1章 始動 外2-2
ルシカとテロンはグリマイフロウ老に挨拶をし、クルーガーとともに王宮へ戻る道を急いだ。
クルーガーは王衣のまま、腰に愛用の魔法剣を携えていた。いつものように着替えて変装をしてルーファスの目を惑わし、抜け出してきたわけではないようだ。さらりとした金髪を背に流したまま、縛りもしていない。王宮での出で立ちのままだ。
よほど重要な用件なのかと、ルシカたちは構えたものだが――。
「ルシカ」
クルーガーがふいにルシカに目を向けて歩きながら、臣下である宮廷魔導士の娘の顔をまじまじと見つめた。ルシカは、何か重要な事柄が告げられるのかと緊張し、真剣な面持ちで青年王を見上げた。
「……鼻と額、どうした? 赤くなっているが、もしかしてまた転んだのか」
実に真面目な表情で言われ、ルシカはポカンと呆けたように動きを止めた。何を言われたのかようやく脳に染みこんだらしい、やっとのことで「さっき転んだのっ」と怒鳴る。
「もーっ、茶化さないでよ。何か大変なことが起こったんでしょう? クルーガーってば」
ルシカの口調に遠慮はない。宮廷魔導士になる前の彼女と双子の王子には、友情という名の絆があった。そのうちのふたりが結婚をして、ひとりが国王として戴冠したあとも変わらずに続いていると三人ともが思っている。
クルーガーはニヤニヤと笑い、それから表情を引き締めた。
「さきほど連絡が入ったんだ。どうもラムダーク王国から要人がひとり、このソサリア王国に向けて船を出したらしい。正式な訪問というよりは、そうだなァ……突然に思いついて船出したような印象か」
「どこの国にも兄貴みたいなのがいるんだな」
テロンがため息とともに言った。クルーガーが驚いたような表情で双子の弟を見る。
「何だ、まるでルシカみたいな突っ込みだな、テロン。夫婦は似てくるというが、もうそんなにそっくりになってしまったか」
「ど~いう意味よ、それぇ!」
ルシカが頬を膨らませて、青年の横腹にこぶしを突き当てた。クルーガーのほうが自分より遥かに背が高いので、頬をつっついてやろうにも届かないのだ。
「仲が良いなってことさ、気にすんな」
クルーガーは自分より背の低い彼女の頬を、指で軽くつついた。ニヤリと笑って背筋を伸ばす。むうぅ、とルシカが頬を膨らませてうなりながら上目遣いで彼を睨む。けれど、ふたりはいがみ合っているわけではない。まるで兄妹のようにじゃれあっているだけだ。
その横ではテロンが目を細めて優しげな表情でふたりの遣り取りを眺めている。けれど話の流れを思い出し、諌めるようにふたりに声をかけた。
「どうも話が進まないけれど、ラムダーク王国との外交問題に発展しそうな話なのか? そうだとすれば、ものすごく重要な話じゃないのか」
「ああ。ラムダーク側としては、どうも隠しておきたい事実らしいのだが、我がソサリアとの友好を進めるか進めないかで議論が持ち上がったのが、今回の騒ぎの発端らしくてなァ。わが国の立場が実に微妙なものになってしまったんだ」
「――どういうこと?」
ルシカはもう一度訊いた。ラムダーク王国とは海向こうの隣国であり、すこぶる友好的とは言いがたい間柄だ。だが、かと言って敵対しているわけでもない。そこの船が単にこちらに向かったからといって、大騒ぎするのは奇妙だった。
「さっき兄貴は捜索と言ったな。北の海域に捜索、と。つまりは行方知れずになったということなのか」
「そういうことだ」
テロンの言葉に、クルーガーが頷く。目を丸くするルシカに、声を落とし、さきほどまでとは打って変わった真剣な口調でクルーガーが語りはじめる。
「議論の果てに、友好を進めると言っていた者が制止を振り切って出航し、そのまま行方知れずになってしまったらしい。向こうでも捜索隊がかなりの数出ている。しかし仮にも海洋王国なのだ。……海で遭難したということ自体、何か尋常ではない状況に陥っているのだろう」
ラムダーク王国は、このトリストラーニャ大陸の北東に少し離れた場所にある人間族の王国だ。つまり、東隣のラシエト聖王国の北に位置する国である。別名『三日月列島』とも呼ばれる大小二十からなる島から成る国であり、水と海産物が豊富で海上貿易が盛んな独立国だ。どちらかというと魔法などの技とは無縁の国であり、海上軍事に重きを置いている国でもある。
