8章 動きはじめた思惑 5-22
「しつこいヤツだな」
クルーガーが魔法剣を握りしめ、相手を睨みつける。先ほど受けた傷はマイナの『治癒』では完全に癒えていない。しかし相手に隙を見せるわけにはいかなかった。
「あんまりしつこいと女性に嫌われるぜ」
回すように手元に魔法剣を引きつけ、その先を相手に真っ直ぐに向けて構える。
殺意を纏ってふたりを見下ろすルシファーは、すでに異形と化していた。胸元の魔法陣を赤く輝かせ、すっくと城砦上に立つ姿は、東方大陸に伝わる鬼と呼ばれる昔語りの種族のよう。
あるはずのない風に銀の髪がなびき、その瞳は炎に照らされた紫水晶のごとく熱を帯びていた。
「色男はおとなしく他の女でも追いかけていろ。そんな小娘に執着することもあるまいに」
「あいにく俺は自分の気持ちに真っ直ぐなんでね」
クルーガーが答えたとき、数本のナイフがルシファーに向けて投げられた。同時に、威勢のよい声が耳を打つ。
「消えなさいよ、変態!」
「――む!」
振り返ったルシファーがナイフを鋼鉄のごとき堅さを持つ腕で叩き落とす。殺意を含んだ視線を向けられたリーファは、生唾を呑み喉を鳴らしながらも一歩も引かず短剣を構えた。
「おまえから死ぬか」
ルシファーの体が城砦から滑るように落ち、その脚が壁面を蹴る。と、まばたき一回のうちにその鉤爪がリーファの眼前に迫っていた。
ギャリイィィン!
だがその爪は、同時に跳躍していたクルーガーの剣が受け止めていた。耳障りな音が響き渡り、目に見えない衝撃が一瞬遅れて生じた。
「こいつは俺が相手をする。手出しは無用だ」
クルーガーが背後のリーファとティアヌに告げる。リーファが頷き、マイナと合流するためティアヌとともに駆け出した。
だがそのとき、ふたりが到着するよりも早くマイナのもとに大きな影が飛び込んだ。一瞬焦ったマイナやリーファたちだったが、その魔獣を見極めたマイナが嬉しそうな声をあげる。
「プニール!」
クルゥエエェー!
ミディアルに到着したプニールが、魔獣を討とうとしている冒険者たちの包囲網をくぐり抜けてようやくマイナのもとに追いついたのである。周囲の兵たちが驚いた目で竜の姿の魔獣に抱きついた少女を見たが、すぐに納得した表情で目を逸らし別の魔獣に向かっていった。
クルーガーはちらりとその光景に目をやり、目の前の異形に視線を戻してニヤリと笑った。
「――どうやらおまえとの勝負に集中できそうだぞ。今度こそ倒してやる」
「ほざけ。倒れ伏すのはおまえのほうだ――!」
気合い、そして衝撃。金の髪と銀の髪が合い入れ替わるように位置を激しく変え、ふたりは切り結び、また離れ、またぶつかった。その度に凄まじい金属音が響き、火花が散る。
「一度負けたやつが、何度もしつこいぞ!」
「この肉体が朽ちぬ限り、目的のために何度でも狙うは当然のこと」
クルーガーが剣で押し切った。ルシファーの体が後方の壁に叩きつけられ、相手は口元を腕で拭い唾を吐いた。赤いものが混じっている。
「何がおまえをそこまで駆り立てる?」
若き国王の問いに、異形の姿に身をやつした男は答えた。
「忠義を尽くすためだ。ロレイアルバーサ様は我を見い出し、救ってくださったのだ。……何としても報いねばならぬ」
「『ひと』という枠からはみ出した領域に追い込まれて、それで救いだといえるのか?」
「ぬくぬくと守られ、権限も力もあるおまえには、虐げられてきた者の考えなぞ理解できぬだろうな」
ルシファーは自虐的に唇を歪めた。はだけた胸にある魔法陣に鉤爪を伸ばす。クッ、と嗤うように息を吐き、自らの爪をズブリとその胸に埋めた。血は流れない。それは亜空間と繋がる魔法陣、『扉』でもあったのだ。
長細いものが、ずぶずぶと魔法陣から引き抜かれる。それは剣だった。長く細身の、ごつごつと突起のある赤い針のような魔剣である。
その魔剣自体が放つ殺気に、クルーガーは全身に緊張を走らせた。
「たとえ死に掛けていようとも、生きていれば俺にとって関係ない。錫杖のほうの娘は、その品自体が手に入れば良いとのこと」
ルシファーは魔剣を振り上げた。天高く掲げられたそれは赤い光を発し、同時に展開された魔法陣が周囲に異常な重力の力場を発生させた。
ズンッ……!!
