9章 打ち捨てられし知恵の塔 5-27
下では仲間たちが、その名が告げられるのを聞いていた。
「……ターミルラ公国の、カールウェイネス公? 姿を消したはずの」
「では、マイナの母君――アイララ殿の弟なのか、あの黒い服のやつは」
仲間たちが互いに戸惑い気味の顔を見合わせるなか、テロンは口元を引き結び、鋭い視線のまま頭上の状況を見据えていた。
妻を助けるタイミングを探っているのだ。
中央制御パネルの前では、魔導プログラムの書き換えで魔力を大量に使い、体の不調に気力と体力までをも使い果たしているルシカが、今にも倒れてしまいそうな顔色で――だが、顎をあげ背筋をしゃんと伸ばして立っている。
その目の前では、黒衣の男と異形の男が対峙し、にらみ合いを続けていた。一触即発の気配はまだ抜けていない。
ロレイアルバーサは、こめかみをピクピクと引きつらせながら、相変わらず高い位置にある足場に立ったままだ。最下層にいるテロンたちからは瞬時に手が出せない距離である。
「まさかそんな……俺から全てを奪ったのが、他でもないロレイアルバーサ様だったと……?」
誰にともなく言葉を発したルシファーに、油断なく構えたままのカールウェイネスが急き込むように「そうだ」と頷く。
「世迷言だ! 耳を貸すんじゃないぞ、ルシファー! そやつが例え大公である本物のカールウェイネスだとしても、国を捨てた男だ。その言葉が正しい訳がないっ!」
ロレイアルバーサがわめき、その声を轟かせた。ルシファーがびくりと反応する。彼は迷っていた。紫水晶の瞳が激しく揺れ、牙のごとく尖った犬歯がカチカチと鳴った。今まで信じ続けていた唯一の心の支えが崩壊しかけているのだ。
「俺は……俺は……」
異形となっている男は、広げた自分の手のひらに視線を落とした。金属のような硬度と奇怪な突起、尖って伸びた鉤爪――変わり果てた姿になってしまったおのれの肉体を見下ろす。ひとを切り裂き屠るためのかたちを成す手を握りしめ、のろのろと顔をあげた。
「――では何故だ。カーウェン、答えろ。何故おまえは国を捨てた」
ルシファーは震えおののく肩をそのままに、噛みしめた歯の隙間から絞り出すように問うた。
大公であったカールウェイネスは構えていた腕を下ろし、機関に手を貸すもの――カーウェンとして接してきた目の前の友に顔を真っ直ぐに向けて正直に答えた。
「私は……姉を愛していた。だから、忘れ形見であった彼女の娘の命を救いたかった。そのためならば、私は世界中を敵に回し全てを捨てても構わないとさえ思った! 姉が失われたと知った時のあの喪失感――私はそこで一度死んだも同然だったのだ!」
カールウェイネスは声を振り絞り、胸を掻きむしるようにして心の内を吐露した。その迫力に、思いの強さに、ルシファーが気圧されたように一歩後退る。そのとき叫ぶような声がふたりの会話を断ち切った。
「ならば、どうして!? おかあさんの弟なら、どうしておとうさんを殺したの? おかあさんの愛するひとを、どうして踏みにじる必要があったのですかっ!」
マイナだった。血の繋がりがあるがゆえによく似ている紅玉髄色の瞳を見開き、精一杯に力を込め、どうしようもなく溢れてくる涙を拭おうともせず。ただ強い光を宿したまま黒衣の男から目を離さず、怒りに眉を跳ね上げながら。
「違う! 私は……」
傍目にもはっきりとわかるほどに狼狽し、カールウェイネスが言葉を詰まらせる。
ルシファーは鉤爪を下ろした。再び俯かせていていた顔をゆるゆると上げ、「――確かに」と口を開く。
「おまえはあのとき、海辺の丘の襲撃の夜に、俺を止めようとした。襲撃の事実のみあればよいと。立ちはだかった司祭を引き裂こうとしたとき、確かにおまえの声が聞こえた……」
マイナが息を呑み、黒い装束に身を包んだ男を睨みつけていた瞳の力を緩めた。床にへたりと座り込みかけた体を、傍にいた青年が膝を落として抱きとめる。
「おのれ……言わせておけばっ!」
ロレイアルバーサは腕を突き出した。背丈ほどもある魔法陣が瞬時に描かれ、その指先に生じた血色の火花は雷となって、宙を切り裂いた。
「なっ、あぶないッ」
マイナが悲鳴をあげ、クルーガーが、テロンが、頭上を振り仰いだ。
バジュウウウゥゥンッ!!
