9章 打ち捨てられし知恵の塔 5-26
周囲を覆う雲の壁は塔の周囲を避けるように流れ、渦を巻いていた。魔導によって形成された力場が自然の力を押し返しているのだ。
「これが『打ち捨てられし知恵の塔』……?」
その塔は見上げるほどに大きかった。王宮の図書館棟よりひとまわり大きいのではと思わせる規模で、円筒の外壁は不思議な光沢を放つ継ぎ目のない素材でできている。外壁を囲むように上から順に赤、青、緑のみっつの魔法陣が具現化され、塔の周囲をゆるやかに回転していた。
「塔は――起動しているのか」
「そうみたいだ」
クルーガーとテロンは、入り口に走り寄りながら素早く目を見交わした。
入り口の扉は円盤の真正面にあった。その扉の上部に彫り付けられている紋章は、間違いなく古代王国期の都『ガルバーニャ』の徴だ。扉の前にひと足早く到着したテロンが屈みこみ、素早く地面の様子を調べる。
「足跡のようなものはあるが――乱れていてよくわからない。ひとつは人間族の男のものだ。剣や武器を振り回す相手ではないな。魔導士かもしれない。もうひとつは――」
テロンが目を見開き、グッと言葉を呑みこんだ。自分の額に手を押し当てる。
「そんなまさか! くっ……とにかく入ってみるしかない」
「テロン?」
双子の弟の明らかに動揺した様子に気づき、クルーガーが呼び掛けたが、テロンはそれに応えず扉横に張りついた。その表情は尋常ではない。心の乱れをテロン自身も自覚しているのだろう、深呼吸を繰り返している。
ふたりは中の気配を探り、互いに目で合図をして一気に扉を開き、同時に飛び込んだ。
入った場所はホールだった。誰も居ない。すっきりとした天井の高い空間で、幾つかのテーブルと椅子が備わっている。埃はほとんど積もっていなかった。ヴァンドーナの屋敷と同じで、封印結界に空間の時間を凍結する要素でも含まれているのかもしれない。内部は当時のまま保たれているらしかった。
「――ならば装置は問題なく動いても不思議はない、というわけか」
テロンは鋭い視線で周囲を見回した。仲間たちはホールのあちこちに設置されている不可思議なパネルやすべらかな壁面に走る魔法語に目を奪われ、不思議そうに覗きこんでいる。
クルーガーがテロンの横に歩み寄り、他の皆に聞こえぬよう声を低くして訊いた。
「テロン、何を見つけたんだ」
問いかけるような口調ではない。無視できない響きを含んだ厳しい声音に、テロンは正直に答えた。
「ルシカだ」
その言葉を耳にしたクルーガーが、眉を寄せて険しい顔つきになる。強い懼れが黒い染みになって心に生じた。テロン自身も自分の言葉にざわざわと不安が拡大していく。
「俺が見間違うはずがない……入り口にあったもうひとつの足跡、あれはルシカのものだった」
しかもそれは裸足だった。極寒のこの地まで素足のまま来るはずがない、自分の意思であるとは到底思えない……テロンのこぶしに力が込められ、ぶるぶると震えた。逸る気持ちを自制し、心を繋ぎとめていた綱がとうとう切れた。
「――拉致されたとしか!」
叫び、テロンは走りだした。
「テロン、待て!」
クルーガーが伸ばした腕は間に合わなかった。一瞬遅れて彼も駆け出す。
「おい、どうしたっ!」
「何かあったの!?」
仲間たちが制する声が聞こえるが、テロンには止まることができなかった。部屋の奥、廊下の先にもうひとつの扉がある。素早く周囲に目を走らせながら駆け寄り、躊躇なく一気に開け放つ。
そこには、圧倒されるような光景が待ち受けていた。
