3章 青と白の回廊 外2-5
「大丈夫……入り口はもう、すぐそこよ」
不安を無理に押し殺したようなルシカの声が暗闇に響き、腕を動かした気配があった。虚空に光の粒が生じ、次いで瞬時に手のひらに乗るほどの大きさに育つ。『光球』の魔法だ。
ルシカが作り出した魔導の光は船の舳先に向かって飛び、甲板や海面、そして進行方向の光景を明るく照らし出した。ざぶざぶと泡立つ暗い海の表面と、波飛沫に濡れた数多の岩礁が、影絵めいて闇のなかにくっきりと浮かび上がる。
「ルシカ。魔導の気配は魔獣を惹きつけ――」
言い掛けるテロンに、ルシカは微笑んだ。
「平気よ。もうすぐ結界を越えるから」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ふと、何か見えない壁のようなものを突き抜けたような感覚があった。テロンが振り返ってみても、何もない。船上にあった者たちも戸惑ったような表情で、同じように周囲を見回している。
「魔獣たちはここから入れない。王宮と同じ魔物返しの結界が展開されているのよ。ほら、あそこ」
ルシカは、いままさに後方に続いている船が通り過ぎようとしていた、その両脇に海面から突き出していた岩を指差した。奇妙な岩だった。まるで、工匠なる職人の技によって研磨された逸品ように見事な六角柱だ。さきほど自分たちの船が通りすぎたときに気づかなかったのが不思議なほどに、堂々たる様子で海の底からそそり立っている。
「外側からは見えないめくらましの魔法もかかっているわ。だから通り過ぎたとき初めて、こうして眼に見えるようになっていたの。あの柱に設置されている魔法陣が作り出す、一種の障壁よ」
「それはつまり……どういうことだ?」
「あの不思議な柱、巧みに隠されてはいるけれど表面に文様が刻まれている。それが魔導の力場を形成して、招かれざるものや仇なす魔の存在の侵入を阻んでいる。だからこの辺り一帯は穏やかに保たれているの」
なるほどルシカの言葉通り、船の揺れがゆったりとしたものに変わっている。海底に突き出した岩で渦を巻いていたさきほどとは異なり、深い水深も確保されていた。あたかも船で訪れるもののために整えられたように。
「あたしの瞳には魔導の流れが見えるから……隠された障壁も含めて、ね」
グアアアォォォォ……!!
後方で凄まじい咆哮があがり、ザバザバと激しい水音も同時に聞こえた。追ってきたさきほどの魔獣が見えない障壁に阻まれ、その動きを止められたのだ。天に向かって吼えるように啼いている。口を開いてこちらに空気の塊を吐こうとしたが、それすらも叶わなかったようだ。
苛立った魔獣は尾を振り上げ、海面に叩きつけた。だが、激しくうねる波すらも障壁を抜ける際に鎮められ、穏やかなものとなる。船まで届いたときには、こちらの進行を助ける波となっただけに終わった。
魔獣は長く尾を引く叫び声を発した。
「賭けてもいい。あれは悔しがっている声だな」
クルーガーが奇妙に落ち着いた声で言った。
周囲は、いつの間にか柱で囲まれた水路になっていた。玄武岩だろうか、六角柱の形を成した柱が寄り集まり、壁となって水路の両壁を形成している。それは進むにつれて高くなり、やがて船のマストの高さを越えた。ゆうにその倍はあるのではという高さにまで到達し、雲の垂れ込めている闇空は見えなくなった。
船は巨大な回廊めいた空間を、何かに導かれるようにしずしずと進んでいく。
「柱状節理と呼ばれる地形にも似ておるが……自然の海触洞に似せてあるのか、もともとそのような地形であったことを利用したのか――」
クルーガーの傍らで、グリマイフロウ老が考え深げに口を開いた。
「そう……これらもすべて人工物よね。すごいなぁ……」
つぶやいたルシカは驚嘆したような、きらきらと輝く瞳を壁面に向けている。興奮と感動に握りしめた両手を胸に押し当てても、どきどきと高鳴る鼓動を抑えきれないようだ。