周囲のものが全て一瞬で地面に叩きつけられた。
「うあッ!」
「きゃっ!?」
「ぐっ!!」
クルーガーだけではない、リーファやティアヌ、マイナとプニール、そして周辺で戦っていた兵も魔獣も全てのものが、突如発生した不可視の力に押し潰されている。
ただひとり、その影響を受けていないルシファーが、禍々しい輝きを放ち続ける剣を手にしたまま足を踏み出した。マイナの傍に歩み寄り、その細い喉もとを無造作に掴みあげた。
伸ばした腕の先に、小柄な魔導士の体が宙吊りになる。マイナの瞳が恐怖に見開かれた。
「……ぐっ、マイナ……!」
クルーガーは押さえつけてくる魔導による力場に抗い、腕を突っ張って身を引き起こそうと渾身の力を込める。
「『従僕の錫杖』がこの娘の生命と繋がっているというのなら、接合を切り離せばよいだけのこと。この剣で娘の生命を切り裂いてな……!」
ルシファーが剣を高く振り上げた。切っ先をマイナの胸にピタリと当てる。少し上方へ引き、勢いをつけて一気に力を込めて刺し貫こうとする――。
「やめろおぉぉぉッ……!」
クルーガーが自分の体をねじ込むように、マイナとルシファーの間に割って入った。クルーガーは間に合った。
ルシファーの魔剣は背中からクルーガーの胸鎧を貫き、ずぶり、と内部に突き刺さり貫通した。
だが、マイナの体までは届かなかった。胸を抜けてきた剣先をクルーガー自身が咄嗟に掴み、止めたのだ。クルーガーの口元から血があふれ、流れる。
マイナは目をいっぱいに見開き、硬直したように動きを止めたままぶるぶると震え、目の前の青年の血を見つめた。
「だ、いじょうぶ、だ……マイナ」
瞬きも忘れ去った少女の瞳が動き、青い瞳と出合った。クルーガーは口元を震わせ、微笑もうとした。
舌打ちしたルシファーが剣を引き、放り捨てるようにクルーガーの体を横へ振り払った。血の雫を散らし、その体が地面を跳ねる……。
「あ……あぁ……あああ」
マイナの中で、何かが音を立てて切れた。
「いやあああぁぁぁぁぁああぁ!!」
少女は絶叫した。その体を奔り抜けた感情が何であったのか、少女に理解する時間は与えられなかった。
それは衝撃、恐怖、哀しみ、絶望――そして、怒り。
マイナの全身から血よりもなお赤い光――真紅の魔導の光が一気に溢れた。周囲を圧倒し、染め上げ、爆発的な勢いで広がっていった。
少女の体が、何の支えもなく宙へと持ち上がる。マイナの瞳は見開かれたまま、真紅の輝きを発して微動だにしない。その胸の内から、肌も衣服も透かして内に封印されたはずの力の根源――『従僕の錫杖』の反転せし光の影が現れた。
「――マイナ! クルーガー!」
そのとき、広場に走り込んできた人影があった。
「遅かったか!」
テロンが頭上を見上げ、厳しい表情で声を発した。
「く……クルーガー!?」
ルシカが地面に転がったクルーガーに気づき、悲鳴のような声をあげた。テロンの腕から滑り降りて駆け寄り、横向きの体を支えて膝の上に抱え上げる。
とめどなく流れ続ける血に濡れていく自身の手と石畳に、ルシカの顔が蒼白になる。急ぎ腕を掲げ、もう一方の手のひらをクルーガーの胸に押し当てる。
一瞬にして具現化された青と緑の魔導の光が魔法陣を結び、魔導士と青年の体を照らした。光を発する手のひらの下で、血が止まり傷が閉じていく――。
ようやく開いたクルーガーの青い瞳の横に、ルシカの涙がぽたりと落ちた。クルーガーが視線を巡らせてルシカの顔を見る。まるで悪戯を見つかったときのようなばつの悪そうな表情で微笑んだクルーガーに、ルシカがホッと息を吐いた。
「あたしのことなんて言えないじゃない。無茶ばっかり……」
傷をなんとか塞ぎ、ルシカはクルーガーを抱え起こした。テロンも走り寄って兄に手を貸し、立ち上がるのを助ける。
「すまない」
「お互いだ」
双子は言葉短く目を見交わし、頭上を見上げた。
「あれは――? マイナはいったいどうなるんだ」
「『従僕の錫杖』の力が……解き放たれている」
ルシカが声を緊張に震わせながら答えた。
そのとき、離れた場所で地面に跳ねる金属音と、吐き捨てるような声が発せられた。
