10章 願いから続くその先に 5-28
爪と剣とで激しく切り結び、異形の男ルシファーであった化け物は、てらてらと輝く表皮を大きく波打たせ、ぜいぜいと激しい呼吸を繰り返した。
銀のたてがみを振り、もはや後戻りのできぬ道に入り込んだことを怨み、途方に暮れたような瞳を虚ろに開いて……だがその奥底深くに、全てを呪わしいと燃え盛る憤怒の炎の揺らめきを宿して。
その姿は、さながら冥界に住まう最上位魔獣のひとつ『悪魔獣王』のようであった――ただし直立している。背には二対の蝙蝠のような翼があり、開いた幅は装置から塔の外殻までの空間を埋め尽くすほどだ。さきほどの落下の衝撃でそのひとつが付け根から曲がっている。
「……やばいな」
手の中にある魔法剣の柄を握り直しながら、クルーガーはつぶやいた。
相手の動きが周囲に頓着しなくなりはじめている。このまま両者が暴れ続ければ、その被害は計り知れない。クルーガーはちらりと視線を動かし、『打ち捨てられし知恵の塔』を見た。装置が損なわれる事態は何としても避けたい。
――早めに決着を着けるか。相手を睨め付け、クルーガーは悩んだ。斃すことに躊躇はない。目の前の相手は、国家に仇なす者だ――王都で聖堂を破壊し祭りを掻き回し都市を破壊した。そして領土の都市をひとつ、町をひとつ、虐殺し大量の命を無下にした敵なのだ。
彼が今世界の何よりも大切に想っている少女を追い回し、その父を奪い、計り知れない恐怖を与え、その体すら串刺しにしようとした相手だ。クルーガーの内に、ふつふつと怒りの感情がわき上がってくる。
クルーガーは低く響く声で仲間たちに告げた。
「みんな……下がってくれ。手出しは無用だ」
「しかし――クルーガー陛下!」
「わたしたちも協力するわよ!」
クルーガーの言葉に、ティアヌとリーファがそれぞれの武器を手に勢いよく走りこんできた。
だが、クルーガーはきっぱりと首を横に振った。
「こいつとの決着は俺がつける。こいつは我が国民の命を奪い、そしてマイナを殺そうとした。俺の仇だ」
リーファは琥珀色の瞳で、睨むようにじっと金髪の青年を見つめた。だが、相手のこの上もなく真剣な面差しにふっと息を吐き、短剣を下げてその言葉に従った。
「もうっ! みんな意地っ張りなんだから……」
引き下がったリーファのぶつぶつと小さなつぶやきが聞こえ、ティアヌは思わず苦笑した。彼も同じ思いであったが、とりあえずは目の前のリーファを宥めなくてはと口を開きかける。
リーファが唇を突き出しながら肩越しに後方をちらりと振り返り、何かに気づいて大きな声をあげた。
「――ちょっと、おじさん? 何やってんのよっ!?」
濃い赤の派手な衣服の魔術師がひとり、装置の傍に背筋を伸ばし立ったままなのである。戦いのさなかに踏みつぶされないとも限らない、そんな位置だ。
自分たちの位置まで下がるように叫び伝えようとしたリーファが、ティアヌに手でその口を塞がれる。たちまち相棒に顔を向け文句を言いかけるリーファだったが、ティアヌの表情に気づいてその視線を追った。
「しーっ。今、彼は詠唱中みたいです。集中を乱してはいけません」
ティアヌの言葉通り、メルゾーンは今ぶつぶつと長々と、ひと続きの呪文を詠唱しているのであった。彼の手には魔石がひとつ握られていた。ルシカお手製の魔導のものではない、腰のベルトに彼がいつも提げているものだ。
「魔導士はもちろんですが、魔術師の魔法も同じく精神集中を乱されれば失敗してしまいますから。彼が何の魔法を使うのかさっぱりですが――」
「兄貴! みんな!」
そのとき、ようやく薄れてきた土埃の向こうから、ルシカを抱えたテロンが仲間たちのほうへ走り寄ってきた。テロンはクルーガーと目を合わせたが、クルーガーが微かに首を横に振り瞳に力を込めると、テロンは眉を寄せたが心得顔に頷いた。後方に下がり、腕に抱いた妻の体の具合を確かめる。