テロンもルシカの視線につられるように眼をあげ、壁面や頭上を眺め渡した。高さは様々であったが、どの部分も六角形の柱が隙間なく立ち並んで壁を埋め尽くし、天井まで続いている。自然が造り出す森の天蓋のごとくアーチを描く天井は、王都にある荘厳なラートゥル大聖堂を思い出させた。ただし、規模は遥かにこちらのほうが大きい。三十リール近くあるメインマストの船が二隻、悠々と通り抜けられるほどであったのだから。
手すりから身を乗り出して海底を覗き込んで、テロンはまた驚いた。魔法の明かりによって照らされた海面は濃くあざやかな青のいろに輝いており、水は信じられないほどに深く透明度の高いものであった。
形成されたあと水没した海触洞だとしても、これほどまでに安定した幅と水深を保っているものが天然のものであるとは、テロンにも思えなかった。
だが、いったいどのような創造主が、このような空間を生み出したというのだろう。テロンは舳先まで歩いた。ルシカも歩み寄ってきて、テロンの傍らに並ぶ。
「水路は、どこまで続くのだろう」
「わからないわ……もう結構奥まで来たんじゃないかな。島の中心に向かっているのかも」
ルシカが伸び上がるようにして額に手のひらをかざし、通路の先を見定めようとした。けれど、僅かにカーブを描きながら奥へ奥へと続く青の回廊は、圧倒的な規模と秘密めいた雰囲気のまま、果てなどないのではないかと思えるほどにどこまでも船を誘ってゆく。魔法による光源に照らされた柱の壁面は、長い年月に晒された骸骨さながらの白さを反射して、見る者の距離感を失わせている。
ただ青と白だけが存在する美しい光景が、行き着く先のない永遠のように続いているのであった。
驚きと感動、そして不安に包まれていた船の上は、やがて静かになった。神秘に打たれて誰もが口数を減らし、ただどこまでも続く先へと視線を投げかけている。
クルーガーの指示で漕ぎ手たちが櫂を止めたが、船は変わりない速度で進み続けている。海水の流れが船を押しているとは思えない。テロンがその疑問をルシカに問うと、魔導士である彼女はそっと答えた。
「察している通りよ。柱に組み込まれている魔法の力そのものが、船を安全に誘導しているの」
「罠……の可能性はあるか?」
テロンの言葉に、ルシカは軽く眼を見張り、考え込んだ。
「敵意はまるで感じられないけれど……そうね、警戒しておくことにするわ」
「ああ」
テロンは慎重な性分だ。何事も疑ってかかっているわけではない。ただ、慎重であるだけだ。思い立ったら行動の兄やルシカとともにいれば、自然と身に着いてくる特性なのである。たいていは杞憂に終わることが多いのもまた事実であったが。
いつの間にか、水路の向きが変わっていた。そして、唐突に広い空間に出たのである。
「……わぁ……」
ルシカがポカンと口を開き眼を丸くして、小さく感動の声をあげた。
広さだけをいえば、大陸有数の規模を誇る王都ミストーナがすっぽりと入るほどであった。ただしここは、碧く深遠なる水底を有する水面がそのほとんどを占め、奥が乾いた陸地になっているようだ。あちこちに大小様々な六角柱が立ち並び、海岸線を細かく区切り、それぞれに独立した入り江を形成していた。
その先の陸には無数の柱が乱立しており、まるで白い幹だけが残された森のようであった。
あまりに広大すぎる空間に、ルシカの灯した『光球』では限界があった。ただ茫洋と、遥か頭上の岩天井や、まだまだ広がっている水面の一部を認識するのが精一杯である。青と白の織り成す空間に、船は速度を緩めることなく進んでゆく。
空気は清浄で、濁りもない。声を出すのが憚られるほどに静謐で、現実感を失いそうなほどに異世界めいた空間であった。
「――これはすごいな」
さしものクルーガーも感嘆したように息を吐き、囁くように声を発した。
「ここも人工的に造られたものだというのか?」
ルシカはしばらく無言で視線を陸に投じた。ギィ、ギィと船体が軋む微かな音だけが響いている。
「……いろんな魔導の干渉が見える。敵意がある感じではないわ。この空間を護り、浄化し、維持するためのものがほとんどみたいだけれど」
ルシカが答えた。その瞳はいっぱいに見開かれ、震えるように揺れている。ルシカの瞳に映っている光景とやらがいかに想像を絶するものであるのか、テロンに窺い知ることはできなかった。けれどおそらく、『千年王宮』以上に複雑に絡み合い、重なり合っている魔法陣が見えているのであろうなと想像できる。
