10章 願いから続くその先に 5-30
冷たく堅い床に、ひとひらの雪が舞い降りる。
万年雪を抱いている遠い峰から、風に運ばれてきているのだろう。中央に聳える塔のような装置に損傷はないが、激しい戦闘で外側を覆う壁の複数個所が崩れており、僅かに薄い色の空が見えているのだ。その隙間から細く白い風が吹き込んでいる。
光の残滓のような白い欠片は、床の上にわだかまった主なき豪奢な外套の絹糸の刺繍のひと針に触れ、そっと静かに溶け消えた。
ロレイアルバーサの姿は、もうなかった……逝ってしまったのだ。
彼の体は相応の年月を経ており、また度重なる『時間』の魔導の行使による余波で肉体そのものが疲弊していたため、本来の時間のもとにあっては朽ち果てる定めであった。苦しむ前に、ルレアとヴァンドーナは旧友を導いていったのだ――ここではない世界に。
転生というものが存在するのか、死んだ記憶のない者にはわからない。だが、来世というものがあるならば今度こそ、愛というものを与えられ認められる相手に巡り会えるのだろうか――ルシカはそうであることを願っている。
彼女は高い位置に開いた穴を見上げていた視線を戻し、目の前に立つふたりを見つめた。
「……クルーガー、マイナ……」
そのふたりの気持ちを想い、目を伏せがちに首を僅かに傾ける。隣に立つ彼の弟テロンも、周囲の仲間たちも、きっと同じようにいたたまれない思いを感じているのだろう。誰も何も言葉を発せず、押し黙ったままだ。
クルーガーとマイナは寄り添うように立っていた。マイナは紅玉髄色の瞳を開いたまま床に視線を落とし、唇を引き結んで肩を震わせている。クルーガーが包み込むように小さな肩を抱き、その手をしっかりと握っていた。
戦闘になる前に台上で言い掛けたルシカの表情で、何かしらの重い事実を伝えられる覚悟があったのか、ふたりは改めて聞かされた事実に取り乱すことはなかった。
だがその言葉にあった年月を耳にして、ふたりの心は激しく揺さぶられたのであろう。ふたりは息を呑み、マイナはふらりとよろけて倒れかけたのだから。
無理もない、とルシカは思う。――でも、これが彼女にできる精一杯だったのだ。
噛みしめていた唇を開き、万能の力の名を持つ魔導士は震えそうになる顎に、瞳に力を込め、ゆっくりと口を開いた。
「グローヴァー王国中期の魔導技術では、時間の短縮という概念があまり進歩していなかった。魔法を即発動させる技術や、移動魔法にかかる時間消費をゼロに抑える技術――『時間』の魔導に関する分野は、魔法王国後期になってから発達し、ようやく独立した学問として確立されたものなの」
ルシカは語った。低い声で、淡々と――感情を抑えようと努めていなければ、きっと声が震えてしまっただろう。
だがこれは、どうしても事実として伝えなければならないことなのだ――ルシカ自身が哀しんでいては、ためらっていては……ふたりの願いを叶えることができなくなる。
「だから『打ち捨てられし知恵の塔』が造られた中期の技術レベルで構築されたままのこの装置で、あたしたちが望むかたちの結果を具現化しようとすれば、どうしてもこの年月が必要になる……できうる限り、あたしの知識を応用させて魔導プログラムと呼ばれるものを改善したけれど……これ以上は短縮できなかった」
『時間』と『空間』の力を持つ大魔導士と謳われた祖父から受け継いだ知識をフルに活用したのだ。
拉致されて無理矢理ではあったが、連れて来られたことは結果として良い方向に向かったといえる。カールウェイネスが携えていた知識とルシカの知識が合わさってこそ実現できた、それでも最良の改善結果であった。
「――世代を経て、延々と受け継がれ続けた『従僕の錫杖』。生命を構成する魔力の設計総体の配列に加えられたそれは、受け継がれるたびに順応していき、しっかりと結びつきすぎてしまった。……だから、分離させて本来あるべき構成配列に戻すには、とても複雑で繊細な過程が必要になる――実行することは可能だけど、相応の時間が要求される……」
「それが……十五年、どうしてもかかるというんだな」
クルーガーが言った。訊いたのではない、事実として受け止めるかのような口調であった。
「――ええ」
