2章 魔の海域 外2-4
星明かりは望めず、塗りこめたような闇のなかを二隻の船は進んでいた。
ルシカの方向を知る魔導の技のおかげで、迷子になることだけはなさそうだったが、それでも闇に沈む魔の海域は危険に満ちていた。船に乗り込んでいる者たちはみな不安を押し隠した表情で、眼を必死に凝らして海上を監視し、作業のない者たちは祈るように身を縮めていた。
雪崩れるような水音に驚いて注意を向ければ、手元に掲げた心細いランタンの光の向こうに、マスト一本分はありそうな首の長い海の魔獣が首を擡げているところを目撃した。あらかじめ気配を察していたルシカの指摘がなければ、船上が混乱の騒ぎに陥っていた懸念もあった。
魔獣たちはそれほどまでにいびつで怪奇な、そして敵として考えるならば剣呑で油断のならない姿かたちをしていたのである。
どれほどの距離が稼げたのだろう。体の内部で感じる時間の感覚が、テロンに深夜過ぎの刻限を伝えていた。
ルシカが魔導の力で気配を探りはじめてから、すでにかなりの時間が経っている。未だ進む方向に目指す影は見えず、耳に届くのは船の先端と櫂が暗い水面を割る音、そしてどこかから不気味に響く啼き声のみ。風は完全に途絶えており、帆は全て巻き上げられている。
テロンの目の前には、瞳を半ば伏せたルシカが床に膝をついていた。その静かな面持ちは、まるで精巧に作られた美しい女神像のように心奪われるものであったが、同時に背筋が冷たくなるような不安を感じさせるものであった。
世界で最も愛おしく、大切な存在。けれど、魔導士は神ではない――死すべき定めに縛られた人間なのだ。
魔導を行使し続けるルシカの体が、いつ限界を超えてしまうのか、テロンには全く予想がつかない。不安のあまり、ルシカの顔を見つめながら幾度唾を呑み込んだことだろう。
ふいに、ルシカの表情が動いた。眉が寄せられ、苦しそうな息をひとつ吐く。……そのままふらりと倒れかかる。
テロンは腕を伸ばし、抱えこむように細い肩と背中を支えた。刹那ではあったが、意識を失っていたらしい。すぐにルシカは目を開いた。
「――はぁ、はぁ……ごめん、何でも、ない」
その苦しそうな呼吸に、テロンは思わずルシカの手を握った。心配のあまり顔色を失ってしまったテロンの視線に気づき、ルシカは渇いた唇を微笑みのかたちにしてみせた。そうして、ゆっくりと身を起こす。掻き消えてしまった足元の魔法陣を戻すべく、再び指先で印を小さく切ろうとする。
「ルシカ……」
「……テロン。そんな顔しないで。こんなに魔の海域に魔獣がたくさんいるなんて思わなかったから、船に近いものを把握してその行動を見極めるのがちょっぴり大変なだけ」
「そんなに多く生息しているというのか……。クソッ、俺の体の魔力をルシカに移動できたら!」
いつもの穏やかなテロンの言動とは思えない口調の激しさに、ルシカはうつむいた。ごめん、と唇だけを動かす。それほどに心配をかけてしまっていることを申し訳なく思ったのだ。
「いや、すまない。ルシカのせいではない。……早く目的の場所に着いてくれれば良いのに」
テロンは奥歯に力を込めた。魔法のことに関しては力になってやれない自分が、たまらなく悔しかった。
「ルシカが感じていた、大きな気配というものの位置……そろそろ着かないのか。少しでも近づいているのか?」
「うん。これが昼間なら、たぶん目視できている頃だと思うの。でもこうも暗いと……あぁ、岩礁や浅瀬はまだ感じられないから安心してね。えっと、たぶん間違いないと思うけれど――大きな気配の正体は『島』だと思う」
ルシカの言葉に、テロンは眼を見開いた。
「島……か。そこが全ての目的地だといいな」
「そうね、テロン」
ルシカはやんわりとテロンの腕を下げて押し戻し、相手の心配を払拭しようとするかのようににっこりと微笑んだ。
「じゃあ、あたし、続けるね。これがあたしの為すべきことだから」
ルシカは再び魔法行使の準備動作をして、素早く魔法陣を完成させた。オレンジ色の瞳のなかに、再び白い魔導の輝きが宿る。空中に広がった魔法陣の光が、すべらかな肌を闇のなかに浮かび上がらせる。
テロンは少し後方に下がり、複雑な思いでルシカの姿を見つめた。本当に少しでも早く目的地に着いてくれれば――と願わずにはいられない。
