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ソサリア魔導冒険譚  作者: 星乃紅茶
【第五部】 《従僕の錫杖 編》
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8章 動きはじめた思惑 5-24

 ルシカを残していく部屋の扉の外で、テロンは兵士のひとりと話していた。


「はい。ルシカ様の護りは、おまかせください、テロン様」


 宮廷魔導士の警護のための直属兵は、はっきりとした声で言い、背筋を伸ばした。ゴードンという名で、近々結婚を控えているということだ。いつぞや宮廷魔導士が極寒の海に落ちたとき、率先して飛び込み救出した兵だとテロンも伝え聞いている。確か、祭りの日にも会っていた。


「ああ。どうかよろしく頼む」


 テロンは頷いた。ルシカを残していくのは心配であったが、ルシカ自身に頼まれてしまったのだ――クルーガーとマイナたちの旅を見届け、『転移』のための門を確実に開いて欲しい、と。


 妻の周囲にできうる限りの警護をつけ、建物と部屋にいくつもの結界を張った。傍にはシャールもついている。


 そう、大丈夫なはずだ。……だが、やはり不安な思いが消えない。


 部屋の中に戻り、出立までのせめてもの時間を一緒に過ごしていたいとルシカの傍についてもなお、テロンは考えを巡らせていた。


「テロン」


 その声にテロンはハッと視線を向けた。手を伸ばしたルシカが心配そうな表情でベッドの傍らに立つ夫の服の裾を引っ張っていた。テロンが身をかがめると、妻は夫の頬にキスをして微笑んだ。


「こちらのことは気にしないで。それより気をつけてね。あぁ、ほら、メルゾーンが居るんだし」


「――敵じゃなく仲間に気をつけろって。ひどいな、それは」


 テロンは笑った。笑うと、不安が薄れた。テロンはようやく口元を引き締め、妻の頬にキスを返した。


「うん。じゃあ、待っていてくれ。必ず迎えに戻るから」


「はい。おとなしく待ってるね」


 ルシカは微笑んだ。南向きの部屋全体に、あたたかい午後の日差しがあふれている。ノックの音がして、扉の向こうから部屋に入ってきたシャールが頭を下げた。


「夫のこと、よろしくお願いします」


「はい。決して無茶はさせませんから」


 どちらが言うべき台詞なのかなと考えながら妻に目を向けたテロンが答えると、ルシカが瞬きをして彼を見上げていた。どちらからともなく微笑み、相手を元気づけるための笑顔を作った。


「じゃあ、行ってくる」


「行ってらっしゃい」


 ふたりで行動することが当たり前となっているので、それは普段にはない遣り取りだった。それを噛みしめる思いで、テロンは小さく手を振るルシカの姿に背を向けた。





 星降る夜、とはきっとこのことだろう――クルーガーはそんなことを考えながら、木々の間から見える夜空の下を歩いていた。


 満天の星空は、まるで漆黒の天鵞絨びろうどの上に細かな砂を撒き散らしたかのよう。それらのなかで、特に目立つみっつの星が北の空高くに掛かっていた――ナウルの三連星である。


 昨夜の極大期を過ぎてもなお、その方向から降る流星の数はかなりのものだ。背後にそびえるフェンリル山脈の黒い影に遮られるところまで、天頂をこえて夜空を渡ってゆく。


 星界と呼ばれるものは、いったいどのような場所なのだろう――クルーガーが思いを巡らせようとしたとき、進む先に探していた相手の後ろ姿を見つけた。


「マイナ」


 足音で驚かせないよう、声を掛けてからゆっくりと歩み寄った。


「どうした? ひとりで居ると、夜のアルベルトは危険だぞ――と言いたいところだが、昨日の戦闘で魔獣の数が減っているのと、アイツがいるから大丈夫か」


 アイツ、と言いながら、クルーガーは少し離れた場所の茂みに視線を向けてみせた。そこには、マイナの『使魔』で仲間となったプニールが、従者よろしく直向ひたむきに物陰から少女の護衛をしているのである。


「さすがは剣士さま、ですね」


 振り返ったマイナがにっこりと笑い、背の高いクルーガーを見上げた。


 倒れた大樹の幹の上で膝を抱えるように座るマイナの横に、クルーガーも並ぶように腰を降ろした。星明かりの下、静かな森のなかの空き地。背後にはフェンリル山脈の北壁が、唐突に森を終わらせている。街道からは離れたこの場所近くに、山脈の内部にあるという遺跡まで到達するための『道』があるというのだ。