「……う……ごめんね、あり、がと」
頭を軽く振り、多少なりとも意識をしっかり取り戻したルシカが、すぐに体を起こそうとして手に、腕に、足に力を込めた。
「待て、ルシカ。その格好では――」
寝衣に薄いショール、素足のままなのだ。ティアヌとリーファが放ってあった荷物に急いで取りつき、紐を解いて中から予備の衣服や布を引っ張り出す。
ごおぁおおおぉぉぉ……。
化け物が苛立たしげに息を吐いた。
クルーガーは魔法剣を油断なく構え、仲間たちから距離を置く位置にゆっくりと移動していた。剣先をゆらりゆらりと閃かせ、化け物の注意を自分に惹きつけながら。
「――マイナ」
背後から近づこうとしていた気配を敏感に感じ、クルーガーは低く声を響かせた。
「魔導は使うなよ。こいつは魔導の気配を感じ、向かっていこうとする傾向があるようだ」
さきほど、上で化け物がルシカやカールウェイネスに注視していたことから判断したのだ。珍しいことではない。魔獣にそのような習性を持つものは多い。
「は、はい。でも――」
「でも、はナシだ。大丈夫だ、俺は負けないさ。俺を信じろ」
マイナにとって、それは全幅の信頼を置いている相手の言葉だった。信じろと言われ、マイナは素直に頷いた。それでも不安のいろは消えないが……。
そんな気配を感じて肩越しに少女を振り返り、クルーガーは自信たっぷりの微笑をみせた。揺れていた少女の瞳が落ち着いたのを確認すると、クルーガーは再び眼前の敵に向き直った。改めて魔法剣を真っ直ぐに構える。
「おまえとは、もっとまともに決着をつけたかったがな――そうもいかぬようだ」
口元をそっと笑わせ、だが瞳は真剣なままクルーガーは化け物と対峙した。
そのとき、メルゾーンの魔法が完成した。一瞬、中央にある塔が虹色に煌めき、ぴしりと音を立てて黒く変色した。いや、闇色に、というべきか。
「いったい何を!?」
リーファが驚き、声をあげた。だが、ルシカの感心したような声が仲間たちを落ち着かせた。
「大丈夫よ、心配ないわ。あれは――対象を絞ってそれが存在する空間だけを凍結したの。これであの塔は物理的な衝撃を受けなくなったわ。……それにしてもメルゾーンってば、あんなすごい魔法をいつの間に」
魔法効果が十分に具現化されたことを確認し、メルゾーンは仲間たちを振り返った。引っくり返りそうなほどにふんぞり返り、魔術師は叫んだ。
「いいか、小娘ッ! おまえたち魔導士だけがこの世界の未来を担っているんじゃねぇんだぞ。俺たち魔術師だってなぁ、生まれながらのすげぇ力はなくても、日々努力で進歩してんだ!」
ぴしりと向けられた指先と怒号に、ルシカは目をぱちくりさせた。メルゾーンは鼻をこすり、顔を赤く染め、ルシカと目が合うとあさっての方向に視線を向けながら言葉を最後まで言い切った。
「今の世に減る一方の魔導士が、世界の全てを背負い込んでるような顔してんじゃねぇぞ! ……だからもっと頼りやがれよてやんでぇ、わかったなッ!」
ルシカは呆気に取られ……次いでくすりと笑った。何とも嬉しそうに。
「さぁ、早くこっちへ来い! そこは危険だぞ!」
テロンが叫び、メルゾーンに向かって手を招くように動かした。
「ん……? ひええッ!! おわったたたっ。とっとっと!」
ズシン! すぐ傍の床を踏み砕かれ、慌てたメルゾーンが走り出し、仲間たちと合流した。
入れ違うようにクルーガーが魔法剣を構えて化け物に突進していく。
「おまえの相手はこっちだッ!」
自分を狙って振り下ろされる腕の軌道を読み、クルーガーはぎりぎりにかわして相手の足元に到達した。直立する足の腱を狙って魔法剣を振り抜く。
血が迸り、化け物は呻いた。バランスを崩し、断ち切られた腱の痛みに耐えかね、片膝をつく。同時にカッと口を開いた。
ドズンッ!!