光が走り、爆発した。細かく鋭い破片となりつつ爆ぜ散じ、消えていく。その向こうで、腕を掲げていたカールウェイネスはハァッと息を吐き、苦しげな表情で激しい呼吸を繰り返した。その背後にはルシファー、そしてさらに後ろには装置の心臓部――。
どちらを護ったのか判然としないが……おそらくはどちらもだったのだろう。
「魔力の扱いは、おまえより儂のほうが上なようだな」
ロレイアルバーサはニタリと口元を吊り上げ、突き出したままの腕に再び力を込め意識を集中させた。
「クッ!」
バジュウウゥンッ!!
第二波が激突した。続けざまに第三波。受け止めている魔法陣が歪み、展開している防護の障壁に亀裂が入る。黒衣の魔導士は悔しそうに唸った。
だがそのとき。
苦しむ黒衣の男の横から繊手が伸ばされ、消滅しかけていた魔法陣を支えた。その手から新たな力が注ぎ込まれ、青と緑に輝く強大な障壁となって広がる。血色の雷の奔流を阻み、呑みこみ、消滅させた。黒衣の男が驚いて、横に立つ人物に視線を向ける。
「『万色』の娘!」
伸ばした腕はルシカのものだった。肩で息をつきながら、白い光の踊る瞳を片方苦しげに伏せながらも、魔導の力を行使している。
「この装置は、友人にとって必要なもの――壊されるわけにはいかない。この装置を起動させることはあたしの望みでもある」
だからこそルシカは、不当に拉致された後であっても協力していたのだ。
「あくまでも、そなたは儂に楯突くというわけか!」
ロレイアルバーサが腕を下ろし、ぎりぎりと歯噛みする。
「ルレアと同じ外見を持つもの、同じ魔導の輝きを放つものなのに――。こうなれば、仕方ない、残念だ」
黄金の瞳をギラリと光らせ顔色を変えたたロレイアルバーサは、白く豊かな髪を振り上げるように両腕を高く掲げ、広い内部の空間にこだまするほどの声量で呼ばわった。
「異形の道化――我が操り人形、ルシファーよ――」
その言葉に、ルシファーがびくりと反応する。革衣の間、はだけた胸に輝く赤い魔法陣がその光を強め、異形の姿に変化していた男は背筋を仰け反らせた。苦しそうに喉もとを掻きむしるさまに、傍にいた黒衣の男が友の名を叫び、その腕を伸ばす。だが次の『真言語』の発動を止めるには……遅すぎた。
「覚醒せよ!」
叫ばれた言葉に、ルシファーだったものが膨れあがった。胸の魔法陣から裏返るように別の姿かたちを成していく。
うおぉぉぉおおぉぉぉ……!
空間を震撼させるその音が、果たしてルシファーの悲鳴であったのか、化け物と化していく肉体があげる雄たけびであったのかは、すでに判別できなくなっていた。
「いけない!」
下で成り行きを見守っていたリーファが叫ぶ。ティアヌは急ぎ集中し、詠唱をはじめた。
テロンが身構え、『聖光気』の輝きをその身に纏う。クルーガーは傍らのマイナをかばいながら入ってきた扉側に退き、護るべき娘を安全な位置に押しやる。そして自分は腰から魔法剣を抜き払ち、前へ出た。
「なんてこと……!」
目の前で魔導の力がひとの肉体を再構成する様にルシカは目を見開き立ちすくんだが、すぐに表情を引きしめた。腕を振り上げ、青に輝く魔法陣を展開する。その効果を減じ、元に戻そうと、淡白く光る生命の魔導の輝きが異質な体に伸びてゆく。
ぐぎゃるぅぅぅぅ!