外から見た塔の大きさがそのまま内部の空間になっていた。塔の外壁は卵の外殻のようだと形容すればぴたりとくるだろうか。真っ直ぐに塔内部を突き抜ける、もうひとつの塔――様々な突起めいた装置が積み重ねられ、繋ぎ合わされ、信じられないほどの規模の建造物を成しているのだ。
洗練され完成された印象の王国末期に建造された遺跡のものとは、明らかに様相が異なる。中期に設計された魔導装置というものは中途半端な性能や外見のものが多く、その多くは魔法王国の歴史とともに設計から見直され建造し直されるものだ。
ここは秘密裏に建造され隠され続けていたがゆえに再開発されることもなく、いつしか完全に忘れ去られたのだろう……。
「間違いない。ここがそうだ」
この内部に隠された装置こそがルシカと語っていた『打ち捨てられし知恵の塔』であると、テロンは確信した。
仲間たちがテロンの背に追いつき、装置を見上げて驚きの声をあげる。
「こ、これは――塔の中に塔が!?」
「なんて高さだ……」
テロンはつられるように上を振り仰ぎ、装置の中途――二十リールほどの高さに、塔に板を水平に打ち込んだかのごとく突出した箇所があるのに気づいた。
その台の周囲には装置に繋がる管のようなものが集中し、その場所こそが装置の中心であるかのような印象があった。台の上の空間には様々な光が明滅を繰り返していた。先ほどのホールにあったようなパネルが整然と並び、魔法陣や魔法語を綴っているのである。
そこにちらりと動いた色彩に目を留め、テロンの心臓がドクンと跳ねた。パネルに両腕を突き当て、新たな魔法陣を形成し、手指を動かして表示されている魔法語を綴り直している人影が誰であるのか――見極めたテロンの喉が動く。
「る……ルシカなのか? ルシカ――!」
思わず発せられ空間に響き渡った声に、金色のやわらかな色彩が大きく揺れた。その背を覆っていた髪がふわりと広がる。
オレンジ色の瞳が驚きに見開かれ、細い肩が震えた。振り返ったのは、確かにルシカであった。桜色の薄いショールに同じ色の寝衣――拉致されたときのまま、着の身着のままに違いなかった。
「テロン……? テロン!」
パネルから離れて足場の縁へ駆け寄り、ルシカが下を覗きこむ。テロンに向けて届かないはずの腕を思わず差し伸べる。しかしその細い腕を掴み、ぐいと引き戻した男がいた。黒い装束が翻り、黒い頭巾に隠された奥で強い光を宿して輝くのは紅玉髄色の瞳――。
「くそっ、ルシカ!」
テロンが今にも飛び出していきそうになり、クルーガーが咄嗟に押し止めた。
「待て、テロン! 早まるなッ」
「――しかし!」
テロンは塔を見上げたまま、怒りに身を震わせた。黒衣の男はルシカの腕を捻りあげ、身体の痛みにあえぐルシカの様子に頓着せず、ちかちかと瞬くパネルの前に乱暴に押しやったのだ。憔悴した様子のルシカは倒れこんで大きく息をつき、遥か下方にあるテロンの姿に切なげな瞳をちらりと向けると、またパネルに向き直った。
「おまえは何者だ。ルシカをさらい、何をさせている――何が目的だ?」
クルーガーが低い、だがよく響く声で静かに問うた。その声には抑制された強い憤りがこもっている。テロンがこれほどに激昂していなければ、彼のほうが飛び出していたかもしれない。だが双子は片方が我を失ったとき、もう一方が自制する傾向にある。それは成長の過程で身に着いた習慣のようなものだ。
ルシカが絡むと、テロンはいつも平静ではいられなくなる。状況を見極めて冷静に対処するのは、クルーガーの役目だ。
「何という扱い……ルシカの体には今――」
テロンが言葉を続けようとするのを、クルーガーは視線で必死に止める。「状況打開の弱みになるぞ――気持ちはわかるが、自分を見失うな」とテロンに小声で鋭く伝える。