「クソッ……! こうなっては手が出せぬ」
ルシファーだった。血に濡れた魔剣を取り落とし、口惜しそうな表情で唇を噛みしめている。腕を掲げ、彼は言った。
「こうなれば、力を放出し娘が力尽きるのを待つしかない……おまえらは錫杖の力に押し潰されてしまうがいい!」
魔導の気配にルシカが警戒するが、実行されたものは『転移』だった。
「逃げるのか!」
クルーガーが投げた声に、ルシファーの表情が歪んだのが見えたが、次の瞬間には消えていた。
マイナの周囲に発生している真紅の魔導の力場は、ますます膨れあがっていく。少女の意識はすでにないようだ。伸ばされた腕も、宙から浮いた足も、ぴくりとも動かない。
周囲にいた兵たちが膝をつき、頭を抱えて苦痛の呻き声をあげた。全員の目が赤く染まっている。魔獣たちまでもが動きを止め、空を飛ぶものたちは地面に縫いつけられたかのように翼の動きを封じられた。
リーファやティアヌ、そして戸惑うように主を見上げていたプニールもまた、同じように頭を襲った激痛に呻き声をあげた。
「……『従僕の錫杖』の力は、ひとの意思を叩き伏せ捻じ曲げ、抗うことを一切許さない蹂躙の力」
ルシカが瞳に力を込め、頭を片手で抱えて染み込んでくる魔導の力に抗っていたテロンとクルーガーに向けて言った。
「『従僕の錫杖』の持つ支配の力に抵抗しようとすれば、意思はおろか魂そのものを破壊されてしまう。あれの持つ魔力の凄まじさには、魔導士でも抗えないのよ……!」
ルシカが緊迫した声を張り上げ、仲間たちにも聞こえるように言った。
「障壁を作るからみんな、こちらへ! ――早く!」
決然と叫んだあと、ルシカは両腕を真上に振りあげた。離れていたリーファたちが慌てて『万色』の魔導士の周囲に駆け寄る。
ルシカがきりりと表情を引きしめ、昇りたての太陽のような瞳に力を込める。その瞳のオレンジの虹彩に、生命の白い魔導の輝きが宿った。
「あたしの中の魔力よ……。開け……集まれ……展開せよ。みんなを護る障壁となって……!」
大気が震え、ルシカの周囲――仲間たちを取り囲む範囲に、凄まじい質量をもった白い魔力の光が生じる。膨大な魔力は激しく渦巻き、流れ、広がり、やがて半球状の膜状の障壁となってルシカを中心に展開された。
直径およそ五リール。絶対的な防護障壁は、ルシカの今の残存魔力ではこれが限界だった。
「――うぅッ、さすがいにしえの宝物……手強い……」
ルシカの瞳のなかで、白い魔導の光が激しく明滅を繰り返している。膝がガクガクと震え、全身から力が抜けそうになるのを必死で堪える――。
赤い光が周囲を圧していた。ひとびとは膝を折り、頭を垂れ、瞳は虚ろになって魂がなくなったただの容れ物のようになっている。
魔獣ですら地面に倒れるように這いつくばっていた。
重力のくびきから解放されたように宙に浮いたマイナの体内で、光が反転したような影――『従僕の錫杖』が、ズクン、ズクン、とまるで生きた心臓のように脈動していた。そのひと打ち、ひと打ちで、怖ろしいまでの魔力の放出を繰り返す。
ルシカの瞳に、白い光に混じって赤い光が現れはじめた。オレンジの虹彩部分を侵食するように、明滅を繰り返すたびに、じわじわと増えていく。今のルシカを支えているのは仲間たちを護ろうとする想いと、自分にできることを果たそうという強い意志であった。
「――ここで緩めるわけにいかない。仲間たちの意思が消えてしまったら、事態の収拾は望めなくなる。あきらめてはダメ……!」
「ル……ルシカ……!」
ルシカの苦しみを感じ取ったテロンが、どうしてよいのかわからずにこぶしを握りしめた。為すすべもないまま、ルシカの姿を見つめ続けている。
彼女の魔法が中断されれば、『従僕の錫杖』が仲間たちの意思を奪い、事態の収拾がつかなくなるばかりか、ルシカの力を暴走させてしまう可能性がある。暴走した魔力がもたらす結果は最悪の場合――死だ。
クルーガーはもはや『従僕の錫杖』そのものになったかのようなマイナを見つめ、そして必死にその錫杖の魔力から仲間を護り、生命の魔導を行使し続けるルシカの姿を見た。