 テロンとティアヌ、リーファ、そしてルシカの代わりに加わったメルゾーンの四人は、北壁にほど近い場所でしばしの休息を取っている。仮眠を取っていたマイナがひとりその場から離れ、すぐに戻ってこなかったので心配になったクルーガーが気配を追って探しにきたというわけだ。


「――泣いていたのか」


 少女の頬に涙の跡があることに、クルーガーが気づいた。


「はい。いろいろありすぎて、心が追いつかなくなっちゃいまして」


「そうか」


 クルーガーとマイナは並んで腰を下ろしたまま、夜空を見た。遥か上の天蓋に引っ掛かり燃え流れる星屑が、幾筋も光の線を描いていった。


「……あっ、あの!」


 突然、息急き喉を詰まらせるように発せられたマイナの声に、クルーガーは顔を向けた。少女はうつむき、指に自分の髪の端を絡めながらしばし逡巡していたが、やがて言った。


「あの……、胸の傷、痛みますか? あたしのせいで、ほんとにごめんなさいっ!」


 そんなことか、とクルーガーは笑った。


「大丈夫だ。傷は残っていない。ルシカの癒しが間に合ったから」


 マイナはホッと息を吐いた。心底安堵したように。


「良かった……。ルシカさんはすごいです。強いです。わたしにはぜんぜん想像もつかないくらいにいろいろできて」


「あいつは特別だよ。力と知識に関しては、特別だ。……ゆえに苦しみもひとよりたくさん抱えているがな。……だがひととして特別強いわけではない」


 クルーガーは視線を落とし、足元に伸びる草や木の芽を見つめた。


「魔導士であること、そうでない普通の人生、そんな選択はルシカにとって論外だ。生まれながらの運命だからな。けれど、それは君にとっても同じことがいえると思う。古代の遺産を体内に封印されている運命なんて、自分で選べたものではなかっただろう?」


「――はい」


「まあ、俺も同じだけどな。王の息子に生まれたこと、自分で選んだという覚えはない。けれど、これが俺の生きる道なのだ。投げ出すつもりはない」


 クルーガーは静かに微笑み、マイナに視線を戻した。


 少女は透きとおった瞳を真っ直ぐに彼に向けていた。目が合うとどきりとしたように肩を震わせ、自分の胸元を掴み、目を伏せた。


「……マイナっていう名前、おかあさんが考えたそうです」


 少女が聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりの声で囁くように言った。瞳を上げてはかなげに微笑む。


「ふたりが出逢った場所の名前を、幸せだった土地を忘れないようにって――おかあさんには、いつかあそこを離れなければならないってわかっていたのかもしれません」


 遠く離れたマイナムにある教会、父と過ごした我が家――だがもう、家も父も、そして母も居ない場所。……それらを思い出しているのだろうか、少女の瞳はクルーガーや星空よりもずっと遠い場所を見ているようだった。


「錫杖から解放されても、わたしにはもう何も残っていません。それなのに、たくさんの人々に迷惑をかけて……あなたやみんなを巻き込んで危険に晒して……。わたし、これでいいのでしょうか。そんなことを考えてしまって、これから向かう場所もきっともっと危険なのに、みんな――」


「――何も残っていない?」


 クルーガーは言った。厳しい声で。自分で発したその声に突かれるように、傍らの少女の体を力いっぱい抱きしめる。


「え、あ。……く、クルーガー」


 戸惑ったように見上げるマイナの唇に、クルーガーは自分の唇を押しつけた。力と想いの込められたキスに、マイナは目をいっぱいに開き……そしてゆっくりと閉じた。震える少女の背中に青年が腕を回し、なだめるように支える。


「俺が居る。それに、俺も仲間もみな、巻き込まれているわけではないぞ」


 顔をあげたクルーガーが、マイナの頬に手を添えて決然と言った。涼やかな声が低く響き、周囲の静謐せいひつな星明かりのなかにゆっくりと溶けていく。


「護りたいだけだ、大切な相手を。俺は、愛する者を護りたい。それだけでは――理由にならないのか?」


 マイナの瞳に涙の雫が静かに盛り上がった。まばたきしたはずみでその雫が流れた頬に、クルーガーがそっと唇をつける。


「ほんとに、ほんとに良いの?」


 おののくまぶたを伏せながら、マイナが尋ねる。目の前にある青い衣服の胸元を、きゅっと握りしめながら。


「あなたは……王なのに。この国を治める、国王なのに」


「国王だからと、断られるのか? 確かに窮屈な立場にあるかもしれん。だが、それが障害になるというのは納得できないぞ。俺は、俺なのだから。それも全部ひっくるめて、きらっているというのならば――どうか正直に答えてほしい」