だが、テロンの怒りを抑制したのは、他でもないルシカだった。
「あたしは大丈夫。このひとは為すべきことをしているだけ。このひとは自分の願い――マイナを救いたいと想いにただひたすら忠実なだけなのよ」
「ルシカ? ――いったいどういうことなんだ!」
「あたしが立っているこの場所こそが中央制御パネルであり、この装置の心臓部なの。『従僕の錫杖』を作り出した根源。ラミルターの類稀なき魔導の知恵の結集。体内に封じるための次元転換を具現化し、また逆に解除することのできる装置なの――」
ルシカは言葉を切り、頬を染めて表情を歪め、苦しそうに息を吐いた。なんとか呼吸を整えると、再び装置に向き直った。
「――かつて『従僕の錫杖』は別次元に転換され、この次元に物理的に干渉しない状態でラミルターの養い児の体内へ封じられたのだ」
言葉を続けたのは、黒衣の男だった。
「生命を構成する魔力の設計要素――その総体に直接書き加えたのだ。そのために世代を渡り伝えられることが可能となり、錫杖は失われる事なく受け継がれることになった。だが……そこに誤算があった。無理に強大な魔力を持つ物質を生命の根源に直接繋いだのだ。その為に、錫杖と接合された者の寿命は極端に短くなった――およそ三十年、短いときには二十年でその寿命が尽きることになったのだ」
その言葉にクルーガーが息を呑み、マイナが胸を押さえてふらりと後退った。ふたりは見開いた瞳を見合わせ――マイナが悲しみに耐え切れずその視線を逸らす。遥か上の黒衣の男を見上げて口を開き、震える声で訊いた。
「じゃあ……じゃあ、おかあさんが若くして死んでしまったのは、もしかして病気なんかじゃなく……」
「その通りだ。間に合わなかったのだ、私は」
黒衣の男はマイナを見据えたまま、苦渋に満ちた表情で唇を噛みしめた。血が滲むほどに。
「私は彼女を救いたくて方法を探していたが、錫杖を狙う輩に狙われ――やむなく彼女は国外へ脱出した。私がその行方を追っているうちに、その生命は『従僕の錫杖』に儚く散らされた……!」
「では……では、マイナもなのか? 封印を解かなければ、ひとより遥かに早くその寿命が尽きて死んでしまうと……?」
クルーガーが青い瞳をマイナの横顔から動かさぬまま、呆然と言った。
「なんでそんなものを、娘の体内に封じ込めたのよ。そのラミルターってやつは!」
リーファが吐き捨てるように叫んだ。琥珀色の瞳には涙が浮いている。
「んじゃあ早いとこ、錫杖ってやつをその娘の体内から取り出して、解放してやろうじゃないかっ! ここにはその方法があるんだろ!?」
メルゾーンも腕を振り払うようにして声をあげた。
ルシカが手を止めて振り返り、仲間たちに目を向けた。血の気を失った紙のような肌の色で唇を震わせる。瞳には濃い疲労が影を落としていた。
「できるわ。でも……錫杖を体内から分離させることは生易しいものじゃない。払う代償も大きいの。それをまず皆に――マイナに、そしてクルーガーに説明しなくてはならないわ」
「……代償?」
ごくりと唾を呑みこみ、クルーガーが訊いた。すがるように身を寄せてきたマイナの肩を抱くように支え、ふたりは揃ってルシカの顔を真っ直ぐに見上げた。――覚悟はできている、というように。
ルシカはすっと背筋を伸ばし、ふたりの覚悟に応え、おもむろに口を開いた。
「この装置は魔法王国中期に設計されたものなの。あたしが調節をしていたのだけれど、これ以上の改善は望めそうにもない……。封印解除、そして錫杖を解放する秘術の発動に問題はないけど、それにかかる時間というものがどうしても相応の年月を要するのよ。その期間というのが――」
バリバリバリッ……!!