魔力というものは、魔法行使に必要な力の源であり、同時に生命を構成し維持する源でもある。だから体内の魔力を全て使い切ってしまえば、それは『死』に直結する。魔力は、戦いで傷ついたときに流れる血のようなものだ。流しすぎれば昏倒もするし、命にも係わってくる。
肉体というものは実に様々な制約に縛られているものだな……テロンは歯がゆく思ってしまう。
けれども肉体というものは、現生界で存在するためになくてはならないもの。そして肉体と同時に、ひとは生まれも育ちも選ぶことはできない。その環境とうまく付き合わなくてはならないのはどうしようもない事実であった。
「けれど、為すべきことは選べる……か」
テロンは口のなかでひっそりとつぶやいた。自分が王子という身分に生まれようとも、王位継承ではなく王国を陰で支えるという生き方を選んだように。そして類稀なる力を継承したルシカが、この自分とともに生きることを受け入れ、今も王国の為に尽力してくれているように……。
ルシカを失くしてしまうわけにはいかない。そんなことは考えられないほどに、彼にとって最も愛おしく大切な存在であり生命であった。忘れもしない四ヶ月前の『浮揚島』の封印の折、こころに受けた衝撃。ルシカを失ったと思ったときの、あの喪失感――もう一度あのようなことがあったのなら、自分は生きてはいられないかも知れないとも思う。
目の前で、憔悴しながらも必死に魔導の技を行使し続けているルシカ。大勢の乗るこの二隻の安全のため、自分の魔力を消費し続ける魔導士に、自分は何もしてやれない……その悔しさに、焦燥感に、どうしようもなく打ちのめされてしまう。
テロンの思考が昏い巡りに堕ちてゆきかけたとき、ルシカがはっと顔をあげた。緊迫した表情で彼に告げる。
「……テロン……気づかれている。一体、こちらに向かってこようとしているのが居る」
震える声で言われ、テロンは我に返った。急ぎ立ち上がろうとするルシカが、ぐらりと倒れかける。その体を支え、テロンは一緒に立ち上がった。
「魔獣か」
「ええ、間違いない。相手は気配減じの結界にも惑わされなかった……ごめん」
「それはルシカが謝ることじゃない」
テロンは周囲の兵に聞こえるよう、声を張りあげた。
「襲撃が来るぞ! 伝令! 向こうの船にも伝えるんだ――戦闘に備えろ!」
その言葉に、船上が俄かに慌ただしくなる。クルーガーも甲板に飛び出てきた。その後ろにはグリマイフロウ老も続いている。
「魔獣か!」
「――来る! 左舷の方向よ!」
ルシカの指先が挙がる。急ぎ灯された兵たちの明かりが、その方向に向けられた。
不自然な波音が遠くから近づいてくる。それはすぐに滝でもあるのではないかと思うほどの轟音と化した。暗い闇色の海面の下に、ちろちろと不気味な燐光が現れる。それは瞬く間に広がり、同時に船全体が大きく揺れた。
「舵を! 波が来るぞッ」
クルーガーが叫びながら魔法剣を抜いた。その言葉通り、船が横波を受けて大きく揺らいだ。
船上にあった者たちが事態を認識し、ほぼ全員が硬直した。呆気に取られたように口を開いて、慄き震えながらその相手を見上げる。
海面下に広がっていた不気味な燐光は、巨大な魔獣の体表に発光する器官であった。信じられないほど頭上高くから、すでに気味の悪い頭部が近づいていたのである。
「鯨……いえ、胴が長すぎる」
腕のなかで、ルシカが眼を細く狭めた。記憶のなかの魔獣に関する知識を探り出そうとしているのかも知れない。けれど間違いなく、大きさに関しては常識破りであろう。
それは、例えようもないほどに怖ろしく邪悪な外観をしていた。青白く揺らめく燐光が、ヌメヌメと光る体表にずらりと並んでいる。鰭は巨大で、まるで竜の翼のように左右に広げられていた。尾の部分は扇状で、怪物の遥か後方で海面を叩いている。その動作で海が沸き立ち、白い泡を生じていた。泡はぐるりと二隻の船の周囲を取り囲んで流れている。海面下に、魔獣の長い体躯が沈み込んでいるのだろう。
飛び出している巨大な眼球がぎょろぎょろと動いた。目の前にある船に興味を示しているだけなのだろうか。淡い期待がテロンの胸を掠める。けれど、同時に邪悪な殺気を感じてもいた。まさに波間に漂う木っ端を見るような目つき――こちらを玩具としてしか見ていないのかもしれない。
ふいに、厚く垂れ込めていたはずの雲の隙間が開いた。月の光が数多の細い筋となって、遠く離れた海上を照らし出す。――進行方向だ。