ルシカはクルーガーの瞳を見つめたまま、ゆっくりと頷いた。
「ルシカが言うんだ、間違いないのはわかっている。その期間を要するという事実を受け入れなくては、マイナの寿命はひとより遥かに短いところで尽きてしまう……」
クルーガーはマイナの頬に触れた。目を上げた少女の顔を見つめる。
「仕方がないよな……死なせるわけにはいかない」
マイナ自身はクルーガーの胸に寄り添ったまま、まだ迷うように瞳を揺らしていた。だがクルーガーはルシカに顔を向け、力を込めた揺るぎのない青い瞳を逸らさず、しっかりと頷いた。
ルシカはクルーガーの決意に応え、決然と装置に向き直り、歩み寄った。自分の背丈より大きなパネルが取りつけられている場所で腕を掲げ、そのなめらかな表面に手のひらを滑らせる。
いくつもの『真言語』の表記文字が現れ、光を発しながらパネルの表面に整然と並んだ。
その文字を、ルシカが然るべき順に触れていくと、次から次へ新しい魔法陣が具現化されて輝いた。それはさらに大きな魔法陣をいくつか紡ぎだし、五つ揃ったところで、一瞬全てがまばゆく輝いた。
光が鎮まると、パネルそのものが中央から縦に割れ、扉となって開く。中は、やわらかな明るい緑の光に満ち溢れる部屋になっていた。魔導特有の光の色だ。
「これはすごい……亜空間になっているんですね」
ルシカの後ろから覗き見たティアヌが感心したような声をあげる。魔術にあまり詳しくないリーファにすら、濃い魔導の気配を感じられるほどだ。
「マイナが中に入ったら扉を閉じて装置を起動させ、それから十五年の年月をかけて『従僕の錫杖』の存在を解きほぐして分離することになる」
ルシカはそこまで言って言葉を切り、クルーガーに向き直った。
「起動するまでは何の影響もないし、ただの小部屋よ」
クルーガーは顔に感謝のいろを浮かべ、ルシカに向かって頷いた。そしてマイナの肩を押すようにして、一緒に中に入っていった。
「……しっかりね、クルーガー」
ふたりの背を見送ってつぶやき、ルシカはくるりと仲間たちを振り返った。
「さて、あたしたちは待っていましょう。突然のことだし、気持ちの整理もあると思うし――長い別れになるから、ふたりもいろいろ伝え合うこともあるだろうし」
「ねぇ、ルシカ」
リーファが心配のいろを顔に浮かべたまま、そっと訊いてきた。
「出来る限り調節して短縮したっていってたけど、本当はどのくらいの期間必要だったの?」
「三百年よ」
「さん……」
ルシカの答えに、一同が絶句する。メルゾーンなどは顎が大きく開いてしまっていた。
「受け継がれはじめてからあまりに年月が経ち過ぎていたのよ……王国中期のラミルターの時代から三千七百年以上経っているんだもの」
「それを……おまえ、むしろよく十五年まで縮めたな」
メルゾーンが呻くように言った。
「えっへん。まぁね、あたしは『万色』の魔導士ですもん! ……と言いたいところだけれど、正直もっと短縮できれば……とは思うわ。だってこんな長い期間ふたりが離れ離れになるなんて――」
当人たちが目の前からいなくなったので気が緩んだのだろう。ルシカの目に涙が溢れていた。テロンが腕を伸ばし、ルシカの肩に触れると、彼女は夫の胸に倒れこんで涙を流した。
「いや……装置のプログラムを改善し、これだけの書き換えを実現できるのは、この世界ではそなた以外にはない」
黙って後方に佇んでいたカールウェイネスが低く言った。
「だから、そなたを連れてくる必要があったのだ――たとえ無理にさらってでも」
その発言に、ルシカの肩を抱いたままのテロンが静かに言葉を返した。
「誰しも大切な相手を想う気持ちはある。他のものを犠牲にしてでも叶えたいだろうが……誰かを大切だと想っているのは、自分だけじゃない。犠牲になる者も、誰かの大切な相手かもしれないのだということを忘れるべきではない」
「ああ。すまなかったと思っている……」
ミンバス大陸のターミルラ公国の領主は、悔恨の念に苦悶するかのように目を伏せ自分の肩を掴んだ。
ルシカは夫の腕からそっと顔を上げ、誰にともなくつぶやいた。
「好きな人には健やかであって欲しい、幸せに暮らして欲しい……そしてできれば、ずぅっと一緒にいて欲しい……誰しも願いは同じだものね」