 マイナはくしゃりと泣き顔になった。顔を上げ、弱々しげに、だがきっぱりと答えた。


「そんなことありません。わたしは、あなたに惹かれています――正直な気持ち、あなたが好きなんです……!」


 ホッとした若き王は穏やかな表情になり、少女の体を抱きしめた。首にしがみついてくる少女の背中を何度も撫で、落ち着かせると、改めてまた唇を重ねた。


 茂みで見守っていた魔獣が小さく鼻を鳴らしたが、ふたりの邪魔をしようとはしなかった。


 その頭上では、多くの燃える光が天空を渡っている。遠くからふたりを呼ぶ仲間たちの声が聞こえるまで、ふたつの影が離れることはなかった。





 ミディアルの中央にある都市管理庁の上階にある一室で、ルシカとシャールが話し込んでいた。


「――そうなの。テロンってば、赤ちゃんがいるってわかったら、あたしのおなかに触れるのもおっかなびっくりになっちゃって」


「そんなものですよ、男の人って。女性にとっては自然に受け入れられるものですけれど、生まれて外に出てきたのを見てはじめて、子どもができたって実感するみたいです」


「マルムがよく言っていたわ。父親というものは、子どもとともに『親』として育ってゆくんだなって。そう言ったあと照れたように笑ってたっけ。何かあったりするのかなぁ」


 戻ったらさっそく問い詰めていろんな話を聞きださなきゃ、とルシカが笑い、ベッドの傍らの椅子に座ったシャールも「あらあら」と言いながら口に手を当てて笑った。


 ひとしきりお喋りを楽しんだあと、ルシカは窓の外に目を向けた。


「そろそろ『道』に入る頃かしら、テロンたち……」


「そうですね」


 シャールは立ち上がり、窓に歩み寄った。南向きの窓の外には、フェンリル山脈の黒い影がまるで屏風か壁のように連なり広がって、星降る夜空を地平の遥か上方で切り取っている。だが今宵は星明かりが強く、雪に輝く高峰の頂上や稜線が、黒い影を縁取るように銀の線を鮮やかに浮かび上がらせていた。


「なんだか私たちの世界とは無縁の場所のように見えます。不思議で美しい……とても遠い場所のように思えますわ」


 シャールが嘆息し、ルシカも同意するように頷いた。


「そうね。……装置がまだ無事に動いてくれるといいんだけど、こればかりは行ってみないとわからないから」


 ベッドに上体を起こしてクッションを背中にあてがったルシカが、シャールの視線を追って窓の向こうに揺れる瞳を向けた。遥か先にある星明りの銀に彩られた場所を見つめながら、言葉を続ける。


「――あそこに解放の方法があったことはわかっている。けれど詳細な情報は、実際に行ってみて装置を調べてみないと判断できない。けれど方法があるなら、あたしが絶対に叶えてみせる」


 瞳に力を込め、ルシカが静かに言い切った。それは自信ではない……切実な願いだった。仲間のための決意だった。


「ルシカ……」


 窓から振り返ったシャールが、実の妹のようにその身を案じている娘に視線を向ける。


「あのね、ルシカ。あなたの体は、もうすでにあなただけのものではないのですよ。それを言うならテロン殿下と結婚したときから、もう――」


 言いかけたシャールだったが、最後まで言い終えることはできなかった。


 ドンッ!!


 突然、部屋の入り口の扉が激しく叩かれたのだ。続いて、ズルリ、と何かが滑り落ちる音と、ドサリという重たいものが倒れ伏す音。


 ルシカとシャールの顔色が変わる。


 扉が、音もなく開いた。廊下を照らしていた明かりが消えている。黒く背の高い人物が静かに部屋に入ってきた。闇のように黒一色の装束、頭巾フードまで被っているので、その顔はうかがい知れない。


 だが、相手の体内を巡る魔導の流れを視ることのできるルシカには、その人物が誰であるのかはっきりとわかった。


「あなたは、カーウェンね」


 低く断言するように、相手の名前を鋭く囁いた。


「いかにも」


 黒衣をまとった男が答えて腕を上げ、頭巾フードを背に滑り落とす。ベッドの側に灯された明かりの届く範囲まで歩みを進めた顔は、確かにカーウェンと名乗った男のものであった。