そこに見えたのは、巨大な孤島だった。
光に導かれるように、テロンやルシカ、クルーガーたちの視線が島に向けられる。不可思議なことが起こった。島の上部から、濃い霧のような水の柱が噴き上げられたのだ。遅れて、ジュオオォッという凄まじい音が轟く。
水の柱は月光を受けて輝き、まるで天への架け橋のように空中高く立ち昇った。だがすぐに水は途絶え、きらきらと輝く光の粒となって島に降り注いでいった。
魔獣が憤慨したかのように巨体を揺らした。海が激しく渦を巻き、人間たちが必死で船の柱にしがみつく。魔獣はまるでその島に対抗するかのように、自らもずんぐりと長い体躯のどこやらから、盛大に潮の柱を噴き上げた。
「――余所でやれ、余所で!」
クルーガーが剣を足元の床に突きたて、揺れを堪えながら叫ぶ。テロンはルシカを抱きしめて支えたまま、激しい揺れのなかに立っていた。
その間にも船は櫂を使い、進んでいた。僅かずつだが、怪物との距離が開いていく。
「このまま進め! 島へ向かうんだ!」
テロンは大声で叫んだ。魔獣が暴れるせいでごうごうと海が鳴り、波が暴れ狂っている。
正体のわからない島だ。だが、それは島だった。目指すものなのかはわからないが、目の前に現れた魔獣から逃れるには、島に向かうのが一番だと思われた。あれほどに大きな図体ならば、ちっぽけな船より早く浅瀬に引っかかりそうだ。
「島へ向かえ!」
もう一度、今度はクルーガーの指示が飛ぶ。
周囲の轟音に、張り上げた声も掻き消されがちだ。もう一隻の船にも指示を届けなければならない。光も音も、この騒ぎの中では役に立たない。ルシカが咄嗟に作り出した魔導の輝きが、光の信号となって空中を飛ぶ。
だが、それがいけなかった。魔導の気配に殊更に敏感なのが魔獣の習性であったのだ。魔獣の、魚眼めいて飛び出した巨大な眼球が、ぎろりとルシカのほうに向いたのがテロンにも見てとれた。魔獣の口元がぐわあああっと膨れあがる。
ズドンッ!!
衝撃が大気を震わせた。横殴りに打たれたかのように、鼓膜に痛みが走る。
「きゃああぁぁっ!」
ルシカが堪らず悲鳴をあげた。空気の塊が、まるで砲弾さながらに甲板上を突き抜けたのだ。マストがギィンと音を立てて軋み、あおりを受けた荷や兵たちが甲板に倒れ、あるいは転がった。だが、それだけだ。魔獣の放った空気の塊はどこも抉ることなく通りすぎ、離れた海面に突き刺さった。
魔獣は狙いを外したことを知り、ひどく憤慨して大きく身を捩った。扇状の尾を振り、海面を激しく叩きつける。大波が生じ、船にごうごうと押し寄せる。まるで波間で弄ばれる小さな木っ端のように、船は激しく揺れた。甲板の上の人間たちはみな必死で手近な柱や手すりに掴まり、海に投げ出されるのを堪えた。
だが、海獣の気は治まらなかった。空気を呑み、溜め、次の気弾を吐き出そうとしている。
「させないっ!」
ルシカがテロンの腕に抱えられたまま腕を振り上げた。一瞬にして輝く魔法陣が具現化され、巨大な障壁となって空中に展開される。魔法は間に合った。次弾であった空気の塊は、魔導が作り出した障壁にぶち当たり、僅かに傾斜していた障壁によって遥か上方へと飛び去っていった。
魔物は怒りの唸り声を発した。さらなる濃い魔導の気配。怒りの頂点を超えるにはそれだけで充分だった。
「ルシカ!」
ルシカが一瞬めまいを起こし、テロンの腕のなかで首を仰け反らせていた。立て続けに使った尋常ではない魔力の消費にルシカの体が耐えられなかったのだ。
だが、すぐにルシカは意識を取り戻し、眼を開いた。閉じかけるまぶたを必死に開き、ふらつく頭を押さえるようにして再び身を起こす。
「ごめんなさい、テロン」
ルシカが自分の足で揺れる甲板に立とうとした。
「気にするな。ルシカの体くらいは支える、俺に頼るんだ!」
テロンは叫び、ルシカの体を腕のなかで回した。抱きかかえるようにして背後から支えたのだ。状況を見極め、魔導の技を行使できるように。
「ありがとう。――ここから何としても移動しないと」
ルシカは胴に回されたテロンの腕に励まされ、しっかりと顎をあげた。船を操る兵たちも必死だ。舵を回し、船が横波を受けて転覆しないように進路を維持している。
魔獣は後方に離されつつあった。その大きさゆえに小回りが利かないのか、それとも、ちっぽけな船がどうしようというのか理解するのに時間がかかっているのか、苛立ったように鰭で海面を叩き続けている。