頷いたメルゾーンは腕を組んでここではない場所に意識を投じ、リーファとティアヌは互いの手を握って繋ぐようにして寄り添った。
仲間たちは装置の前で、それぞれの想いを抱えたまま静かに待ち続けた。
亜空間のなかでは、激しくしゃくりあげるマイナの背を、クルーガーが何度も撫でていた。
「せっかく知り合えたのに、こんな……ごめんなさい、ごめんなさ……」
「マイナ」
うつむいたままの少女に何度も呼びかけるが、少女は謝るばかりでなかなか顔を上げない。
「マイナ、どうか俺の言葉を聞いてくれ」
クルーガーは屈みこむように目線を合わせると、マイナの頬に手のひらをあてがって支え、涙に濡れている紅玉髄色の瞳を覗き込んだ。励ますように自分の口元を微笑ませる。
「君の体の内にある古代の夢の残滓、その解放にかかる時間――その運命もすべてひっくるめて君だというのならば、俺の覚悟はできている。俺はマイナをいつまででも待つつもりだ――君がそれを望んでくれるなら」
マイナは震えおののく瞳を揺らして、くしゃくしゃの泣き顔のままに言った。
「そんな……わたしにそんな価値があるのかどうか。だって十五年……十五年間もあるんですよ」
「価値……? ならばこう言ったほうがいいのか」
クルーガーはすぅと息を吸った。そうして決然とした表情を真っ直ぐにマイナに向け、言った。
「マイナ、君は俺にとって、世界で唯ひとりのひとだ。待つ価値はある。それがたとえ千年でも、一万年でも。君に再び会えるためなら、俺は構わない」
「言い過ぎです。そんなに長く生きていられないじゃないですか」
「ならば、ずっとマシだということになりはしないか? 一万年に比べれば、たった十五年じゃないか。その後はずぅっと一緒にいられるんだ」
クルーガーはじんわりと諭すように言葉を続けた。愛おしそうに、涙に濡れた白い頬を撫でながら。
「長い期間だとは思うが、マイナ、君は我慢できるか?」
頬に触れる手に自分の手を重ね、止まらない涙を流して、小さくしゃくりあげながらマイナは応えた。
「そんな、わたしより、あなたのほうが……あなたには別の選択もあるんです。相手がわたしじゃなくても……だって十五年もあるんですよ。待っているほうが大変だと思います」
「君は自分のことより、俺の心配をしていたのか」
クルーガーは笑った。それは、この上もなくあたたかい笑いだった。
「言っただろ? マイナは俺にとって、世界で唯ひとりのひとだと。君は俺の道を拓いてくれた。君は俺に命を救われたというが、俺も君に救われていたんだ。待つことがマイナの命を守るというのならば、俺は喜んで待つさ。君が、王である俺の重荷を赦してくれるのならば」
「大きな力と責務を背負うあなたの覚悟……。はい。その覚悟、ともに受け入れるための決意は、できています」
震える唇で、マイナはようやく微笑んだ。
「あなたがわたしでよいと言うのなら……わたしだから待つのだと仰ってくれるというのならば、どうか待っていてください、クルーガー。わたし、あなたが待っていてくれるのなら怖くない」
あたたかい吐息をつき、マイナが頬を染める。
「愛しています、クルーガー」
クルーガーは目を細め、自分よりずっと小さな体を慈しむように強く抱きしめた。耳元で囁く。
「愛している、マイナ。俺の心は、永遠に君のものだ」
ふたりは互いのぬくもりを感じながら、少しの間動かなかった。
「ねぇ、クルーガー。……わたしって装置のなかで、夢、見るのでしょうか?」
「……どうかな。でも見れたのならばさ、もし良ければ俺の夢を見てくれないか。その夢に飛んでいって、逢えるかもしれないからな」
冗談めかしてそう言い、瞳をぐるりと回してみせたクルーガーに、ふふふ、とマイナが笑った。
クルーガーが青い瞳にマイナの笑顔を映したまま、動きを止める。
相手がまじまじと自分の顔を見つめてくるので、きょとんとしたマイナは首を傾げて相手を見返した。クルーガーが我に返ったように慌てて動き、照れたように微笑んだ。
「やっぱりさ、マイナは笑顔がよく似合う。好きだ、その笑顔がとても」
吃驚したように口を小さく開いたマイナは、ゆっくりと目を瞬かせた。次いで、こそばゆそうにくすくすと笑い、素直な笑顔を青年に向けて言う。