「我が名はカーウェン。だが、それは偽りの名だ」


 クッとわらうように唇を歪め、端正な顔立ちの男は恐れ気もなく部屋の中央まで侵入した。窓の傍に立ったまま、静かに精神を集中し胸の聖印に手を当てていた女性に、紅い瞳を向けて言う。


「そこの女、妙な真似をするんじゃないぞ。癒し手であるファシエルの攻撃魔法なぞ、たかが知れている。それが高位司祭の放ったものであったとしても、我を押し止めることは敵わぬ」


 シャールは常日頃には決してみせない鋭い視線で、相手の男を見つめた。悔しいが、男の言葉が真実であることは彼女にもわかっている。だが――彼女は視線を僅かに動かして、男からもはや数歩も離れていない、ベッドの上のルシカの姿を見た。


「――ルシカに指一本でも触れたら、私の身を犠牲にしてでもあなたに神の裁きを受けてもらいます。あなたからは邪悪な気配がしますから」


「邪悪?」


 フン、と男は鼻で嗤った。


「何が正義で何が邪悪であるかなど、どちらの側に立っているかで見かたは変わるものだ。正義に反するものは悪ではない――反正義だ。我の本当の目的が何なのか、おまえにはわかるまいが、邪魔立てするなら容赦はせぬぞ……!」


 緊迫するシャールとカーウェンの間で、ルシカが静かな声を出した。


「シャールさん。……頼みがあります」


「ルシカ?」


 シャールは魔導士の少女に再び視線を向けた。油断なく目の前の男の動きにも注意を払いながら。


 ルシカは、開け放たれたままの扉に目を向けていた。オレンジ色を瞳に強い光を宿し、優しげな眉を撥ね上げりんとした表情で。


「――ゴードンさんに癒しの力を行使してください。いまならまだ助かる。どうかお願い、シャールさん。ルーナさんを独りにしないで」


 見れば光の届かぬ暗い廊下に、大きな体が倒れ伏している。宮廷魔導士の警護をしていた王宮の直属兵――ルーナとの結婚を控えているゴードンの体だ。その周囲に、大量の血だまりが広がりつつあった。


「ルシカ……」


 シャールは一瞬迷ったが、ルシカの声音とその表情に、心決めたように決然とした足取りで扉の向こうに駆けて行った。シャールが男の傍を駆け抜けるとき、ルシカが魔導の気配を強めて男の動きに抑制をかける。


「……ほう」


 男は動かなかった。ファシエルの司祭が廊下に出るのを黙って見届け、その扉を無造作に手を振って魔導の力でぴたりと閉じる。


「優しいな、『万色』の力を持つ魔導士。さすがはみなに愛されて育った娘、といったところか。時にその優しさは、命取りともなるだろうが――な」


 カツン、カツン。男のブーツが、よく磨かれた床に足音を立てる。廊下からの声や呼びかけが、ルシカの耳には遠いものに感じられた。


「何が、あなたの望みなの?」


 ルシカは静かに問うた。白い顎を持ち上げ首を仰け反らせるようにして、ベッドの傍まで歩み寄った背の高い男の、紅い瞳を恐れ気もなく見上げる。


「我の望みはただひとつ。そなたが承諾してくれようが、なかろうが、我にとっては関係ない」


「嫌だと言ったら?」  


「――関係ないと言ったはずだ」


 男が短く息を吐き、片腕を掲げて赤く輝く魔法陣を描く。そしてルシカに覆いかぶさるように身をかがめた。


 ズズズズズンッ!! ガッシャアァァーーン……。


 都市管理庁の建物を激しい衝撃が貫いた。何かが吹き飛び砕ける音が同時に響き渡る。


 ようやく廊下から続く扉が開いた。魔導の気配が濃厚に残る部屋に駆け込んだシャールと、その背後で立ち上がったゴードンが見たものは――上掛けが跳ね除けられ乱れたベッド、そして窓にはめ込まれていた硝子ガラスが一面に散乱した床。黒衣の男の姿は何処どこにもなかった。


 むろん、ルシカの姿も。


「なんてこと……」


 呆然と言葉を発し、シャールがぺたんと床に座り込む。


 窓の外に広がる空には、流星群が山脈に向かって星空を渡っていた。



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