「最後に放たれた鳥が運んだ情報によると、魔の海域で魔獣と戦闘になり、命からがらどこかの島にたどり着いたということらしい。しかし、そこが普通の島ではなく、海図に記されている領域のものではないという。つまりは確認のための手段もなく、位置を知る方法もなく、連絡のための鳥も残っておらず、その報告を最後に救助を待っているということらしいのだ」
「魔の海域は、人外未踏の領域だわ。その一帯は風もなく、海流もでたらめで、空はいつもどんよりと厚い雲が垂れ込めている。太陽も見えないし星も見えない。磁力も狂っているから、方向もわからない……」
ルシカが人さし指の関節を唇に押し当てながらつぶやいた。
「危機的状況ね」
魔が共存しているこの現生界では、人間や飛翔族や竜人族などの人類が住み、掌握できている領域なんていうものはほんの少しなのだ。しかもこのアーストリア世界においては、他にも幻精界、神界、星界、冥界が存在している。人間たちが住んでいる領域を僅かでも離れれば……そこはすでに安全ではない。
「けれど、放ってはおけないぞ」
テロンが力強く言った。助けを求めている者を放ってはおけない性分なのだ。
「わかっている。それに、行方知れずになっているのはラムダーク王国の要人のようだ。しかも王国に対する影響力の強い、かなりの上の地位にあるようだ。だから、こちらとしても何としても見つけて救助したいと思っている」
「相手からも、ソサリアに救助要請が?」
「ああ。まあ表立ってではないが、な。ラムダークとしては、遭難に関してはできるだけ隠しておきたい事実のようだが、どうしても失いたくはない要人らしい。もしかしたら、そいつは――いや、それが誰かなんていうのは些末なことに過ぎぬか。いずれにせよ、恥も外聞もなく泣き付かれている。応えることができなければ外交にヒビくらいは入りそうだろ?」
「呑気な言い方ねぇ……すっごく重要な問題じゃないの、それって。でもどっちかっていうと、こちらより、お隣のラシエト聖王国のほうに強く要請が回っていそうなものだけれど」
ルシカの言葉に、クルーガーは首を振った。
「確かにラムダーク王国との間柄が親しい国といえば、そうなのだが。過去にソサリアと敵対する国であったラシエト聖王国との親交のほうが、ラムダークにとっては遥かに厚いものだったはずなのだがなァ。けれど今回、そのラシエトはその捜索に関して尻込みをしているらしくてな」
「――魔獣か。行方を絶ったのが魔の海域だからだな」
「その通りだ。なんせ、行方知れずになったというのが、魔の海域だ。ラシエト聖王国では助けにもならぬだろう。それであまり親しくはないとはいえ、特に敵国でもない我がソサリアに協力を求めてきたというわけだ」
「ソサリアは魔導の血筋を組み入れ、いにしえの魔法王国の再来とも噂される国家だものね。失われゆく魔導の力を掌握する手段と血脈とを手に入れた、油断のできぬ人間たちの統べる王国――」
ルシカが静かに言った。その口調には怒ったようでも、皮肉を言っているようにも感じられない。まるで今日の天気のことでも話題にしているような様子だ。自分という存在が他国からどのように見られているか、よく承知しているのだ。
「まあ、そう言うことだが……そう言われていることに関しては、俺は好かぬ」
クルーガーは端正な顔を僅かに歪め、両の手指を苛々と握ったり開いたりしている。こちらは、友人や自分の国が周辺国からまるで腫れ物のように見られていることに納得していないのだった。
「それでも、船は出すんだろう?」
テロンはルシカと同じく、静かな面持ちで尋ねた。クルーガーはちらりと双子の弟に視線を向けた。
「他でもないルシカ――自分の妻のことなのに、おまえはよく平気だなァ」
「魔導を毛嫌いしているラシエト聖王国に一度でも赴いてみれば、少々のことで動じていたら血管が足りなくなると痛感するさ。それに――」