ルシカがそこまで語ったとき、空間に衝撃が奔った。雷のような轟音と同時に、別の声が割って入る。
「おおお、黒の! ――さすがだ、そなたのことを儂は信じておったぞ!」
しんと静まり返っていた仲間たちが、ウキウキと弾んだあまりにも場違いな声に驚き、声の主を探して首を巡らせた。外殻である塔の内側にある高い位置の足場に立った人物に、みなが呻くようにその名を呼んだ。
「ロレイアルバーサ……!」
たてがみめいた白の髪、豪奢な出で立ち、精悍な顔と引き締まった体躯。ぎらぎらと狂気のように光る黄金色の瞳を、他でもないルシカに、真っ直ぐに向けて。
「でかした。その娘をこちらへ! ……さあ、どうした。早う、早う儂に寄越せ!」
立て続けに発せられたロレイアルバーサの声がわんわんと内部に反響する。
だが黒衣の男は動かなかった。静かに頭巾からのぞく唇を嗤わせ、低く言い放つ。
「おまえには、ほとほと呆れ果てた――まだ気づかぬのか。それに、この魔導士の娘はそなたにはやれん。骨と皮のみしか残っていない哀れな『時』の骸よ、何故気づかぬ。ひとの想いは力尽くでは手に入らぬものだ――潔くあきらめて朽ち果てるがよい」
静かに告げた黒衣の男に、仲間たちは驚いて視線を向けた。
「なんでえ、あの黒いやつは敵じゃなかったのか? なんであっちに現れた敵とも言い合いをはじめているんだ?」
状況を把握しきれていないメルゾーンが甲高い声をあげる。
「なん……だと」
同じく、事態を呑みこめていないロレイアルバーサが動きを止め、信じられないといわんばかりの険しい表情で黒衣の男を睨みつけた。忌々しげに舌打ちし、腕を振り上げる。
「ええいっ、悪魔め。今になって儂を裏切ろうというのか! ――ルシファー!!」
声高に呼ばれた異形の男が、主とは反対側の壁に姿を現す。ルシカと黒衣の男を挟む位置だ。銀色の髪がざわざわと蠢き、ルシファーは人間離れしたしなやかな肉体をたわめて鉤爪を構えた。
「――しつこいやつだな!」
クルーガーが剣の柄に手をかけるが、ルシファーは苦々しげにちらりと彼を一瞥しただけだった。
「いまの命令は、あの娘の強奪だ――おまえと戦うことではない!」
そう言うと同時に、凄まじい勢いで壁を蹴る。銀の髪をなびかせた異形の男は、中央制御パネルの台に向かって獣のように跳躍したのだ。『万色』の魔導士をかばうように黒衣の男が動き、腕を眼前に突き出した。
一瞬で具現化された魔法陣が異形の男を阻み、その場に制止させる。黒衣の男が、異形の男の金属質に変わった腕をガッシリと掴んだ。
「――ルシファー、止せ! おまえがあやつに使われる義理はないッ」
黒衣の男が鋭く言った。腕を掴まれた異形の男は驚きに目をむいたが、鉤爪に込めた力を緩めようとはせず、黒衣の男の腕を容赦なく振り払った。相手の黒い頭巾が弾みでその背に滑り落ち――素顔があらわになった。
黒い髪が流れ、整った顔と白磁のような頬にかかる。マイナのものとよく似た紅玉髄色の瞳がさらけ出された。
「おまえは……カールウェイネス……! 死んだはずではなかったのか!?」
ロレイアルバーサの驚愕した叫び声があがった。発せられた名にルシファーの顔色が変わる。
「カールウェイネス……おまえがあの頼りなげだった大公だと……? おまえは俺を騙していたのか? では……おまえなのか。おまえのせいで俺は行き場をなくし、戦死と偽られ荒野に棄て去られた。カーウェン、おまえが俺を! 騙したのか!」
「違う」
カーウェン――カールウェイネスは、かぶりを振った。
「元凶はロレイアルバーサだ。おまえを騎士の地位から失脚させ、『ラミルター機関』の暗殺者に仕立て上げたのだ。家族の者を全て殺し、絶望したおまえの心を手に入れるために。ただの魔導の人形――『付与人形』として仕立て上げ、意のままに操るために」
「なっ――」
「全てはロレイアルバーサの、長い年月をかけ着々と準備を進められていた計画の一環なのだ。巧妙に隠されていた経歴を明らかなものにしようと、大公直属の間者たちに調べさせていた私は、その常軌を逸した企みそのものに気づくことになった」
カールウェイネスは語り続けた。
「悩み考え抜いた私は先手を打った――その裏をかいてやろうと」