「わたしもあなたの笑顔に励まされています。ありがとうございます、クルーガー」
「こちらこそ。ありがとう、マイナ」
クルーガーは微笑んで笑顔に応えたあと、真面目な面持ちになって言葉を続けた。
「――時が満ちるとき、必ず迎えにくるよ」
マイナが頷いた。クルーガーはそっと微笑み、マイナの頬に流れていた最後のひとしずくを指で拭った。ゆっくりと首を傾けながら、顔を近づけていった。触れあう寸前に囁く。
「俺の――花嫁」
ふたりは唇を重ねた。それは、ふたりだけに通ずる誓いの証でもあった。
扉から出てきたクルーガーは、何かを吹っ切ったように明るい顔をしていた。
無言で微笑んで迎えた仲間たちは、肘でつつき合い、ルシカだけをその場に残してホールに通じる扉前まで後退する。
『万色』の魔導士は厳粛な面差しで装置に向き直り、両腕を広げた。
「生命をあるべきかたちに、封印されし支配の力に消滅を」
朗々と、装置を起動させるための最後のコードとなる『真言語』に乗せて紡ぎ、魔法陣を具現化させた。
装置全てを魔法陣が囲み終えたとき、さまざまな光が現れて渦を巻いた。光で綴られた『真言語』の表記文字が高速で流れていく。そしてそれは唐突に光を消し、装置は僅かな光を残して沈黙した。
自分の役目である全ての事柄を終えたルシカが、ゆっくりと頽れる。冷たい床に倒れる前にテロンが抱きとめ、しっかりと抱きしめる。
「……装置は無事起動したわ。これで十五年ののちに、分離作業を完了させて停止し、扉が開く。そのときには、錫杖は完全に消滅し、彼女は解放されてこの時空に戻ってくる」
「そうか。ありがとう、ルシカ」
クルーガーはテロンとルシカに歩み寄り、手を差し出した。ルシカが瞳を揺らしながらも、しっかりとその手を握る。テロンは穏やかで優しげな面持ちで微笑み、国王である兄を見つめて言った。
「いったん戻り、改めてこの塔の外壁を直す手筈を整えてこよう。ミディアルの都市の修復と復興、それから警戒態勢の見直しと再構築、ターミルラとの外交――いろいろ忙しくなるな」
「――そうだな」
装置のある空間を出るとき、クルーガーはもう一度振り返った。祈るように胸に手を当て、愛する娘の名をつぶやく。
外では仲間たちが待っていた。
ルシカは塔の周囲に『護りの結界』を張り、塔を見上げて空を見た。まぶしさに手をかざし、指の隙間から見上げた夏の空は抜けるように青く、天に近いこの場所では空の果てにまで手が届きそうな気がして、ルシカは深く息を吸い込んだ。
「――ありがとう、おじいちゃん。ずっとずっと、大好きよ」
ルシカは口元を微笑みの形にした。冷たい空気が清浄な気配を纏い、彼女の周囲をそっと取り巻く。
「マイナを、クルーガーを、あたしたちを――この王国のゆく先を、どうか見守っていてね」
白く凝った言葉は、ゆっくりと空中に溶けていった……。
王都は夏を迎え、露天には季節の野菜がずらりと並べられ、薄く華やかな色彩の服を纏った人びとが行き交っている。
『千年王宮』では、仲間たちの帰りを待っていた人びとが集っていた。無事を知った者たちは喜び、歓声をあげた。
「――ルシカ!!」
開口一番シャールがテロンに抱えられたルシカに走り寄り、気づいて地面に降ろしてもらったところを抱きしめていた。メルゾーンがそんな妻の様子を見て微笑んでいる。歩み寄ってきたソバッカの腕に抱かれている幼い息子リューナに、父親の顔になって笑いかける。
宮廷魔導士の無事を知ったゴードンはほっとした表情でドッと目から涙を溢れさせ、ルシカ自身と妻のルーナに懸命に宥められていた。
テロンは父と騎士隊長ルーファスに事情を説明している。そこへ帰還の知らせを受けてまろび駆け走ってきたメルエッタが割り込み、ルシカの無事な姿を見てほっと胸を撫で下ろしていた。
クルゥルルル……。
すこし離れた場所に立ち、鼻を寄せてくるプニールの頭を撫で、クルーガーはその光景を眺めていた。嬉しそうなその騒ぎのなかに入り込む前に、青年はその瞳と同じ色の空の下で歩みを止めていたのだ。
「永遠の別離ではない。十五年なんてあっという間さ」
遠く亜空間で眠り続けているだろう愛する娘を想い、クルーガーは囁くように語りかけた。
「そうだろう、マイナ――」