「間違いないわ……ここには王宮と同じ技術が使われている」
やがて船が入り江のひとつに到着した。手前までが充分な水深を整えており、乾いた陸との接点は白く輝く美しい砂浜となっている。
二隻の戦闘用帆船はぶつかることも、互いに擦れることもなく、衝撃のひとつも感じさせないまま静かに停止した。
「まず俺たちが降りる。残ったもので手分けをして、双方の船の破損状況を調べろ。可能な限り補修をしておき、いつでも出航できるよう準備を整えておけ。それを最優先にして、手の空いたもので班を組み、周囲の捜索を開始するんだ」
クルーガーの命令を受け、兵たちが動きはじめる。その誰もができるだけ口を閉ざし、大きな音を立てないように動いているのは、この場所が持っている雰囲気に圧倒されている体ろうか。
テロンとルシカ、クルーガーたちは、グリマイフロウ老と数名の兵士たちとともに小船を下ろした。静かな水面だ。水の透明度はかなりのもので、小船の底が海底の白砂を巻き上げるさままではっきりと見える。
完全に小船が到着するのを待ちきれず、浜に向かってルシカが一番に跳んだ。着地した途端に転がり、砂に突っ伏してしまう。ぱふっ、と軽い音がして砂が宙に舞った。
「ルシカ!」
テロンは慌てて自分も小船から浜に降り、ルシカの傍に駆け寄った。腕を掴み、引き起こす。立ち上がったルシカは頬を赤らめて砂まみれであったが、大事には至らなかったようだ。浜そのものにも危険はなかったようで、ぽんぽんと叩き払うとすぐに砂は落ちた。ただ、背負っていた荷物から様々な物品が転がり出てしまっている。
「あぁっ、ごめんなさい!」
ルシカが声をあげ、慌てたように砂浜にかがみこみ、散らばった荷物を集めはじめた。テロンも手伝おうと長身をかがめて手を伸ばす。主に散らばっていたものは、色とりどりの魔石であった。白い砂のなかで、地上に降った星のごとく輝いている。
「いつも携帯している魔石なの。いろんな用途に対応できるように種類ばかり多いだけで、魔晶石はないけれど」
ルシカはひとつひとつ魔石を拾い、口を縛って閉じる皮袋のなかに入れ集めていく。
「やっぱり荷物のなかに置いておくより、腰に提げておこうかなぁ。何だかメルゾーンみたいで嫌なんだけど」
その言葉に、思わずテロンは吹き出してしまった。派手な衣装を纏って、ルシカを一方的にライバル視している、甲高い声と尊大な物言いの魔術師の姿が脳裏に浮かぶ。
テロンとクルーガーがルシカに初めて出逢い、『万色の杖』を手に入れたときのことを懐かしく思い出す。勝手な因縁をつけてきた魔術師メルゾーンが、自分では制御できない『闇の魔神』という危険な使役魔物を解放してくれたのだ。テロンもクルーガーも、そしてルシカも、ひどく大変な目に遭ったのである。危うく死に掛けるところであった。
その後メルゾーンとは『生命の魔晶石』を手に入れる旅の途中で再会し、仲間として共に行動したが、やはり頭の痛い相手であることには変わりなかった。
そんな想いが顔に出たのであろう、テロンの表情を見たルシカがくすくすと笑っていた。目が合うとにっこりと微笑んで、また足元の魔石を拾い集める作業に戻った。その横では、クルーガーも拾い集めるのを手伝っている。
「ん? ルシカ、これは――」
クルーガーが魔石のひとつを拾いあげたとき、驚いたような声を発した。兄の広げた手のひらにある石を見て、テロンもまた驚いて息を呑んだ。透明な水晶のかけらで、赤に輝く光を内包している。
「……それは、あのときの『封魔結晶』じゃないか」
今しがた思い出したばかりの記憶。メルゾーンが解放した『闇の魔神』を、ルシカが魔導の力で封印した魔石であった。
グローヴァー魔法王国の遺産である『万色の杖』を内に閉じ込めていた水晶の柱――それが爆ぜ割れたかけらを使い、ルシカが『封魔結晶』を作ったのだ。今もこの『封魔結晶』には、強敵であった魔神が封じ込められているはずだ。
「うん。それね……ずぅっと持ち歩いているの。水晶柱そのものにかけられていた護りの魔法が強すぎて、未だに割ることもできないし、解放する言葉も決めていなかったし。魔神を早く還してあげたいんだけど……」