だが、安心するのも束の間、再度空気の塊が吐き出され、後続していたもう一方の船を襲った。甲板の一部が粉々に吹き飛ぶ。そちらには数名の魔術師が乗っているはずだが、一瞬で具現化できる魔導とは違い、詠唱する必要のある魔術では防ぎようがないのだ。
魔獣はさらに空気を呑み込んでいた。巨体を回して追いかけるより、船を木っ端微塵にしてやることを優先したようだ。
「――ロープを切るんじゃ!」
それまで無言のまま柱にしがみついていたグリマイフロウ老が唐突に叫んだ。
「ルシカ殿! あやつの吐き出す空気の弾を広く拡散するんじゃッ」
その意味にクルーガーが気づき、横帆を張ったフォアマストに向かって跳躍した。魔法剣が振るわれ、白刃が空中に閃く。帆を巻き上げていたロープが切断され、帆布が一斉に落ちて張られた。。
ルシカは腕を振り上げた。魔導の輝きが空中を奔り、後方の船を飛び越えて魔獣との間に輝く魔法陣となって展開される。
テロンも同時に片手で『衝撃波』を放っていた。渾身の力を乗せ、出来る限りに凝縮した『衝撃波』が矢のように後方の船に飛んだ。船は波に激しく上下していたが、狙い過たずロープを巻き上げていた箇所に当たり、その部分を消し飛ばす。後方の船の帆布も一瞬にして張られた。
ドンッ!!!
魔獣の気弾が吐き出された。
ルシカの魔法陣によって拡散されてもなお、凄まじい爆風が二隻の船に突き当たる。帆が音を立てて膨らみ、船が大きく傾ぐ。だが兵たちの必死の舵取りの甲斐もあり、船はどちらも姿勢を何とか保ちながら矢のような勢いで進んでゆく。
「面舵いっぱい! 左舷の岩を避けて!」
ルシカの緊迫した声があがる。小回りの利かない動きはルシカの『遠隔操作』で補い、船はぐいぐいと進んでゆく。けれど、前方の闇のなかからようやくその姿を現した島は――上陸の余地もないような絶壁に囲まれていた。
「大丈夫だ、この先に洞窟みたいな場所がある! そこに入れそうだ!」
前方に眼を向けていたテロンが叫ぶ。他の者より、闇のなかでも眼が利くのだ。
クルーガーが細かい指示を舵取りに伝える。ルシカは海底の地形を感じ取り、進路の指示をさらに細かく補填した。
舵をとっている者は指示に導かれながら、必死に舳先を回した。後方に続くもう1隻も遅れることなくついてくる。
やがて、目指す場所が見えてきた。雲が割れ、再び月が島とその周囲を照らし出した。
「――後方から、魔獣が追ってくる」
ルシカが言った。テロンが眼を向けると、後続の船のさらに後ろに、白い波が立っているのが見てとれた。あの不気味に輝く燐光も――。
「チッ!」
気づいたクルーガーも眼を向け、舌を鳴らした。
「洞窟に入っても、追い詰められるかもしれない」
テロンが言ったとき、ルシカが応えた。
「大丈夫、このまま進んで!」
ルシカは自身の魔力を解放して、前方に口を開けている洞窟を調べていたのだ。
それは海触洞であった。内部は広く、かなり奥まで続いている。規模からいって、自分たちの乗っている二隻の戦闘用帆船はもちろん、後方から追いかけている魔獣ですら入り込めるほど大きなものだった。
けれど、追ってくる魔獣は入れない――。ルシカにはその確信があった。
「このまま進んで大丈夫。正面までいけば、海底も深い。座礁の心配もないわ」
ルシカの確信に満ちた言葉に、テロンは安堵した。けれど、すぐに別の緊張を感じた。ルシカの表情は厳しいままだった。何かを見極めようとでもしているかのように、瞬きも忘れて鋭い視線を前方に向けている。
「ルシカ、どうした? 何か別の懸念でもあるのか」
同じことに気づいたクルーガーが訊いた。
「すぐにわかるわ。自然の洞窟じゃない――この島こそが、目的のひとつに叶っているかもしれないわ。そして……そうね、もしかしたらもうひとつの目的も達成されるかも……」
確信に満ちて力強く発せられていたルシカの言葉の後半は、不安げな口調に変わっていた。テロンはその視線の先を追い、すぐに理解した。
波間に木片が漂っていたのだ。船に使われるような、明らかにひとの手で加工された木材である。爆ぜ割れたものであり、その数はひとつやふたつではなかった。
「ラムダーク王国の、行方知れずの船もここに……?」
そのとき、月の光が途絶えた。周囲は再び闇のなかに沈んでしまう。