化け物が放った衝撃の塊に床が抉れた。咄嗟に身を捻り横っ飛びに避けたクルーガーだったが、そこを狙いすまして薙ぎ払われた鋭い爪に引っ掛けられて吹き飛び、壁に叩きつけられ落ちたあと、赤い色の雫を散らしながらごろごろと床を転がる。
衝撃に痛む頭を振って意識をはっきりさせ、クルーガーはすぐに立ち上がった。利き腕である右の二の腕をやられ、ぬるりとしたものがとめどなく流れ落ちる。
化け物もまた片足から血を流し、憤怒の表情で目の前の人間を見つめていた。
「――憎いか、俺が。何度もおまえの目的の完遂を阻んできたものな」
だが、とクルーガーは言葉を続ける。
「何度でも阻んでやるさ。俺は王国の安寧を揺さぶる者を許さぬ」
クルーガーは剣を振りかぶった。唇から気合いを迸らせながら、一気に振り下ろす。
魔法剣にまとわりついていた氷属性の魔法効果が解き放たれ、衝撃とともに凍てつく旋風の刃となり、ガリガリと床を引っ掻きながら高速で化け物に迫る。
ドズゥンッ!!
まばゆい光が爆発した。空間を揺るがせた衝撃とともに、ひとの形によく似た化け物の巨躯が背後の塔に突き当たる。一瞬にして巨体を氷と化し、ごきりべこりとその剛毛が覆う胸板の筋と骨を砕き陥没させた。赤黒いものが流れ、華のごとく咲き開く――。
魔法ではない。剣術ではない。それは、あのターミルラ公国の港でクルーガーが放った『紅蓮衝剣』――魔術と剣士の気迫が融合した類稀なる剣技であった。凍てつく八寒地獄の名を持つ技だ。
痛む右腕に、クルーガーはひと呼吸だけ苦しげな息をついた。だが、背筋を伸ばし真っ直ぐに立つ。祈るように手の指を組み、彼を見守る少女の前では、絶対に弱音を吐くわけにいかぬと思いながら。
剣の柄が血で滑り、右腕に力を込めて左手を添え、すぐにしっかりと握りなおす。
強がるクルーガーのことを少女はお見通しなのかもしれない。それでもその瞳の前では強くありたいと思う自分の願いにも似た気持ちに、クルーガーは唇をそっと笑わせた。
「護る、と言った――果たさねばならない。俺が俺自身に、そして愛する者に誓ったのだから」
クルーガーは手のなかの魔法剣に向け、ひと続きの魔法語を唱えた。火の属性を示す紅い光の粉が剣身にまとわりつく。
グッと口元を引き結び、クルーガーが力いっぱいに床を蹴る。
「てゃあぁぁぁぁぁああッ!!」
クルーガーは紅く輝く魔法剣とともに跳躍した。主の気迫に応え剣は炎を生じ、燃えあがる流星のごとく光の尾をひく刃となって、狙い過たず化け物の心臓のある位置に吸い込まれていった。赤く輝いていた魔法陣の中心に。
自分に剣術を仕込んでくれた騎士隊長も、一目置いてくれるほどの突き技であった。
柄もとまで埋めた剣を、クルーガーが捻るように抜き放つ。
ぐあぁぁぁおぉぉぉぉぉ……!