テロンは語りながら、傍らを歩く娘に目を向けた。背の高いふたりに遅れないよう、とことこと急ぎ足に歩みを進めながら、テロンと目が合うと何でもないことのようににっこりと微笑む少女に。
「俺たちはルシカのことをよく知っている。それで充分だろ?」
テロンは微笑んできっぱりと言った。その揺るぎない表情のなかにあるものを見て、クルーガーは「そうか」と息を吐いて納得した。それが信頼や愛という名で呼ばれるものだ、と気づいたので。
結婚してからの弟の落ち着きぶりには、目を見張るものがある。クルーガーは長く息を吐き、気持ちを切り替えたようにもう一度表情を引き締めて語った。
「こちらの船の準備には、すでに指示を出しておいた。これから航路などについて相談がしたい。このまま海図と文献を見せてもらいたいのだ」
クルーガーは正門から王宮に入り、そのまま東エリアにある図書館棟に足を向けた。陽光の中で目に眩しいほどに輝く白亜の外壁を通りすぎ、中庭を一周する柱の影と光が織り成す光の縞模様の中を進んでいく。
もう手回しが進んでいるほどに切羽詰まっているということだ――テロンとルシカは顔を見合わせ、王衣を纏ったまま進んでいく背中を追いかけた。
昼の光のなか、図書館棟の一階は心地よい光にあふれていた。けれど、天井や壁に貼られている魔法王国期の地図や海図、現在の地図などには、太陽の光が直接当たらないように配慮してある。建造当初からこの塔は多くの書物を集め、保存するために存在している。うまく光を取り込みつつ、和らげ、内部を明るく保っているのだ。
図書館棟は、宮廷魔導士の管理下にある。けれど文官の多くは最高責任者の意向のままにざっくばらんで自由であり、書物のことが好きでたまらないという者たちの集まりである。突然の国王陛下の訪れにもまったく動じていないのであった。
もともと、王子のときから頻繁に出入りしていたこともある。それに、ここの者たちが緊張するときには、魔術や学問を志す者たちの憧れの的であり、今は亡き大魔導士ヴァンドーナが訪れたときくらいだっただろう。
ルシカも、祖父であるヴァンドーナを亡くしてから4ヶ月も経つというのに、いつも扉を開けたときに「おじいちゃん」と声をあげそうになることが何度もあった。それほどまでに、彼の存在が馴染んでいる場所なのだ……ミルト郊外の我が家を除けば。
感慨を振り払い、ルシカは文官のひとりに巻いた大判の海図を持ってくるように言った。自分は地下の『真言語』保管庫に降り、別の巻物を持ってきた。
「海図では、そのような島があるとは確認できないかも……。それもこれも、2千年前に消えたミッドファルース大陸消失の折の天変地異の名残なのかもしれないけれど、地形の変化があまりに激しすぎて、調査もできていない場所がたくさんあるから」
ルシカはそう言い置いてから、閲覧室の長机に自分が持っていた巻物を広げた。それは海図であった。まだ調査中の箇所もあり、ルシカ自ら書き込んだところも多い非公式の物だ。
それと並べるように、文官が持ってきた海図も広げる。こちらは巷にも出回っているものである。
先の『浮揚島』クリストアと呼ばれる呪われし島が消失してから、海流はまたその流れを変えていた。『無踏の岬』から北に続いていた船の墓場と恐れられた難所は海深くに没し、現在は比較的安全な海になっている。
そこからさらに北へ進めば、魔の海域がはじまり、そこを避けて東に進めば、ラムダーク王国のある三日月列島に着く。その周辺から、海の名はミナリオ海となるのだ。魔の海域と呼ばれる場所までが、グリエフ海なのだ。
「もし、『浮揚島』となって消失したクリストア列島のことを知らなければ、今まで通りの薄い迂回ルートを通って三日月列島の港からこちらの港まで来ることになるのだな」
クルーガーが、公式の海図に指を走らせながら訊いた。
「そうよ。でも北に進路を取りすぎていたら、もしかしたら魔の海域の魔獣に出会う可能性も格段に上がってしまうわ」
「あの辺りの海流は、安定しているとは言えない、難所でもある。もしかしたら運悪く予想より北に流され、襲われる危険もある」
「魔獣に――か」
クルーガーは厳しい面持ちで言った。
