ、発現することができない。


「……どういうこと……何が起こったの……?」


 ルシカはよろめき、心に受けた衝撃と混乱にへたへたと座り込んだ。こんなことは生まれてから一度もなかった。初めてであった。


「魔導が消えている。魔法が……使えない」


 呆然と座ったまま、自分の手のひらを見つめる。


 そんなルシカの様子を、すこし離れた場所に転がる大岩の陰からずっと窺っている者がいた。


 気配を隠し、腰にある剣の柄にいつでも手が届くように全身を緊張させながら。その者の右腕は血に濡れ、赤黒い雫が床にポタポタと落ち続けている。剣は腰の左側に提げられているのであった。





「利き腕をやられるとはな……」


 彼は口のなかで悪態をつき、眼を一点に向けて息をひそめたまま、痛みに耐えていた。全体の線は細いけれど、鍛え上げた戦士の肉体である。いざとなれば左腕だけで剣を扱える訓練は受けていた。


 薄気味の悪い光を発する地面、岩の表面までうっすらと燐光を放っている。周囲に見慣れた部下たちはひとりも居ない。どうやら彼だけが、爆発させた壁と同時に抜け落ちた床の穴に落ち込んだらしかった。壁だけをぶち抜くつもりで、慎重に火薬を仕掛けさせたはずなのに。


「……それにしても」


 彼は油断のない視線を、岩陰から前方の開けた空間に向けていた。そこには淡い色合いをした、細く小さな影がうずくまっている。


 まろやかな肩、やわらかに流れる金の髪、すべらかな白い肌。彼の生まれ故郷の王国では馴染みのない、慎み深く体を覆っている丈の長い異国風の衣服。そして薄闇のなかでもはっきりと判別できる、その不可思議な光を内に秘めた泉のように澄みわたった両の瞳。


 見知らぬ高天井の洞窟めいた巨大な空間。現実感は、彼を置いて何処かに消え失せてしまったようだ。見回せば、周囲の床や壁すべてがぼんやりと発光しているという、ひとの領域から隔てられし魔境の深部。足掻いても決してめることのない夢に落ち込んだときのように、ひどく心許無く、目眩めまいがした。


 娘の正体が地霊なのか妖精なのか、はたまたこの場にかけられているめくらまし――侵入者を罠にめるための魔法の一部なのか。彼に魔法や魔術の知識はなかった。知らぬことであるがゆえに不安は際限なく膨らんでゆく。


 心が乱れたのか、痛みに緊張が薄れたのか。彼の足元で音が鳴った。踏み変えた足の下で、小石が砕けたのである。


「――誰っ!?」


 娘が叫び、顔をあげた。こちらを真っ直ぐに見つめている。完全に見つかったらしい。


 彼は舌打ちし、物陰から歩み出た。全身に緊張をみなぎらせ、バネのように筋肉をたわめながら、相手と真正面から対峙たいじする。


「おまえは、何だ」


 思ったときには、唇が動いていた。


「……何だと問われても、困るのですけれど」


 耳に心地よく響く声が応え、はっきりとした戸惑いとともに彼の耳に届いた。なめらかで淀んだところのないその言葉、高すぎず低すぎもしないその声音せいおん


 燐光のなかで美しく煌めく瞳を彼に向け、ゆっくりとまばたきをしている。あまりに洗練された表情、警戒心のかけらもない眼差し。


 彼は、首や頬の表面にぞわぞわと這い登るものを感じた。恋するように激しく心臓が高鳴り、血が流れるままに放置されていた右腕の傷が激しく痛みを訴えはじめる。これが巧妙なまやかし、そして敵であるのなら……。なんと魅力的で、なんと怖ろしい相手だろう!