ルシファーだったものが、その身を瞬時に縛り上げた魔導の糸に憤慨し、身をよじった。その間にも銀の髪はたてがみのように背まで続き、鉤爪めいた腕先は本物の爪に取って代わる。化け物じみた外見への変貌が続く。
「うははははははっ」
その様子を見てロレイアルバーサが哄笑した。
「さあどうする! ヴァンドーナの孫、魔導士の娘よ。おまえに奴の変化を止めることはできぬ。ふっ、ふぁははははは!」
ルシカが腕を振り上げたままあえぎ、膝をついた。額に玉のような汗が生じている。自身の魔力が尽きかけているのだ。ロレイアルバーサが切り札としていたルシファーの変化の秘術は、ルシカが自身の魔導の知識を総動員しても、瞬時にその魔法構造を理解することができない。その赤い魔法陣の発動を阻止できない――。
ルシカが自身の魔力の限界を超えている。テロンはそう判断した。もう待ってはいられない。
「ルシカ!」
テロンは走り、床を蹴った。装置が積み重なったような塔の表面にある僅かな突起を次々と見定め、手と足の爪先を引っ掛けながらその身を引き上げ、垂直に近い壁を一気に駆け上る。
「――うおぉぉぉぉぉっ!」
そしてとうとうルシカたちの立つ台上まで到達した。クルーガーが思わずヒョウと口笛を吹く。
「テロン!」
ルシカの表情が輝く。だがルシファーの変化はすでに完了していた。
ルシファーであった化け物は、自身を縛る魔導の糸を断ち切ろうと腕を振った。ゴウと風が巻き起こり、人の胴体ほどの太さのあるその腕が装置の表面をかすめ、台上の空間を薙ぎ払う。テロンがルシカに飛びつき抱き込むようにして、ぎりぎりのタイミングでその身をかばう。腕は立ち尽くしていた黒衣の魔導士の体を捉える――。
ドガッ!
「グッ――!」
太い腕に弾き飛ばされ、カールウェイネスの体は塔から一直線に落下した。外殻の壁の中途に突っ込み、はがれ落ちた壁の一部とともに床に積み重なる。衝撃に裂かれたのか黒衣の切れ端が宙を舞う。それを視界に捉え、マイナが悲鳴をあげた。
化け物はぎらぎらと剣呑な光を放つ紫水晶の目で、中央制御パネルの前に残るもうひとりの魔導士の姿を見た。
がああああああ!
濃い魔導の血に怪物は憤慨し、吼えながらその腕を伸ばした。ルシカが腕を突き出し、『力の壁』の障壁を具現化する。だが、化け物の腕が障壁に衝突するより早く、テロンの拳がその胴体に炸裂した。横ざまに殴られ、さしもの化け物もヨロリと姿勢を崩す。
巨大な体躯が踏み替えた足の下には、床がなかった。もともと中央制御パネルの前の足場は狭かったのだ。化け物はバランスを完全に失い、何もない宙に倒れこむように飛び出した。
「おのれ!」
ロレイアルバーサは台上に残ったテロンに向けて腕を突き出した。魔法陣が瞬時に具現化され、テロンの体を取り囲む。魔力を酷使していたルシカは目眩を起こしかけていたために、反応が遅れた。
「なっ!?」
テロンの腕が、足が、動きが止まった。意識までもが停止しかける――『時間』の魔導士による強力な『停止』の魔法だ。
「――テロン!」
頭を振って意識をはっきりと取り戻したルシカが悲鳴をあげる。
「隙だらけだぞ、娘!」
ロレイアルバーサの声。ルシカがハッと顔を向けると同時に、今度はルシカの体の周囲に血色に輝く魔法陣が展開された。
「きゃああぁぁぁぁぁっ!」
ルシカが堪らず悲鳴をあげた。やわらかな金の髪が逆立ち、すべらかな頬が苦痛に染まる。力を失った腕が、渦巻く魔導の風に弄ばれるように宙を泳ぐ。魔法効果を減じようにも、自身の体内の魔力の余剰がない。
「うぅッ……! こ、これは、冥界と繋がる扉……!」
「その通りだ。そなたの体の内に冥界からの扉を開く。こうなったら愛しき彼女の魂を、無理矢理にでもその体に降霊させてやるわい――!」
ロレイアルバーサは狂気に取りつかれたかのような瞳と口元に昏き微笑を張りつかせ、勝利を確信してルシカの体をねっとりと眺めた。
「うぅ――ルシカッ!」
テロンは必死で、強大な魔導の力に抗っていた。だが目の前で他でもないルシカが苦しんでいるのに、指一本動かせない。
下では――。
ズウウウウン……!