「大型の、とはよく聞くが、実際にはどのくらいのものなのだ? その魔獣というやつは」
ルシカはテロンと顔を見合わせた。オレンジ色の瞳を僅かに揺らし、迷いながら口を開く。
「……うーん。あたしだって予想くらいしか言えないけれど、目撃されたものでこの王宮の棟ひとつぶんくらいもあったって。それにもしかすると、王都をすっぽり囲んじゃえるくらいの海蛇も居るかもしれないわ」
「いくらなんでも言い過ぎじゃないのか」
クルーガーは笑ったが、ルシカの真剣な表情を見て笑いをすぐに引っ込めた。どうやら冗談でも言い過ぎでもないらしい。ルシカもテロンも、危険に関してはあまり楽観的な考えをしない主義なのだ。――そうでなければ、生き残れない。
「捜索に関しては、ある程度予想をしながら、行き当たりばったりということになりそうだな」
テロンが呻くように言った。ルシカが書き込んだ非公式のほうを見つめている。話しながらも、ルシカは手早く新たに線を引いていた。考えられるラムダークからの船が通る予測範囲、そして行き着ける可能性のある範囲だ。
その線が囲んだ範囲には、島があるという表記はなかった――地形や海流が把握されている範囲外なのだ。
「一応、あたしが出来る限り魔獣やひとの気配を探りながら進んでいくけれど……」
「ルシカも四六時中、休みも睡眠もなしでっていうわけにはいかないだろう。目視で探すとしても、方向さえわかるなら何とかなりそうだが」
「方向に関しては、あたしの『方向察知』に任せて。常にこの王宮に照準を合わせておいて、それで方角を正確に知ることにするわ。現地では磁気が狂っているし……羅針盤も役には立たないと思うから……」
「かなり危険な旅になりそうだな……。ルシカの魔導の技も必須ということになるな」
「ええ。むしろ、魔導の力に頼れないはずのラムダークからの捜索船たちのほうが心配だわ」
「慎重に進むようには、できるだけ伝えておこう。――できれば犠牲はないほうがいい」
「……うん」
ルシカが眉を曇らせ、俯く。自国の民でなくても、無駄に生命が失われることにならないか心配なのだ。
「というか、ルシカが行くことが前提なわけだからな。俺も行く」
テロンは決然と言った。弟の目に宿る光を見なくても、クルーガーにも反対する理由はない。
「俺が用意させているのは戦闘用帆船だ。あまり大きな船で船団を組むわけにもいかないからな。帆と、櫂を備えている船を出す」
「いい判断だと思うわ。もし魔の海域に入り込んだら、風も海流も役に立たないものね」
遭難が意味するものは、死だ。ソサリアが所有する軍船のなかに、海賊から徴収した戦闘用帆船があるのだ。その船ならば、いざとなれば漕いで進むこともできるよう、帆と櫂の両方を推進力とすることができる。
「そういえばルシカ、大丈夫なのか? だっておまえは――」
テロンが何かに思い至ったように口を開いた。
「え、何?」
考えを頭の中でまとめていたルシカは顔を上げ、テロンの瞳を真っ直ぐに見つめた。
テロンは別のことを指摘しようとして、考え直し、他の話題を口にした。
「あ、いや……ああ、そうだ。グリマイフロウ老に、さきほどの伝承についてもっと聞いておくべきだったかなと思ってさ。北の海域にある島だっていうんだろう、遭難して助けを待っているという場所は。だとしたら――」
テロンの言葉に、ルシカの目がみるみる見開かれる。
「だとしたら、そこが王宮を建造した人たちが去った島かもしれないってことなのね!」
「あ、いや、まあ早計かもしれないがな。そういう可能性も否定できないだろうと思って」
「――ちょっと待て、何の話だ?」
クルーガーが身を乗り出す。話題を逸らそうとして咄嗟に持ち出した話とはいえ、テロンは兄の瞳の輝きを見て後悔した。――好奇心に身を焦がす性分なのは、ルシカだけではなかったのだった。新技術の話をルシカが話しはじめるのを見て、テロンは止めようかどうしようかと迷ったが、もう遅いだろうことはわかっていた。
それに、どうせ兄の頭のなかの計画は変わらないはずだ。――はじめから一緒に行くつもりだった、と。