化け物は腕を伸ばした。目の前に立つ、ふたつの血に濡れた魔法剣を携えた青年の体を、掴もうとして。
クルーガーは動かなかった。静かな青い瞳を向け、化け物となってもなお変わらなかった紫水晶色の瞳に浮かんだ屈辱と羨望と……ほんの微かな淋しさを受け止めて。
あと少しで青年に届きそうであった腕が、ふいに力を失い床に落ちた。瞳孔が開き、ここではない世界を映して昏く沈んでいく。
「憐れ……おまえもまた犠牲者であったな」
クルーガーはつぶやき、剣をびゅんと振った。血が飛び散り、払われる。魔法剣の刀身は曇ることなく汚れることなく、青年の腰にある鞘に収められた。
くるりと身を翻し、後方で待つ少女のもとに戻った青年を、黒髪の魔導士の少女が腕を広げて迎えた。
身をかがめ、その首に抱きついてきたマイナの体を抱きしめながら、クルーガーは自分の体の傷が癒されていくのを感じた。少女の魔導の力による癒しが生じる傷の温かさに、クルーガーがホッと息をつく。
「ありがとう、マイナ」
「……こちらこそ、クルーガー」
青年の背に流された長い金髪と、少女のふたつに結い上げられた黒髪が、さらりと静かに合わさった。
化け物が斃され、その巨躯が冷たい床に弾み倒れ伏したのを見て、ルシカは静かに瞳を伏せた。そしてすぐに顔をあげ、目の前の瓦礫の山に視線を戻す。
「――そう、その位置、すぐ下に」
魔導の気配を感じるがまま、ルシカが位置を探り出し、指示を出す。テロンが応え、仲間たちとともに瓦礫を取り除けていくと、やがて腕が、体が見えた。
「な……何故」
助け出されたカールウェイネスは、弱々しげな声で目の前の魔導士に問うた。肩と胸、そして耳からはおびただしい血が流れ、ひゅうひゅうと抜けるような呼吸を繰り返している。ほとんど虫の息であった。
「……あなたは己が望みを叶えるために、たくさんの罪無きひとびとの命を奪った」
瓦礫にもたれかかるようにうずくまったカールウェイネスに、ルシカは静かな眼差しで言葉を続けた。
「どんな理由があれ、あなたのしたこと、あたしは許せない。生命は大切なもの、尊いもの……どれひとつとして蔑ろにして良いものではない……たとえそれが――」
ルシカは語りながら目を伏せ、そっと自分の下腹に手をあてがった。そして顎をあげ、しっかりした口調で言った。
「それが、あなたの命であってもです。ここで死ぬことをあたしは許しません」
『万色』の魔導士は、死へと近づきつつあった男に歩み寄った。腕を掲げて空中に滑らせるように動かし、魔導特有の青と緑の光が魔法陣を結び、男の傷を塞いだ。
大いなる魔導の力で流れていた血が止まり、赤黒い内出血のいろが消え失せ、男は激しく戸惑って顔をあげた。
「おまえはまず、自国の民を救わねばならない」
ルシカの傍に立ち、テロンが告げる。
「どんなに責めても悔やんでも、踏みつけ踏みにじってきたものたちは決して戻らない。だからいま在る存在を、残されたものたちを必死で守り抜け。それがひとの上に立つ者の定めだ」
「――自身で選ぶ死は逃避、生きるは戦いだ」
割って入った声に振り向くと、マイナとともにクルーガーが戻ってきていた。傷は癒えているが全身を自身の血と浴びた返り血とに汚され、それでもなお決然と背筋を伸ばし青い瞳をしっかりと開いた、堂々たる風情であった。
「ひとは生まれる場所を選べない。けれど、その場所から逃げるな。為さねばならぬことを為し遂げよ。それもひっくるめて自分自身なのだから」
その言葉は、クルーガーが彼自身に向けたものでもあった。ただ公務を日々こなしていくだけが王ではない。その気持ちを察したのか、傍らのマイナがそっと手を伸ばし、彼の上着の端を掴んだ。視線を向けられると、少女は静かに紅玉髄色の瞳を微笑ませた。クルーガーが口元を微かに引き上げ、優しげに目を細めて応える。
「逃げるな、為し遂げよ、か……」
カールウェイネスはつぶやくように言い、微笑んだ。自嘲的な嗤いではない。ただ静かな、定めを受け入れ覚悟を決めたかのように落ち着いた微笑みであった。
「わかった。約束する、これからの生きる時間を、償いに、残されたものたちの為に費やそう……」
「そうこなくてはな」
クルーガーとテロンは微笑んだ。マイナが安心したように両手を胸の上に置き、周囲の仲間たちもホッと息をつく。ルシカも緊張させていた手足から力を抜いたが、まだ倒れるわけにはゆかず、背筋を伸ばしたまま踏み止まっていた。
なぜなら――。
「……それで終わったと思うなよ、愚昧なる王よ……!」
聞き取りにくい嗄れ声が、揶揄するかのごとく嗤いを含んで一同の耳を打った。
クルーガーたちが声のした方向に視線を向けると、襤褸布のように髪を垂らし腰の曲がった男がいるのが見えた。よろよろと立ち上がったその姿は、その体のあちこちの部位があらぬ方向に向いたり、赤黒いものに濡れてたりして、正視に堪えない様相を呈している。
だが、その黄金色の瞳だけは今にも吹きこぼれそうな高熱の油のように、ギラギラと強い光を湛えているのであった。
ルシカは顔を回し、その太陽のような瞳をあげ、どこまでも静かな表情をゆっくりとロレイアルバーサに向けた。