 彼は右腕を押さえていた左手を放し、その手のひらを腰に残っていた長剣の柄にじりじりと移動させた。娘の目が驚いたように見開かれる。


「待って。怪我をしているのね。傷を診せて」


「騙されないぞ。……このような場所にそなたのような人間がいる訳がないッ!」


 叫び、彼は床を蹴った。崩れ落ちた岩のかけらを蹴散らしながら走り、ひと息に相手との距離を縮める。剣を抜くと見せかけて、身を沈め、足を地面に掠らせるように回して娘の足を払おうとした。


 だが、その動きは予測されていたようだ。敵は彼が突っ込んだとき、とん、と地面を蹴って後方に移動していたのである。闘いを知らぬ普通の娘には、決してありえない動き。やはり敵か。……それともまやかしなのか。


「落ち着いて! 腕の傷が開くわ」


 娘は声をあげ、両腕を前に突きつけた。あ、というように口を開き、戸惑ったように自分の手のひらを見つめる。命の遣り取りをしている只中ただなかとも思えない、恐怖のひとつも感じさせないその態度が、彼の疑心を確信に変えた。


 彼はもはや迷わなかった。地を蹴り、猛然と娘に飛び掛かる。娘は素早く身をひるがえし、彼の狙いから逃れると、背後にあった岩の向こうへ飛び込んだ。





「あぁ、もー……信じられない。なんて短気なひとなの」


 ルシカは胸を波打たせ、止めていた呼吸を再開させた。眉を寄せ、思わず不服そうな顔つきになってしまう。テロンに体捌きを習ったことが、こんなところで役に立つとは思わなかったのだ。


 どうしたものかしら。ルシカは急ぎ、考えを巡らせた。相手は、こちらを害のある相手か何かのように思っているようだ。攻撃を仕掛けてくる勢いのなかに、不安と恐怖に揺れる心が潜んでいることを、ルシカは見抜いていた。


「危険だけれど……そうするしかないかな。このままではいずれ切り捨てられてしまう」


 人さし指を唇から離し、ルシカは顔をあげた。心のなかは相手の暴力に対する恐怖でいっぱいだ。けれどルシカは、他人に心の乱れを感づかせないすべを身に着けていた。そうでないと、テロンとともに外交として他の国に赴くことはできないだろう。


 テロン……。脳裏に浮かんだ青年に、ルシカは心の内で呼びかけた。ごめんね、また勝手に行動しちゃって……きっと心配してるよね。


 無理はしないと彼に約束した。けれど、今はどうしようもなかった。


「ごめん」 


 心のなかで心配そうに眉根を寄せる彼に向けてつぶやき、ルシカは顔をあげた。突き出した岩の向こう、数歩の距離にがれた刃物のような戦士の気配を感じる。息を吐き、吸って、ルシカは待った。両腕をさげ、自身の気配を隠さないまま、差し出すように無防備そのままにして。


 相手が姿を現すと同時に、飛び掛ってきた。腕を掴まれ、固い地面に押し倒される。ほんの刹那の恐怖が胸を掠めたが、ルシカは後悔しなかった。


「捕らえたぞッ!」


 相手は叫び、ルシカの体を床にねじ伏せた腕の筋肉に、容赦のない力を籠めてくる。


 のしかかられ、床に押し付けられた姿勢のまま、ルシカは相手を見た。自分とほとんど変わらない年齢の青年だ。鷹揚として快活そうな様子、真っ直ぐな気質を感じさせる眼差し。勝利したと思い込んで無邪気な笑みを浮かべかけた青年の瞳のなかに、はっきりと戸惑いのいろが浮かぶのをルシカは見た。


 腕と肩が軋み、ルシカの瞳に苦痛の光がかすめる。痛みをこらえ、唇が開く。


 若者が驚いたように眼を見開き、力任せに相手を掴んでいる自分の手を見つめた。そのまま視線を移動させてルシカの細い腕や腰、首筋から鎖骨に至る線をたどる。手のなかの温もり、あまりに細く壊れやすそうな感触に戸惑っているのだ。一方的な暴力を恥じたのか、その瞳が揺れていた。


 騙されないぞといわんばかりであった青年の表情が、一気にやわらいでいく。疑いに満ちて閉ざされていた心に、隙が生じる。


 ルシカはしゃんと顎をあげ、落ち着いた力強い眼差しで、自分を押さえつけている相手の瞳を真っ直ぐに見つめる。


 もう大丈夫ね……ようやく話ができそうだ。彼女は思った。それにしても、このひとはものすごくおびえているのね……喰うか喰われるか、敵ばかりの環境で育ってきたような瞳をして。


「手を放して」


 ルシカは囁くように、ゆっくりと言った。


「あたしはあなたと同じ、人間よ。さっきはどう誤解されたのかはわからないけれど、敵でないことは理解してくれないかしら。あなたに、話があるの」



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