若き王は顎を引き、瞳に力を込めた。剣を収め、静かに歩きはじめる。一歩、一歩――その歩みが、ルシカの展開する障壁を越える場所まで進んだ。
「クルーガー、やめて……いけない!」
ルシカが気づき、魔導に対する集中を続けながら、友人に向かって必死に制止の声をあげた。
「あなたの魂が壊れてしまうわ!」
「大丈夫だ、ルシカ。俺を信じていてくれ」
クルーガーは答え、躊躇なく障壁の外に出た。途端に凄まじい重圧が全身にのしかかる――。
「……マイナ」
頭上の空間に留めつけられた少女に、クルーガーは静かに呼び掛けた。怖ろしいまでの力に押さえつけながらも、口元に微笑みすら浮かべて。
「もういいんだ、マイナ。俺は大丈夫――みんなも無事だ。もう、誰も傷ついてはいない」
マイナは目を開いたまま、ここではないどこかを見つめている。表情もなく、古代宝物に意識を蹂躙されて、指ひとつ動かさず空中に浮いているだけだ。
そのうちにも、クルーガーの瞳が赤に染まりかけている。同時に後方のルシカの瞳もまた、白い光が赤い光に取って代わられようとしていた。
「――マイナ」
クルーガーは跳躍し、その腕に少女の体を抱きしめた。
少女の体がビクリと反応し、周囲を圧倒していた支配の魔力が僅かに揺らぐ。赤い魔力の風が新たに湧き上がり、クルーガーのマントと金髪を激しく掻き乱した。
抱きしめた少女の胸の内にある『従僕の錫杖』の熱がクルーガーの身を焼いた。――が、クルーガーは少女を抱く腕に力を込め、決して放さないとばかりに抱きしめた。
やがて少女のまぶたがおののくように震え、瞳に力が戻った。途端にふっと赤い光と周囲の魔力が消え、突然支えを失ったようにふたりの体が地面に落ちる。
クルーガーは力を振り絞って着地を決めると、そのままガクリと膝をつけた。マイナの体を、その腕にしっかりと抱きしめたまま。
「あ……わたし……わたし……」
意識を取り戻したマイナが、激しくしゃくりあげ、むせぶように泣き出した。
「君は悪くない。何も心配しなくていい」
クルーガーは繰り返し、マイナの髪を手で梳くように何度も撫でた。
「よか……っ、た……」
その光景を見届け、力を使い果たしたルシカが倒れかけた。テロンが駆け寄り、その体を受け止める。やわらかな金の髪に唇を寄せ、心底ほっとしたように息を吐いた。
「血が近いからか、我には効かなかったか。正直肝を冷やしたぞ、あの莫迦め。取り返しのつかないことになるところであった……!」
城砦の上でその光景を見つめていた黒衣の男が、苦渋に満ちた声で呟いた。気配を殺したままそっと目を細め、口元を引き結んで――その姿を消した。
下の広場ではマイナとクルーガーの無事な姿を見届け、仲間たちはほっとして微笑みあっていた。
だが――。
「ルシカ!?」
テロンの狼狽したような声があがった。その尋常ならぬ切迫した気配に、その場の全員が振り返った。
「……あ……ん……うぅ……!」
ルシカが眉を寄せて唇を開き、苦痛に身を捩るのを仲間たちは見た。テロンが顔を青ざめさせ、手を半端に伸ばしたままおろおろと瞳を彷徨わせている。
「――ルシカ?」
「いったい何が!?」
「ルシカッ!」
リーファが、ティアヌが、マイナを支えるように抱いたクルーガーが、ルシカに駆け寄る。
夫の腕に抱かれた魔導士の娘は、激しい苦痛に汗を滴らせ、頬を染め、瞳を閉じてあえいでいた。外傷はない、魔力を使い果たしているだけにしては反応があきらかに異なる。
あまりの苦痛の様相に誰も手が出せなかった。傍に膝をついていたリーファが弾かれたように立ち上がり、癒し手であるファシエルの神殿の者を呼びながら駆け出していく。
「ルシカ! どうしたんだ、ルシカ――!?」
頬に手を添えたテロンが必死に呼び掛け、苦しげな息の中でルシカがうっすらと目を開いて青い瞳を斜めに見上げ……僅かに唇を開いた。
「……テ……ロッ!」
一瞬、痛いほどの力でテロンの腕を握ったあと、ルシカはガクリと顎を仰け反らせた。金の髪がふわりと流れ、脱力したルシカの腕がぱたりと落ちてテロンの腕に当たった。
「ルシカ? ルシカ――!!」
テロンの悲鳴のような呼び掛けが、ミディアルの城砦広場に響き渡った。