ルシカは魔神のことをずっと気にしていたのだ。その気持ちはテロンも知っている。まさか他の魔石とともに持ち歩いていたとまでは思わなかったが。もし旅先で、封印解除のきっかけが見つかればすぐにでも魔神を解放し、もとの幻精界に還してやりたいのだろうとテロンは思った。
もともと、魔神を幻精界からこの現生界へ無理矢理連れてきて手足のように扱っていたのは、古代魔法王国期の魔導士たちなのだ。魔神には何の咎もなかった。本来の世界から引き離されて奴隷のごとく使われていたがために、魔導士そのものを怨むようになったのも仕方のないことだったかもしれなかった。ルシカは心を痛めていた。遥か昔のこととはいえ、ルシカ自身と同じ、『魔導士』の仕業であったために。
「このなかに、今も魔神が入っているのかァ……」
クルーガーは水晶のかけらを眼前に掲げ、角度を動かしながら眺めた。そして、捏ねるようにもじもじと手指を動かしている魔導士の娘に目を向け、その小柄で小さな体を見つめる。
「大丈夫なのか? ルシカ。もし突然に魔神が解放されてみろ、真っ先に標的にされるのは君なんだぞ」
「うん、わかってる……危険なものを持ったまま一緒に居たわけだし、ごめんね」
「そんなことではない。俺たちが居るときならば、むしろ力になってやれる。今の俺やテロンなら、独りであの魔神に対抗できるだろうと思う。それはルシカ、君も同じだろうが――魔導を使い、魔力を使い果たして気を失っているタイミングだったらどうするつもりだ!」
クルーガーの口調は、強いものだった。それはルシカの身を案じているがゆえのものであった。ルシカにもクルーガーの気持ちは伝わっているだろうと、テロンはきちんと気づいていた。むしろ、兄が言ってくれなければ、自分が今の言葉をルシカに伝えていただろうと思う。
「……うん。ありがとう、クルーガー」
「わかっているなら、いいさ。――まあ、今のルシカの傍にはテロンが必ずついているしな」
ホッと息を吐き、クルーガーが明るい声で言った。言いたいことはそれで終わりといわんばかりに、厳しいものであった面持ちをいつものニヤリとした表情に切り替える。手のなかに拾い集めた魔石を、ルシカの手にある袋のなかに戻した。
「ありがとう」
もう一度繰り返すと、ルシカはクルーガーに笑顔を向けた。目の端にきらりと光っていたのは、もしかしたら涙の雫であったのかもしれない。
「ル……」
テロンは腕を伸ばしかけたが、思い直して腕を止めた。代わりに、自分が拾い集めた魔石をルシカに差し出す。
「……いつかきっと、元の世界に戻してやろうな」
ルシカが顔をあげ、力いっぱい頷いた。
「うんっ!」
クルーガーは微かに淋しげな表情を浮かべてふたりの遣り取りを見たが、すぐにくるりと背を向けた。彼の背後には、小船を砂浜に引き揚げ終わった兵たちが整列していた。
「――さァて、と。近い場所から調べてみるか。もしかしたらこの洞穴のどこかに、ラムダーク王国の船が居るかも知れぬ。それと同時に、別の危険が潜んでいる可能性もある。決して独りできりは行動せず、何か見つけたら行動を起こす前に、すぐ報告に戻ってくるんだ」
ハッ、と兵たちが返事をして、連絡のための兵をひとり置き、周囲に散開する。
「兄貴もここで待っていてくれたほうがいいんだが――とは思うが、どうせ言っても聞きはしないのだろうな」
その言葉に、若き国王はニヤリと笑った。テロンがため息をつきながらも頷き、ルシカはにっこりと微笑んだ。
「そういうことだ。――行くぞ!」
クルーガーはすこぶる愉しそうに笑っている。その気持ちはテロンにもよく理解できた。毎日公務、公務の連続で剣を握る時間すら満足に取れていない日々が続いていたはずであった。こうして人里離れた魔境を歩いていることが、嬉しくて仕方ないのであろう。――それがたとえ未知の場所であり、危険に満ちていたとしても。
魔剣士であるクルーガーと体術家のテロンは、魔導士であるルシカを間に挟んだ。そうして三人は、慎重に砂浜の移動を開始したのである。