化け物の巨体が、クルーガーとマイナの目の前に落下していた。継ぎ目のない床もその衝撃に爆ぜ割れ、舞い上げられた埃が周囲を覆い尽くす。
視界を遮る埃の中の気配に青い目をすがめ、クルーガーは真剣な面差しで呪文を詠唱しつつ、一気に魔法剣を抜き放った。
閉ざされた視界の先で気配は殺気に変わり――土埃が渦を巻いた。
ぐあぅおおおぉぉぉぉっ!!
激しい痛みと怒りに我を忘れた化け物が――ロレイアルバーサにひととしての姿かたちと心を奪われたルシファーが、土埃のなかから飛び出してきた。
ガギンッ!!
襲い掛かった腕をクルーガーの魔法剣が受け止める。金属とぶつかったような衝撃に剣からは火花が散った。それと同時に、付与された氷属性の魔法効果が発動し、触れていた腕を冷やして瞬時に氷結させる。
突然霜で覆われたように真っ白になり、ビシビシと不穏な音を立てた腕に狼狽し、化け物が後退った。
「ティアヌ!」
「リーファ、今ですっ」
フェルマの少女とエルフの魔術師の声が重なり、階下にいるクルーガーたちの耳を打つ。
バシュウゥゥゥンッ!
土埃の一角から、白の魔導に輝く一筋の光が解き放たれたように上に向けて発射された。一瞬遅れて衝撃風が生じ、土埃が吹き払われる。
床にうずくまったまま顔をあげたティアヌと、頭上に向かって弓を掲げたリーファの姿があらわになった。その弓は、ミディアルで再会したマウから譲られた新開発の試作品――魔導の力を撃ち出す武器であった。
ティアヌの起こした追い風に支えられ、矢は一直線に、遥か上方に立つ『時間』の魔導士に向けてぐんぐんと昇っていった。
ドンッ! 狙い過たず魔導士の片腕に突き刺さり、瞬時に魔法陣を展開する。行使されたのは対象の強化術を破る魔法だ。
「なんだと!」
その正体に気づいたロレイアルバーサの顔が驚愕に歪む。行使していた魔導の技に対する集中が解け、ルシカの体を捉えていた魔法が霧散した。
パシンッ。
薄い硝子細工のグラスが弾け割れたかのような音を立てて魔法陣が消失し、ルシカは崩れるように床に倒れた。その場所は足場の縁であった。倒れて弾んだ体がほとんど空中へと投げ出され、ずるりと滑る。
「ルシカ――!!」
テロンが渾身の力を込めて『停止』の魔法効果を打ち破り、床に身を投げ出すようにして腕を伸ばす。かろうじてルシカの手首を掴み、その落下を止めることができた。
「おのれえぇぇぇぇ!」
呪うように叫ぶ声に警戒してロレイアルバーサに目を向けたテロンが、驚きに目を見張った。その体が急速に老いさばらえていくのだ。
リーファがティアヌとともに放った白い魔導の矢には、強化術を破る効果があった。時を遡り若さを取り戻す魔法も、本来強化術に属しているもの。その効果を消失したロレイアルバーサの体に、相応の年月が急速に押し寄せつつあるのだった。
テロンは腕に力を込め、半ば意識を失っているルシカの体を引き上げた。腕の中にルシカをしっかりと抱き、テロンはホッと息を吐いた。
「おまえなんぞに、その娘は渡さぬぞ!!」
ロレイアルバーサは腕を伸ばした。引きしまっていた体躯は見る影もなく、クシャクシャと皺を寄せる腕から、しかし巨大な光が撃ち出された。
「止せッ!!」
テロンはルシカを抱えたまま片腕で『聖光弾』を放った。ふたつの力が空中でぶつかり、凄まじい衝撃が吹き荒れる。
「ぐああぁっ!」
ロレイアルバーサの体は、風にあおられた紙のようにあっけなく宙に舞い、遥か下の床に落ちた。
同じように衝撃に台上から吹き払われたテロンは、ルシカを抱えこむようにかばい、床に向かって落下していた。
だがそのとき、腕のなかのルシカが気づいた。指先の動きで瞬時に魔法陣を紡ぎ、落下速度を緩める。叩きつけられる寸前だったがテロンは身をよじって足を下に向け、なんとか着地を決めたのだ。
下では、魔法剣を振るうクルーガーと、怨念めいた光を目に宿した化け物の戦いが続いていた。




